きもちのこえ 十九歳・ことば・私

著者 :
  • 毎日新聞社
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784620318639

作品紹介・あらすじ

未熟児、脳性まひ、弱視。13歳、はじめて"書く"ことを知った。いま、24時間全介助で暮らす女の子が綴る勇気と希望のmyライフ。

感想・レビュー・書評

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  • 2013年さいしょの一冊。『重症児者の防災ハンドブック』の巻頭「悲しみを越えて、小さな希望の種をまきましょう」には、大越桂さんの詩があった。その大越(おおごえ)さんが、筆談という表現手段を得て、言葉で自分の「きもち」を書いた本。

    大越さんは819グラムの未熟児で生まれ、重度の脳性まひと未熟児網膜症による弱視のある子どもとして育った。大越さんが小学生の頃から、精神的ストレスによる周期性嘔吐症(思春期によくある摂食障害のひとつらしい)にみまわれていたのは、「伝わらない苦しみ」が大きかったのだろう。

    ▼…いろいろなことを考えるようになったり、自分の気持ちや欲求が複雑になってきているのに、心身の障害で多くのことを制限されていることで、思いが伝わらないストレスが大きくなるのではないかと秘かに考えていました。
     たまたま、私は表現できないけれど考えることはできて、言葉にするかどうかは別にしてもいろいろ思いが通じない苦しみを味わっていました。それを自分でどうすることもできない現実や、周囲の人々が関わる行動や考えていることが、どうやら私の願いとはだいぶ違っているということに気づきました。気づいても伝えられないので、吐く、という方法で体が反応したのだと思います。(pp.98-99)

    そのストレスを吐いて表現するうちに、大越さんは肺炎を起こし、ますます食べられなくなっていく。入院が続き、学校へもなかなか行けない。胃ろうの手術にふみきるものの、嘔吐発作は続き、大越さんは病院に住む状態に。

    そんなある日、大越さんの脈が速くなってモニターのアラームが鳴ることに、お母さんが気づく。「眠った状態に見えても、意識は起きていることがある」ことを理解してもらえて、脈拍によるコミュニケーションが可能になった。細かいことまでは通じないけれど、少なくとも「関わってもらえる可能性」がうまれたことに意味があったと、大越さんは書く。

    中学生になってすぐ、大越さんは「楽になるならなんでもいい」と気管切開の手術をうけた。そして術後に声が出ない現実に愕然とする。それまで、苦しみや痛みをとりあえず叫んで声にすることで、どれだけ気持ちが軽くなっていたかを大越さんは思い知り、以来、痰の音を出したり、腕をベッドの柵にぶつけて音を出したり、「伝える格闘」が続いた。一方で、母がサインを読み取ろうと観察してくれるのはいいが、「観察されすぎ」がうっとうしい思いもあり、でもそれをなかなか伝えられないイライラ。

    何かコミュニケーションの手段を見つけたいという大越さんに、中学の担任の先生が「少しだけ動く手で、字を書いてみたら」と提案。小学校のとき、近くで勉強している人の字を必死でぬすみ見して、大越さんは「字をとっくに知っていた」。まひのある手の、緊張のなかの動きを、読み取る。

    これで、通じる人になれる。
    これで石でなくなる。
    これで物でなくなる。

    それから文字の練習をした一年間、嘔吐発作が何度も襲い、体は苦しくなるものの、それを上回るヤルキで、大越さんは書いた。

    ▼私は、話したいことがもう首のところまでつまっていて、一日中書いても足りない気分だった! 言葉が文字になって体の中に充満して、きつきつにつまって、指先までぎゅうづめ。出口はペン先だけ。脳みそが沸騰しそうでした。(p.177)

    エピローグにはこう書かれている。
    ▼どんな姿で生きていても、生きている限り、人間は人間です。
     心を持った人間です。
     何も表現できなくても、生きていることそのことが、もうすでに表現していることなのです。息をしているし、心臓を動かしているし、体温を保っているし。
     その方法に医療や器械のお手伝いが必要でも、今生きている、そのことの意味を大切にしたいと思うのです。(p.198)

    大越さんの本を読んで思ったのは、病気の進行によって表現手段がしだいに思うようにならなくなっていった母のこと。店へ入ったりすると、スムーズな言語表現ができない相手を勝手にコドモ扱いしたりする店員がいることもあり、母はよく怒っていた。

    母は、構音障害でしゃべり方がたどたどしくなって、聴き取りづらくなり、手書きの文字は震えて、やがて判読が難しくなっていき、ワープロのキーボードに穴を開けたボードを載せて1字ずつ打っていたのも、誤入力や誤変換が多発して、判じ物のようになっていった。

    少ない文字数で表現できるからと俳句や短歌の本を読み、それらしきものを書いてもいたが、母のこうした表現手段が全て失われるときもくるのだろうと私は思っていた。母も、大越さんのように、出口のない言葉が体の中にぎゅうづめになっていたのだろうか、と考えたりもする。

    (1/1了)

  • 脳性まひや弱視、嘔吐症などの障害のため自分の気持ちを、人に伝えることができなかった彼女が、13歳のとき筆談ができるようになる。

    その彼女の書く言葉は、ぴかぴかに光っている。伝えることの喜びに小躍りしている感じが、しっかりと伝わってくる。小躍りというか自分の全てを掛けたガッツというべきか。そしてその言葉を読んでいる僕も嬉しくなる。

    ふつうにまっすぐに気持ちを乗せて言葉を伝えることを、おざなりにしている自分が意識されて、少々しんどかった。

    ヨーグルトとプリンしか選べなかった彼女がそのどちらでもない「くりいむ」と書いたエピソードに爆笑。自分をしっかりと見て、最後にその自分を笑ってしまうユーモアまで彼女は手にしている。

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