ポリコレ過剰社会 (扶桑社新書)

  • 扶桑社
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  • Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784594089108

作品紹介・あらすじ

有無を言わさぬ「正義」が社会を覆っている。そして、一度「差別主義」「排外主義」のレッテルを貼られると、それを覆すのは容易ではない。だが、差別と言われていることは本当にそうなのか?

『「弱者」とはだれか』の刊行から20余年。ごく普通の生活感覚を手掛かりに「差別問題」の本質を問う。

第1章 ポリコレ現象はなぜ広まるのか
第2章 非常識なポリコレ現象の数々
第3章 女性差別は本当か
第4章 性差の変わらぬ構造
第5章 LGBTは最先端の問題か
第6章 攻撃的なバリアフリー運動はかえって不利
第7章 ポリコレ過剰社会の心理的要因
第8章 ポリコレは真の政治課題の邪魔

感想・レビュー・書評

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  •  いわゆるポリコレ批判本だが、ポイントははっきりしているし、わかりやすいと思う。
     ポリコレのムーブメントについて、
    【問題の重要なポイントの一つは、他者から何らかの振る舞いを被った人が、「私は傷つけられた」という個人的な感覚に基づいて告発すれば、それを認定する公式法廷の裁定を待たずして、差別として通ってしまうという事実である】
     という点がまず大きい。
     「私のこの感情は絶対問題」である。

     二つ目。
     差異や格差があること自体がよくないとすること。【ある国民性のなかではどういう文脈で異なる人間どうし(たとえば男女)の差異が流通しているのかという具体的な事実が見えなくなる】
     普通の男女のプライベートな関係におけるやり取りの構造を見ようとしない。男女の機微を、かかあ天下な家族、親権がどちらにもたらされやすいのか、等多様なパターンがなされている。いろいろな関係性がある。パパ活する女性は貧困のためにやっているのではない。事実は、上智や港区などにいる、恐ろしく裕福な女性もパパ活をしているので、その関係の細かさ・欲望の深さの解像度をあげるべきだが、そこまで思考できないのがポリコレの限界である。
     つまり「人間の業や関係性の深さに対する無視問題」である。

     男性は、物事をいったん「客観的対象」として突き放し、観念的な手続きを経てそれとかかわろうとする。
    女性は、自分の心身と連続するものとして捉えている。
    地図として街を捉えるのではなく、街並みや風景として覚える。男女の違いの議論でよくある話である。【ポリコレやセクハラについて議論をするなら、まずその前に、男と女が性愛に向き合う態度や、日常の心理と行動の型においてどういう根本的な違いがあるかについて、共通了解をもつべきである。】
    【男と女の違いについての感受性をもっと大切にしたうえで議論しようと提案しているのである】
     と、小浜氏は述べる。
     男と女、パートナー同士が噛み合うのは、考え方も何もかも違うからである。
     違いを違いのままにしていくのではなく、どちらか一方を潰そうとする思考。みなを統率する独裁的思考。ポリコレと独裁者の相性の良さにつながるような問題がある。「異なるから噛み合うという事実を受け容れられない問題」が三つ目にある。

     ポリコレは「弱者としての符牒を持った特定の個人」の自由ばかりが認められ、それが「他者」の利益とのバッティングを常に起こし得るという当たり前の事実からどこまでも目を伏せようとする。他者との軋轢に無頓着である。
     都市化により地域共同体が存在意義を希薄化させたとき、私は何者であるかという問いが、各人につきまとう。その何者であるかという問いを埋めるために、正しい人だというアイデンティティが入りこんでくる。
     これは在日のアイデンティティの問題にも、そのアイデンティティ問題を誰が言い続けているのか、どのように動かしているのか、在日の人はどのように動員をかけられているのか、アイデンティティのどんな枠にはめているのか、誰が決めようとしているのか。哲学的に思考することそのものがタブーとされ、いつまでも憎悪と悔恨の中でこれからも永遠に生き続けて左派に利用され続けろというのが決まり切ったレールなのだろうか。
     相手の否定によって、自分がより上位のアイデンティティを確保しているかのような気になれる。こういう傾向が集団的に共通心理として定着すると、ある違和を唱える人に出会った時に、それに対する不安を打ち消そうとする力が働いて、対話や議論抜きでみんなで排除しようとする。そして、「普通の苦しむ人々」はポリコレの目に入らなくなる。
     どんなアイデンティティだろうが、政治家だろうが、みな、苦しんで死んでいっている。労働者は働き過ぎて死に、政治家は気が狂った男に撃ち殺されしかもその死は骨の髄まで右左の政治思想に利用される。誰も浮かばれないのが実体で、そのなかで、普通に苦しんでもこの世間を支える大人達に目を向けること。それが本当のポリコレだろう。
     つまり、「被害者意識のままではなく、大人として前向きに生きていくことを受け容れられない問題」である。

     まとめると、ポリコレの抱える/ポリコレからうまれる問題は以下の4つとなる。

    「私のこの感情は絶対」=私が宇宙のすべてを決定する。私自身が大事だからだ。
    「人間の業や関係性の深さは無視」=人間の欲望の深さは、私の許容範囲におさまるべきである。だから、気に入らないものは二次元でもダメである。
    「異なるから噛み合うという事実を受け容れられない」=自分と異なる価値観の人間とうまく妥協したり話をあわせて落とし所を見つける努力をしたくない。
    「被害者意識のままではなく、大人として前向きに生きていくことを受け容れられない問題」=いつまでも子どもでいたい。共同体を維持する責任を持つ大人になりたくない。

     この4つが分かったのは、この本のおかげである。

  • 過剰なポリコレ、行きすぎた言葉狩りに辟易している時に見つけた本書。しかし、期待したほどじゃなかった。

    一部同意する部分もあるが、女性差別と性差に関する章については頭の硬い年寄りの繰言のようで読んでいて不快になった。
    ただ、差別という言葉で全ての言動を監視し、少しでも気に入らないと挙げつらって集中砲火を浴びせる今の世の中は異常としか言いようがない。
    それが本当に差別なのかという検証を経ることなく思考停止し、ヒステリー状態での差別撲滅キャンペーンが今を生きる全ての人の首を絞め、生きにくくしていることにみんな早く気づくといいのに。

  • ポリコレブーム。
    過剰だなと思うこともあるので、手に取った。
    なるほど、と思うところもあったのだけど、相容れない部分もあった。筆者の考えと、生活の実感としての感覚のズレ。本当にそうだろうか?と投げかけたくなる部分がチラホラ。

    例えば、幸福度は日本の男女で比べると女性の方が高いのだから、差別による不遇感など抱いてない、ということとか。

  • 2024年、3冊目です。

    2024年1月以降に、サイトへの登録が上手くいかず、
    読了した本を登録できなかったので、まとめて登録する。

  • ポリコレを嫌悪するつもりは毛頭ないが、最近の過度な言葉狩りには辟易することもある。

    この本は分かりやすくまとめられている部分と、筆者の偏った価値観とが混同しているようにも思う。注意して読み進む必要はあるだろう。

  • ■フェミニズム思想の欠陥。それは私たちの実生活において差し障りなく流通している男女「差異」の深い意義を認めずそれらをすべて「差別」の指標の方に引き付けて解釈していしまう点である。そこには抽象的な観念で思想を立ち上げてきた人たちに特有の現実に対する鈍感さが見られる。
    ■フェミニズムはすべての女性が社会進出して男性と対等の待遇や地位で働くことを推奨し、それがかなえられていない場合があると「女性差別」として告発することを思想原理にしている。
    ■かつてユング派の心理学者・林道義氏がフェミニズムのこうした思想を「働けイデオロギー」と批判していた。フェミニストたちに刷り込まれた、そして今ではほとんどの人が異を唱えることをしなくなった「女も男並みに働くことが良いことだ」という考え方は男女の生理的・心理的条件の違いを無視している。
    ■LGBTの被差別者とされる該当者たちが本当に過酷な社会的差別を受けていて内部から悲痛な声を発しているのかどうか、どれくらいの人がどういう具体的な差別を受けているのか。この議論をきちんとしておかないとLGBTという「言葉」を聞いただけで彼らは差別の対象になっており、彼らの皆がそのために酷い不利益を被っているといった先入観にとらわれてしまいがちである。「とにかく差別はけしからん」という観念が支配的なイデオロギーとしてまずある。そこに先入観が加担する。すると何を差別と呼ぶのかという理性的な議論も行われないまま、声がデカいごく少数の人の感覚に依拠した言い分がそのまま公式的に認められてしまう。

  • ●「平等」とか「人権」とかいった語彙以外に社会的価値判断を下す言葉がないかのように、単純化された概念を人々の心に浸透させ、あらゆるところにこの尺度を持ち込んで、人間を非難し、中傷し、裁断する粗雑な流れが蔓延している。しかもその流れに対して、面と向かってきちんと反応する人は少なく、多くは感情的な不満を表明してガス抜きをはかることに終始している。これはあえて名付けるなら「反差別」全体主義である。
    ●ごく常識的な感情の持ち主なら「障害を持つゆえにわが子を誇る」気にはなれないし、この世界を「ひどい世界」と決めつける事に対しても疑問に思うだろう。また子供がこの世に生を受けた意味を「この酷い世界を変えるために生まれてきた」などと言う所に求めはしないだろう。さらに、障害を持つこと自体が「すごく嬉しい」と感じるのは倒錯しているとしか考えられないし、自分の子が「勇気ある子」などと言う判断はこんな文脈で下すのは不適切だと感じるだろう。

  • 最近耳にするポリコレについて、一冊読んでみようと思い購入。

    差別と性差による違いといったことをない混ぜにした結果が、今の過剰な考えに繋がっているのかなと、この本を読んであらためて考えさせられた。 そして、当人達が果たしてそれを望んでるのか、という視点も大事と思う。

    参考になるデータなどの紹介もある反面、(本筋から少し外れるが)時折入るコロナ禍に関するコメントが正直受け入れ難く、こういう考えの方が書いた意見なのだと、と割り切って読む必要は感じた。

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著者プロフィール

1947年、横浜市生まれ。
批評家、国士舘大学客員教授。
『日本の七大思想家』(幻冬舎)『13人の誤解された思想家』(PHP研究所)、『時の黙示』(學藝書林)、『大人への条件』(ちくま新書)、『日本語は哲学する言語である』(徳間書店)など著書多数。自身のブログ「ことばの闘い」においても、思想、哲学など幅広く批評活動を展開している。(https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo)

「2019年 『倫理の起源』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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