グローバル市民社会論: 戦争へのひとつの回答

  • 法政大学出版局
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  • Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784588622083

作品紹介・あらすじ

ラテンアメリカ諸国における権威主義体制の崩壊,ソ連・東欧における社会主義の崩壊,その後の冷戦の終結とグローバル化という大変化のなかで,領域国家を前提とした市民社会の概念やあり方も変容しつつある。本書は,冷戦後の紛争やイラクに見られるような新たな戦争にたいし,そうした暴力の連鎖を抑止するための国境を越えた市民社会の形成とその諸アクターの役割を考察する。

感想・レビュー・書評

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  • 平和や人間の安全保障などの公共価値の実現に関して、提案・議論・合意がなされる場(グローバル市民社会)。NGO・社会運動、シンクタンク・委員会、インターネット。

  • 2009年2月17日

  • 表題の本の著者であるメアリー・カルドー女史のことは、前作『新戦争論』を読んだときに知りました。彼女の9/11後の世界に対する洞察と先見性は、国際政治を勉強した私にとってはとても刺激的で、政治学者とは的確な歴史をつまみ、そこに整合性と関連性を結びつなげることにこれからの政治的展開を予測できる人のことを言うのだ、と改めて考え直すことのできる方でした。

    この本で展開されるものも、前の著書の戦争には関係するものの、非国家主体であるグループや個人がテロ攻撃を通じて一般市民を巻き込む形で戦争状態をつくりだせるグローバリゼーション化のすすむ世界において、一般市民が構成する「市民社会」が国家とは異なるアプローチでいかなる力を秩序と平和のために行使できるのかを1989年の冷戦終結の年を転換点においてその後の15年間(2003年出版のため)をおって分析したものです。

    カルドー女史はこの本で、冷戦のさなかにあって東欧諸国の市民がいかにして西側の人権や民主主義の精神をとりいれながら、自分たちの言葉に翻訳し、自分たちの行動により示し、東側の内から共産主義を取り崩していったかを克明に描き出し、それが1990年代の主要国サミットへの反対運動や、国際地雷禁止キャンペーンから条約締結までの運動の興隆、環境保護運動などにつながっていったか、冷戦終結前後の時代をブリッジさせていきます。9/11で世界がかわったとメディアにすりこまれた人に撮っては時代の分断が回復されるのですから大きな変化を生む指摘かもしれません。

    著者は本書の後半で、戦争を3つの形態に分類しています。この3つが断片的にしっているようで整理されていなかった頭の中がすっきりした感じがしました。著者は、9/11後の時代においても市民社会のパワーと可能性には変わりはなく、グローバル市民社会を形成するためには国際NGOや大規模な専門家集団のような「代表」の正当性よりも、討議をすることの方が大事であることを説きます。

    討議=恐れぬ精神。この指摘が、本のタイトルと結びついていく感覚をえることでゾクゾクと背中に走るものがありました。長いことよんできて「これだ!この一文を待っていた!」と思えた瞬間でした。政治的色彩をおびる集団に属することを敬遠することが多いように感じられる日本人に、必要なのはこうした「討議」することなのかもしれないと思えました。こうした専門性の高い書籍を読む快感を久しぶりに味わえる国際政治系の本でした。

  •  イギリスの著名な国際政治学者カルドーのGlobal civil societyの翻訳。カルドーは近年、ヘルドらと共に「グローバル市民社会」プロジェクトに参加し、コスモポリタンなアプローチを主張している。本書は、『新しい戦争』(old and new wars)で見られた現実主義的な現状分析というよりも、問題を改善する為のアプローチを考察したもので、その為前著ほどの鋭さは見られない。カルドーは市民社会の力として1989年に起きた東西の市民運動の連動と東側体制の崩壊を非常に好意的に取上げている。確かにある種の「ヨーロッパ」という歴史認識が欧州の東側社会にあったという事を考えれば(共産主義及びソ連体制はたかだか50年に過ぎない)、欧州における冷戦の崩壊については市民側の力と連帯があったかもしれない。これはロシアや中央アジア、コーカサスに関しては、外部との連帯と言うものは存在しなかったし、そもそも分断されていなかったので、外部との協力による連帯という事も、一部の国境を隔てた民族のミクロの動向を除いては存在しえなかった。またそのミクロな動向にしても決して大きな影響、それを市民社会やコスモポリタン等と形容出来るものではなく、エスニシティという小さな共同体の団結を意味したものだった。その意味で、89年の東西欧州においては確かに国境を越える連帯とその力が働いたと考えるカルドーの視点は、欧州以外の共産圏を当然のものとして扱う、旧ソ連地域の研究者にとってはあまりすっと入ってくるものではないが、欧州では確かにそうだったのかもしれないと新しい発見を与える。
     しかし、1989年の連帯と協力は、マイケル・イグナティエフが『民族はなぜ殺し合うのか』で述べているドイツ社会のように、必ずしも統一後にうまくいっているのかといえば、そうではない。連帯と協力後に生じた、国家や国民の意味とその枠組み、そしてそこに存在する市民ではあるが国民とは扱われない移民たちという問題は結局は、カルドーの言う1989年以後もコスモポリタン社会ではなく、民族集団や帰属意識が重要な位置を占めていると言えるのではないだろうか。カルドー自身はアイデンティティー・ポリティクスを主張している以上、それを否定しているわけではないし、むしろそれを認識した上で問題と捉えているわけではあるが、であるならば、決して成功とは言えずむしろ課題すら残している1989年の市民社会をどう否定的側面から捉え直すのかが重要に感じる。
     カルドーもイグナティエフも、ブッシュの介入やその戦争は否定するが結局のところ、国際社会が問題のある国に介入する事自体には反対ではない。イグナティエフは、超大国はその義務を貫くべきだと考えているが、その方法や手順、そして正統性、さらには責任を重視する。これに対してカルドーは超大国や大国という国家的枠組みではダメで、国連や国際法、さらにはNGOや民主的な紛争地の当事者等々が連帯し、そして協力し問題へ挑むべきだと考える。私自身も人道危機の際の介入等は必要だと思うが、そうしたものに対する規範や秩序がない中で介入が求められるという切迫性が、結局はどのような介入であれ是認されてしまう問題があるようにも思われる。切迫性とその下での影響力のある行動となった時に、やはり国家主体、特に超大国の影響力が極めて高くなるのは、ある意味で当然の事であり、そうであるならばコスモポリタンな対応とは所詮は絵に描いた餅に過ぎないとも批判出来る。しかし、そうした思考アプローチと議論が、国際社会に紛争への介入の規範と秩序をつくり出すのだというカルドーの視点は否定する事は出来ず、それがアカデミズムの務めであるという彼女の姿勢もまた同じである。

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