- Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622039709
作品紹介・あらすじ
〈わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ〉
「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。その後著者は、1977年に新たに手を加えた改訂版を出版した。
世代を超えて読みつがれたいとの願いから生まれたこの新版は、原著1977年版にもとづき、新しく翻訳したものである。
私とは、私たちの住む社会とは、歴史とは、そして人間とは何か。20世紀を代表する作品を、ここに新たにお送りする。
感想・レビュー・書評
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この本は、一昨年の夏に読んで、レビューを書いたのですが、レビューの文章が気に入らなくて、削除しました。このたび、この本を本棚に入れようと思ったのは、今日、仕事場で、だいぶ年下の人と、こんな会話をしたから。
「一冊だけ、これは読んでおけ、って本、ありますか?」、と聞かれて、
。。。え、思い浮かばない (・・;)
「私が教えてほしい〜。」、すると、
「ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』、
ぐらいですかね。」
。。。ああっ、そうきたか。わかる気がする。
帰ってきて、「夜と霧」を読み返そうとしたら、本が付箋だらけになっていた。
。。。今日から、この本、読み返します。
でも、レビュー書けないのです。
ごめんなさい!
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ずっと読まないといけない本だとは思っていました。でもなかなか覚悟がつかなくて。
”アウシュビッツ”という言葉、それが物語る残忍な過去、そして「アンネの日記」、「ライフ・イズ・ビューティフル」や「シンドラーのリスト」などの作品で、この悲惨な歴史上の事実を少しは知っているつもりでしたが、目を背けていたところも多分にあったと思うと、遅ればせながらも、今読まないと、と思って購入しました。
やっとやっと読めました。
序章で「いい人は帰ってこなかった」とありました。ここまでのたった数ページ読んだだけで、恥ずかしながらSS(ナチス親衛隊員)やカポーもきちんと理解できていなかったことに気づきました。
話は逸れてしまいますが、須賀敦子全集のどこにだったか、ユダヤ人の知人について書かれたところがありました。その彼が強制収容所から生還してきたユダヤ人だと知り、須賀敦子は実際のところどうだったかは確か不明なままだったと記憶していますが、彼に対して暗い想像をしてしまう。そういうことだったのではないかと。この部分が、どういうことなのかわからずにその本を読み終えた私は、この数ページで理解できたような気がしました。
フランクルが言う「おびただしい小さな苦しみ」の残酷さに初っ端からくじけそうになり、ナチスはもとより、SSやカポーのことを考えると、人間はどこまで堕ちていけるのだろうと暗澹たる気持ちになり、このまま読み進められるだろうかと不安になりました。
しかし、読み進めるうちにどんどん惹き込まれていくというどなたかのレビューを信じて、読み進めました。
やはり有名なところは「精神の自由」のところでしょうか。色々なところに引用されているからか、なんとなく知っているというような言葉もあり、ここか、そういうことか、と、ここまでたどり着いたというちょっとした感動がありました。この極限を経験した人が語る言葉は、重く、深く、しかし、本当にこんな精神の高みに至れるのか、という疑問の思いもまたあったことも確かです。しかし、人間として脆弱でない者が、この凄惨な状況を生き延びることができたということからも、こういうところでこそ、人間性が試されるというのはひとつの真実だろうとも思いました。
「人間」とは、「生きる」意味とは。
やはり人間は未知の未来に希望をもってこそ生きられるものなのか。
フランクルが紡ぐ、精神的な強さに、様々な考えが頭をよぎりつつ、心はどこか深いところに落ち着いていくような感じがしました。
解放された後、この世界にまだ戻り切れていない状況が、よりそれまでの生活の凄惨さを表していると思いました。愛する者に再会する日を夢見て、その未来だけを精神的なよりどころにしてなんとか命をつないできた人たちが、その愛する人がすでにこの世にいないとわかった瞬間の、絶望なんて言葉では到底表すことのできない心境を考えると、怒り、悲しみなどなんとも表現しがたい思いが体中をめぐりました。フランクルもまた、こうした人たちのひとりだったのですね。
読み終えてみて、人間の凄さを感じました。人間として堕ちるところまで堕ちる人もいるし、実際そっちの方が楽だろうに、真逆に精神レベルを高見まで持ってくることができ、「人間」として生きる人もいる。あぁ、そうだ、人間って捨てたもんじゃない。そう思えました。
私の読書力、人間力では、一読ではまだ自分の言葉には置き換えられない、自分の考えに変換できない、重みのある本でした。わかるようでわからない。捉えられたようで、捉えきれていない。また折に触れて読んでいこうと思います。
読んでよかった、と心から思います。 -
長いこと自宅の本棚にあった
読むのに覚悟がいるというより、ユダヤ人の知識があまりにもない状態で読むのは失礼ではないかと思い、機を待っていた
「ユダヤ人の歴史」も読んだので、そろそろ読む資格があるのでは…
しかしながらそんなものは必要なかった
なぜならこれは人間が人類が知る必要のある「生きる」とはどういうことか、問いかけてくる内容であった
もっと早く読むべきだったと後悔している
「夜と霧」は
ウィーンのユダヤ人精神分析学者が極めて冷静な視点からみずからのナチス強制収容所体験をつづった書である
本書にもあるが、著者はここでの経験を心理学の立場から解明してみると述べ、被収容者の心の変化を「施設に収容される段階」、「収容所生活そのものの段階」、「収容所からの出所ないし解放の段階」の三段階に分けて記している
時間の経過とともに被収容者の心理的変化、身体的衰えなどを交え、収容所で実際何が起きていたのか、どう彼らは生活していたのかを非常に生々しい体験を元に刻々と記している
これらについて目を背けたくなる内容が多いことは重々承知の上であるし、本書以外でも知ることは過去にも何度でもあったが、やはり同じ人間として起きた真実を直視する必要性を改めて実感した
栄養失調、睡眠不足、凍傷、シラミだらけの不衛生な収容所で流行る発疹チフス
肉体的かつ精神的暴力による統制
過酷な労働と環境による衰弱し切った身体
感情は死に心は麻痺し、無感覚になっていくこの極限の精神状態の中、生命維持だけが最期の砦だ
しかしその状況下において著者は様々な気付きを得る
〜愛する妻を想うとき、人は内に秘めた愛する人のまなざしや面影を精神的に呼び出すことにより満たされることができる〜
彼女が生きているかどうかは関係なく、精神的な存在に深く関わっている
〜労働で死ぬほど疲れていても
太陽が沈む夕日の美しさを見るために皆が集まり、その美しい自然の情景を心に焼き付ける〜
〜生そのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ
苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう
苦悩と、そして死があってこそ、人間と言う存在は初めて完全なものになるのだ〜
〜生きる意味についての問いを180度方向転換することだ
私たちが生きることから何かを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだということを学ぶ
〜
〜人間とはガス室を発明した存在でもあり、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもある〜
と語られる
それを選ぶのは自分自身なのだ
宗教書のようでも哲学書のようでもあった
最初にもっと早く読むべきだった…としたが、実際若い頃だったら理解できなかったかもしれない
そんな精神論は理想論じゃないか…と
やはり然るべき時に読むタイミングが来るのかもしれない
心が弱っているときは大いなる勇気をもらえるだろう
平常心の時は自分を戒める書になるだろう
生きる意味に著者が気づく描写は、心が震え感動した
生きる意味を履き違えていないか…
非常に深く考えさせられる一冊であった
生きていくこの先、誰しもが多くの出来事があるだろう
信じられないような絶望や、二度と立ち直れないくらい打ちのめされることや、愛する者たちとの数々の別れ、長い間じっとりと張り付いて離れない深く暗い哀しみ、生きる気力を奪われるほどの出来事…
逆に大したことさえ起きないかもしれない
そうだからこそ
どんな場所であろうとも、どんな環境であろうとも、いつ何時でも自分が生きる意味を見出して、選択することができるのだ
そう自分が見出して選択したことが生きる意味なのだ
そして、その人自身の知恵や知識、精神の自由は誰にも絶対に奪えない
心に強く刻んでおきたい
そしていつまでも手元に置いて、何度となく確かめながら再読していきたい-
nejidonさん
コメントありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
さすがの冷血の私でも平常心では読めませんでした。
ただ...nejidonさん
コメントありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
さすがの冷血の私でも平常心では読めませんでした。
ただ「生きる」とは…というテーマ性が強かった内容と感じ、
読み手の自分もそのテーマを深く考えながら読むスタイルになりました。
そのため私自身の読み方が少し異なったかもしれません。
民話のお話しありがとうございます。
民話ってその地域のアイデンティティを象徴するものだと思っております。
ユダヤ民話やはり少し変わっているようですね…。
読んだことはないですが何か感じることがあるかもしれません。
今後もイスラエルとユダヤ人を追求したいという思いがありますので、
機会をみつけ、読んでみようと思います。
いつも参考になるコメントをありがとうございます!2021/01/05 -
ハイジさん
フォローに答えて頂き、ありがとうございます!
この本は、少女時代に読んだマンガの中に、引用されており、(極限状態の中で、夕日が綺...ハイジさん
フォローに答えて頂き、ありがとうございます!
この本は、少女時代に読んだマンガの中に、引用されており、(極限状態の中で、夕日が綺麗だ、というシーン)
そこだけ覚えています。図書館で見つけたら、今度読んでみようと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。2021/01/16 -
りまのさん
こちらこそフォローいただきましてありがとうございます!
こちらの本は生きる意味を心底考えさせられます
ぜひ読んでみてください!りまのさん
こちらこそフォローいただきましてありがとうございます!
こちらの本は生きる意味を心底考えさせられます
ぜひ読んでみてください!2021/01/16
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もう8年ほど前の話になるが、アウシュビッツ強制収容所に行ったことがある。
アンネの日記をはじめとする本や映画やさまざまなメディアなどでホロコーストやナチスに触れる機会はあっても、その現場に立っても、現実に起こったことを受け入れ想像することは難しかった。
アウシュビッツは、ポーランドのクラクフというかわいらしい街からバスで1時間半ほどのだだっ広い草原の中にある。
アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所としてユネスコの世界遺産にも登録されていて、展示物などもあり一般に公開されている。
鉄条網で囲まれた敷地内に引き込まれた鉄道線路。
板敷のベッド、番号のついたぼろぼろの服。
シャワーのついているガス室。
大量の遺体を焼いたという大きな窪み。
震えて泣いている年輩の方や、
涙をこらえながら真剣にメモを取るドイツ人らしい学生さん、
イスラエル国旗を掲げて歩くユダヤ人と思われる方たち。
その日は、とってもいいお天気で清々しく、緑の自然に囲まれた景色は美しかった。
が、目の前に広がるものはなんだったんだろう。
本の感想ではなくなってしまったけど、残酷さを強調したり悲劇的感情的にならない淡々とした文章が、私の中のリアルな記憶を刺激した感じです。
心が折れそうとか簡単に言うもんじゃないよね。
アウシュビッツに行った感想、未だにうまく言葉にできない。-
tiaraさん、こんにちは。
貴重な体験をされたのですね。
あまり本についての感想を語られないだけに、よけいに考えさせられます。
そう、心が...tiaraさん、こんにちは。
貴重な体験をされたのですね。
あまり本についての感想を語られないだけに、よけいに考えさせられます。
そう、心が折れそうなんて、簡単に言うものじゃないです。
そんな手ぬるいことを言っているうちは、元気で生きてるってことです。
私は映画の方を見てしまって、原作は未読です。
映画が先でも、その後原作を読むことも多いのですがこれは出来ません。
たぶん、これからも出来ないでしょう。
ただ、現実にこういうことがあったのだと、心に刻み付けるのみですね。
考えさせられるレビューです、ありがとうございます。2013/06/22 -
nejidonさん、こんにちは。
メッセージありがとうございます。
映画があるのですね、映像は本より強烈でしょうから受け手の負担も大きそう...nejidonさん、こんにちは。
メッセージありがとうございます。
映画があるのですね、映像は本より強烈でしょうから受け手の負担も大きそうですね。
本自体は心理学的考察といった感じで、学術的なレポートなんですが、それが余計にフィクションではない現実感を突きつけられるようでした。
ほんと、いろいろ考えされられますが、そうやって知ろうとして解ろうとすることがきっと大事なんですよね。2013/06/23
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『生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。』
時は第二次世界大戦、ドイツ。
この本の舞台は、悪名高き負の世界遺産、アウシュビッツではなく、著者であるフランクルが収容された小規模の収容所での出来事だ。
だが、こうした支所こそが、より殺戮が繰り返された“絶滅”収容所であったという冒頭に語られる事実には、思わず背筋が凍る。
淡々と語られる収容所での非現実的な強制労働。
自分だったらどうするかの、枠組みを超えた恐怖は、想像力では測り知ることのできない。だからこそ、読み手も目を背けてはならないのだと思う。
フランクルは、それでも自らを含む、強制労働を強いられる人々を観察し続け、なんとか紙を調達し、速記で記録を残し続けた。おそらく書き綴りきれなかった悲惨な出来事も多くあったのだろう。
そして、収容所から解放された後も、あまりにも自由から置き去りにされ続けた(フランクルを含めた)彼らは、その事実を咀嚼することができず、まるで夢の中にいるような気にさらされる。
あまりにも長く、終わりが見えない極限状態。
生き延びることのできた彼らにあった共通点とは何か。
そして、もっと深い題材。「生きること」とは何かに関する答え。それが冒頭に挙げた言葉である。
視覚に依存して見る世界のありようは、どうしても自分中心の考えからは逃れられないように思える。しかし、世界は自分中心ではなく、生きることとは、置かれた環境から導き出される課題によってどう自分が考え、そして行動するかによって決まるのだ。そしてその答えを他人に求めてはならない。そして、自ら考え抜いた答えは、たとえ強制収容所に置かれても、周りから変えられることはできないのだ。 -
インスタでオススメされていた本で興味は持っていました。先日ちょうど仕事場で、読んでいる方を見かけたのがきっかけで購入。
アウシュビッツ強制収容所に収容された心理学者である著者が、収容されてから解放された後までを心理学者としての視点で描かれています。
表現が私には難しかったですが、節々に突き刺さる文がありました。
厳しく辛い現実の中でも、未来に希望を持ち、諦めずに生きていく事の大切さを学びました。
彼らが経験した事に比べれば、今の自分の厳しさ、辛さは比べものにはなりません。
理解を深めるために、少ししたら再読しようと思います。
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アウシュビッツ等の収容所に送られその生活だけではなく、そこで人というものがどういった存在なのか。
人は極限状態になった時に本当に思う事、その状態でも生き延びるのに必要な事が収容生活の過酷さだけではなく書かれている。
自分だったら…と思わずにはいられない。
これは繰り返し読むべき本だと思った。 -
原題を直訳すると『ある心理学者、強制収容所を体験する』。
本書について、著者であるフランクル氏は、自身が強制収容所で体験した「おびただしい小さな苦しみ」を綴った記録だと冒頭で述べています。
しかし、その「小さな苦しみ」のなんと残酷なことか。
第二次世界大戦やユダヤ人迫害の歴史があったことを知っていても、本書に描かれたようなことがここ100年以内に現実にあったことであると受け入れるのには時間がかかりました。
どんな環境にあっても「最期の瞬間までだれも奪うことのできない精神的自由」を保ち続けることで、生きる意味を見失わずにいることができる。
たとえ人間の尊厳を踏みにじられ、家畜同然の扱いをされても。
「苦しむことはなにかをなしとげること」であるという言葉に胸がふるえました。
人間が忘れてはいけないこと、生きていく上で忘れたくないことを文字に残してくださった作品だと感じました。
一息に読んでしまったあと、もう一度パラパラと気になったところを拾い読みしていますが、消化しきれていない部分もあり。
本棚に置いて、折にふれ読み返したいと思います。 -
いつか読まなければいけないと思っていた本。すごい厳かなイメージがあって、未熟な自分が読んでも理解できるだろうかと悩んでいて、ずっと読めないでいた。けれど、突然機会がやってきた。いつも行っている大好きな本屋さんの目立つところに平積みされていたのだ。ぱらぱらと読んで、「今読もう」と思えた。
結論としては、本書で書かれていること全て理解できたとは到底思えない。自分の置かれている環境があまりにも恵まれているので、著者の体験や主張に「共感」したというのは、とてもおこがましい気がするし、自分の未熟さのせいで、考えや主張を理解しかねる部分もあった。でも今読んでみて良かったのだ。これから定期的に読み返して、自分の心情や理解がどのように移り変わっていくかを確認していくことができる。
ところで、本文はもちろん読み応えがあったのだが、その後の訳者のあとがきがおもしろい。新版には旧版訳者のあとがきと新版訳者のあとがきがのっている。
旧版訳者のあとがきからはフランクルの人となりが伝わってきて嬉しい。フロイトやアドラーに師事していたことすら知らなかった自分が恥ずかしくもあった。
新版訳者のあとがきで、すごく興味を持ったのは、旧版では一度も「ユダヤ」というワードが一度も使われていない、と書いてあったこと。フランクルはこの記録に普遍性を持たせたかった、さらには強制収容所にはユダヤ人だけではなく、ジプシー、同性愛者、社会主義者などさまざまな人が入れられていたことを踏まえているのではないかというのが新版訳者の考察。
しかし、新版では「ユダヤ人」というワードが2度出てくる。その一つは「ユダヤ人たちが収容所職員をかばった」というエピソードの挿入。新版が出たのは1977年。イスラエルが諸外国からのユダヤ人移住をこれまでに増して奨励しはじめた年。それまでには何度も中東戦争が起こり、多くの血が流れている。そして今も争いは続いたまま。立場を異にする他者同士が許し合い、尊厳を認め合うことの重要性を訴えるためのエピソード挿入だったのではないかという考察であった。
よく考えれば当たり前のことなのだが、著者を通して書物で訴えたいことも、生きていく時代や状況に応じて変化していくのも当たり前なのかもしれない。それぞれの本の著者の見えない想いまで感じとれるよう成熟したいものだ。
以下は、印象的だった箇所の抜粋。
人間はひとりひとり、このような状況下にあっても、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについてなんらかの決定を下せるのだ。
典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるのかは自分自身が決めることなのだ。
かつてドストエフスキーはこう言った。
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」
おおかたの被収容者のは心を悩ませていたのは、収容所をいきしのぐことができるか、という問いだった。いきしのげないのであれば、この苦しみのすべてに意味がない時いうわけだ。
しかし、わたしのこころをさいなんでいたのは、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだった。もしも無意味だとしたら、収容所生活を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は僥倖に左右される訳で、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。
強制収容所ではたいていの人が、「今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる」と信じていた。けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしていたか、あるいはごく少数の人びとのように内面的勝利をかちえたか、ということに。
わたしたちが生きることに何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請と充たす義務を引き受けることにほかならない。 -
『夜と霧』
【購読動機】
数年前から読みたい本の1冊でした。2023年ようやく読了しました。きっかけは、引退したプロボクサー/村田選手の新聞記事です。内容は、「人間の内面に迫るノンフィクションを読む。哲学。」です。そのなかで、村田選手が紹介していた1冊が「夜と霧」でした。
【著者の動機】
ドイツの収容所から帰還を果たした心理学者が著者です。彼が執筆した目的は、個人的体験を記述することではありません。
収容の生活は想像を絶するものであり、第三者が理解するには距離がありすぎる現実です。それは、無事に生還した人々の「理解してもらえるはずはない」という孤独を生む原因にもなります。
こうした事情を鑑みて「(少しでも)理解してもらえる機会」になれば・・・と執筆したと記述があります。
【読み終えて】
帰還を果たした方の著書は初めてでした。
「生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするのか?(にかかっている)」
朝、起きて、仕事をして、夜に就寝をする。
空を仰いで、道端の草花を見て、季節を感じる。
無意識の日常の連続が有難いことなのだ・・・と再認識できる機会となりました。
身の周りで起こる出来事はコントロールできない事象もあります。
ただし、その事象をどのように認識するのか?は、本人次第でコントロールできうることだと著書にも記述がありました。
「夜と霧」の生まれ。あとがきに、翻訳者が執筆者に直接交渉をして生まれたとあります。翻訳者の意思と行動があってこそ、語り継がれる1冊が生まれたことに、感謝します。
【さいごに/著書より】
人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
かつてドストエフスキーはこう言った。
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」
この究極の、そしてけっして失われることのない人間の内なる自由を、収容所におけるふる いや苦しみや死によって証していたあの殉教者のような人びとを知った者は、ドストエフス キーのこの言葉を繰り返し噛みしめることだろう。
その人びとは、わたしはわたしの「苦悩に 「値する」人間だ、と言うことができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけで もう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれ も奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深い ものにした。
なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安な生や、美や芸術や自然 をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強 制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会 も皆無の生にも、意味はあるのだ。
そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじ がらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。
被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に 生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。
ヴィクトール・E.フランクルの作品






にゃ!
にゃ!
読まなきゃ、読みたい
と思いつつ幾星霜(´;ω;`)
背中押していただきました
よ・み・ま・す!
読まなきゃ、読みたい
と思いつつ幾星霜(´;ω;`)
背中押していただきました
よ・み・ま・す!
こんな、レビューともいえない文章に、コメントくださり、どうもありがとうございます!
私の文章から、『夜と霧』、読んでいただ...
こんな、レビューともいえない文章に、コメントくださり、どうもありがとうございます!
私の文章から、『夜と霧』、読んでいただけるなんて、思いがけず、嬉しく、感動です。
私も再読中です。いろんな思い…、ブクログには載せないかもしれませんが、感想文を書こうと、頑張ってみます。
はまだかよこさんのレビューを、楽しみにしています。(*^_^*)