- Amazon.co.jp ・本 (181ページ)
- / ISBN・EAN: 9784591118894
作品紹介・あらすじ
アフリカに送り込まれた貿易会社の二人の社員。出世を夢見て交易所に寝泊りを続けるが…。辺境で「文明」を担った男たちが圧倒的な不安に崩れ落ちていく様を描いた『進歩の前哨基地』(コンラッド)。フィリピンの戦線を舞台に、戦友の心を歪めていく組織悪の根源にせまった大岡昇平の『暗号手』。残虐な欲望に身をゆだね、取り返しのつかない過ちを犯した男が清らかな愛をとりもどすまでの感動の物語(フロベール『聖ジュリアン伝』)。極限に浮かび上がる人間の裸像。
感想・レビュー・書評
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時代も地域も異なる三人の作家の短篇三話を収めたアンソロジー。
コンラッド(1857ー1924)、英国の小説家。「進歩の前哨基地」。
大岡昇平(1909-1988)、日本の小説家。「暗号手」。
フローベール(1821-1880)、フランスの小説家。「聖ジュリアン伝」。
特にコンラッドとフローベールの作品は強い印象を残した。どちらも、人間の誰もがその日常のすぐ背面に潜ませているかもしれない普遍的な側面、にもかかわらず他者に対してだけでなく時には自己に対しても無意識下に抑圧して存在しないことにしている非人間的な側面、そしてその非人間性ゆえに日常的な「人間」の観念を無効にしてしまうような側面、則ち人間が自らの内に抱えていながら同時に日常的な「人間」の観念を超え出てしまっているような「闇」の部分、を描き出している。
普遍的なものを感じさせること、日常性を揺るがすこと、古びた観念を更新させる可能性を示すこと、それが文学の存在理由ではないかと思う。そこに現代的な意匠は必ずしも不要ではないか。
□ コンラッド「進歩の前哨基地」
これまで普遍的だと思われていた人間的秩序、人間的意味、則ちおよそ人間性一般という観念が、それを取り囲んでいる巨大な虚無の中にあってはひとつの恣意的な観念に過ぎない、ということが明白に意識されるようになったのが、20世紀の時代精神の特徴であろう。そうした時代の特徴を示す文学作品がいくつかあるが、コンラッドのこの短編もそのひとつといえる。
それは、例えば戦争などの極限状態において人間的秩序の外部に放逐されたときに、経験される。しかも、そこで垣間見られた人間性の外部に対して、狂気だとか野蛮だとか無意識だとかの新たな名辞で実体化してその不安を緩和させることは不可能である。なぜなら、それは人間的意味の外部にある以上、言語化不可能なものであるから。つまり、外部を観念化して内部化することはできない。人間は、常に、実体化不可能な外部に囲繞されている。それが何かの機会に顔をのぞかせ、不安に戦く。
社会秩序というのは、人間が無意味と背中合わせであるということに薄々勘づいていながらも、なおそんなものは無いものとして目を伏せる自己欺瞞を働かせることによって、辛うじて保たれているようにもみえるが、文化の中にそうした非人間的無意味がにじみ出ているということはないのだろうか。
「未開地は、そこに宿っている旺盛な生命のぶきみな姿をかいま見るにつけ、いっそうよそよそしく、不可解なものとなった。彼らは二人とも、個としてはまったく取るに足りない、無能力な人間であり、彼らが生きていられるのは、文明化された群衆が緊密に組織されているおかげにすぎなかった。めったに気づく者もないが、群衆の生活や、群衆の性格の本質や、能力や、大胆さは、彼らが置かれている環境の安全さへの信頼感の表明にほかならないのだ。勇気や沈着さや自信も、もろもろの感情や原理も、偉大な思想や些細な思想も、ことごとく個人にではなく群衆に属している――集団の制度や道徳のうむを言わせぬ力、警察や世論の力を、ただ盲目的に信頼する群衆に。しかし、正真正銘の未開状態、原始の自然や原始の人間と接触すると、人は突如深い不安におそわれる。たった一人だという気持、自分の想念、自分の感覚が孤立しているという明白な意識、――つまり、安全を意味する習慣の欠落――に加えて、危険を意味する異常の存在が確認される。曖昧で、手に負えない、ぞっとするような事物の存在がほのめかされる。そしてそんな事物の侵入が、心を乱し、想像力を刺激し、愚者たると賢者たるとを問わず文明人の神経を等しく試練にかける」(p11ー13)。
「[略]、なぜか二人には、大地がいっそう広く、非常に空虚になったような気がした。彼らの心に刻みつけられたのは、その交易所の無言の絶対的孤独よりも、彼らの内なる何か、彼らの安全のために作用し、未開地が彼らの胸を騒がせるのを防いできた何かが消えてしまったという、説明のつかない感情だった。故国の風景、自分たちと同じような人々の記憶、自分たちと同じように考え感じる人々の記憶が、遮るもののない烈しい陽光を浴びてぼんやりかすみ、小さく遠ざかった。そして、四囲の未開地の大いなる静寂から、その絶望と蛮性そのものが、いっそう彼らの近づき、そっと彼らを引き寄せ、まじまじと見つめ、うむを言わせぬ、厚かましい、不快なお節介で包みこむように思えた」(p49-50)。
「[略]、いまは、生が、そして死さえも、もはや自分に対して何ひとつ秘密を持っていないという確信に、安らぎを感じていた。彼は死体のかたわらに坐って考えていた。非常に新しい考えを、非常に活発に追っていた。すっかり自分から解き放たれたようだった。古い考えや、信念や、好悪や、尊敬していたもの憎んでいたものが、とうとうその真の姿を現わした。それらは、卑しく子供っぽく思えた。虚偽で滑稽に思えた」(p64ー65)。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
闇というだけあって、心の闇を描いた作品が印象的。
3作品めの『聖ジュリアン伝』のラストは救いか。 -
極限状況に追い込まれた時の人間の心の変化、それを「闇」と捉えたのだろうか。大岡昇平の『暗号手』は軍隊の日常をサラリーマン社会と見立てた人間の顛末を描くが、やはりそこに極限状況が出現すると、とてもサラリーマンと比べられるようなものではないことが明らかになる。91/100
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『進歩の前哨基地』
まさに闇に落ちていくかのような物語…
未開の土地で生きていくその過酷さを想像せずにはいられない。
『暗号手』
物語というより、戦争ドキュメンタリーのような印象。
出世の仕方は今も昔もあまり変わらないのがすこし笑える。
『聖ジュリアン伝』
色々な意味で壮大な物語である。
ひとつの嵐が吹き荒れたように変化する主人公。 -
一口に闇と言ってもいろんな闇がある。コンラッドと大岡昇平の闇は環境によるものだけど、フローベールの闇は自分の内部にあるもの。いずれも自力でどうする事もできない辛さが伝わってくる。
フローベールの『聖ジュリアン』が英雄伝説や冒険ファンタジーのようで面白かった。 -
「進歩の前哨基地」
この状況はつらい。
未開の地で、まるで捨てられてしまったかのような不安の中、些細なことにも神経質になってゆく。
友にいらつき、我慢の限界を迎え、狂気に心が染まってゆく。
せめて、「蒸気船は少し遅れる」くらいの連絡でもあれば、まだ耐えられたのかもしれない。
情報は大切だと思う。
「暗号手」
中山は精神的に上等ではないかもしれないけれど、戦場という過酷な場で、自分を守るためにより良い状態を確保するということは、ある意味では致し方ないことなのだろうと思う。
ひょっとしたら私も中山のように、少しでも上へ、使えるものは使って、という風なやり方をしたかもしれないなあ。
この作品で描かれた「闇」は、私にとってはそれほど「闇」とは感じられない。
そんなもんだろ。くらいにしか思えない。
金も使って、もちろんそれは「闇」なのだろうけれど、結局はよくありそうな話だ。
「聖ジュリアン伝」
やっぱり、甘やかされて育つと、痛みの分からない人間ができあがるのかねえ。
ずっと、輝いているかのような幼年時代が描かれていたのに、突如、教会のねずみによって残忍性が開花する。
一匹のネズミによって開いた亀裂には、底なしの闇が広がっていた。
結局、両親を殺して後、苦しんだ挙句に、天に召される。
歓待の聖人。
・・・悔い改めたらOKなの?
生き物を無駄に殺さず、人を無駄に傷つけないよう気を付けて、毎日丁寧に生きている人のほうが、私にとっては聖人だけれどな・・・ -
『進歩の前哨基地』コンラッド
『闇の奥』とかが有名な人。こういう孤立状態での人間心理を描く、サスペンス調というか怪談調の作品はわりとよくあるパターンか。雪山とか。
『暗号主』大岡昇平
戦争という極限状況でもサラリーマン根性というか、日常的な人間の機微がある。ラストがしみじみ。
『聖ジュリアン伝』フロベール
民話・伝説スタイルの小説。中世の領主の暮らしの描写と、劇的なストーリーと。 -
テーマタイトルがタイトルなんで、なかなか手にできなかったのだけれど、最後の作品には希望があるっぽい書き方だったので読んでみた。
えーと、希望??
中短編だしネタバレになっちゃうからあんまり言えませんが、これって洋の東西を問わず神話・説話によくある奴だな~
大岡昇平の戦時中の暗号手の話もなんかラストは唐突なような……
コンラッドのはラスト「あ、ああぁ~」と一番サスペンスフル?な感じでした。
装画 / 安井 寿磨子
装幀・題字 / 緒方 修一
底本 / 『コンラッド中短編小説集1』(人文書院)、『大岡昇平全集2』(筑摩書房)、『三つの物語』(福武文庫)