- Amazon.co.jp ・本 (198ページ)
- / ISBN・EAN: 9784589036186
感想・レビュー・書評
-
本書は、ヘイト・スピーチの問題性を各執筆者が固有の課題として共有しながら、学際的見地からアプローチしている。ヘイト・スピーチの問題は、日本では未だ目新しい社会問題のままであり、そのため、これに対する一つの方向性は社会において示されていない。暗中模索の状態といったも過言ではない。ヘイト・スピーチに関する文献は、この間、様々な方面から公にされている。しかし、肝心の法的規制の問題については踏み込んだ議論は行われていない。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『ヘイト・スピーチの法的研究』(金尚均[編] 法律文化社 2014)
【書誌情報】
書名 ヘイト・スピーチの法的研究
編者 金尚均
判型 A5判
頁数 194頁
発行年月 2014年9月
定価 本体2,800円+税
ISBN 978-4-589-03618-6
ジャンル 憲法 刑事法
従来から問題とされてきた「差別的表現」と「ヘイト・スピーチ」とを同列に扱ってよいのか。ジャーナリズム、社会学の知見を前提に、憲法学と刑法学の双方からその法的規制の是非を問う。有害性の内容を読み解く試み。
<https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-03618-6>
【目次】
はじめに [i-iii]
目次 [iv-vi]
第I部 日本におけるヘイト・スピーチ
第1章 ヘイト・スピーチとレイシズムの関係性――なぜ,今それを問わねばならないのか〔 森 千香子〕
I 問題の所在 003
II レイシズムの変貌:科学的レイシズムから文化的レイシズムへ 004
レイシズムの誕生
本質化される「差違」と科学
レイシズム論理の移行
III 草の根のレイシズムと上からのレイシズム 008
IV 憎悪,無視,同情:レイシズムの多様な表現と連続性 012
V むすびに代えて:ヘイト・スピーチをめぐる危険と「希望」 015
註 016
第2章 新保守運動とヘイト・スピーチ〔 安田 浩一〕
I ヘイト・スピーチの実際 018
II 日本におけるヘイト・スピーチ 025
III なぜ,ヘイト・スピーチをするのか 028
第3章 ヘイト・スピーチとその被害〔中村 一成〕
I 問題の所在 035
II 京都朝鮮第一初級学校襲撃事件:何が起ったのか 036
III ヘイト・スピーチが与える心的被害 037
子どもたちのダメージ
大人たちのダメージ
「喪失感」あるいは「前提の崩壊」
「持続する感情的苦痛」「逸脱感情」「帰責の誤り」
IV ヘイト・スピーチによって生じる多岐にわたる被害 046
註 051
第II部 表現の自由とヘイト・スピーチ
第4章 表現の自由とは何か――或いはヘイト・スピーチについて〔遠藤比呂通〕
I 問題設定 055
II 個人の尊重と差別禁止 056
III 掟の門の前で 058
IV 小学校の門の前で:表現の自由とは何か 060
命題1:表現の自由と民主主義
命題2:表現の自由と投票所
命題3:表現の自由と明らかな差し迫った危機
V 京都朝鮮第一初級の門の前で:条約の趣旨と目的とは何か 064
VI 被害者の言葉を聴きとること 067
註 070
第5章 表現の自由の限界〔小谷 順子〕
I 表現の自由の限界とは 074
憲法21条の保障する「表現」とは何か
憲法21条の下でのヘイト・スピーチ規制の考え方
II 表現内容による限界:表現内容規制 076
表現内容規制とは
刑事法による表現内容規制
民事法による表現内容規制
人権法による表現内容規制
III 「行為」規制と集団行動の規制 080
「行為」の規制
集団行動(デモ等)の規制
IV 媒体の特性による限界 083
テレビ放送の法規制と自主規制
自由な新聞・雑誌
V 表現の自由の保障意義(重要性,価値)に照らした限界 084
民主主義過程(自己統治)論とその限界
個人的価値(自己実現)論とその限界
真実の発見/思想の自由市場論の重要性とその限界
VI むすびに代えて 086
註 087
第6章 言論規制消極論の意義と課題〔小谷 順子〕
I 問題の所在 090
ヘイト・スピーチの定義の困難さ
ヘイト・スピーチの規制対象の限定の困難さ
II アメリカにおける規制消極論 092
規制消極論の背景
連邦最高裁のヘイト・スピーチ規制違憲判決(1992年のRAV判決)
III 伝統的な規制消極論 094
表現内容規制に対する警戒感
規制対象を限定できるのか?
小括
IV 「PC(ポリティカル・コレクトネス)」に反対する規制消極論 097
PCとはなにか
保守派によるPCへの反発
PC推進に戸惑うリベラル派
V 規制効果に対する懐疑論に基づく規制消極論 099
規制対象となる表現範囲の狭さと規制効果
規制の副作用1:差別問題解消への悪影響のおそれ
規制の副作用2:規制がマイノリティに対して適用されるおそれ
VI むすびに代えて 101
註 103
第III部 ヘイト・スピーチに対する刑事規制
第7章 刑法における表現の自由の限界――ヘイト・スピーチの明確性と歴史性との関係〔櫻庭 総〕
I 問題の所在 107
II 刑法における表現の自由 108
刑法における表現の自由の位相
名誉に対する罪と表現の自由
扇動罪と表現の自由
表現の自由ち関する裁判所の立場
特殊日本的な状況
III ヘイト・スピーチ規制と表現の自由 112
従来の学説および政府の消極的見解
刑法学におけるヘイト・スピーチ規制と表現の自由
憲法学におけるヘイト・スピーチ規制と表現の自由
明確性と実効性のジレンマ
IV ヘイト・スピーチの歴史性 115
ドイツにおける民衆扇動罪の成立
「人間の尊厳への攻撃」要件解釈と「過去の克服」政策
米国における歴史的・文脈的アプローチ
V むすびに代えて 119
議論状況のまとめ
不明確性の原因
広義/狭義のヘイト・スピーチ
結論
註 124
第8章 名誉に対する罪によるヘイト・スピーチ規制の可能性――ヘイト・スピーチの構造性を問うべき次元〔櫻庭 総〕
I 問題の所在 128
II 個人的法益侵害としてのヘイト・スピーチ 129
ヘイト・スピーチの諸類型
名誉に対する罪の限界
集団侮辱罪の提言①:内野説
集団侮辱罪の提言②:平川説
集団侮辱罪の提言③:楠本説
集団侮辱罪の問題点
III 社会的法益侵害としてのヘイト・スピーチ 135
ドイツにおける民衆扇動罪の位置づけ
民衆扇動罪の保護法益
ホロコースト否定罪の新設
ホロコースト否定罪の保護法益
ホロコースト否定罪の問題点
IV ヘイト・スピーチの構造性 142
批判的人種理論の主張
刑事規制は構造的不正義を克服できない
V むすびに代えて 144
議論状況のまとめ
結論
註 146
第9章 ヘイト・スピーチ規制の意義と特殊性〔金 尚均〕
I 名誉侵害罪とヘイト・スピーチ 150
II 名誉侵害犯における法益 154
ヘイト・スピーチは何を害しているのか?
名誉の毀損とは異なる害悪を生じさせるヘイト・スピーチ
ドイツにおけるヘイト・スピーチ規制
ドイツにおけるヘイト・スピーチ規制の実際
小括
註 161
第10章 ヘイト・スピーチに対する処罰の可能性〔金 尚均〕
I 平等保護としてのヘイト・スピーチ規制 166
民主政における表現の自由
「個人の尊重」では包括しきれない「法の下の平等」の意義
社会的平等に対する危険とヘイト・スピーチ
民主政から見たヘイト・スピーチの「害悪」
II 集団に対する侮辱的表現の規制のあり方 173
ヘイト・スピーチの「害悪」
小括
註 176
おわりに(2014年7月8日 執筆者を代表して 金 尚均) [177-186]
【はしがき】
はじめに
2013年,日本社会でヘイト・スピーチという言葉が広く,そして,おそらくはじめて知られるようになった。果たして,ヘイト・スピーチとは,いったい何であろうか。その典型は,公共の場である道路などでのデモや街宣活動において大勢の集団が拡声器などを用いて大声で,しかも攻撃的に「チョンコは日本から出て行け」,「南京大虐殺のつぎは,鶴橋大虐殺をするぞ」などとひどい罵詈雑言を連呼することである。これによって日本にいる外国人,とりわけ在日韓国・朝鮮人,中国人をターゲットにして日本から排外しようとする。2009年 4 月11日,フィリピン人カルデロンさん一家の強制退去問題で,大勢で,「犯罪フィリピン人カルデロン一家を日本から叩き出せ!」と一家を名指ししたシュプレヒコールをあげながらデモ行進し,こどもの通う中学校学区内,中学前を練り歩いた。同年12月 4 日,京都朝鮮第一初級学校の校門を挟んで,11名の者が白昼堂々,「ろくでなしの朝鮮学校を日本から叩き出せ。 なめとったらあかんぞ。叩き出せ」「日本から出て行け。何が子供じゃ,こんなもん,お前,スパイの子供やないか」「約束というものは人間同士がするものなんですよ。人間と朝鮮人では約束は成立しません」などと拡声器などを用いて怒号した。このような具体的な個人や集団をターゲットにした攻撃だけにとどまらず,在日韓国・朝鮮人や中国人など,一定の属性によって特徴づけられる集団に対して日本からの排撃を目的としたデモや街宣活動が,在日外国人が集住する地域で行われる事態に至っている。ここで注意を向けなければいけないことは,大勢による上記のような罵詈雑言,つまり攻撃的な侮辱的表現の連呼が,一定の属性によって特徴づけられる集団,すなわちその集団の存在そのもの,集団の構成員全体の存在そのものの否定,蔑みそして敵視のために行われていることである。ここでは,具体的な被害者が特定されていないのではなく,まさに攻撃対象となった集団の全ての構成員が被害者とも言えるのである。
かつてから,被差別部落出身者や在日韓国・朝鮮人に対する偏見や蔑視に根ざした差別が存在し,公衆トイレや街角などで心のない差別表現が落書きされていた。差別的表現については日本でも憲法の学界において,表現の自由との関わりで議論されてきた。また,1995年に日本政府が人種差別の撤廃に関する国際条約に加入する前後において差別的表現に対する法的規制の是非が議論された。 本書の主たる関心として,従来問題にされてきたこの「差別的表現」と「ヘイト・スピーチ」は同列に扱ってよいのであろうか,という問題をあげることができる。極端に言うと,一人の個人によってこっそりと書かれた陰湿な落書きと,公共の場で大勢が(50-60人またはもっと大勢)拡声器などを用いて大声で周辺の人々にいやでも聞き及ぶシュプレヒコール・罵声を浴びせることを差別的表現という従来から用いられてきた言葉で一括りにしてしまってよいのであろうか。後者には,単に表現活動にとどまらない,社会における偏見と敵愾心を蓄積させ,これによって将来の暴力的犯罪を誘発する固有のダイナミクスがある。在日外国人に対する排外を目的として行動及び表現の過激さや攻撃性から,差別に根ざした攻撃の質及び量の変化を見て取るべきではなかろうか。 その意味で,日本政府の言う「我が国の現状が,既存の法制度では差別行為を効果的に抑制することができず,かつ,立法以外の措置によってもそれを行うことができないほど明白な人種差別行為が行われている状況にあるとは認識しておらず,人種差別禁止法等の立法措置が必要であるとは考えていない」(国連人種差別撤廃委員会の日本政府報告審査に関する最終見解に対する日本政府の意見(2001年))との意見は,すでに現状に即していないのではなかろうか。
本書は,以上のヘイト・スピーチの問題性を各執筆者が固有の課題として共有しながら,学際的見地からアプローチしている。 ヘイト・スピーチの問題は,日本では未だ目新しい社会問題のままであり,そのため,これに対する一つの方向性は社会において示されていない。暗中模索の状態といっても過言ではない。ヘイト・スピーチに関する文献は,この間,様々な方面から公にされている。しかし,肝心の法的規制の問題については踏み込んだ議論は行われていない。本書は,ジャーナリズム,社会学の所見を前提にして,憲法学と刑法学の見地からヘイト・スピーチの法的規制の是非を問う。とりわけ両法学領域において法的規制の賛否を明確に意識して議論をすることを心がけた。これによって各論者がヘイト・スピーチに対する憂慮の念をもちつつ,これに対する
法的規制についてそれぞれの見地から検討を加え,現時点における見解を示している。
本書を通じて,単に「腹が立つ」「不快だ」ということを超えて,ヘイト・スピーチの害悪とは何なのかということを明らかにしていく一歩としたい。