戦国人物伝 島津義弘 (コミック版 日本の歴史)

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  • Amazon.co.jp ・本 (128ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784591135747

作品紹介・あらすじ

九州最強・戦国島津家の猛将! 「鬼」と呼ばれた男の生き様!!

南九州の守護大名・島津家に、四兄弟の次男として生まれた義弘は、兄や弟たちとともに、薩摩・大隅・日向の三州統一、さらには九州制覇をめざす! 鬼と呼ばれるほどの強さで戦国の世を戦い抜き、関ヶ原の合戦の敵中突破で有名な武将の物語!

感想・レビュー・書評

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  • 強くてかっこいいなと思いました。

  • 一族の話は何となく分かったが個人の話は少なめで

  • こどものお気に入り。
    戦国時代、家族が協力しあってるのが好き。

  • 伝説の「関ヶ原の戦いでの敵中突破による退却」で知られる島津義弘の伝記漫画。

    島津家の歴史は古く、源頼朝によって九州最南端の島津荘の地頭となって以来、鹿児島の地に根付いてきた。
    戦国時代になって九州でも群雄割拠の様を呈し、島津家は他の国人に占拠されている
    ・薩摩国
    ・日向国
    ・大隅国
    の3ヶ国を奪還すべく戦いを続けていく。

    義弘は島津貴久の次男であり、兄は義久、弟に歳久と家久がおり、この四人は「島津四兄弟」として強固な絆に結ばれていた。
    島津家の戦法は釣り野伏せと称される「伏兵戦法」であり、少数で大軍を引き付けてわざと敗走して、追ってくる敵を伏兵で取り囲んで殲滅するというものであった。
    やがて島津家は九州の南部を制圧し、中央部を領する「大友家」、北部を領する「竜造寺家」との三勢力による構図に突入する。
    けれど、竜造寺家は「肥前の熊」と称された当主の竜造寺隆信が島津氏との戦いで討たれ、キリシタン大名として名高い「大友宗麟」もキリシタンに傾倒する余り、求心力の低下を招き島津氏との戦いで敗北を喫した。

    他の2家の衰退するのに対して島津家は四兄弟の団結で勢力を増し、九州を統一しようとしていた。
    しかし、中央では織田信長の跡を継いで天下取りを進める豊臣秀吉が勢力を伸ばして、四国・中国地方を傘下に収めていた。
    落ち目の大友宗麟がすがったのがこの秀吉である。大友を助ける名目で秀吉は九州へ出兵する。
    その軍勢は何と20万人に及んだ。小田原攻めの軍勢が22万人と伝えられているから、ほぼ同規模である。
    如何に島津家が九州最強を誇ろうとも「多勢に無勢」は否めなかった。
    各地で打ち破られる島津軍。義弘も奮戦するが叶わず島津家はとうとう降伏する。
    けれど秀吉は寛大にも島津家を許し、大隅・日向・薩摩の3ヶ国は安堵された。
    豊臣政権に組み込まれた島津家はその後の朝鮮出兵で義弘が渡海し、「鬼島津」と恐れられるほどの凄まじい強さを見せる。
    20万人の明と朝鮮の連合軍を僅か1万の兵で撃破したのだ。
    けれど朝鮮出兵は島津家に多大な人的・金銭的な負担を強いた。領内の豪族たちの反乱も収まらず、渡海して戦っていた義弘と国内に残っていた当主の義久との間にも軋轢が生じた。
    秀吉は渡海もせず積極的な協力もしない義久を排除して、島津家の当主に義弘を据える。秀吉による島津家分断作戦である。
    四兄弟のうち末弟の家久は病死し、三男の歳久は領内で起こった反乱の首謀者として秀吉の命により討たれた。
    鉄の結束を誇った四兄弟も義久と義弘の二人になり、島津家の戦力も半減する。

    朝鮮出兵での無理が祟ったのか1599年に秀吉が病死すると、朝鮮から軍は撤退する。
    やがて帰国した諸将は石田三成を初めとする「文治派」と、福島正則・加藤清正らの「武断派」の争いに巻き込まれる。
    その両派の争いを上手く利用したのが「徳川家康」であった。家康は徐々に自身の野心を露わにする。
    中央に不穏な空気が漂う中、五大老のひとり会津の上杉景勝に謀反の疑いがあり、家康の下に討伐の軍勢が起こされる。
    義弘は家康から直々に伏見城の警護を依頼されたのだが・・・その時の義弘の手勢は僅か700の寡兵である。
    しかもその寡兵が伏見城の留守を預かる鳥居元忠の拒絶に遭い、城に入れない。
    そこへ三成からの誘いが来た。家康討伐の軍勢を起こすので加勢をという依頼である。
    手勢が1,000人を切っている義弘に選択の余地はない。西軍に加勢する他はなかった。
    もし、この時に伏見城に入城していたら義弘は三成の軍勢に攻められた際に討死したであろうか?
    まことに時勢の移り変わりとは激しいものである。

    その後、国許を抜け出して義弘の軍勢に加わる者が出てきたため若干、兵が増えて1,500人ほどになった。
    かくて運命の関ヶ原の戦いを迎える。何故、国許は兵を寄越さなかったのか?天下分け目の戦いであるのにだ。
    これは国許の内乱の鎮圧に兵を裂かねばならなかったのが大きな理由であるが、国許の中央への情報の把握が出来ていなったことが大きな原因であろう。
    勿論、朝鮮出兵での損害が大きく尾を引いているのも忘れてはならない。

    西軍の一武将として参戦した義弘であるが、西軍に遅れて関ヶ原に着いた東軍に夜襲をかける提案も三成には容れられない。
    寡兵の島津軍は単独で軍事行動を起こせず、開戦しても積極的な攻撃には出れなかった。
    三成の再三に渡る要請にも応じず、小早川秀秋の裏切りにより西軍が総崩れになっても島津隊はほぼ無傷であった。
    退却の決断が迫られたとき、義弘は遂に立つ!何と後方への退却ではなく、前方の家康本陣前を横切っての「世界の戦史上にも他に類を見ない」であろう敵中を突破しての退却戦を展開する。
    将兵たちは義弘を逃がすために次々と犠牲になり倒れていった。それでも戦場を脱した義弘は僅か数十名となった兵と共に薩摩へ帰国した。

    家康の脳裏には「島津恐るべし」の印象が刻まれたことだろう。
    戦後、西軍に組した大名は領地を没収されたり、石高を大幅に削られるなどした。
    そんな中で島津家のみが唯一、1石も領土を減らされなかった。合戦直後では家康の権力はまだ安定しておらず、
    またここで島津討伐の軍を起こせば「家康の私闘」と見做されて野心を見抜かれてしまう。
    あくまでも名目上は「豊臣家を守るための戦い」であったのだから。

    こうして島津家は首の皮1枚のところで滅亡を逃れ徳川政権下でも外様大名の重鎮として残るのである。
    義弘の判断が島津家を救い、後に幕末期における維新の原動力へとなっていくのである。
    島津家は「日本史」を大きく動かしたのだ。

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