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Amazon.co.jp ・本 (440ページ) / ISBN・EAN: 9784622037873

感想・レビュー・書評

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  • ロバート・N・ベラー「心の習慣 アメリカ個人主義のゆくえ」

    ★日本語版への序文
    本書全体を通じて、私たちがアメリカの個人主義(p186 独立独行を第一に強調する姿勢、純粋で何ものにも規定されない選択、伝統と義務からの自由を自己の本質と見なす考え方)に対して批判的であることははっきりしている。
    私たちが主に批判しているのは、個人は社会から切り離された絶対的な地位をもつとする功利的個人主義と表現的個人主義である。
    個人主義はそれじたい有無をいわせぬ「儀礼的パターン(実践 p188 それらによって共同体的な生き方を定義づける忠誠と義務のパターン)」であり、強力な文化的圧力によって押しつけられるものだ。
    それに代わって支持するのは、個人と共同体が相互に支えあい強化しあうような、社会に根を下ろした倫理的個人主義である。この責任ある倫理的個人主義のための文化的資源は、アメリカの伝統の共和主義的系譜と聖書的系譜に見出される。

    近代以降の日本はこの種の倫理的個人主義を創出するための長い努力が重ねられてきている。
    日本の社会とアメリカの社会の違いは大きく、それも近年に始まったことではない。言うまでもなく日本は、近代の歴史のいくつかのポイントでアメリカから学ぶ努力を惜しまなかった。
    しかし真に助けとなる学習のためには、相手の国の歴史と文化に深く身を浸すことが不可欠である。
    著者一同が読者諸氏にお願いしたいのは、安易な結論にとびつくのではなく、本書からアメリカ文化の深みと複雑さの一端なりとつかんでいただくことである。

    ★はじめに
    本書のなかでアメリカ人は、著者らとともに、また間接的にお互いどうしで、私たちのすべてに深い関わりのある問題について語りあう。そこに見てとられるように、多くの人は、はたして私たちアメリカ人は自分たちの中心的な望みや恐れについて、互いに語りあうに足るだけのものを共有しているのだろうかと訝っている。

    私たちの生き方と、私たちの文化が許す私たちの語り方との間には緊張関係があるという、まさにこの点において、私たちはアメリカ社会の直面しているジレンマを見通す最上の洞察を得ることができた。
    つまり自由な諸制度を存続させる鍵の一つは、私的な生活と公共的な生活との関係、すなわち市民が公共の世界に参加するやり方である。
    私たちが知りたかったのは、アメリカ人は自分の人生に意味を見出すのにどのような文化的資源をもっているか、彼らは自分と自分の社会とをどのように考えているか、彼らが考えていることは彼らの行動にどう結びついているかということである。

    ★ 幸福の追求
    アメリカの文化的伝統は、個性や業績や人生の目標を定義するとき、個人を栄光に満ちた、しかし同時に恐ろしくもある孤立の内に置く。これは私たちの文化に内在する限界、私たちが受けついでいる思考の範疇と思考の方法じたいの限界である。
    彼らは、自分たちの豊かなコミットメントについて明確に語ることがなかなかできないのである。彼らの用いる言語(道徳的言説)においては、彼らの生活は実際以上に孤立した恣意的なもののように聞こえてしまう。道徳的に良い人生の目標を正当なものだと根拠づけようとする際には、共通の困難に直面するというところに、アメリカ文化に生きる者の特徴的な問題が現れている。

    私たちアメリカ人は、現代世界における成功の本質、自由の意味、正義の要求についていかに考えるべきか?

    今から一世紀半ほど前、ほとんどのアメリカ人がまだ小さな町に住みながら、小規模な店や会社とか家族所有の農場で働いていた。そこで利潤を上げるためには、地域の共同体の慣習に照らしてそう言われるところの家族の一員、また公共精神ある市民としての評判を得ていなくてはならない。
    職業的成功を求めようとするとき、伝統的な成功の概念に、すなわち、町の慣習的な知恵に合致する成功観に親しみをましていく。

    (だがそのとき、経済的成功の要件と家族生活・市民生活での成功の理解とを調和させることはできていただろうか?)
    町の生活は厳しく制限されたものであり、それが個人の主体性を共通善に結びつけていたと言えるならば、異質な人間を排除し、順応できない人間を窒息させていたとも言える。
    今日では、小さな町に住んで小規模経営に従事しているアメリカ人の割合はわずかなものにすぎない。
    大規模な公共的・私的官僚機構のなかで働いているのが私たちの大多数である。仕事上の成功とは、今日では、企業の利益を上げることによってこうした企業のヒエラルキーを上昇してゆくことを意味している。しかしこの種の成功は、人生におけるもっと根本的な成功とどのように結びつくものなのだろうか?

    私達がどのような人生を送りたいと思っているかは、私たちがどのような国民であるかにかかっている。
    プラトンは、ある国民の道徳的性格とその政治共同体の性質との関係の理論を手短に論じている。
    私たちと話した人々にとってそうであるように、建国の父祖たちにとっても、自由がおそらくもっとも重要な価値であった。それゆえ彼らは、とりわけ自由な共和国の創造に必要な国民性の質を問うことに意を注いだのである。
    おそらく自由は、個人的生活、政治的生活の両方における善を定義したものと言える。
    ところが、自由によって何をするのか、といった定義はアメリカ人にとってずっと困難な問題である。アメリカ人が良い生活の目標について、また他者と協力して行動する方法について共にもつべき共通概念を表明しようとしても、このヴィジョンのなかにはその表明を容易にしてくれるような語彙を見つけ出すことはできない。
    他者と良い生活や良い社会のヴィジョンを共有し、それについて議論し、なんらかの合意に達する能力をも含有するような自由という大きな希望を抱く可能性はあらかじめ排除されてしまっているのである。

    ★ 文化と人物像 -歴史との対話
    フランス人社会哲学者で歴史家のアレクシス・トクヴィルは、「私はアメリカの全運命がこの海岸に上陸した最初のピューリタンのうちに含まれていたことを見てとれるように思う」と言う。

    ・ウィンスロップ(1588-1649)
    「最初のピューリタン」の一人。良い家柄に生まれ良い教育を受け、強い確信をもった熱心なキリスト教徒となった彼は42歳でイギリスを発つ前にマサチューセッツ湾植民地の初代総督に選ばれていた。
    彼らの成功についての根本的判断基準は、物質的な富ではなく、真に倫理的で精神的な生活を送ることができるような「聖書的伝統」に基づく共同体の創造であった。
    彼は彼の言うところの自然的自由(己の欲することを行う自由)に対して否定的で、晩年は破産寸前に陥っている。

    ・ジェファソン(1743-1826)
    大学の卒業後、ヴァージニア植民地の政治に関わり、33歳で独立宣言文の起草した。比較的平等な人々による全員参加の自治社会を理想とする「共和主義」の信望者だった。そのため専制政治、都市や製造業が階級間の不平等をもたらすこと、そして奴隷制を恐れていた。
    ウィンスロップと同じく、晩年は破産寸前となっている。

    ・フランクリン(1706-90)
    独学で身を立て、42歳で独立。残りの人生を稼ぐ必要がないほど貯金額を得てから引退。
    自らの世俗的成功を記した『自伝』と、アメリカに移民しようと考えているヨーロッパ人へ向けた啓発本『貧しいリチャードの暦』という著書を書いた有名な人物である。

    1782年 フランス人入植者クレーヴクールは、アメリカ社会文化と国民性なるものを、フランス知識人に紹介する著書『アメリカ農民の手紙』を出版。そのなかで彼は「伝統的な階層と忠誠に代わって交易と交換が社会生活の色どりを決めるメカニズムとして働く競争市場の諸条件の下で、もっとも自然に生活することができる」「新しい人間」をアメリカで発見したと述べる。
    それはフランクリンのような人物がよく当てはまるように思われ、彼に影響を受けた多くの者たちにとって、アメリカでの社会的成功はすなわち「功利的個人主義」に基づくのだとみなされた。
    そのおかげか、彼の死後も「功利的個人主義」はアメリカ経済を支配し続け、それに対する数多くの反動が引き起こされ続けている。

    1830年 フランス人社会哲学者トクヴィルが訪米。著書『アメリカの民主主義』を1835、1840年の二部構成で出版する。
    彼は、こうした民主的生活はいったい自由な政治制度を維持していくことができるものか、あるいはそれは何か新しい種類の専制政治に転落してしまうのではないかという問題に関心があった。

    そしてアメリカ人の中にあるエゴイズム(自己本位主義)、或いは「個人主義」が人々を互いに孤立させ、無力感を深めていること、それが専制政治(民主的専制・学校教師国家)を許す土壌になると、危惧する。
    「公共的役割を義務づけられた市民は、自らの私的利害から離れ、ときに自己以外のもののことを考えねばならない」。
    トクヴィルは、民主的な市民の二つの関心事-(一方では個人的前進と安全、他方では宗教と地域政治への参加-) の間の葛藤を描き出している。
    彼は、私生活化へ向かう傾向についてはその深淵を発生期の商業資本主義に伴う新しい個人主義の精神に求め、共同体への関心についてはそれを共和主義と聖書の伝統に求めた。


    産業社会の顕著な特徴は、「公共的」な役割と「私的な役割」とがまったく異なったものになりがちで、互いに根本的に不連続になってきた点にある。
    二つの領域の矛盾することの多い圧力に脅かされている孤立した個人は、この圧力をどう処理すればよいのか。
    公共的生活と私的生活とのこうした裂け目は、経済的・職業的な領域に適合的な功利的個人主義と私的生活に適合的な表現的個人主義の間の裂け目に対応している。

    表現的個人主義の純粋に主観的な基礎づけが完全に出来上がったのは、アカデミックな分野としての心理学が出現してからのことである。
    セラピストの仕事は、現に自己を形づくっているシステムと、その人の利用範囲にある仕事やら親密な交わりやら意味やらのシステムとの、二つのシステムの間の不適合を治癒することにある。
    自律的個人とは、自らの演ずべき役割となすべきコミットメントとを選択することができると想定された存在である。
    今日深く功利的文化と手を組んでいる表現的文化は、過多なアイデンティティのうちに次々と自己の定義を変えてゆく。それが道徳的欠陥になり、私たちの間の共通理解を希薄にしてしまうのである。

    ある社会がその社会の諸問題を一定の文化的理解枠組みにもとづいて解釈しつつそれと取り組もうとする際、代表的人物像はその焦点として浮かび上がってくる。代表的人物像というのは象徴の一種である。これを用いることによって、人々は所与の社会環境のなかで自らの人生を組織し、意味づけ、方向づけるやり方を、ひとつの集中的なイメージへとまとめ上げることができる。
    それゆえ代表的人物像は、しばしば神話や民衆的感情の中核部分を成すことになる。それは公共的イメージであり、ある一定の人々の間で、発達させるのが望ましいことだとされているのはまさしくどのような種類の特性なのかを定義するのに役立つ。

    ★ 愛と結婚
    ほとんどのアメリカ人は、永続的な愛に憧れているのだが、聖書の権威のみにもとづいた解消の許されない結婚を進んだ受け入れようと思う者は稀である。

    福音派のキリスト教とは対極的な位置に、セラピー的とも呼ぶべき自己認識と自己実現にもとづく姿勢が存在している。
    セラピー的な態度にとって、出発点は自己にある。自己こそ他者との本来的な関係をもたらす唯一の源泉なのだ。外面的義務というものはすべて、他者を愛する能力あるいは他者と関係を結ぶ能力を阻害するだけのものである。

    セラピストは、相手を無条件に受容することによって、この自己愛を教えることができる。
    愛の関係がもたらす利益を十分に享受したいのであれば、他者からの愛によって充足感を得ようとするのはやめるべきである。
    「私が思いますには、たとえそのあなたという人物がいなくたって自分はやっていけるぞって感じているのでないとしたら、私はあなたが必要だなどと言ったりしてはいけないのです。」
    セラピー的な理想においては、自ら基準を打ち立てることのできる個人、他者からの愛を願う前に自らを愛することのできる個人、他者に従うことなしに自分自身の判断を頼みとすることのできる個人というものが想定されている。

    自己の感情を発見することによって、他者との親しい交わりが可能となる。他者に感情を打ち明ける能力をセラピーの場で培って、それを他の人間関係へと持ち込むのである。たがいによく似た自己、真正なる表現的な自己どうしの間で感情を分かちあうようにすることが、セラピー的な愛の理想のための基盤となる。
    セラピー的な見地からすると、何かしら自己中心的であるということは、愛にとって欠かべからざることなのである。

    真に愛する夫婦がたがいのために行うことは、セラピストがクライアントに対して行っていることと似てきている。
    セラピー的に解放された夫婦の間に要求される唯一の義務は、クライアントがセラピストに対して負う古典的な義務と同じもの、すなわち自分の感情を相手と完全に分かちあうということである。
    「コミュニケーションが成り立たないと感じるようになったら、二人の関係は終わりです。自分が感じていることを相手にほんとうに通じさせることができなくなったとしたら、また、自分のほうでも相手が物事にどんな感じをもっているのか気にしなくなったとしたら、それでおしまいです。」
    夫婦を結びつけるものは、二人の間の感情をめぐる私的な歴史の共有ということもある。二人が共にやってきた経験自体が、ある意味で二人の絆を強めるということだ。
    分かちあう人生、歴史的連続性、記憶の共同体といったものには価値がある。

    真正な自己の自由な選択にもとづく結びつきのみが、唯一リアルな社会的結合といえる。
    古典的な功利的個人主義者にとっては、自己の利益にもとづいて行動する個人どうしの交渉にもとづく契約のみが有効な契約である。
    過ぎた期待は失望を招いたり、搾取に身をさらしたりするだけという厳しい世界にあっては、愛はたんなる交換となる。そうしておけば、もし関係解消ということになっても、両者は少なくとも自分が投資した分だけはすでに受け取っていることになるわけだ。

    ★ 手を差し伸べる
    セラピー(的な語法のレトリック)は次第にあらゆる人間関係の範型になろうとしているが、このことについて見ていく前に、私たちはそれのもつ特殊な性格を理解しておく必要がある。
    私たちが注目したいのは、臨床的な技法としてのセラピーではなくて、文化現象としてのそれである。つまり、心理的なトラブルをどう癒やすかの方法としてではなく、ひとつの思想の様式として、ものごとの考え方としてのセラピーである。

    伝統的には友情概念は、友人は互いに相手の交わりに喜びを得るべきであり、たがいに相手にとって有用であるべきであり、ともに善へのコミットメントをもつべきであるという基本要素から成るとされていた。
    これに対して現代の友情概念は、セラピー的世界観から非常に強い影響を受けている。ともにいると楽しいのが友人であり、何よりも自由で自発的なものであるべき友情の関係において、有用性の話をするのは何かしら場違いなことのようにも感じている。
    表現的個人主義や功利的個人主義が支配的な文化では、楽しさや有用性といった要素を理解することは易しいが、道徳的なコミットメントの共有が友情関係を考えるさいに重要だとは考えにくい。
    トクヴィルは「民主主義は人と人との間にある強力な愛着を生むことはない。しかしたしかにそれは人々の通常の結びつきをもっと気楽なものにする」と書いている。


    医学的な病因が何であるにせよ、1880-1920にかけて活躍した傑出したアメリカ人の伝記を見れば、「神経衰弱」の流行のすさまじさはすぐわかる。
    アメリカ人がはじめてこぞって精神の健康を気遣うようになった社会的背景に、対人関係の性格の大きな変化があったことは見やすい。
    「アメリカ人の神経過敏」が注目を集めた時期はまた、全国市場の出現によって小さな町や地方都市が実質的にその独立性を奪われ、教育や移動性や競争能力を前提とした全国規模の職業世界に投げ込まれるようになった時期でもあった。
    交友を通じて公益につくすことは、個人がもっぱら私的利益や自分の勤める組織の利益を追求するこうした世界にあっては、時とともにますます不可能になってきたのである。
    取り結ぶことも維持することも非常な努力を要する、濃密だが限定的な対人関係の世界が出現したこと、そして、かつての伝統的な人間関係、すなわち、はじめから当たり前のものとして受け取ることのできる協力的な人間関係の世界が衰退したことは、個人にたいへんな緊張を強いることになった。

    19世紀に出現したミドルクラス(中産階級) の目から見れば、なんらかの形で均衡状態を保っている上層階級と下層階級は、正当ならざるもの、あるいはせいぜい一時的にしか存続しえないものである。
    コーリング(天職)の文脈のもとでは、ある職業につくということは、地域共同体においてある特定の機能を引き受け、その共同体の市民生活の秩序のもとで働くということを意味していた。ところがキャリア(経歴)としての職業は、もはや顔見知りの地域社会ではなくて能力の非人格的な基準の方を向いたものであり、全国的な職業体系のもとで機能するものである。
    いまやある職業に就くことは、共同体のなかに根づくというよりも文字通り「上昇して遠くへゆく」ことである。
    みなが共通に理解している生活形式を全うしていくことがもはや目標なのではなく、「成功」の達成が目標となる。そして、どのようなものであれ、ひとたび「成功」を手にしたならばさらに上を目指したくなるものだが、成功の持つこの限度のない性格、終わりのない性格こそが、成功が人を魅する力の源泉なのである。

    しばしば私たちは、他者との間に短い、特定の用件に限った、ときに密度の濃い関係をもたなければならない。 事実の把握は正確で、うまく他者と情緒を合わせること、間主観的な作用に鋭敏であるような人間になって、自分の行動と他者の行動との間に効果的な調整を図らなくてはならない。多様で、変化の急速な、しばしば苛酷な他者とのやり取りをこなさなくてはならない私たちにとって、セラピーの人間関係はいわばそのための訓練の場となっている。

    真正な自己の追求と職業上の成功の両立が不可能と思われる場合、仕事は必要なものではあるが、本人にとって満足いくものではない。しかし、やはり人生とは、そうした仕事によって得られる「金権力魅力などの見返り」と結婚余暇家庭生活などのほんとうの喜びとの「取引」よって成り立つものである。
    人それぞれはさまざまな欲求とさまざまな満足の束であり、それらさまざまな欲求や満足は、損得計算によって調整される、これがセラピー的な自己の像である。
    私たちは誰でも損益の「取り引きトレード・オフ」を考えなければならず、ある必要を犠牲にしながら別の必要を満たすということをやって行かなければならないのである。
    セラピー的な契約主義の建前どおりであれば、人々は相互の間でのかくも鋭い洞察や共感や計算、その上にかくも厳密な自己会計報告をこなさなければならないのだが、しかし、実際にはそこまで厳しくなることはない。(というのはふつう人々は、満たすべき生物学的欲求があり、避けるべきもの、果たすべきこと、などがおのずと認められるからである。)

    セラピストたちは政治に対して挫折感や失望や幻想を表明している。彼らの多くは政治に強い疑念を抱いており、政治は道徳的に不可能であると感じているという。
    「何が正しいとするか、十分な見返りがあって正しいと考えるかは、人によって、社会集団によって異なります。これが本質的な問題です。」政治は意見の異なる人々をどうにか纏め上げようとして、いつも行き詰まることになる。彼らの見方によれば、政治はどうしようもなく本来的ならざるものだが、しかし避けるわけにはいかないものなのである。「私の思いますには、政治は、一つの正解があると確信している人々によって起こされる必要があるのです。それ以外に政治を動かすものがあるとは考えられません。」現実に政治が機能するためには、全体主義や私利のために闘いを好む人間、つまり、「狂信家」が必要なのである。彼女らにとっては、一方には無数の個人の、真正だが影響力のない声があり、もう一方には正解は一つという、非本来的だが必要であるような主張があるということなのだ。

    ★ 個人主義の起源
    17世紀イギリスで、個人の諸権利についてのラディカルな哲学的防衛論が現れた。ジョン・ロックはこの思想の主導的人物であるが、彼はアメリカで絶大な影響力をもつことになる。ほとんど存在論的といってもよい個人主義だったロックの立場こそ、アメリカの功利的個人主義の源泉であった。また、自己に有益なものを見つけ出すには自己の欲望や感情に耳を傾けなければならないということから、表現的個人主義の伝統の源泉も結局この立場にゆきつくのである。

    自らを統治する権利を主張できるまでになっている市民にとって、君主や貴族の権威は専横で抑圧的であるように思われた。ときに古典的政治的哲学(共和主義 )や聖書宗教は、この闘争における文化的資源になっていた。
    聖書的・共和主義的思想には、夫と妻、指導者と信望者といった権利と義務の不平等を是認し神聖化しさえする側面がある。個人の諸権利と自律性を追求するということは、聖書的・共和主義思想のこうした側面と対決することを意味した。
    ここで言えることは、アメリカの個人主義は、それをもっとも明確に弁護している者たちの間に、深い両面的アンビヴァレンスな感情をもたらしているということである。両面感情がとりわけ明らかに読み取れるのは、私たちの文学や民衆文化の神話的次元である。
    社会は個人を圧倒しかねないものであり、もし個人がそれに立ち向かわなければ、自律性を確保する機会は破壊されてしまうかもしれないという恐れである。しかし同時に、個人の自己実現が可能なのは社会とつながりをもっている限りにおいてであり、徹底的(ラディカル)な社会との絶縁は人生の意味を奪い去ってしまうだろうとの認識も見られるのである。
    召使いは自由になり、借地人は少土地所有者となり、自尊心ある中等身分が生活の標準になった。しかしまだ家族や教会への結びつきとか共同体の「生え抜きの指導者たち」への尊敬がなお強力であるような、「平穏な王国」だった植民地の町々がなお健在だった。
    それでも、伝統や権威に依存することはもはや許されないとしたら、個人は、自らの判断の正しさを確認するためにどうしても他者へと目を向けざるをえなくなる。
    彼らは自分の政治的信念をもつについても愛のなかに個人的幸福を追求する時にも、近所や家族からの非難に神経を尖らせないではいられないでいた。「家族を恐れちゃいけない。いや、ジニスじゅうのみんなをだ。いや、自分自身だって恐れちゃいけないんだ−私みたいに」。
    自立は大事だが、人間はたがいに相手を必要としている。−そう感じながら、しかし私たちはそれをはっきりと口に出すことには躊躇してしまう。それを言ったら個人の独立性がなくなってしまうのではないかと恐れているのだ。

    多くの点において、エイブラハム・リンカーンは孤独で個人主義的な英雄という原型とぴったり合致している。彼は自力でのし上がった人間であり、東部の上流階級の暮らしは彼にとってけっして居心地のよいものではなかった。連邦の存続と「万人は平等に創られている」と言う信念とをともに護ろうとする彼の道徳的コミットメントは、南部の支持者ばかりでなく、奴隷制廃止論者までも敵に迎えることになった。ほとんどすべての人からの不信にさらされたにもかかわらず、身をもって和解の道を示した彼を待っていたのは暗殺者の凶弾だった。


    「構造」の必要のより極端な例は、サンフランシスコ半島におけるきわめて保守的な宗教集団、〈生きる言葉の集い〉のある会員の言葉に見られる。この人は、学校時代を通じてつねに、「何が正しくて何が間違っているかのか、なぜ私は生きているのか、何のために私は生きているのかを決めるように」期待されてきたと訴える。「…それは人間に対してなされる最悪の事柄ですね―何でもかんでも自分で決めろと強いるのは。なぜって、それはできないことだからです。悪魔のわなです。」これと反対にキリスト教徒は「何が正しくて何が間違っているのかを決める必要はありません。自分は正しいことを"する"のか、間違っていることを"する"のかを決めるだけでよいのです」

    市民的共和主義の伝統においては、公共的生活は、性格(キャラクター)を形成していくコミットメントを可能にする第二の言語と実践の上に構築される。この第二の言語と実践は人々の間に信頼をもたらし、家族や友人関係や共同体や教会へと参加させ、一人ひとりに自分が大きな社会に依拠して生きていることを悟らせ、これらのことを通して人と人との結びつきの網の目を作り上げる。それらによって道徳的エコロジーの母体となるような心の習慣(モーレス)が形成される。それは統治体の個々の細胞の間の結合組織ともいうべきものである。

    ★国民社会
    啓蒙主義のモンテスキューの学徒であるマディソン、ジェファソンらは、歴史上、貴族制の共和国の方が民主制よりも数も多く、また長続きもしているという当惑する事実に対する説明も、新しい民主制の共和国が解決しなければならない問題がなんであるかもそこから学んでいた。
    モンテスキューは共和国を定義して、自己にとっての善を公共の善と一体のものとみなす姿勢(市民的徳)を原動力とする自己調整的な政治的社会であるとした。このような性格を形成するためには、個人的関心と公共の福祉との一致が体験できるような実践の場な必要である。こういった自己認識は貴族階級という専門的集団の方が得やすい。モンテスキューは、これによって貴族制の共和国の方が相対的に高い安定性と持続性を有していることが説明されると考えた。
    しかしながら、新しい共和国の制度を構想したマディソンらは、自らの確信と政治的必要性をからめて民主主義的な精神をもった体制を採用することになった。
    彼らは民主制下の市民たちの間に功徳を育て上げる必要があった。この目的を達成するため、1787年憲法は、資本主義が拡がりつつある社会の現実とそれに伴う哲学的自由主義の文化とに、意識的に適応させた連邦政府の機構を組織した。
    このシステムには、公共善を自分や自分の出身地の特殊利益に優先させるような立派な人物を公務員や議員に選ぶだけの徳を、人々はもっているだろうとの前提がある。
    独立革命の指導者たちは、彼ら自身がその実例であるような教育と教養のある階層こそが政治的指導を行なうのにふさわしいということを、民衆は認め続けるだろうとあてにしていた。結局、市民精神をもった国民的エリートたちが民衆の感情に密着しながら安定した指導力を発揮するという夢は夢のまま終わってしまった。
    19世紀を支配した新しい風潮のもとで、アメリカ人は一人ひとりの出世と地域の経済的成長の方を向くようになり、遠くの弱体な連邦政府のことは新たに登場してきた利益の調整者のような職業的政治家に任せるようになった。
    比較的小規模の地域共同体どうしでは、経済的・社会的利害の衝突がしきりに起こりつづけ、これらは1861-5かけての南北戦争の衝撃によって崩れ去る。
    南北戦争に続く急速な西部への拡張と産業の成長の時代と、第一次世界大戦における世界の舞台への合衆国の参入の時代との間に、アメリカ社会は現代にいたるまでの全史を通じてもっとも急激で根本的な変貌を経験した。
    こうして世紀の変わり目ごろ、新たに出現した社会、すなわち経済で統合された社会は、固有の社内組織と政治支配と文化を作り出していく。その新しい社会形態は官僚制的法人形態、営利法人である。
    古い地方政府と地域の諸組織は、次第に全国規模化してゆく諸問題を処理する能力に欠き、町の社会生活・経済生活の伝統的形態はその支配的地位を失い、政治闘争と複雑な文化的変動をもたらした。
    20世紀アメリカ社会の際立った特徴は、生活が、数多くの分離した機能的部門へと分割されたことである。
    大きな経済を構成する諸部門どうしの経済的な結合を損ねることなしに、互いに異なる者たちを分離することで、潜在的な闘争を、抑え込んでしまうことがしばしば可能となる。
    地理的には広く分布しているが機能的には均衡な各部門での個人的な競争へと焦点が絞られてゆくにつれ、成功の定義は職業という観点から行われるようになってきた。
    これに伴い、「仲間 ピアー」という概念が、様々な活動のなかから -まずは職業や経済的地位だが、やがては同じ態度や趣味やライフスタイルをも含むようになる- 同じ特定の組み合わせを選んでいる者たちのことを意味するようになった。

    ★(p253)
    政府の目的は、独立独行の個人が主として経済的な目的を自由のうちに追求できるようにするために必要な平和と安全とを保護することにある。
    国家を導く仕事は、部分的に政党が引き受けていくようになった。
    アメリカ文化の基底をなす個人主義と共同善との緊張は、産業社会においてますます大きなものとなっていく。この緊張に対する最善の理解はいかにして得られるか、6つの公共善ヴィジョンは、それぞれに異なる提言を行ったのである。

    ウォルター・リップマンなど産業界・金融界のエリートたち構想者たちによって今世紀初頭に与えられた倫理的定式化によれば、『エスタブリッシュメントのヴィジョン』は、コストポリタン的で柔軟なものであり、大きな国家的目標のうちにさまざまな利害を調和させるべく努めるものである。彼らは彼らの新しい企業と並んで、総合大学、病院、博物館、クラブ、そして各種団体などのような私的な諸機関に基金を提供し、それらのネットワークを創り上げた。新しい機関はみな企業それ自体と同じく自発的団体の原則にもとづいて作られた。これらの勢力の強さは、アメリカ国家の相対的弱さと相関するものであった。
    『ポピュリズム』がもとづく理想は、顔見知りの共同体の政治であった。ここではジェファソンが創設の英雄とされ、ハミルトンが代表的敵役とされた。ポピュリズムはアメリカ宗教の無律法主義・神秘主義的側面とセクト的宗教の熱烈な共同体コミットメントとの両方と類似性をもっている。
    ポピュリズムのヴィジョンは仕事と福祉と権威はたがいに緊密な相関関係をもち、共同体生活に根ざしたものであるとの理解をエスタブリッシュメントの理想と共有している。どちらも政治や労働を、公共の信頼の問題であると、そして究極的には人と人との(パーソナルな)関係に帰着する問題であると見ていた。
    労働界のリーダー、ユージーン・デブスの言語の根底には、市民たちが社会生活において活動的な役割を演ずるのに必要な経済的地位を共有し、かつまた自らの義務と権利に関する理解をも共有しているような公正な社会という概念がある。19世紀の独立市民は、自らの尊厳のための基礎を、自分の財産にもとづいて自分で労働することのうちにもっていた。しかし、産業の発達によって、この基礎はいまや掘り崩れている。

    職業的行政官の手による国家計画の立案を提唱したプログレッシブ(革新主義)者たちのねらいは、脆弱な中央政府のもとで急速な工業化と都市化がもたらした混乱(階級間の争い、移民をめぐる緊張などの利害の衝突)に、秩序をもたらすことだった。

    『新資本主義のヴィジョン』は、ロナルド・レーガンのレトリックの基礎をなしているものである。レーガンは私たち、全アメリカ市民を一個の政体ではなくて、健全で活気あふれる成長経済に主たる関心を寄せるところの包括的な一個の利益集団であると見ている。
    政府は、自己充足の追求に失敗したほんとうに困窮した個人を保護しなければならないが、できれば彼らを独立独行へと引き戻すための必要最低限の援助にまで切り詰めるべきであるとしている。
    『福祉型リベラリズムのヴィジョン』の眼目は、経済的成長と社会的調和という利益のために、市場の働きを調整すべく、政府が行政的に介入するところにある。積極的介入型の政府の目的は、経済成長を促し、そこから個々人が利益を得るための公平な機会を保証することにある。エドワード・ケネディは完全雇用を実現し、労働者の安全を高め、アメリカの産業復興を行い、環境を保護するような政府の必要を訴えた。
    福祉型リベラリズムも新資本主義も、政府の目的を、 個々人に各々の私的目的を追求する手段を与えることにあると仮説するところで一致している。この目的を達成するためには、経済が専門家に指導された官僚機関によって管理され、歴史的に不利な境遇に置かれてきた人々に対して政府が援助を行い、彼らがより恵まれた諸個人と対等なベースに立って競うことができるようにすればよい、と信じている。

    国家計画の理想が大きく推進されたのはニューディール時代である。これを推進したのは、集団重視的な考え方の強い、専門的訓練を積んだ者たちの集団である。彼らは、無秩序な企業経済がもたらした惨状を克服するため大規模な行政管理国家を創ろうとした。

    5つ目の『行政管理型社会のヴィジョン』の提唱者、著名な投資銀行家フェリックス・ロハティンは、古いヴィジョンは失敗に終わったとして、行政管理によっていっそう厳密に統合された国民社会を実現すべきだと能弁に語っている。個人の安全を高めて経済成長を広く分かちあうという目標のもとに、さまざまに異なる不平等な諸集団が協力し合う状態を目指すのである。
    最後に『経済民主主義のヴィジョン』では、失敗に終わった過去の政策に代えて、経済政策の意識的な中央集権化が、いっそう多くの市民を経済的決定に参加させるための必須条件であると論じている。マイケル・ハリントンは、私的であれ公共的であれ、官僚制というものは自由に対する脅威であると見ている。
    結局のところ、行政管理型社会は管理的専制をもたらす余地を残したままで、経済民主主義も専門家の主導の下に管理的専制に陥りかねない要素を含んだままに終えることになった。経済が私たちの共同生活の主たるモデルである限り、私たちは経営管理者と専門家の手に、自らを委ねようという誘惑に強く晒されることになるからである。もし社会が砕けて個人の数だけの特殊利益の山となってしまうなら、トクヴィルが予言したように、私たちが共倒れにならないよう世話を焼いてくれる学校教師国家だけが残ることになる。
    私たちは政府の威信を損ねるのではなくて、逆に高める必要がある。しかしそれは実質的コミットメントにもとづいたものでなくてはならない。
    「人間を堕落させるのは、権力の行使もしくは服従の習慣ではなく、彼らが非正当的と考える権力の行使、そして彼らが奪われ、抑圧されていると考える権力への服従なのである」

    ★アメリカ文化の変容のために
    私たちを迷信と専制から自由にしてくれたはずの啓蒙と解放の運動が20世紀にもたらしたものは、イデオロギー的狂信と政治的抑圧が未曾有の極度にまで達した世界であった。自然の宝庫の鍵を開いてくれたはずの科学が私たちに手渡したものは、地上の全世界を破壊する力であった。

    労働に対する外からの報酬と罰とが低減されるならば、それ自体が与える満足という観点から職業を選択することが可能になるかもしれない。
    今日私たちの抱える諸問題は、たんに政治的なものではない。それらは道徳的なものであり、人生の意味に関わるものである。私たちは、経済成長の続く限りは、それ以外のすべては私的領域に委ねてしまえると考えてきた。その経済成長もつまずき、私たちは、共同生活には物質的蓄積への排他的関心を超えたものも必要だということを理解し始めている。
    おそらくそれ自体として報いのある労働の方が、ただ外的な報酬があるだけの労働よりも人間にとってふさわしいものだろう。
    私たちはこの地球上での私たちの生命の物語を、打ち続く成功の連なりとしてではなく、喜びと苦難の歴史として見る必要がある。

    テレビというメディアでは観念よりもイメージと感情のほうがよく伝達されるようで、何事も複雑なことを表現できるほど長く話す者はいない。深い感情も一言で、あるいは一瞥のうちに表現しなけれはならない。
    テレビはとりわけ野心むきだしか、あるいは敗者に終わることへの恐れで汲々としている人間を見せる。それは私たちの誰もが自己を投入できるドラマである。
    コマーシャルはコマーシャルで、自由や快楽や業績や地位を求める人間の渇望は消費の領域において満たされうるという思想を振りまいている。
    人間関係はカメラの動きと同じくらい不安定で移り易いものである。たいていの人間は、蓋を開ければ信頼がおけないか二心あるかである。彼らはなんらかの一定の明確な信念の方策を提供することはないが、そのかわりすべてに疑いを投げつける。

    (引用Google検索 環境問題を解決のためには人間同士の支配関係を取り除く必要があるとする社会思想が社会的エコロジーです。アナーキズム的な思想を背景に持ち、自然に対する支配は、人間による人間への支配の延長であると捉えます。この考え方を提唱したマレイ・ブクチンは、資本主義体制下での環境問題の解決は不可能であり、エコロジー的な社会システムの変革が必要であると主張しました。)

    ★公共哲学としての社会科学 (あとがき)
    私たちが行ったインタビューは、能動的なソクラテス的なものであった。前提となっているものを明るみに出し、話し相手が、暗黙のままにしておきたかったかもしれないものを浮かび上がらせようと試みた。私たちの先入観や問いを会話にもちこみ、その答えを聞き出しながら、それを言語に現れた面のみならず、できる限り話し相手の人生(実生活)のなかで理解するように心掛けた。
    なぜ能動的なインタビューが公共哲学としての社会科学の主たる方法なのか、なぜ質問紙調査は有用なデータをもたらしてくれるにもかかわらず、しばしば二義的なものに留まるのか明らかだろう。世論調査の固定した質問からはいかなる会話も始まることはない。自由回答の場合も同じである。なぜなら結局、インタビューする者とされる者の間に対話がないからである。世論調査のデータは、回答者の私的な意見を総計する。それに対して能動的なインタビューは、公共的な会話と議論の可能性を創り出す。
    分析者は自らの問題を立て、得た結果を解釈するさいし、自らの経験や自らの属する研究共同体に依拠しているのであり、そして研究共同体自体は特定の伝統や制度のなかに置かれている。たとえばアメリカ個人主義を研究した私たちの調査グループの場合、調査者はインタビューした人たちと同じくらい自らのある部分について研究していた。さらに私たちは、この研究に個人主義の個人的・社会的意味についての一連の仮説、評価的であると同時に分析的でもあるような一連の仮説を持ちこんだが、それはトクヴィルなど社会科学の先人たちが育んだものである。
    研究を通じて私たちが学んだことは、こうした研究が社会の自己理解のみならず、私たち自身の自己理解に貢献するということである。もし自らと自らの研究対象との間にある道徳的関係を否定してしまうとすれば、その両者に対して不誠実にならざるをえない。

    本書には方法論的な革新はない。私たちは、もっとも古くてもっとも根本的な社会科学の方法、すなわち参与観察とインタビューを用いただけである。
    私たちはまた、インタビューした人々などのような暮らしをしているか、その生活のコンテクストも知ろうと思った。
    本書はまた、私たち著者どうしが交わした5年以上にわたる対話の成果である。4人はそれぞれ独立に実地調査を行ったが、最初から私たちは共同で仕事を進めることにしていた。私たちはこの共同経験を通じて、本書の中心的議論のひとつ、個人と社会はゼロ・サム状態にはないということを確信することができた。個人の相違に意を払う強力な集団は、集団としての連帯性のみならず個々人の自律性をも強化するであろうということ、人々は孤立したときにもっとも均質化しやすいということを、私たちは確信した。


  • とにかく読み返す必要あり。心打たれるいい本だった。特に結論に要約されていた。
    本当は個人主義と共和主義の二つの伝統に引き裂かれているのに、個人主義の言語に制約され、本当は持っているはずの集団へのコミットメントを合理的な言語にもたらすことができないわれわれ。分離と個体化の果てに全体を失ってしまったわれわれは、個を守るためにこそ調和を意識しなければいけない、等々。

  • 【内容紹介】
    A5判 タテ210mm×ヨコ148mm/440頁
    定価 6,048円(本体5,600円)
    ISBN 4-622-03787-4 C1036
    1991年5月8日発行

     〈個人主義〉はアメリカン・ライフスタイルの支柱である。“独立独行”や“セルフ・ヘルプ”が彼らの美徳であり、カウボーイやハードボイルドの探偵など、社会の悪と孤独に闘う〈自由〉のヒーローもそこから生まれた。
     しかしいま、個人主義はミーイズムとほぼ同義語になり、この負の側面だけが“癌的な増殖”を続けているように見える。大半の問題は個人の好みと選択の問題に還元され、人々は孤立化し、不安や孤独からセラピーに助けを求める。〈個人〉と〈社会〉の関係を考えるための言葉は失われつつある……
     本書はビジネスマンやセラピストなど、アメリカ中産階級の人々200人余りにインタビューをし、家族、仕事、宗教、地域活動などの具体的な物語を抽出する。そしてそこに現われた人生観や願望を読み解き、彼らがアメリカの文化的伝統――共和主義と聖書と個人主義の系譜――をどう継承しているか、どう失ったかを探る自己理解の書である。
     〈心の習慣〉とは、フランスの社会哲学者ド・トクヴィルが名著『アメリカの民主主義』で用いた表現である。本書は、この言葉を鍵に現代アメリカ文化を分析し、その深さと複雑さを理解させてくれるとともに、明日の日本にとって重要な問題を示唆するだろう。
    http://www.msz.co.jp/book/detail/03787.html

  • とても参考になる書評を、メモとして。
    http://www.socius.jp/wise/03.html

  • たいなかさんが「学生のときに読んでおけばよかった本」に早々推薦されていた本。よむしかない。


    どんな内容の本かというと、1980年ごろに書かれたもので、
    「アメリカ人のある個性が”個人主義”と名づけられてから結構たつけど、このままいくとけっこうアメリカ社会やばくない?」
    という問題意識を背景に、たくさんのアメリカ人にインタビューをしながら、アメリカ社会全体が抱えている問題点を文化面から考えていくという本です。(と思ってるんですがどうだろう。)


    アメリカの個人主義というのはすなわち、

    ・自分は自分の欲求にしたがって生きているので、儀礼などには支配されていない
    ・個人というのは、社会から切り離された絶対的な地位をもっている(まず個人があって、その次に社会がある)
    ・自分がどのように生きるかは自分自身の”価値観”や”優先順位”による
    ・個人は他人の価値体系に干渉しなければ何をしていてもよい

    …などなど。

    これを読んだとき、
    「それって当たり前じゃないの?
     自分の価値観に従うことでしか人は行動できないのではないの?
     何にも縛られないことが、自由っていうんじゃないの?」
    と思ったのって私だけかなー。そんなの人類が生まれてから当たり前なことなんじゃないの?ちがうの?ってなもんです。

    まあそんな驚きを胸に、読みすすめること、3ヶ月。長かった。


    以下、私の現在理解している範囲のまとめ。


    で、それら個人主義がいったいどんな問題を起こして
    アメリカ社会をやばい方向にもっていってしまう可能性があるか、と。

    トクヴィルが言っていることを引用すると
    「民主的個人主義が成長するにつれて、他者を支配できるほど裕福でもなく権力もないが、自らの必要を満たすだけの冨と知識を獲得、あるいは保持している人々が増えていく。」のですが、

    そんな、自分だけがんばればいいじゃん、という気持ちを持った人ばかりの社会では、政治がなりたたないのです。
    そうした文化だけが伝播して、子孫に受け継がれていった結果、アメリカがもともと持っていた共和主義・聖書的系譜のなかにあった共同体に関するボキャブラリーがかけ落ちちゃってることに、いまや気付いている人はとても少ない。

    だから、人生の生きる意味や価値について説明するときに「自分がそれを好きだから」以上の言葉で他人に説明できない。他人と自分が共有できる価値観がまったく見つけられない。自分の好みが変わったら何が良いかもすぐに変わるという、すごく不安定な生き方になる。これって幸福なのかしらと。


    アメリカってもともと、ヨーロッパの専制政治・貴族政治がいやで、もちろんそれ以外の理由もたくさんあるんだけど、まあそういったところから飛び出して、共和制の新しい国をつくろうっていうスタートを切ったはずなのに、いまや「自らの祖先を忘れ、子孫を忘れ、同時代の人々からも孤立する」人たちがたくさんいて「彼らは自分の心の孤独の中に閉じ込められてしまう」。

    そんな「こうした人々は誰かのおかげということがなく、また誰かのおかげをこうむろうとはまず考えない。彼らは自分だけを孤立させて考える習慣を形成する。そして自分の運命の全体は自らの手の中にあると想像する。」ような人たちばっかりの社会になってしまうと、気付かないうちに昔のような恐ろしい専制社会が訪れてしまうよ、という警告を発しているのです。


    とりあえず今日のレビューはここまで。
    続きはまた明日(書くかもしれない)。

  • アメリカを知る必読文献の一つだと思われる。アメリカ人の根底に流れてきた共和主義的伝統と聖書的伝統が、いかに個人主義によって変容してきたかを、インタビュー方式によってリアルに描いている。附論の「公共哲学としての社会科学」は、公共哲学の理念を端的に描いたものとして秀逸。

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著者プロフィール

(しまぞの・すすむ)宗教学者。東京大学名誉教授。大正大学客員教授。龍谷大学客員教授。上智大学グリーフケア研究所元所長。

「2024年 『経済安保が社会を壊す』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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