巨いなる企て 上

  • 毎日新聞社 (1970年1月1日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (304ページ) / ISBN・EAN: 9784620104409

感想・レビュー・書評

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  • 佐和山主従も家臣の皆様も関西弁…。萌えるというよりおっさんぽい(笑)よくも悪くも公平な書き方なのかな。

  • (2009.11.14読了)
    石田三成を主人公にした小説を探してみたら、司馬遼太郎著「関ヶ原」と堺屋太一著「巨いなる企て」が見つかった。司馬遼太郎もいいけど、「峠の群像」の堺屋さんも興味深いので、堺屋さんの方を選択しました。
    二段組み300ページあるので、通常の600ページ分の内容が詰まっています。読むのに結構時間がかかりました。

    ●現代風のたとえ(8頁)
    「関ヶ原」前夜における徳川家康と石田三成の立場を現代風に戯画化すれば、前者は自ら育てた優良企業を豊臣会社と合併し、代わりに豊臣会社の株の何割かを得た実力派の副社長であり、後者は社員持株制で2,3%の名儀を与えられているだけのエリート社員の企画部長兼社長室長とでもいった所だろう。もっとも、この社長室長は、あり余る才気と老社長の信任とを頼りに、諸事にうるさく口出しすることで知られていたが、それだけに彼を煙たがる部長や支店長も多かったのである。
    こうした両者の実力と地位と経歴とを考えれば、巧みな吸収合併策でこの企業を巨大化し、勢力バランスの上に乗って治めてきた老社長が死亡した後で、一介の部長級にすぎぬ三成が実力副社長の家康に決戦を挑むことなど、そもそも不可能に見えたに違いない。だが、この男は無謀にも敢えてそれをした。そして意外なことにそれがあわやと思わせるほどの大事件になったのである。この男の考えた「挑戦の構想」が実によくできていたからである。

    物語は、1598年の旧暦8月からはじまる。豊臣秀吉は病で臥せっている。もはや長くは持たない。秀吉がなくなったら、五大老、五奉行の合議制で政務を運営してゆくことになっていた。
    五大老は、徳川家康(関東に256万石)、前田利家(北陸地方・加賀など83万石)、毛利輝元(中国地方に120万石)、宇喜多秀家(中国地方・備前57万石)、上杉景勝(東北地方・会津120万石)の5名であった。
    五奉行は、浅野長政(筆頭・甲斐甲府22万石)、石田三成(近江佐和山19万石)、増田長盛(大和郡山22万石)、長束正家(近江水口5万石)、前田玄以(丹波亀岡5万石)の5名であった。
    五大老と五奉行との意見が合わないときの仲裁役として三中老というのもあったという。
    生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名である。
    秀吉の跡継ぎである秀頼がまだ幼かったために考えられた体制である。
    この体制を考えたのは、石田三成であろうと推測している。(20頁)
    三成については「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という俗謡があった。(物語を読んでいても、三成が家老・島左近の提案する策をもっと採用していたら、家康に勝てていたのではないかと思わせられる。)

    ●秀吉の遺言(48頁)
    「家康は伏見にあって天下の政務を代行する」
    「利家は大阪にあって秀頼のおもり役となる」
    「太閤の死後、秀頼が成人して自らの判断で政治を行うようになるまでの間、恩賞、加封、削封、国替え、国境の変更は一切行ってはならない」
    ●1596年公布の御掟(48頁)
    ・大名同士は婚姻、養子縁組をしてはならない。
    ・特定の大名が親しみ、徒党を組んではならない。
    ・特定の大名を敵視したり、相互に争ったりしてはならない。

    1598年8月18日、太閤秀吉が世を去った。(56頁)
    まずやるべきことは、朝鮮に出兵している兵士を引き揚げることである。
    引き揚げのために博多に出向いたのは、浅野弾正、石田治部少、毛利秀元(宰相)の三名。
    朝鮮および明との闘いに苦戦しながら何とか引き上げさせることができた。

    家康の天下取りの野心と三成の豊臣政権維持の意志の激突が始まる。利家の存命中は、三成の防戦が可能だったが、利家が亡くなると家康にじりじりと押されるようになる。
    家康は、秀吉の正室・ねね(高台院)のもとに通い始める。
    家康は、加藤清正と小西行長の対立を利用して、三成と清正の亀裂を深めることを画策する。加藤清正が朝鮮から帰り、伏見に戻ると高台院を訪ねると読み、清正が高台院を訪ねているところに偶然を装って家康も訪れ、家康が高台院と親しくしているのを見せつけて、清正が行長たちを相手取った訴訟を起こさせるようと計る。(165頁)
    さらに家康は、「伊達、福島、蜂須賀の三家と縁組を進める」(217頁)
    これは、明らかに御法度破りである。
    この件に関しては、三成の根回しで、家康にひっこめさせることができた。

    著者 堺屋 太一
    1935年、大阪市生まれ
    東京大学経済学部卒業
    通商産業省(現・経済産業省)入省
    日本万国博覧会を企画、開催
    1978年、通産省退官
    1998~2000年、小渕・森内閣の経済企画庁長官就任
    ☆既読
    「峠の群像(一)」堺屋太一著、文春文庫、1986.12.10
    「峠の群像(二)」堺屋太一著、文春文庫、1986.12.10
    「峠の群像(三)」堺屋太一著、文春文庫、1987.01.10
    「峠の群像(四)」堺屋太一著、文春文庫、1987.01.10
    「豊臣秀長 上」堺屋太一著、文春文庫、1993.04.10
    「豊臣秀長 下」堺屋太一著、文春文庫、1993.04.10
    「秀吉 上」堺屋太一著、日本放送出版協会、1995.12.21
    「秀吉 中」堺屋太一著、日本放送出版協会、1996.04.30
    「秀吉 下」堺屋太一著、日本放送出版協会、1996.10.12
    (2010年2月12日・記)

  • 石田三成。弱小の大名ながら「正義」のため徳川家康を敵にした男。あっぱれ!!

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著者プロフィール

堺屋太一

一九三五年、大阪府生まれ。東京大学経済学部卒業。通商産業省(現経済産業省)に入省し、日本万国博覧会を企画、開催したほか、沖縄海洋博覧会や「サンシャイン計画」を推進した。在職中の七五年、『油断!』で作家デビュー。七八年に退官し、執筆、講演、イベントプロデュースを行う。予測小説の分野を拓き、経済、文明評論、歴史小説など多くの作品を発表。「団塊の世代」という言葉を生んだ同名作をはじめ、『峠の群像』『知価革命』など多くの作品がベストセラーとなった。一九九八年から二〇〇〇年まで小渕恵三、森喜朗内閣で経済企画庁長官、二〇一三年から安倍晋三内閣の内閣官房参与を務めた。一九年、没。

「2022年 『組織の盛衰 決定版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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