【吉野君生死論争に私的決着】
10年以上ぶりに、「吉野君」編の最後まで読んだ感想。当時は勿論「死んでない」派だったんだけど、ほんのり「死んだのかも」「でも死体見つかってないし」の間で揺れ動いてた。
「死んだのかも」の根拠は、「牛車のところに現れなかったから」。「約束」に返事をしなかったのは、死ぬことを予見または死ぬ覚悟だったからでは?など。でも「逃げられるところまで逃げる」って言ってるし、やっぱり生きてるのでは?でも吉野に現れないなんて変!やっぱり死んだ?などと、ぐるぐる袋小路だった遠い昔。
今自分が、おそらく院に近いいい歳になり出した結論は「吉野君は生きてる」。
昔引っかかった点については、
・牛車を使わなかった→院に迷惑をかけたくない(万が一を考えた)
・馬が一頭いなくなった→吉野君が使った(「逃げるられるところまで逃げる」の約束通り)
・吉野に現れない→瑠璃姫に迷惑がかかる。自分の手は汚れている、会わない方がよい(だから逃げる事は約束しても「会う」約束はしなかった。刃傷沙汰の前も「もうお会いしません」と言い切っていたぐらいだし)
あたりかなと。
昔は「生きてるとしたら矛盾が多すぎる」と考えて「死んだのかも」「あんなに好きなら会いに来るはず」と思ってたけど、いい歳になり、吉野君が生きてたとして、実は吉野君の行動には矛盾が全くないことに気づいた。
これだと院と帝に罪悪感が残ってしまう、というのだけが気になるところだけど、吉野君はきっと院にも帝にも自分が無事であることを伝えたと思う。で、2人は、「瑠璃姫の幸せ」を考えたら、瑠璃姫にはそれは絶対言わないはず。また、吉野君もそれは堅く約束させたはず。
メインストーリーは瑠璃姫の一人称なので、つまり、瑠璃姫の語る「ジャパネスク」からは、吉野君の無事は決して語られることはない。
余談ですが、「他人に渡すぐらいなら殺す」「目的を果たすためなら殺人もオッケー」の、サイコパス入ってる吉野君のこと(言葉を飾って高尚に言えば「煩悩を断つため」ってことになるけど、やっぱりサイコパスの思考)、自分が殺した者たちの菩提を弔いながらも、きっと瑠璃姫のことを陰ながらストーカーチックに見守っていることでしょう(笑)
そしてそれに幸せを感じられる徳の高いサイコパスストーカーなのですよ、彼は。
というわけで、最終的にはみんな幸せになれたと思うのです。
ほんとよくできた話だなと感心した次第。