興味深かったのは、ここフランドル地方独特の、エビ、魚の切身、瓶、銀器、皮をむきかけたレモンなど、その質感、量感ともに容易に描き難い対象ばかりを選んで、精微のかぎりに描き込んだ17世紀の静物画の数々であった。画家たちは、また絵の注文主たち(多くの場合承認などの市民階級であっただろう)は、何故かくも、写実それ自体に拘泥したのだろうか。(p.5)
シンプロン。トンネルを抜けると、いきなり大気の色が一変した。スイスの大気は叩けばカンと響くように透明だったが、アルプスのこちら側では、ちょっと湿りを含むのか、旧い総天然色映画を思い出させる赤っぽい暖色である。通過する駅の機関区ごとに赤旗がはためいているのも、いかにもイタリアらしく好もしい。
ミラノで乗り換え、ロンバルジア平野を列車が走る頃には、あたりをスミレ色に染めて夕闇が降りて来た。ポプラの並木、収穫を終えた畑、遠く見える農家の小さな焚火までがいじらしく、懐かしかった。(p.17)
ウフィッツィ美術館では、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」「春」はもちろんのこと、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、カラヴァッジオ……、豊饒すぎる名画の洪水に溺れそうな思いをした。「素晴らしい!しかし、過剰だ。饒舌だ」と、その時の私の手帳にある。(p.18)
ボッティチェリの「受胎告知」では、受胎を告げる大天使ガブリエルは、たったいま駆けつけたばかりというように右手を差し伸べ、処女マリアの驚いて身をよじる姿は、両手といい、腰つきといい、まことに表情豊かである。画面全体に、受胎告知の一瞬をスナップ写真に撮ったかのようにダイナミックな動きが漲っている。(p.20)
(フラ・アンジェリコの「受胎告知」について)描かれた場面はまさしく修道院の回廊であり、飾り気のない塀に囲まれた庭には緑の草が生えているが、花々は小さく可憐である。処女マリアは、他の「受胎告知」の図像では祈祷台を前にひざまづくか、あるいは読書をしているのだが、ここでは何も持たず木の椅子にただ端然と腰掛けている。また、歳暮の純潔の象徴である百合の花、あるいはオリーヴの枝を手に持つことになっているガブリエルのほうも、ここでは、その背の翼こそ色彩豊かであるものの、両手には何も持たず胸の前に交差させているだけだ。
マルティーニにあったビザンチン風の華美な装飾も、一切退けられている。過剰や饒舌、大げさな身振りは、ここでは嘘のように影をひそめている。いや、時間の流れから言うと私のほうが遡行しているのだから、影をひそめる、というのは正確ではない。神が地上に降り人間に近付くように、あるいは、受胎した生命が次第に活発に活動を始めるように、これ以降、ルネサンスの進行とともに、描かれた神や聖人たちは急速に躍動感を強め、多弁になってゆく。
しかし、ここでは、神はまだ地上に片足を着けたばかりであり、受胎された生命はまだあまりにも繊細である。
マリアは、ここでは、吐息のように、かそけくつぶやく、
「われ、未だ人を知らぬに……」と。
それでいて、マリアもガブリエルも、ともに、まるで恥じらうようにほんのりと頬を染めて、生命の歓びを表しているのだ。この簡潔さ、慎ましい優美さが、フラ・アンジェリコの「受胎告知」を、他のあまたの「受胎告知」から区別し、特別なものにしている。(pp.22-24)
現世的な価値観に対する純粋な抵抗を貫くのにも、衣食住などの現世的な裏付けは必要だ。(ゴッホの場合は画材も。しかも、これはわずかな金額ではなかった。)この単純な矛盾が古今の創造者、求道者、革命家を苦しめてやまない。そこで、彼らは自らに鞭を振るうのだが、それは、その鞭の意味を理解する者をも同時に打ち据えずにはおかない。彼らは、自分自身だけでなく他者に対しても、創造者、求道者、革命家であることを不断に求める。創造者、求道者、革命家の純粋性を護るためには、彼らの理解者は、その鞭の痛みを堪え忍ばれなければならない。
それが、「重荷」ということだ。
だから、「悲しみと孤独」は、ゴッホだけでなくテオの側にもあった。それを凄絶な色彩感覚で表現することが兄の役割であり、それを無言で甘受することが弟の役割だった。テオは、まさにそういう仕方で、兄ゴッホの創造の苦闘に当事者として参画したのである。(pp.61-62)
「スペインの戦争は人民と自由に対する反動の戦争だ。私の全芸術的生涯はただ芸術の死と反動に対する闘いのみであった。私が制作中の『ゲルニカ』と呼ぶことになる作品と、最近の私の全作品において、スペインを恐怖と死の海に沈み込ませた軍事力に対する私の恐怖感をはっきりと表現している」
本物を観なければその素晴らしさなりもの凄さなりがわからない絵というものがある、すべて名作とされる絵はそうだとも言えるが、「ゲルニカ」の場合がまさにそれである。たとえ、「ゲルニカ」においてピカソが採った表現の斬新さや奇抜さのようなものは伝わるとしても、その悲しみの深さ、怒りの烈しさは伝わり難い。それらを表現するためにこうした斬新さが苦しみの中から産み出されねばならなかったことの、やむにやまれぬ必然性を得心することはできない。(p.78)
日本には戦争協力画はあっても、「ゲルニカ」に比すべきものはついにない。戦争賛美は論外だが、名人大家たちが多くの戦争協力画を描いたことそのものを「なかったこと」のようにカギ括弧にくくって白ばっくれている退嬰した精神からは、「ゲルニカ」の生まれようもないのは当然のことだ。このことこそ「まったく美術上の観点」からいって、大問題でなければならない。(p.79)
彼女は絵空事のなかの人物ではなく、500年前のフランドル地方に実際に生活し泣いたり笑ったりしていた人物でもある。見れば見るほど、なるほど確かにそうであっただろうとしか思えない。リアルな実在感、というのはこういうことを言うのだ。この時代には実際的な目的で肖像画がたくさん描かれるようになり、絵師たちは写実の職人芸を競いあったのだが、この「婦人像」は徹底した写実の極致において、若い女性の内面のかすかな人間的情動までも描き出すことに成功している。(p.163)
大聖堂が――一般に言って、西洋の古寺が――私の胸に掻き立てるのは、ロダンの言う「信頼、安心、平和の気持ち」とは正反対の想いだ。大聖堂の床や壁には「無数の骨が埋まっている」。それは、それ自体、壮麗でグロテスクな石棺だ。そこには、劫罰へのおののき、暗愚な熱狂、血みどろな殺戮の思い出が瀰漫している。この石棺の淀んだ空気が、私を息苦しくさせ、かつ、静かに酩酊させる。そして、次第にはっきりとしてきたのだが、このもの狂おしい酩酊感に私は魅了され始めていたのだ。(p.186)