夜と霧 新版

  • みすず書房
4.24
  • (1531)
  • (947)
  • (607)
  • (58)
  • (13)
本棚登録 : 11880
レビュー : 1266
  • Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622039709

作品紹介・あらすじ

名著の新訳には、つねに大きな期待と幾分かの不安がつきまとう。訳者や版元の重圧も察するにあまりあるが、その緊張感と真摯さのためか、多くの場合成功を収めているように思われる。本書もまた、その列に加わるものであろう。

ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。家族は収容所で命を落とし、たった1人残されての生還だったという。

このような経験は、残念ながらあの時代と地域ではけっして珍しいものではない。収容所の体験記も、大戦後には数多く発表されている。その中にあって、なぜ本書が半世紀以上を経て、なお生命を保っているのだろうか。今回はじめて手にした読者は、深い詠嘆とともにその理由を感得するはずである。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • もう8年ほど前の話になるが、アウシュビッツ強制収容所に行ったことがある。
    アンネの日記をはじめとする本や映画やさまざまなメディアなどでホロコーストやナチスに触れる機会はあっても、その現場に立っても、現実に起こったことを受け入れ想像することは難しかった。

    アウシュビッツは、ポーランドのクラクフというかわいらしい街からバスで1時間半ほどのだだっ広い草原の中にある。
    アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所としてユネスコの世界遺産にも登録されていて、展示物などもあり一般に公開されている。

    鉄条網で囲まれた敷地内に引き込まれた鉄道線路。
    板敷のベッド、番号のついたぼろぼろの服。
    シャワーのついているガス室。
    大量の遺体を焼いたという大きな窪み。

    震えて泣いている年輩の方や、
    涙をこらえながら真剣にメモを取るドイツ人らしい学生さん、
    イスラエル国旗を掲げて歩くユダヤ人と思われる方たち。

    その日は、とってもいいお天気で清々しく、緑の自然に囲まれた景色は美しかった。
    が、目の前に広がるものはなんだったんだろう。


    本の感想ではなくなってしまったけど、残酷さを強調したり悲劇的感情的にならない淡々とした文章が、私の中のリアルな記憶を刺激した感じです。
    心が折れそうとか簡単に言うもんじゃないよね。
    アウシュビッツに行った感想、未だにうまく言葉にできない。

    • nejidonさん
      tiaraさん、こんにちは。
      貴重な体験をされたのですね。
      あまり本についての感想を語られないだけに、よけいに考えさせられます。
      そう、心が...
      tiaraさん、こんにちは。
      貴重な体験をされたのですね。
      あまり本についての感想を語られないだけに、よけいに考えさせられます。
      そう、心が折れそうなんて、簡単に言うものじゃないです。
      そんな手ぬるいことを言っているうちは、元気で生きてるってことです。

      私は映画の方を見てしまって、原作は未読です。
      映画が先でも、その後原作を読むことも多いのですがこれは出来ません。
      たぶん、これからも出来ないでしょう。
      ただ、現実にこういうことがあったのだと、心に刻み付けるのみですね。
      考えさせられるレビューです、ありがとうございます。
      2013/06/22
    • tiaraさん
      nejidonさん、こんにちは。
      メッセージありがとうございます。

      映画があるのですね、映像は本より強烈でしょうから受け手の負担も大きそう...
      nejidonさん、こんにちは。
      メッセージありがとうございます。

      映画があるのですね、映像は本より強烈でしょうから受け手の負担も大きそうですね。
      本自体は心理学的考察といった感じで、学術的なレポートなんですが、それが余計にフィクションではない現実感を突きつけられるようでした。

      ほんと、いろいろ考えされられますが、そうやって知ろうとして解ろうとすることがきっと大事なんですよね。
      2013/06/23
  • 『生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。』

    時は第二次世界大戦、ドイツ。
    この本の舞台は、悪名高き負の世界遺産、アウシュビッツではなく、著者であるフランクルが収容された小規模の収容所での出来事だ。
    だが、こうした支所こそが、より殺戮が繰り返された“絶滅”収容所であったという冒頭に語られる事実には、思わず背筋が凍る。

    淡々と語られる収容所での非現実的な強制労働。
    自分だったらどうするかの、枠組みを超えた恐怖は、想像力では測り知ることのできない。だからこそ、読み手も目を背けてはならないのだと思う。

    フランクルは、それでも自らを含む、強制労働を強いられる人々を観察し続け、なんとか紙を調達し、速記で記録を残し続けた。おそらく書き綴りきれなかった悲惨な出来事も多くあったのだろう。

    そして、収容所から解放された後も、あまりにも自由から置き去りにされ続けた(フランクルを含めた)彼らは、その事実を咀嚼することができず、まるで夢の中にいるような気にさらされる。

    あまりにも長く、終わりが見えない極限状態。
    生き延びることのできた彼らにあった共通点とは何か。

    そして、もっと深い題材。「生きること」とは何かに関する答え。それが冒頭に挙げた言葉である。

    視覚に依存して見る世界のありようは、どうしても自分中心の考えからは逃れられないように思える。しかし、世界は自分中心ではなく、生きることとは、置かれた環境から導き出される課題によってどう自分が考え、そして行動するかによって決まるのだ。そしてその答えを他人に求めてはならない。そして、自ら考え抜いた答えは、たとえ強制収容所に置かれても、周りから変えられることはできないのだ。

  • 原題を直訳すると『ある心理学者、強制収容所を体験する』。
    本書について、著者であるフランクル氏は、自身が強制収容所で体験した「おびただしい小さな苦しみ」を綴った記録だと冒頭で述べています。
    しかし、その「小さな苦しみ」のなんと残酷なことか。
    第二次世界大戦やユダヤ人迫害の歴史があったことを知っていても、本書に描かれたようなことがここ100年以内に現実にあったことであると受け入れるのには時間がかかりました。

    どんな環境にあっても「最期の瞬間までだれも奪うことのできない精神的自由」を保ち続けることで、生きる意味を見失わずにいることができる。
    たとえ人間の尊厳を踏みにじられ、家畜同然の扱いをされても。
    「苦しむことはなにかをなしとげること」であるという言葉に胸がふるえました。

    人間が忘れてはいけないこと、生きていく上で忘れたくないことを文字に残してくださった作品だと感じました。
    一息に読んでしまったあと、もう一度パラパラと気になったところを拾い読みしていますが、消化しきれていない部分もあり。
    本棚に置いて、折にふれ読み返したいと思います。

  • 1946年に出版された、ナチスによる強制収容所での壮絶な経験をつづった本作。
    1940年代に到来したナチス・ドイツによるホロコーストの実態が、フランクルの見聞きしたこと体験したことを通して淡々と、生々しく記録として描かれています。この起伏ない文章がむしろ恐怖を越えたさきにある絶望を表しているようでヒヤリとします。

    この本の存在を前々から知りながらもなかなか手に取れませんでした。その後何度か手にはしたものの冒頭数ページで挫折したり。それくらい読み切るには覚悟が必要な一冊でした。

    フランクルが語ったのはおびただしい大衆の「小さな」犠牲や「小さな」死。ホロコーストでの犠牲は今なお正確には分かっておらず、とてつもなく大きな被害の数字に、実感すら薄れてきます。しかし現実にあった“事実”であること。そして、その1つ1つに人生があり、その1つ1つが残酷な運命を辿ったこと。それらを刻むようにフランクルはこの本をかたちにしたように思います。

    読んでいる先から正直気が滅入ります。人はここまで残忍になれるのかと目を覆いたくなるような所業の数々。負の歴史の詳細を知るのにもとても有効な資料ですが、それと同等に人間がしたこと・人間がされたことを想像し「人間とはどうゆう存在か」「生きるとはどうゆうことか」という問いを読み手に強く訴えてきます。

    ここに書かれた全てを汲むことは出来ません。そして一冊を読み通したところで完結できる話でもありません。うまく言葉に表せない気持ちは、今後この本を開くたびに少しずつ整理できたらと思います。

  • 今まで読んでこなかったのを悔やむくらい感銘を受けた。
    難しそう、というイメージをぬぐって思い切って読んでよかった。

    アウシュビッツなどの収容所で行われていたこと、それを知るということそのものも必要かもしれないが、この本はもっと深いところ、人間や心について書かれている。

    人間とは何なのか、生きるとは、苦しむことの意味は…。
    さまざまなことを考えさせられる。

    ハッキリ言って簡単な本ではないと思う。
    前半部分は収容所内の出来事が描かれているので、具体的で読みやすいと思うが、後半になってくると、精神論、哲学、生きること、苦しむことといった、内面の話が多くなってくる。
    何度も何度も繰り返して読み取りたい内容だった。

    どのような環境にいるかよりも、その環境でどのような覚悟をするか、そういったことの重要性を教えてくれる。
    生きる、ということの中には様々なものが含まれている。
    苦しむばかりの人生を送っている人であっても、その苦しみを受け止めることそのものが生きること、こういう考えはとても大切だと思う。
    今の世の中、ストレスをいかに軽減するか、いかに平和な心でいるかが重要視されている。
    でも、苦しみしかなくて、生きる意味を考えずにはおけないような状況の人たちもいると思う。

    どのような状況にあっても人の生に意味はある。
    苦境を苦しみぬくだけの人生でも。

    極限の状況で、人間としての扱いを受けなかった経験が、筆者の意見に説得性を持たせているし、その中で目にした人間の姿、心の動きは、日常を悠々自適に暮らす我々では感じにくい、本質的な人の姿が垣間見える。

    状況的には私達とは遠いところにあるけれど、こういった本質的なことを思考することで、生きる上での基盤は築かれると思う。
    仕事や恋愛、家庭といった、ごく一般の生活の中でも、生きる意味を見失う人にも、この本に示されていることをよく理解することで、なにか生きるヒントは生まれると思う。
    人に求められるから、希望があるから生きるのではなく、目の前のものがどんなものでも、それを受け止めていくことそのものが生きること。

    ほんとうに貴重な体験から生まれた本。
    そして、生きる人すべてに通じる普遍性がある本だと思う。

  • 高校3年生のとき、文化祭でパレスチナ問題を取り扱った演劇をやることとなり、脚本を任された私は図書室で資料を探していた。
    そのときに”ユダヤ人迫害”という視点から司書の先生が勧めてくれたのが旧訳版『夜と霧』だった。
    ぱらぱらとページをめくって巻末の凄惨な写真にまず怖気付き、文字を追おうにもなんだか難解ですぐに読むことを諦めてしまったことをよく憶えている。
    そして去年ふとしたタイミングで新訳が出ていることを知り、購入したはいいものの本棚に積んだままだった。
    緊急事態宣言がでて図書館も閉館し、さてじゃあ何を読もうかとなって、10年近くかかってようやく再び本書を手に取ったのである。今の私ならきっと読める、という確信があった。

    あらすじは言うまでもないだろうが、原題そのまま「心理学者、強制収容所を体験する」である。
    ユダヤ人心理学者である著者が、ナチス・ドイツによるホロコーストで、強制収容所に送られていた過酷な体験を綴ったものだ。
    私はまず、強制収容所=アウシュヴィッツ=即ガス室、といった半端な知識が間違いだったことを知った。
    絶滅収容所だけではない強制収容所は、支所がいくつもあり、ユダヤ人をはじめとする被収容者はそこですべての時間を重労働に費やされ、親衛隊員の監視やカポーからの暴力、そして慢性的な飢餓に苦しんでいた。
    いつ終わるとも知れない、妻や子供の安否さえも分からない、深い深い絶望(とてもこんな言葉では表現しきれない)の底で、でも驚かされたのは彼らがユーモアや好奇心や芸術、自然の美しさを感じる心、そして愛を失ってはいなかったというエピソードを読んだからだ。
    もはやなにも残されていなくても、という章がある。凍えるような朝早く、収容所から工事現場までの暗い道を整列させられて歩いて向かっていく場面だ。

    ーー
     わたしはときおり空を仰いだ。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
     そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
    ーー

    ひねくれ者の私が仮に小説でこの文章を読んでもきっとなにも心には響いていなかっただろう。綺麗事、と切って捨てていたかもしれない。でもこれは全て現実にあったことなのだ。平和な現代で平凡な日常にただ漫然と生きているだけの私は、死の淵に立たされた人間が最後の最後まで奪われない内なる自由、精神的自由というものを何一つ想像できない苦悩知らずの愚か者だったのだ。
    著者はまた、収容所での苦しみの中で生きることの意味を失いかける他の被収容者たちに、精神医学と心理学を修した医師からの治療として、このようなことも述べる。

    ーー
     ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ、わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言葉を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。
    ーー

    訳者あとがきからは、読みながらずっと気になっていた『夜と霧』というタイトルの由来についても知ることができた。
    ”夜と霧”とは、なんと反ドイツと目された政治家や活動家を連行せよ、という総統令にナチスがつけた通称だったのだ。愕然とした。夜と霧。一寸先も見通せない夜と霧が立ち込めている様は想像でもとても恐ろしい。
    でも今本書を読み終えた私は、微かな光と道筋をそこに見ることができる。
    生きることがわたしたちからなにを期待しているか、と考えることができる。
    これから生きる先で想像を絶するような困難にぶちあたろうと、きっと何度も著者ヴィクトール・E・フランクルのこの言葉を思い出し、助けられ、励まされ、勇気をもらい立ち向かっていけるのだ。

  •  
     この本の存在を、わたしはずいぶん幼いころから知っていた。けれど、読めずにいた。というのも、一本の映像作品がトラウマのような記憶となって、わたしを同書からながらく遠ざけていたからだった。その映像というのは、『映像の世紀』というドキュメンタリー作品で、わたしがみた一本は、アウシュビッツ収容所がソ連軍によって解放された直後の様子を映していた。小さな部屋に隙間なく重なりあう、人のかたちをしたようなモノの山。わたしは最初、それらがマネキンだと思った。いや、そう思いたかった。けれど、それらはたしかに人間だった。しかし他方では、その人間が生前いったいどんな様子で笑うのか、話すのか、まったくわからないほど痛めつけられた、やはりモノのようでもあった。それほどまでに、映し出される屍には「人間らしさ」が奪われていた。次のとき、その屍の山をブルドーザーで(!)かき集める(!)映像をみたとき、私の心はからっぽになった。
     わたしは、この映像作品でみた屍のかっと見開いた眼をもう一度思い出すのが怖かった。「人間に尊厳などない」と思い知るのが怖くて、ホロコーストを扱った著作をながらく遠ざけつづけていた。しかしある機会を得て、「人間の尊厳」を問い直すため、本書を手にとることとなった。
     筆者が度々挙げる「羊群衆」と「囚人番号」は、未来の目的を失った囚人たちに「自己」を奪っていった。「生きる屍」―尊厳を奪われたモノ―となるのである。しかし囚人が、強制収容所という単なる社会環境の産物とみなす構造主義的な見方に筆者は疑問を投げかける。人はこの極限の状態においてもなお、「ほかのようにもでき得る」という精神的自由、「すなわち環境への自我の自由な態度は、外的にも内的にも在り続け」、「苦難と死とが人間の実存をはじめて一つの全体にする」と筆者はいう。戦時下の人々を支えたこの実存主義的人生観は、かくも勇ましき「人間の尊厳」のひとつのかたちだと思った。
     この本を読むなかでわたしが涙を禁じ得なかったのは、「愛」について語られるときだった。無関心、無感動の「生きる屍」を「生きる人間」へと変える「愛」は、「結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理」だと筆者は語る。筆者が仲間の囚人に伝言としての遺言を何度も語るとき、そこに無関心も無感動もない。彼は大切ななにかを思うとき、「人間」になるのである。
     また筆者は、その極限の状態のなかにあっても学問への「愛」を捨てなかった。彼のこの「愛」は、「人間の尊厳」の宿らぬ屍たちにそれを取り戻すひとつの力となる書物―『夜と霧』―を生んだ。
     しかしそれでも、それでも、わたしが『映像の世紀』でみたあの屍はやはり屍であって、元にはもうどうやっても戻らない。「人間の尊厳」を奪い去った権力がいつ我々を支配し、ふたたび屍の山を生むともしれない。筆者の心理学的な視点に隠された「生と死への勇ましさ」や「愛」を少なからずであっても知った今、わたしは恐れずにあの眼と向き合おうと思う。

  • H29.7.24 読了。

    ・第2次大戦中のナチスドイツが行ったユダヤ人迫害について記載された本。
    ・「どんな状況下でも人間は適応できる。」
    ・生きる意味を考えるうえで苦しむことと死ぬことの意味は不可欠である。

  • 2020/9/12読了。

    ナチスによる強制収容所の体験について生々しく書かれている。
    歴史の一つとして知っている程度だったので、こういう貴重な体験記を読めてよかった。

    そしてさらに、その体験を俯瞰で見ながら心理学的な見地からも語っている。
    極限状態に置かれた人間の行動が具体的な体験に伴って書かれており、大変勉強になった。

    このような体験をしながらも生き延びられたことは本当に良かったと思う。

    本旨とは外れるが、筆者は医者として働いておりその腕が買われて一般の収容者とは違う扱いを受けている描写があり、やはり手に職がある人は強いんだなと思った。余談失礼しました。

  • 本書を読みながら、どれほどフィクションであればよいかと思ったか。この残虐行為が過去100年以内の出来事だなんて、ショックを隠せない。本書は、アウシュビッツに収容され、段階を追って徐々に心を失っていく人々を、実際に収容されていた心理学者の視点から書いている。著者は「壮大な地獄絵図ではなく、おびただしい数の小さな苦しみ」と言うが、これのどこが小さな苦しみか。手始めに真裸にされ、荷物をはじめ腕時計や結婚指輪まで没収される。読んでいて胸が苦しかった。ユダヤ人はどこへ行っても迫害され、持ち物すべてを取り上げられる。だからこそ彼らは頭脳・知性を磨くのかと納得した。これなら誰にも没収することは出来ないからだ。最終章では、自由になった人々の精神面について書かれている。心理学者ならではの分析が行われており、非常に興味深い。

全1266件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

ヴィクトール・E・フランクル(Viktor Emil Frankl)
1905年、ウィーンに生まれる。ウィーン大学卒業。在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を、戦後まもなく『夜と霧』に記す。1955年からウィーン大学教授。人間が存在することの意味への意志を重視し、心理療法に活かすという、実存分析やロゴテラピーと称される独自の理論を展開する。1997年9月歿。
著書『夜と霧』『死と愛』『時代精神の病理学』『精神医学的人間像』『識られざる神』『神経症』(以上、邦訳、みすず書房)『それでも人生にイエスと言う』『宿命を超えて、自己を超えて』『フランクル回想録』『〈生きる意味〉を求めて』『制約されざる人間』『意味への意志』(以上、邦訳、春秋社)。

ヴィクトール・E・フランクルの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
サン=テグジュペ...
アレックス・ロビ...
レイチェル カー...
エーリッヒ・フロ...
夏目漱石
ボリス ヴィアン
有効な右矢印 無効な右矢印

夜と霧 新版を本棚に登録しているひと

ツイートする
×