- Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622039709
感想・レビュー・書評
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この壮絶な経験についてあれこれ言うつもりはないが、
人間の魂というのは、単なる比喩ではなく、実在するのだということがわかった。
たかだか90年ほどの人間の寿命が尽きないうちに、これほどの体験をフランクルが客観化して文章にしえたということが、ただ信じがたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
フランクルのベストセラー。アウシュヴィッツに収容された過酷な真実が語られる。【印象的な言葉】①夢をみた者にとって、収容所生活という現実に目覚め、夢の幻影と収容所の現実のおぞましいばかりのギャップを感じたとき、夢がどのような意味をもつかは、また別の話だ。②家畜に「働く義務」を思い起こさせるのだ、罰をあたえるほどの気持ちのつながりなど「これっぽっちも」もたない家畜に、と。③収容されて数日で、ガス室はおぞましいものでもなんでもなくなった。それはただ自殺する手間を省いてくれるものとしか映らなくなるのだ。
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なるほど、名著。読んで良かった。
心理学者が体験した強制収容所のエピソード、と簡単には表現しきれないのは、中盤以降の精神性について深く語られるくだり。絶望の中で、ここまで崇高であれるのか。
と、小難しい?ことを言ってみたのですが、単にすっごく感動しました。著者が妻を想うシーンでは、僕はこれほどまで強くて純粋な想いを自分の妻に対して抱いて、それを表に出せているだろうか、と自問したし、収容所で著者が語ったシーンでは、まっすぐな言葉が胸に刺さりました。
ボリュームだけなら比較的薄い本なのに、とても濃厚な大作を読みきったような気分。訳も非常に読みやすく、あとがきからも心を砕いておられたのが推察できます。
しかし、ちょっと脱線するのですが、これをブラック企業に勤めているような状況の方が読んだとして、どうなるんだろうか?とも思ってしまいました。逃げずにその場でできる最善を尽くすというのは大事なことだとは思うのですが、収容所よりブラック企業の方が相対的にマシだ、なんて思ってしまうと著者が浮かばれません。
ともかく、本としては、裏表紙に「言語を絶する感動」とあり、序盤ではどうかなと思ってましたが、読みきって納得。
生きるとは何か、生きることを意味あるものにするにはどうするのか。極限の場所で著者が得た結論は、非常に具体的で、納得感のあるものでした。
ドストエフスキーの引用が2回くらい出てきたので、次はそっちにチャレンジしてみようかな。 -
「いま」を耐えられない人へ
強制収容所で過ごすほどではないにしてもーーこの苦痛はいつまで続くのか、脱出口はあるのか、いま生きている意味はあるのか、朝起きた時にもっとも苦痛がやってくるーーという状況に置かれている人は多いはずだ。軽重の問題ではない。
飢餓と寒さと感染症と重労働、そしていつやってくるかわからない死の選別、考えられる限りの極限状況において、生き残ったのは身体のタフな者ではなく、心の自由を勝ち得た者だった。
想像を絶するような悲惨な描写が続くのに、なぜか終盤に近づくにつれ、これは我々の人生そのものではないのか?という気がしてくる。収容者たちはみな考えている。今に見ていろ、出所したら自分の才能を発揮してやると(当たり前である、ボロ切れを着せられて単純重労働をさせられている姿が本来の姿のはずがない)。しかし実際は、そのまま一生を終えるか、精神の自由を勝ち得るか、そのいずれかであると作者は言う。どこかで聞いたような話ではないか。
過酷な環境で明暗を分けたのは心の拠り所、未来を信じる心だった。作者は辛い重労働と死の恐怖の中、大観衆の前でこの体験について講演する姿を脳裏に描いていたという。希望ある未来を描くことは諸刃の剣だと、大人はよく知っている。叶わなければどうする?結論、叶っても叶わなくても、どちらでもいいのである。現実がどう転ぶかに生が左右されるならば、それはただの偶然によって決まるものであり、意味のない生である。
よりわかりやすく、より心に響いたエピソードに、雪の中の過酷な行進の最中、作者がずっと脳内の妻と会話をして心を支えるシーンがある。妻はどこにいるかわからないし、生きているか死んでいるかもわからない(実際には、亡くなっている)。でも、どちらでも関係がない、と作者は気づく。肉体がわたしとともにあるのか、生存しているのか、それは全く関係がないーーと。想像を絶する話だが、これが現実に左右されない精神の自由である。
今つらい人は、いまのつらい状況と「無関係に」希望を描こう。たとえ明日はパンが出なくても、それと無関係に至福で心を満たせるなら、人間は自由である。(※念のため、これは脱出困難な苦境にある場合の話である。ブラック企業に勤めている人、いじめられている学生さんなどは、すぐに環境から脱出することを推奨する) -
ベストセラー作品の割にこの年まで読まずに来てしまっていたので、一度腰を据えて読んでみようと思って手に取った。ホロコーストは、高校生の時に市の図書館でホロコースト展を見たことがきっかけで、シンドラーのリストを見たり、いくつかそれ系の本を読んでいたのだけれど、久々に読んだこの本は、収容者側の心理が事細かに書いてあって、とても興味深く読めた。よくレビューで書かれているように、ものすごく感動したり心を揺さぶられることはなかったけれど(10代のころに読んだらまた違ったか?)、歴史的に価値のある本であることは確かだと思った。
原題はとくに変哲もないものなので、日本での売上に最も貢献したのは、「夜と霧」という詩的な素晴らしいタイトルに変えた翻訳者の功績だと思った。 -
心理学について気軽に学んでみたいと思い手に取った一冊。ユダヤ人心理学者の実際の収容所生活をもとに書かれている。心理学の用語や考えが中心ではなく、実際の収容所生活での心の変化に焦点を当てて書いてあり、個人的には学書(?)というより、自己啓発本的な印象を受けた。 文体は少し硬めで難しい表現なども出てくるが、とても読みやすく面白かった。
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ナチスの強制収容所で生き残った心理学者が被収容者の心理を語る
収容所での命の選別や終わりの見えない苦況のなかで人の心がどうあったのかを詳らかにしている
希望と勇気を失うと物理的な肉体も死滅する現象に衝撃を受けた(1944年末の大量死)
自分自身にしかない将来の可能性
自分が「なぜ」存在しているかを知っていれば、「どのような」生にも耐えられる
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「生きていることに期待が持てない」と生き延びることが難しい
とにかく私では伝えきれない「人間とは」が詰まっている
世界的なロングセラーだが、まだの人は是非読んでもらいたい -
ホロコーストを生き延びることができるかどうかは、ひとえに魂と精神の在り方にかかっているという。
けれど、このホロコーストを生き延びた人たちの子孫が、ガザ地区に爆撃している。
そのことがずっと心に引っかかり、感動よりは不可解な思いの方が胸に残った。
そして、色々な箇所で、「収容所」を「学校」あるいは「教室」と置き換えても話は通じてしまうことにゾッとした。特に、いじめを受けている子どもたちは被収容者のそれに近い心理状態に置かれていることは想像に難くない。
ただ、被収容者であっても、なお、他を虐げるものもあれば、虐げることを拒んで人間的であろうとするものもあり、その在り方は一様ではないと筆者は語る。それが唯一、人間に残された希望であり倫理なんだろうと思った。 -
ナチスの強制収容所については、戦争映画などではお馴染みであり、割りと予備知識はある方だと思ってましたが、被収容者の心理的なところまで踏み込んだ事はなかったので、本作によって当時の凄惨な状況がより詳しく知れました。
作者が生き延びれたのは、希望を捨てなかったという点もあるが、ほぼ運頼みだったようにも思える。
しかも、解放された先に家族は1人も残ってなかった訳で…むしろ解放後の絶望はなかったのだろうか。その後どう立ち直ったのか、の方が興味があるな。 -
ユダヤ人の精神科医である筆者は、第二次世界大戦中、アウシュヴィッツ周辺の収容所に強制収容された。別の収容所に送られた両親、妻、子どもはみな、ガス室あるいは飢餓により命を落とした。人権も尊厳も完全に奪われた終わりの見えない絶望的な状況で、なお生き続けることの意味について、人間とはいかなる存在であるかについて、当時の惨状の回想を交えながら、冷静に理論的に語りかける。本書終盤では、収容所から解放後の元被収容者への生神的ケアについても、精神科医の視点から言及している。
当時の記憶を思い出すことも辛いはずなのに、情緒的にならず、一貫して冷静なトーンで語り続けていることが、読んでいて信じられない気持ちになった。収容所内でも、自身も疲労と飢えで最悪な精神状態に陥りながら、ときには精神科医として、ときには名もなき一人の被収容者として、力を振り絞って、なんとか生きることに希望を持てるよう仲間たちに語りかけていたという。
自身の経験だけを見れば、たとえ当時の監視者たちをどれだけ憎み、恨み、復讐したいという思いになろうとも、誰も責めることはできないだろうけれど、筆者はあくまで公正さを失わない。以下の引用には、憎しみの連鎖をなんとしてでも断ち切らねばならないという筆者の確固たる信念を感じる。
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「不正を働く権利のある者などいない、たとえ不正を働かれた者であっても例外ではないのだというあたりまえの常識に、こうした人間を立ちもどらせるには時間がかかる。そして、こういう人間を常識へと目覚めさせるために、なんとかしなければならない。」(p.153)
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また筆者は、収容者vs被収容者という対立構造を作ってどちらかを一方的に非難することもせず、どんな環境下においても行動はあくまで個人の責任であると冷静に指摘する。
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「収容所監視者だということ、あるいは逆に被収容者だということだけでは、ひとりの人間についてなにも語ったことにはならないということだ。人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を越えて引かれるのだ。したがって、いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、などという単純化はつつしむべきだ。事実はそうではなかった。収容所の生活から想像されることに反して、監視者として被収容者に人間らしくたいすることは、つねにその人個人のなせるわざ、その人のモラルのなせるわざだった。」(pp.143-144)
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これは、平和な今であれば「そうね」と難なく受け入れられることだけれど、凄惨な経験をした元被収容者の立場でなおそう言い切れる点、心が強すぎて畏れ多いし、その崇高さにただただ敬服する思いだった。私には絶対無理…自分を苦しめた相手にどうやって復讐してやろうかという思考に囚われて、結局不幸の底なし沼に堕ちていく生き方の方が想像に容易い。筆者は、そうなってしまいそうな仲間を救いたいとまで考えていて本当に凄すぎる。
「夜と霧」初版は終戦直後の1947年に発行され、今回の新版は1977年に発行された。本書の「訳者解説」では、初版と新版の相違点の説明とその原因分析も行われていて、本文とあわせて興味深く読んだ。 -
冷酷非道なナチス統制下における強制収容所での実体験を記したもの。当時の状況が克明に記されており、そこには人権など存在しなかったことが窺える。そんな劣悪な環境から生還した著者は、奇跡としか言いようがないが、一方で、肉体的にも精神的にも、決して諦めないとう気持ちが常に根底にあったからだとも言える。
これからも後世に語り継ぐべき一冊である。
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この本はあまりにも素晴らしすぎた。
ものすごく感動をした。
人間の極限の状態に立たされて、人は何を考え、どう行動するのかについて、心理学者である作者が強制収容所の体験から冷静に分析している。
強制収容所の人間の内面生活がいびつにゆがむのは、つきつめればさまざまな心理的身体的なことが要因となってそうなるのではなく、最終的には個々人の自由な決断いかんにかかっていた
というのが猛烈に印象的だった
人間の精神の可能性と限界を垣間見た気がした。
ふんふん、本当にいい本だった。
それにしてもこの作者が冷静すぎてこわい、、、
私だったら、収容所をでたら平気で麦畑を横切る気がするよ、、、 -
胸が締め付けられる凄惨な虐待。人間を死に至らしめる病は、やはり絶望であるということ。
被収容者の心理段階を三段階に分け、精神科医である著者自身が体験して客観的に(なるべく)分析した結果が綴られている。
二十一世紀に生きる私たちは、現在のパレスチナの状況も踏まえて読まなければならないと感じた。 -
いつかは読んでみようと思いながらも躊躇してなかなか手が出なかった一冊。本当に感銘を受けた、同時に今まで読まなかったことを後悔した。
実際にアウシュヴィッツに収容された著者だからこその施設内の光景と心理学者ならではの分析が淡々と記録されている。それがよりリアリティを際立たせている。
「生きること」、「人間」についてこれほど強く深く考えさせられる著書に始めて出会った気がする。決して軽く読める類いの本ではないが何度も読み返したい名著。 -
強制収容所での強烈な体験が書かれた本です。
卑劣な日々を過ごす被収容者達の心理状況に焦点をあてて展開されるエピソードはとても興味深く読み入ってしまう
驚いたことは、収容所から解放された後に待ち受けていることは純粋に解放された喜びではなく現実を受け止められずにいたということです。そして自分を待っていてくれると幻想を抱いていた妻や子供にもう二度と会えないと悟ったときの心情は想像に余りある -
作者は自らの体験を交えながら、収容所を構成する様々な立場の人間を通して、極限状態の精神を分析してゆく。話は、人間の生きる意味や、そもそも人間とは何かという本質的な事柄にも及ぶが、普段の日常からかけ離れた体験から導き出される考察はどれも新鮮で、時代が変わっても似たような本が出て来ることは無いように思う。
抑留や収容などの体験談を読み聞きするたびに、どうしてこんなにも非人道的な事が出来るのだろうと一種のフィクションに近い縁遠さを感じてしまっていたが、冷静に且つ客観的に分析された本の内容が、一気に現実的なものとしてそれらを身近に引き寄せてくれたような感覚。
宗教的な内容もあり、少し理解しづらい箇所もあったが、とても興味深く読めた。 -
前に読んだのは旧版の霜山訳のもので、おそらくは20年以上とずいぶん前のことだ。新訳は読んでいなかったのだが、Amazonで安くなっていたので購入し、改めて再読した。
旧版とこの新版、二つの版の読書体験の間に、実際にアウシュビッツ・ビルケナウ収容所に行き、クロード・ランズマン監督のとても長いドキュメンタリー映画『SHOAH』を観て、さらに同名の本を読み、また最近もプリーモ・レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』を読んだ。そのことで、旧版を読んだときとは当然また違う印象を持った。そもそも自分自身も、この20年の間に考え方も知識もそして立場も変わっている。今回の読書では、収監中の体験よりも、解放後の体験の方がより強い印象を残した。
本書は、「これは事実の報告ではない。体験記だ」から始まる。ここに書かれているのは、ナチスがホロコーストをどのように実行したのかではなく、強制収容所における収容者としての日常の体験、つまり「おびただしい小さな苦しみ」について、心理学者として記載分析したものである。その描写の中では、実際にそうであったのだろうが、ナチスの影は薄くぼかされている。実際の経験としては日々の中で「ナチス」といったシステムを感じることはもはやなかったのだろう。それよりも、収容者同志の争いや、収容者の中でも管理する側として選定されたカポーの優越感と横暴の方がよりリアルなものであったというのが真実のかもしれない。アウシュヴィッツにおける有名な警句「いい人は帰ってこなかった」は、次の文章の中に出てくる。
「収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく帰ってきたわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と」
収容生活の中では、「内面がじわじわと死んで」いき、他人の死に対しても無感動になったという。おそらくは驚くべきことに、そうなるまでにはそれほど長くかからることなく、著者によると収容所生活数日で感情が消失していったという。
「人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい......。」
その苦しみの記述は安易な想像を拒むほどに重苦しい。ただ、その中でも家族への愛やユーモアはある種の支えになった、とも書かれる。
本書は収容所にいたときの描写が中心であるため、本書で詳しくどのようにとは書かれていないが、解放された後も収容所にいた人びとを過去の体験が苦しめ続けていたことが示唆される。解放された後も収容者を苦しめたであろうことこそが伝えられるべきことなのかもしれない。
いくつか印象に残った言葉をここに書き写しておきたい。
「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」
「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない」
「わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」
「収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあったものだ。わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せの心構えはほとんどできていなかった。少なからぬ数の解放された人びとが、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない」
「「はっきり言って、うれしいというのではなかったんだよね」わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度学びなおさなければばらない何かになってしまっていた」
「不正を働く権利のある者などいない、たとえ不正を働かれた者であっても例外ではないのだというあたりまえの常識に、こうした人間を立ちもどらせるには時間がかかる」
「収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからない」
原題は、『...それでも生にしかりと言う』だ。それは単に解放されて、生き延びることができてよかった、ということではないのだ。単に収容所の生活は大変なものだった、というものだけでもない。生き残った人は、あのとてつもない受難には意味がなかったかもしれないということを背負って生きることになったのだと気が付いた。生き残った人こそ、「それでも」生にしかりと言うために努力をすることが必要になってくるのかもしれない。おそらくは、収容者は自ら受けた苦しみに意味を見つけられなければ、普通に生きることはとても難しいことではなかったのだろうか。誰もが収容所の悲惨さに目を向けるが、その後についても、むしろその後についてこそ心理学者としては考えるべきことが多かったのではなかったか。
広島の被爆者を描いた漫画『夕凪の街 桜の国』の次の言葉を思い出す。
「わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ。
思われたのに生き延びているということ。
そしていちばん怖いのはあれ以来本当にそう思われても仕方がない人間に自分がなってしまったことに自分で時々気づいてしまうことだ」
それでも生にしかりと言うことは果たしてできるのだろうか。それはアウシュビッツ以降問い続けられなければならない問いとなった。忘却されるべきではない。読まれるべき本。
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『アウシュヴィッツは終わらない―あるイタリア人生存者の考察』(プリーモ・レーヴィ)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4022592516
※『【改訂完全版】アウシュヴィッツは終わらない これが人間か』が最新版
『夕凪の街 桜の国』(こうの史代)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4575297445