「人間の安全保障」論 (サピエンティア)

  • 法政大学出版局
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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784588603174

作品紹介・あらすじ

古典的な安全保障は国家対国家の戦争に重点が置かれてきた。だが、今日、世界中で起きている紛争や飢餓を前にして、国家を中心とした安全保障観だけでは問題を捉えきれなくなった。本書は、国際関係論の碩学であり現状への洞察力も鋭い著者が、一人ひとりの人間の生存と安全な生活を国際社会全体が保障する安全保障観へのパラダイム転換について、コスモポリタニズムの思想から考察する。        【国際政治・安全保障論】

感想・レビュー・書評

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  •  著者はロンドン大学附属「グローバル・ガバナンス研究センター」の所長・教授。この人の本は3年ほど前に『グローバル市民社会論』というのを読んだことがある。本書も『グローバル市民社会論』の続編というか、陸つづきの内容である。

     私が傍線を引いた箇所をいくつか引用しておく。

    《戦争の性格に重大な変化が生じている。一八世紀から二○世紀初頭にかけて頻発してきた国家間戦争は、ますます生じなくなってきている。グローバリゼーションが意味しているのは、国民国家の衰退ではなくその機能に変化が生じたということである。(中略)私たちが経験しているのは戦争ではない。ローカルでもありトランスナショナルでもある新しい類の政治的暴力、すなわち、テロリズムや「新しい戦争」、アメリカによるハイテク戦争である。》

    《アメリカの政治文化と政治制度は第二次世界大戦と冷戦の経験をもとにつくられたものであり、当時のイデオロギーがアメリカの世界認識とその対外政策に大きな影響を与えつづけている。それゆえ、このイデオロギーは、私たちが住まう世界に、つまり、当時の世界とは変貌してしまった現在の世界にうまく適合できていない。》

    《旧ユーゴスラヴィアでの組織的なレイプは広範囲にわたっておこなわれた。それは、戦争がもたらした副次的効果ではなかった。むしろ、戦争で使用する兵器として意図的に実行されたものだった。レイプされた自分は恥ずべき女である。女性に、とりわけムスリムの女性にそう思わせることで、故郷に帰りたくないとの思いを彼女たちに抱かせること、これが組織的なレイプの狙いであった。》

    《象徴的な標的に対する暴力は、「他者」の文化のいかなる痕跡も除去することを目指してもいた。ボスニア戦争のさなかのパニャ・ルーカでは、オスマン帝国支配下の一六世紀に建てられた比類のない二つのモスクが徹底的に破壊された。金曜日に爆破された後、月曜日にブルドーザーが入り、芝生で覆われてしまったため、かつてその場所にモスクがあったことなど、あなたにはわからないはずである。》

  • 現代の戦争はテロとの戦いが中心で国家間の戦闘は起こりにくくなっているという言説はつい最近まで有効だったと思う。けど、この先の10年も同じことが言えるだろうか。戦争は人類の歴史において常に起こってきたがその形や目的は物資から信念、信念から物資、そしてまた…と様式を変えてきた。人道的介入はグローバル化の産物であり「正戦」とされてきたが結局のところそれだって戦闘なのだ。人間の安全保障という言葉も、かつては主に緊急援助を指していたがこれからはますます開発との関連を深めていくだろう。

  • RMAを「見世物的な戦争」と表現した 。
    「見世物的な戦争」は強力な十字軍精神ともつながっていると指摘。冷戦期のアメリカの思考はつねに理想主義的な傾向がみられた。ブッシュの言う「悪の枢軸」はレーガンの言う「悪の帝国」の焼き直しである。ブッシュの取り巻き立ちは、アメリカは国家ではなく大義そのものであり、世界の他の国々をアメリカン・ドリームに転向させ、世界からテロリストと圧制者を除去する使命を帯びていたと考えている。

  • [ 内容 ]
    一人ひとりの人間の生存と安全な生活を国際社会全体がいかに保障するのか。
    そのありかたについてコスモポリタニズムの思想から考察する。

    [ 目次 ]
    第1章 人道的介入の一〇年(一九九一‐二〇〇〇年)
    第2章 アメリカのパワー―強制からコスモポリタニズムへ?
    第3章 ナショナリズムとグローバリゼーション
    第4章 バルカン諸国における介入―未完の学習過程
    第5章 グローバル市民社会という理念
    第6章 正しい戦争と正しい平和
    第7章 「人間の安全保障」

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  •  コスモポリタニストのカルドーによる「新しい戦争」を「グローバル市民社会」がいかに対峙すべきかという方策を論じた「人間の安全保障」論。

     日本でここ数年の間に出版されている彼女の一連の著作は、『新しい戦争』がリアリズム的な現状分析に重点を置き、『グローバル市民社会』がリベラリスト的な希望を語り、『「人間の安全保障」論』がコンストラクティヴィスト的な規範と行動を語るという連関がある。

     本書では、国家の安全保障の補完するものとして理解されている「人間の安全保障」が、むしろ、現在の諸問題を考えた時に一義的問題であり、これにコスモポタン・アプローチによって対応して行く事こそが、現状の問題に有効な手段になるという立場に立つ。なお、ここで主張されている「人間の安全保障」とは、開発問題や国際援助にかかわる「欠乏からの自由」ではなく、専ら、人道危機やそれへの対応という問題を孕む「恐怖からの自由」の方である。

     このようなコスモポタン的アプローチは、ヘルドなどイギリスの国際関係の一つの思想系譜になっているが、具体的な中身がどうも読み取れず、市民社会という概念にあまり馴染みを感じない、我々アジアや日本の人々にとっては、あまりにもユートピア的で、あまりにも素朴な考えに見て取れた。こうした既存のコスモポタン的アプローチをある意味で、払拭する試みをしているのが、カルドーの著作である。

     カルドーは、人権の救済という名を借りた人道的介入が、国家の安全保障の目的によって利用されている事実、またこれらの介入が、人道的危機の中にある人々の救済に、むしろ失敗して来た事実などを直視する。一方で、これを帝国主義的介入だと批判して、危機にある人々を救済しない事も問題だとして、市民レベルの様々な組織の集合体としてのグローバル市民社会が国家に対する圧力を行使し、武力を伴わない介入も行って行くべきだとする。国家による暴力の行使を、むしろ監視しつつ、市民社会の側が「人間の安全保障」を担保する主体として機能するべきだとする。

     カルドーのこうした主張は、個別的に見れば具体例を伴っており、介入に対して「なぜ?」という疑問から前に進み、「どのように?」という疑問を持って対応するべきだという彼女の意思を反映している。その意味で、ここで展開されている議論は、ユートピア的というよりは、グローバル市民社会によるガヴァナンスというような、より実務的、行政的な取組みであるように思われる。こうした考えが本書の隅々で提示されている事、その事がおそらく、本書の価値を高めているだろう。各章それぞれで展開されている議論は、現在の国際関係を理解する際に有用な視座を提供してくれており、本書は、その意味でもより多くの人に読まれるべき著作である事を確認しておきたい。

     しかし、根本的な問題は、人道的危機を「誰が?」「どのように?」判断し、そして「どの程度の?」介入を「誰が?」、「どのようにして?」実施して行くのかという問題である。グローバル市民社会は、所詮は、有力なNGOやある種の責任を担っていると自負する社会集団によって形成されており、この仮想共同体は、カルドー自身が述べるように必ずしも民主的ではない。彼らは誰かに選出されているわけでも、誰かに委託をされているわけでもなく、その説明責任も一部の支援者などにしか追っていない。

     それぞれの国における市民社会も、ある種の責任を担っているという自負感を持ち、またその責任を実際に背負おうとする者のみ参加し、また彼らの自律的な取組みによって機能している事を考えれば、グローバルなレベルにおいてもそのような共同体が存在し、機能する事は否定すべき事ではないだろう。働く者、食うべからずである。

     ただ、問題は、カルドーが述べるようなグローバル市民社会が、ボトムアップ的な意思決定とこれに基づく人道危機の評価を行い、ある地域には介入すべきだなどという評価を下し、そして、国連や地域機構、さらには個別国家に対してロビーイングをする事を想定した場合、明らかに、個々の集団の担っている責任のレベルとその意味は大きなものになる。

     カルドー自身が、排除していないように、個々の集団や社会は、遠く離れた土地での人の生き死にを自分たちの社会で生じている事よりも過小評価する傾向があるし、これが極端になれば、命の重さの評価も変わりうる。しかも、自分たちは価値中立であると半ば、奢りのような意識を潜在化させながらも、その事に対して、あまりにも無自覚な(欧州の文明)人たちが、このグローバル市民社会の中核を担い、人道的危機を評価し、介入を求める主体となると考えると、この問題はより大きなものになるような気もする。レッテル張りや、危機の黙認という問題は、何もカルドーが指摘するように、国家的なエゴによってのみ生じるのではなく、彼女の主張するグローバルな市民社会にも内在する要素なのである。

     また、国家による暴力的な介入よりも、警察官や市民、NGOや専門家などによって構成される集団が介入し、「人間の安全保障」を構築する主張を展開しているが、果たしてこれがどれほど、看過できない人道危機への直接的な対処策として有用だろうか?コソヴォへのNATO(アメリカ)の介入に対して、カルドーは懐疑的な目を向け、アメリカは軍事力を行使する事で問題を解決しようとし、EUは、よりコスモポタン的なアプローチを通して、問題を解決しようとしたというような主張があるが、これは「汚い仕事をアメリカという長兄が担ったから成り立った事ではないか」と反論したくもなる。

     評者も、NATOの介入が、人道的介入を呼べない事は、犠牲者の直接的救済を行っていなかった点から明らかであると思う。その意味で、NATOの空爆を人道的介入という観点からは到底、正当化できないし、人道危機にある人々を救済する事に失敗したという観点からは支持するつもりもない。無論、これをよりリアリスト的な視点で見て、つまり、アメリカはそもそも人道的危機にある人々を直接的に救済する事よりも、セルビア・ミロシェヴィッチ体制の弱体化を目的としており、ひいては、この付随的結果として紛争が終われば、なお良しと見ていたという主張の方が、見方としては鋭いと思う。
     
     しかし、いずれにしてもアメリカのやり方を批判し、人道回廊や安全地帯、飛行禁止区域、ユーゴ戦犯法廷などの対応がより良いものだったと主張する姿勢には、大きな疑問を抱かざるを得ない。これらは、質的に違うものを議論しているように思う。人道回廊や安全地帯は、当初から設定する動きがあったが、これだけでは、ほとんど意味がないことを我々はルワンダなどで見て来た。飛行禁止区域も、同様で地上部隊の展開を止める事は出来ない。ユーゴ戦犯法廷に至っては、ボスニアの問題だが、多大なる圧力をかけて国際社会が紛争を停止させた後の話である。いずれも、人道的危機が生じている時に、どう対応できるのかという問題とは直接的に関係がないか、関係があっても、ほとんど効力がないと思われている対応策であって、これがコスモポタン的なアプローチだとして、アメリカよりもEUがこうした政策を推進したと主張しても、それは一人の欧州人としてEUを擁護する事で自己弁護をしているようにすら感じさせる。

     本書は、カルドーが執筆したそれぞれ時期の違う論文の組み合わせである。それ故、個々の章で主張されている議論のニュアンスは微妙に異なる。前半部から途中までは、EUの対応は、アメリカと対照的で素晴らしいもののように記述されている。しかし、終盤では、このEUのソフトパワー的対応も人道危機にある人々を救済するには不十分であるとして、むしろそれまで懐疑的な評価を下していた暴力の行使も、看過できない危機の際には行使するべきで、人道的危機にある人々を救済する、その目的に限れば、加害者を殺害するのもやむなしという議論に至る。

     本書は、カルドー自身の苦しみの産物であるように思う。彼女自身が捉える対応策、そこに内在する矛盾、ある種の欧州人としてのエゴイズム、そしてグローバル市民社会なる仮想共同体による無自覚的なレッテル張りの危険性、そして介入を決める集団とその責任の所在など、具体的な議論であるからこそ、表面化している様々な問題点がある。しかし、それでも看過できない人道的な危機が国際社会に生じ続けているのは事実であり、看過できないと述べている現象を、(カルドーを含め)我々自身がそれを黙認しているという現状において、論争的とは言え、こうした問題を考えようと、大家から投げかけられている議論は、今後の我々自身の対応を考える上で有用な一石になろう。

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