なぜ古典を読むのか

制作 : Italo Calvino  須賀 敦子 
  • みすず書房
3.22
  • (2)
  • (5)
  • (14)
  • (0)
  • (2)
本棚登録 : 67
レビュー : 6
  • Amazon.co.jp ・本 (329ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622046202

作品紹介・あらすじ

ぎっしり三十篇のエッセーを収めた本書は、文学を読む愉しみにあらためて気づかせてくれる。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • 題名と訳者に惹かれて購入したが、とても自分程度の文学知識では読みこなせないと実感。
    名前も聞いたことがないような作者(例えば、アリオスト、ドニ・ディドロ、ガッダ、フランシス・ポンジュ、レイモン・クノーなど)について、その具体的な作品を逐一解説されても、未読の者には何を論じているのかがまったくわからない。
    ことほど左様に、世界文学の海は広いという事実の前に、ただため息だけが残った。

  • 古典にハマっていた時期に手に取りました。
    絶版のため、図書館で借りつつコツコツ読みました。
    実際に手に取ったことがあるものから、名前も知らなかった
    名著まで。
    個人的には一番最初の定義づけの部分が一番好きです。

  •  誤植について、とても不愉快な出来事があった。
     関わっている業界の専門誌に、先頃二度目となる寄稿をした。届いた掲載誌に目を通しいていて愕然とした。「訪問看護」と記したはずの原稿が「訪問介護」と誤植されている。発音上は「ん」と「い」の一文字違いに過ぎない誤植だが、専門家の立場からすると絶対に混同してはならない意味の相違がある。そもそもその専門誌には、私の学会発表を聞きに来た編集者が丁寧に依頼してきたのが縁で最初の寄稿をしたものだ。その時は何往復ものやり取りを繰り返して丁寧に校正をした。ところが今回は担当編集者が交代し、こちらが送った校正の内容が正しく反映されているかを確かめる機会もないままに、矢庭に完成した掲載誌が送りつけられてきた。その結果がこれだ。自分の書いた文章が誤植のまま世に出てしまった。全然几帳面な性格じゃない私だが、介護と看護の区別もつかない素人が恥知らずに世間を歩いているかのようで、それ以来気分が悪くて仕方がない。

     全く逆の愉快な校正作業もあった。地元にある文学館が年一回発行している文芸誌に拙文が載ることになった。区民限定の極めて小さな文学賞の随筆部門で三等賞に入賞したからなのだが、ここの担当の学芸員さんがとても礼儀正しくて丁寧なのだ。「大変不躾なお願いなのですが」と前置きされた依頼状と、とても正確に直してくれた校正原稿を送ってくれて、こちらの確認を求めてくる。元来プロの著述者じゃない私は、文字を極めて大切に扱う文芸誌の世界を初めて垣間見た気がしてちょっと楽しかった。余談だが、一文字の違いに過敏になってしまった今の私は、依頼状に署名されたこの文学館の担当学芸員の氏名の四文字にピンときてしまった。昭和初期のある歴史上の事件の関係者と名字は同一、名は一文字違いである。映画にもなって元木クンが演じていたあの歴史上の人物と縁続きの人である可能性が高い。

     ま、余談はそれくらいでこの本の話である。
     名著の呼び声たかいエッセイを幾冊か遺した須賀敦子だが、彼女の著作を一冊残らず読破するという誤った目標を掲げてしまった私は、彼女が自ら強く望んで翻訳することになったこの本を訳者が彼女であるという理由から手に取った。そもそも、イタリア文学の日本語訳と日本文学のイタリア語訳の両方の分野における彼女の成した仕事は膨大で読破など誰にも不可能なのだが。
     それでもともかく読み始めた途端に、意外なことにまた誤植を発見してしまった。パラダイムの「ダ」が「タ」になっているのだ。しかも、タの右わきには薄い鉛筆書きで濁点が書き込まれている。一見して、こりゃプロの校正者の手による書き込みだな、と直感した。
     過敏になっている私はすぐまたもうひとつの誤字か誤植と思われる個所を見つけてしまう。「尋ねる」か「訊ねる」であるべき≪問う≫という意味のところに「訪ねる」という活字があてられている。推敲と校正に人一倍時間を惜しまなかったことで知られている須賀敦子さんの翻訳本であるのに、これは一体どうしたことだろう。
     しかも、誤植のあった個所は「なぜ古典を読むのか」という書名に込められた問いに、こうだからだと答えるこの本の精髄といえる一文の中にある。 著者のカルヴィーノは、なぜ山にと問われたアルピニストが「そこに山が」と答えたのと同様に、 「なぜ古典を読むのか」との問いに、「読まぬより、読んだ方がいいからだ」と大真面目に答える。そして、わざわざ苦労してまで読むこともなかろう、と揶揄する反対者に対しては、ソクラテスの故事を引用する。その故事は冤罪の獄で毒杯を仰いで死ぬ直前のソクラテスが、そんな時だというのにフルートで新しい曲の練習をしていたというものだ。ある人が「いまさらなんの役に立つのか?」と≪尋ねた≫。答えは「死ぬまでにこの曲を習いたいのだ」というものだった。
     この文はそう締めくくられているのだが、その≪尋ねる≫が、訪ねるになっているのだ。
     訳者あとがきで須賀さんは、訳すことを強く望んだのが自分であること、翻訳作業を通じて多くの新たなことを学んだことを記し、「これらの文章を残してくれたカルヴィーノに、心から感謝する」とあとがきを結んでいる。まさに、ソクラテスに劣らぬ知的謙虚さである。

     そして私を驚愕させたのは、訳者あとがきの日付が「1997年9月」となっていることだ。それは、その半年後に亡くなる彼女が、病の小康を得て数日の退院をした時期に他ならない。間もなく再入院して帰らぬ身となった彼女に、この時ばかりは丁寧な推敲と校正をする時間的な余裕があったはずがない。出版社も、それがわっかっていながら「手遅れ」にならぬうちに出版するということだけに注力したに違いない。 97年9月、という日付にはそういう意味が隠れている。

     思いがけない誤植の発見が浮かび上がらせてくれたことがらは、切ない事実だった。切ないけれども、それは古典を、文章を、一文字一文字を慈しんだ人たちの隠れた、そしてさわやかなエピソードであると思う。

  • どれもカルヴィーノらしくて好きだけれど、訳者の須賀さんと同じくクセノポンのところは特に好きだったなぁ。

    オーダーがちゃんと関連させてあるのでするする読めるし、読んだことのある本はもう一度、ない本はぜひにとも読みたくなる。

    やはり記者出身だからか、論旨がはっきりしていて読みやすい。でも味わい深い!!かっこいい。

  • H.21.1.10.松阪BF.4499

全6件中 1 - 6件を表示

著者プロフィール

1923年キューバ生まれ。両親とともにイタリアに戻り、トリノ大学農学部に入学。43年、反ファシズム運動に参加、パルチザンとなる。47年、その体験を元に長篇『くもの巣の小道』を発表、ネオ・リアリズモ文学の傑作と称される。その前後から雑誌・機関誌に短篇を執筆し、49年短篇集『最後に鴉がやってくる』を刊行。エイナウディ社で編集に携わりつつ作品を発表、一作ごとに主題と方法を変えながら現代イタリア文学の最前線に立ち続ける。主な長篇に『まっぷたつの子爵』(52年)『木のぼり男爵』(57年)『不在の騎士』(59年)『見えない都市』(72年)『冬の夜ひとりの旅人が』(79年)などがある。85年没。

「2018年 『最後に鴉がやってくる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

なぜ古典を読むのかのその他の作品

なぜ古典を読むのか (河出文庫) 文庫 なぜ古典を読むのか (河出文庫) イタロ・カルヴィーノ
なぜ古典を読むのか (河出文庫) Kindle版 なぜ古典を読むのか (河出文庫) イタロ・カルヴィーノ

イタロ・カルヴィーノの作品

この作品に関連するサイト

ツイートする