逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~

  • 扶桑社 (2018年7月3日発売)
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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784594079932

作品紹介・あらすじ

鎌倉幕府の始まりは、イイクニ(1192)でもイイハコ(1185)でもない。

「漢委奴国王」の金印は偽物だった?
生類憐みの令を出した将軍綱吉はじつは名君だった。
教科書変貌でひもとく、大人は知らない日本史新説!

「縄文人たちは竪穴式住居に住んで、狩猟生活をしていた」「聖徳太子は推古天皇の摂政として新しい国づくりを行った」「1192年、鎌倉幕府が開かれた」
学生の頃、歴史の授業で習った記憶があるだろう。しかし、新しい発見や歴史研究により、歴史も日々更新され「進化」している。
例えば、鎌倉幕府については、全国に守護・地頭を置いて武家政権を獲得したのが1185年、1192年は源頼朝が征夷大将軍になった年であり、いつ鎌倉幕府が成立したかについ

ては諸説あっていまだに定説がない。教科書でも2段階にわけて紹介している。また、冠位十二階の制や憲法十七条を定めた飛鳥時代のヒーロー・聖徳太子も、いまの教科書

では「推古天皇の改革に協力した」と脇役として書かれ、研究者の間ではその存在すら疑問視されている。江戸時代は「鎖国」といわれるが、付き合いをやめたのはスペイン

、ポルトガルだけで、オランダや中国、朝鮮とはそのまま莫大な取引きを続けていた。
本書では、高校教師歴27年、「世界一受けたい授業」でもおなじみ河合敦先生による、教科書を切り口にした歴史の新説や、教科書では紹介されない不都合な日本史などを紹

介する。あなたの知っている「歴史」はもう古いかも!?

感想・レビュー・書評

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  • 最初の方は結構知っていたことが多かったが、後になるほど興味深いことが多く、堪能した。
    ・2000万年前からの前期石器時代の発掘品と言われるものは捏造か間違い。15万年前からの中期以降は数多く出土している。
    ・乙巳の変の首謀者は軽皇子のちの孝徳天皇という説が強くなってきている。従来の説はまどろっこしい。
    ・相次いで3人の娘と1人の息子を亡くした藤原道長は、失脚させた敦明親王の妻の藤原延子の怨霊のせいと思い込んだ。
    ・鎌倉時代の人々は新仏教の意識がなかった。戦国時代から江戸初期に独立の宗派として公認され、後世への影響が大きいものを鎌倉新仏教と呼んだ。
    ・戦国時代から続く殺伐とした社会を変えるため徳川綱吉はは、朱子学を奨励し、生類憐みの令を出した。捨て子や行き倒れを保護する法律を作った。
    ・由利公正の新政府入りを勧めた坂本龍馬。その通りになり、ちゃんと影響力を持っていた。
    ・宮内庁所蔵の聖徳太子の唐本御影は怪しい。
    ・薬子の変は、平城太上天皇の変と言われるようになった。薬子(女性)は主体ではなかった。
    ・平城太上天皇の変に連座して廃太子された高岳親王は出家して真如と改め、空海に学んだ。空海の入定前日、真如は空海の肖像画を描き、空海が最後に筆で目を入れた。60代になって唐へ渡り、さらに天竺へ行こうとして、マライ半島南部で没した。
    ・蒙古襲来絵詞の真ん中の3人のモンゴル兵は江戸後期の書き足し。
    ・青森三内丸山遺跡で集合住宅(今のアパート?)の跡が見つかった。
    ・縄文時代後期には稲作が行われていた。関東では東北より稲作の導入が遅かった。自然が豊かで狩猟採取で十分暮らせたから。東北でも稲作開始から300年ほどたつと稲作をやめてしまった。北海道の続縄文文化の影響。
    ・縄文前期の遺構ではクリやリョクトウの栽培跡が見つかっている。
    ・炭素14年代法という測定法で、縄文時代の始まりは16500年前とされ、氷河期の真っただなかだった。
    ・江戸時代に断交したのはスペインとポルトガルだけ。清も朝鮮なども海外渡航を禁止していて、東アジアの共通の海禁政策だった。当時、清の銅銭の6~8割が日本産の銅を原料としていた。
    ・幕府領では、本年貢は五公五民で、副業で課せられる小物成りの半分は代官に持って行かれる。しかし、四代家綱以降、大規模な検地をしなかったので、農業技術の進歩で土地の生産力は上がり、新田開発もあって、江戸後期には実質的な税率は十数パーセント程度だった。
    ・庄内藩では善政がひかれたが、酒田の豪商の本間家の力も大きかった。庄内藩は本間家の財力でたびたび財政難を救われ、時には本間家に藩政改革を任せることもあった。本間家は領民に対しても飢饉時の救恤、低利の融資、砂防林の造成など多大な支援を行った。本間家は当時から「本間家にはおよびもせぬが、せめてなりたや殿様に」とうたわれて、神様のようにあがめられた。1840年の領地替え騒動でも、領民たちは江戸まで出て領地替え取り消しを求めた。幕末の戊辰戦争では、藩士ばかりではなく、領民も参加し、庄内軍4千の内半数は農民、商人だった。
    ・江戸時代の三行半は妻の離婚の権利を認めたもの。
    ・鎌倉の東慶寺のような縁切寺では、逃げ込んだ女性を最後まで擁護した。
    ・西郷隆盛は情に流されやすかった。禁門の変のあとの長州藩への寛大な条件での恭順の勧め、江戸無血開城、江戸開城後に旧幕臣たちに江戸の治安維持を任せたこと、廃藩置県での廃藩への同意、岩倉使節団渡欧中に部下たちのやるままに任せ、徴兵令、地租改正、学制、司法改革などを許したこと、征韓論を唱えた板垣退助らを抑えきれず同調したこと、西南戦争で部下たちをみすてることができなかったことなど、すべてそうであった。
    ・幕末、東北・北越諸藩は奥羽越列藩同盟を組織したが、多くの藩は会津、庄内、米沢、仙台といった大藩に強要されたのだった。
    ・「ふとんの西川」の西川産業株式会社の発祥となった西川本家(近江八幡市)は最初は北陸方面で蚊帳や畳表を売り、海の魚を買うという行商を行っていたが、江戸幕府が開かれると江戸に店を開いた。画期的な蚊帳や弓を売って儲けた。布団を扱うようになったのは明治から。江戸は火事が多かったので土地を買ってそれに備えていた。店員にいわゆるボーナスを支給した。長く勤めた店員には経営に参画できる制度があった。
    ・徳川幕府は各藩の教育には口を出さなかったので、藩それぞれの士風が育ち、近世からの県民性として反映された。庄内藩の致道館での方針は、荻生徂徠の影響で一種の放任主義であった。なんとなくやって来た学生たちが、自分でも気づかぬうちに学業が進んでいるようにせよ。学校は子どもの遊ぶ場、何でも大目に見てやれ。子どもたちがあくびをしないような面白い授業を心掛けよ。学生の長所だけ取り上げて、短所を気にするな。自主性を重んじよ、というような驚くべき方針だったのだ。
    ・明治の警察官は、消防活動や伝染病の予防救治も行った。
    ・大隈重信は、自分の演説を録音したレコードを全国各地での選挙活動でかけさせた。勿論応援演説にも駆け付けた。
    ・倭王が光武帝からもらったという金印は、当時鑑定した藩校甘棠館の館主の亀井南冥の偽造だった。
    ・江戸中期、寺社参拝が盛んになり、門前には水茶屋がたくさんでき、素人の看板娘たちが異常な人気を博した。浮世絵が出たり、絵草子、手ぬぐい、双六、人形といったグッズまで作られた。客にキスをさせる娘まで出た。水野忠邦が取り締まってしまった。
    ・とばくの歴史は古い。持統天皇は双六賭博の禁止令を出した。江戸時代は様々な賭博が登場した。

  • ● 4万年前に滅亡した旧人のネアンデルタール人は、私たち新人と長い間共存してきた。うつ病やタバコ依存症などは、ネアンデルタール人との混血によって、彼らから受け継いだ病気遺伝情報であることが判明した。
    ●1185は実質的な武家政権の誕生。1192は頼朝が征夷大将軍になったとき。だから今でも鎌倉幕府誕生は1192。 
    ●戦国時代への突入は、応仁の乱の10年前、享徳の乱から?
    ●天台宗の円仁と円珍。天台宗の密教を導入した高層で混同されやすい。円珍の頭を目に焼き付けた上で、珍しい卵が寺の庭園に転がっている状況を思い浮かべなさい。

  • ちょうど一年前、ニュースを見てびっくり仰天!

    「坂本龍馬が教科書から消える」

    めっちゃショックでした。感情的には許せん。でも、「もともと教科書に載ってなかったのならしょうがないかも」なんて諦めの気持ちもありました。

    ところが、「それは嘘。戦前の国定教科書に坂本龍馬は登場している」と反論してくれたのがこの本の著者・河合先生でした。私は当時この記事をtwitterで発見。そうだったんだ。

    結局、この案に反発が多すぎて削減案を修正、坂本龍馬は残ることになりました・・・というニュースの顛末がこの本にまとめられてありました。

    すみません、当時も今もこの話はかなりショッキングだったので最初に書いてしまいましたが、この本の本当にメインな内容は「数十年前の日本史の教科書に載っていた内容は今やこんなに変わったよ」な話です。さらに「ぜひ教科書に載せたい話」「載せたいけど載せられないようなエロの入った話」も。

    確かに最近、歴史を学びなおしてみると邪馬台国はどうやら畿内説が有力になりそうだし、足利尊氏や源頼朝の肖像画は別人とか言われるし、聖徳太子はいなかったとか鎖国は本当は鎖国じゃなかったとか、さまざまな話を聞く今日この頃。

    最近興味があるのは「徳川綱吉は実は名君だった」という話。実際、トータルで考えたらそんなに名君とは思いにくいのですが、「生類憐みの令」を通して、現在にも通じる命の大切さという倫理観を確立しようとしたという意味ではこの人かなりの重要人物じゃない?って思うようになりました。

    学生時代に習った日本史からアップデートしたい方にぜひおススメです。

    あと個人的には第6章を読むのがとっても楽しかったです(笑)江戸時代のエロネタは楽しすぎる♪

  • ・歴史は研究により年々マイナーチェンジしていく。
    ・聖徳太子は政治の中心を担った訳でなく、推古天皇のサポート役。
    ・生類憐みの令での死刑者は僅か13件。綱吉は実は名君。
    ・蒙古襲来の絵巻は改ざんだらけ。中央の蒙古は書き足しの可能性有。
    ・坂本龍馬が教科書から消える?西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通対比、歴史上、重要視されていない?

  • 先日(2024.7)目の手術のために入院しました、以前のリモートワークしながらの入院と違って、読書の時間が多くとれました。目の手術なので、目を休めながらの読書となりましたが。

    この本の著者は、私が楽しみにしている「歴史探偵」という番組でほぼレギラーと言っていいほど登場してくれる、河合氏により書かれたものです。本に書いてある紹介を見ると、私とほぼ同じ年齢で、中学高校と歴史の授業は同じ内容を学んでいたことがわかります。

    その河合氏が自分の経験を踏まえて、過去に授業で習ったものと、現在の学生が学ぶ日本史はこんなに異なっているということを実例を示して解説してくれています。以前はこうで現在はこのように変わった、それはどのような学説が発表されてそれが認められていったから、という流れです。以前に学んだことは、実は違うということを知る驚きと喜びを味わいながら読んだ本でした。

    以下は気になったポイントです。

    ・日本で一番古い貨幣は、無文銀銭であり、富本銭もあるが、少量しか生産されておらず、初めて本格的に流通したのは「和銅開ちん」である。それまでは布や米などが貨幣の役割をしてきたが、ヤマト政権は708年から大量に鋳造して国家的に流通させようと法令(711)まで出している(p28)

    ・鎌倉新仏教の六つとは、1)浄土宗(法然)、2)浄土真宗(親鸞)、3)時宗(一遍)、4)日蓮宗(日蓮)、5)臨済宗(栄西)、6)曹洞宗(道元)であるが、成立・普及したのは江戸時代になってから、鎌倉時代は依然として、東大寺・興福寺・延暦寺・東寺なとの旧仏教が中心勢力であった(p37)

    ・鎌倉公方・足利成氏は後花園天皇が源氏追討の綸旨を出したので朝敵となった、成氏は下総国古河(茨城県)に御所を定めて、古河公方を名乗って上杉勢力と戦い続けた。八代将軍義政は、異母兄である足利政和を還俗させて鎌倉公方に派遣したが、成氏の勢力が強く鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越を拠点にした、こうして鎌倉公方は、古河公方と堀越公方に分裂した。(p44)

    ・歴史を学ぶ意義は、それを自分の人生に役立てることにある、全く同じことは決して起きないが、同じようなことは過去に何度も起こっている。だから過去の人間の失敗や成功、偉人の行動に学んで、それを各人の将来や生き方に活かす、それこをが歴史を学ぶ意義である(p51)

    ・桓武天皇が崩御して平城が好意につくと、寵愛した薬子を宮中に呼び戻した、その後、平城天皇は精神病にかかり3年で嵯峨に譲位してしまう、病気が回復すると薬子は平城上皇に強く復位を求めるようになり、平安京から平城京へ多数の貴族や官僚を引き連れて政治を動かし始めた。そこで、嵯峨天皇は上皇方との対決を決意、結局は平城上皇は旧平城京へ戻って出家した(p102)

    ・九州北部から入った稲作は、西日本から東海、関東を経て東北へ入ったように思い込んでいたが、関東の方が東北よりも稲作の導入が遅かったことが近年判明してきた・この時期の関東は自然が豊かで狩猟採取で十分暮らせたのであえて稲作を導入するメリットがなかったと考えられている(p136)

    ・そもそも江戸時代は鎖国なんてしていない、断交したのは、スペインとポルトガルの2国だけ。領土的野心を抱くカトリック王国と判断されたから、オランダ、中国(明→清)、朝鮮とはそのまま交易を続けている(p145)

    ・年貢は村単位でかけられたが、本年貢は「五公五民」ぐらいであった、ただ四代家綱以降は幕府は大規模な検地をしなかった、土地の生産力は上がり新田開発により耕地も増加しているので、江戸後期には実質的な税率は、十数%程度だったという説もある(p150)

    ・幕府は、相模の海岸防備を担わせていた川越藩の財政を援助する目的から、1840年に、河越・庄内・長岡3藩の領知を互いに入れ替えることを命じた、川越藩が豊かな庄内藩へ、庄内藩が長岡藩へ、長岡藩が川越藩に移った。これに対して庄内藩の農民が転封を阻止するための一揆を組織した、殿様にいて欲しいから一揆を起こしたのは前代未聞であった。この運動は他の大名の同情を集め、1841年7月、ついに幕府は領地替えを撤回した、一度出された幕府の転封命令が領民の反対で引っ込められたのは初めてであった(p153)後に、幕末において東北諸藩が降伏しても庄内藩は抵抗して強かった、庄内藩のみ、領民も藩士とともに戦闘に参加したから、庄内軍4000のうち、半数が農民や町人であった。長年の善政がこの状況を現出させた(p154)

    ・江戸時代の、三行半は「再婚許可状=離婚した後は誰と再婚しても構わない」という、再婚許可状である、これをきちんと妻に渡さないで勝手に再婚した場合、その夫は「所払い」という刑罰に処せられる(p156)縁切寺で有名なのが、鎌倉の東慶寺である(p159)縁切り制度は、1873年に女性に離婚請求権が認められたことで終わりを迎えた(p162)

    2024年7月5日読破
    2024年7月6日作成

  • 子供がいないと、今の教科書の内容を知る術がないから、この手の本は毎度の目からウロコ

  • 2019/8/18
    今までに教わってきたものが必ずしも歴史の事実であるとは限らないということ、また、変化していく分歴史にはさらなる面白さがあることを伝えてくれる内容だと思います。
    今までの歴史の常識や定説を疑う視点は必要だと思います。主には高校の教科書の比較と引用が使われていて、戦前や、戦後間も無くの記述と近年の記述の変化を比べてくれていますが、この変化を踏まえて小学校、中学校も歴史を教えていく必要があるんだなと思います。
    必ずしも結論が1つと決めつけるのではなく、あくまでも解釈の1つであって近年ではこんな説もあったりこんな研究成果もあったり、こんな調査が進められていたり…なんてプラスαで紹介することもできるんじゃないかと思います。
    今までの時代を形作ってきた人たちも人間だから、人間らしい側面とか、まあ、そうなりますよねぇ!みたいな人間味のあることとかたくさんあると思います。その中で事実としてあることと解釈として考えられることをバランスよくまとめていきたいなあと思わされました。
    教科書だけじゃなく、最新の研究成果などにももっと目を通していきたいなと思います。

  • 興味をそそるのは最初だけ。教科書の変化を追う番組としては成立してる。モヤモヤして終わるネタがおおいのが残念。でも読んでよかった。

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著者プロフィール

1965年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。文教大学付属中・高校教諭。早稲田大学教育学部講師。教育活動の傍ら、精力的に執筆活動も行なっている。

「2016年 『大学入試問題から日本史を学びなおす本(仮)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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