遊園地の木馬

  • みすず書房 (1998年1月1日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (264ページ) / ISBN・EAN: 9784622046509

感想・レビュー・書評

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  • 『九時間かけて一枚仕上げる。ちっともうまくならないが、せっせと励んでいる。絵の勉強以上に精神の健康法にいい。電車のつり革につかまっていて、想像のなかで景色をつくる。大都市の屋根の並びを取り払い、畳々とつづく山並みに換える。雲を走らせ、雨を降らせる。 気分しだいで「光あれ!」であって、光と影の交錯する空間をつくることができる。山峡に一筋の道を通して、西陽のなかに人を佇ませてもいい』―『夢の風景画/がんぽんち』

    過去形がほとんど無い文章が啖呵を切るように続いてゆく。それをぶっきらぼうと受け止めることもできるけれど、二世代程上の人の話と思えば黙って聞ける。そうしていると、折々妙に沁み入るような話が聴ける。そんな風に人の話を聞く術を身に着けたのは社会人生活の中で「のみニュケーション」が大切だとまだ言われていた時代を過ごした時の癖のようなものか。そんな有無を言わさぬ雰囲気のある午後五時以降の活動も、今や我慢を強いる「ハラスメント」と受け止められかねないが、そうして覚えた知恵のようなものが役に立たないこともない。まあ、でも今時の若い人に読んでみろと勧めても、すんなり受け容れられるような気はしないけれど。

    かつての理系少年にとって「池内」というと「了」なのだが(学生時代、教わったことはないが、すれ違ったこと位ならあった、かも知れない)、どうして物理の先生がドイツ文学にも手を染めているのかと、勘違いしていたのが「紀」の方だ。恥を忍んで言うのだが、そんな勘違いをしていた人も自分だけではないのでは? お二人のエッセイも時々どちらがどちらかあやふやなまま読んでいたりもする。そんなことはありませんか? 当然、知っている人は知っているだろうけれど、「紀」氏は「了」氏の四歳程上の兄上なので名前が読み難いところも似ているし、エッセイの雰囲気も似ている。独文学者と物理学者の違いはあれども。

    書棚には、池内紀訳のカフカ全集が並んでいる位なので個人的にも、そして各紙の訃報でも取り上げられていたように世間的にも、池内紀と言えばもちろんカフカなのだけれど、エッセイの中で漂う快刀乱麻的物言いは随分とカフカの雰囲気とは違っている。翻訳者だからといって翻訳する作家の雰囲気と似ていなくても当然といえば当然なのだけれど、例えばポール・オースターと柴田さんとか、ジョディ・バドニッツやミランダ・ジュライと岸本さんとか、はたまたレイモンド・カーヴァーと村上春樹とか、何となく固有の波長が共鳴し合っているように見える場合も多いので、やっぱり意外な感じがする。逆に「ゾマーさんのこと」のパトリック・ジュースキントは、翻訳者の雰囲気に近いのかなと思ったり。

    『錯覚されるようだが、過去と現在と未来とは同一線上にはないのである。少なくとも同じ次元にはない。三者はまったく別のものだ。現在は過去とも未来とも、本質的に何らかかわりがない。過去は深遠で意味深いとしても、現在は浅薄で、しばしば無意味である。未来に美しい設計図は引けるかもしれないが、現在にはそのカケラすらない。多くの経験をつんだからといって、ちっとも聡明にならないのは、世の老人を見ればわかる。未来の夢が人を美しくしないのは、巷の青年や子女の生態からもあきらかだ』―『毎日が日曜日/パソコン』

    未来は現在の延長線上にある訳ではない。そんなことを言いながら、さも人生ケ・セラ・セラだと言わんばかりのことを書いたかと思えば、一歩一歩進まなければ頂きに辿り着けない山登りに精を出したり、過去に仕込んで来た知恵で世の中を喝破したりする(君子豹変す、です)。そこが、また面白い。言ってみれば、かつてちょっと付き合うのが億劫だった会社の上司と飲んでいる内に、いつの間にか大笑いしている、と言ったところか。まあ、繰り返しになるけれど、今時、そんなことを言うのも時代遅れではあるだろうけれども。

  • 「身の回りの一つ二つのものを捨てれば、
    かなりの程度世を捨てられるし、
    世から捨てられるのである」
    2024年1月20日の朝日新聞「折々のことば」
    にあった種村季弘の言葉だ。
    出典は『雨の日はソファで散歩』。
    「世から捨てられる」が強烈だった。
    最近の「折々のことば」では松田道雄の
    「スポーツ・クラブは兵営みたいです。」
    (2023年12月9日)と並ぶ印象深い言葉だった。
    『雨の日は』を早速近くの図書館で借りた。
    冒頭の言葉はP37「名刺」にあった。
    「テレビを家の中に置かず、名刺を持たないと
    どういうことになるか。
    テレビ番組が話題になる大抵の席で
    口をきかなくてすむし、
    人に会っても名刺を渡さないから
    すぐに忘れてもらえる。
    この情報過剰時代にその人の身のまわりだけが
    ひっそり閑(かん)となり、
    都会の真ん中に住んでいて世捨て人になれる。
    深山幽谷にいるから隠者ではない。
    身の回りの一つ二つのものを捨てれば、
    かなりの程度世を捨てられるし、
    世から捨てられるのである。
    池内紀さんの近著『遊園地の木馬』を覗くと、
    それを実践している池内さんがいて、感服した」
    「これでなくてはいけない。
    ヨク隠レシ者ハヨク生キシナリ。
    本物の芸術家は…世を避けて芸術活動に
    打ち込むものなのである」
    現代でいうならテレビ、名刺は
    ケイタイ、SNSだろうか。
    池内紀の『遊園地の木馬』…
    読まないでかとなった。

    本書は近くの図書館になく、リクエストした。
    そうすると、運良くどこかの図書館にあれば
    回してくれるのだった。気長に待つ。
    『種村季弘』(河出書房)を読み終えた頃
    丁度メールが届いた。
    家族で食事に行く途中図書館に寄る。
    この歳になるまでこんな素晴らしい文筆家
    (種村季弘のこと)がいたことを知らなかった、
    と助手席の息子に語る。色んな発見、出会いが
    まだまだいっぱいある。
    世界の広さと人生の深さを思った。
    本書は県のはずれから届いた。
    1998年発行、天はほこりでうっすら汚れていたが
    小口の角はまっさらに切れ上がったままだった。
    いままで誰も読まなかったのではないだろうか。

    すばらしい本だと思った。
    種村季弘の言っていた「隠者」のような「実践」
    の意味は、読み始めてすぐ「はじめての住居」
    から分かる。慎ましい生活。
    題名は、近所の壊れたまま放置された遊園地の
    木馬から来ている(P49)。
    特に好きなのは、「テレビのない自由」(P14)と
    「『薄情』なやめ方」(P154)。

    「私たちの日常は、ごく平凡なものだ。
    愛し、愛され、悲しみ、怒り、疲れ、また元気づき、
    よろこびを見つけ―
    自分の刺激だけで十分充実してやっていけるのでは
    なかろうか」
    「外からの生々しい刺激を受けないと、
    生きたここちがしないとしたら、
    それはかなりカラっぽの人間なのではあるまいか」
    (P16)
    「私は『薄情』というのが好きだ。※
    人にも時代にも、あまり親しく寄りそわない」
    (P154)
    「過去はどんどん破いて捨ててきた」
    「捨てた分だけ新しく創る余地ができたような
    気がする」
    「保障つきの一歩より、未知の一歩を踏み出す
    方がたのしい」(P155)

    「死とむきあってたじろがぬためには、
    現世への未練をなるべく少なくすることだ」
    (松田道雄『われいかに死すべきか』P225)
    松田は「未練」を少なくする、と言った。
    山折哲雄は「身軽」、
    種村は「世から捨てられる」。
    道元は「貧なるは道に近し」と言った。
    諦念、清貧、喜捨、一期一会、潔さ
    を感じ表す言葉。
    池内の「薄情」も今回それに加わった。
    深い。
    本って素晴らしいと真に思う。

    「ニガ手があるのは、いいことだ。
    いや応なく選択の幅がせばまる。
    わずかにのこった自分の得意ワザに集中できる」
    (P27)
    「私は旅先で用ずみの品や下着を
    すてることにしている。
    だからリュックがだんだん小さくなる」
    (P67)

    「いつのまにかいなくなって、
    だれにもよけいな迷惑をかけない」(P156)
    井上陽水の『チエちゃん』のような去り方。
    種村季弘は自分の葬儀を1年間行わないよう
    遺言したという。
    本書のこの文章が頭にあっただろうか。

    「毎日が日曜日。となると、はたして
    まわりがどんなふうに違って見えるものか」
    (P162)

    「近づきすぎず、もたれ合わず、
    どちらかというと薄情なのがいい」※
    (P179)

    「昨日までなかった新しいもの。
    たしかにそうだとしても、
    それは必ずしも今日と結びつかない。
    明日に威力を発揮するもの、
    たとえそれが見込めるとしても、
    べつにいま、すぐに、しょいこむことはない」
    「錯覚されるようだが、
    現在は過去とも未来とは同一線上には
    ないのである。
    少なくとも同じ次元にはない。
    三者はまったく別のものだ。
    現在は過去とも未来とも、
    本質的に何らかかわりがない」(P182)

    「安物買いのいい点は、
    すぐに値段を忘れられる点である。
    それに安物は、どこか愛嬌がある」※
    (P243)

    最後の一文は
    「おかず一、二品で満腹するだけの
    修業はしている」(P258)
    「修業」というのがいい。
    「別れぎわは、さりげなく、あっさりと」(P228)
    種村季弘の言っていたのは、
    こういうところだろう。

  • 題名と表紙の写真に惹かれて借りたもの。板壁のこげ茶色の背景に自転車と旧型の乳母車(ベビーカーじゃなくって、乳母車って感じの、あれ)が映ってる写真。それもご本人が撮られたそうです。
    日本経済新聞(!)に連載されていたエッセイで、筆者はなんとドイツ語の先生。神戸(神戸外大ってあったっけ?神戸大かな)や東大で教えてらしたみたい。有名な方かもしれないですが、知らない(無知>自分)
    さらっとした読み口で、心地よく読めるのがいい。エッセイはいいよね。

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著者プロフィール

1940年、兵庫県姫路市生まれ。
ドイツ文学者・エッセイスト。
主な著書に
『ゲーテさんこんばんは』(桑原武夫学芸賞)、
『海山のあいだ』(講談社エッセイ賞)、
『恩地孝四郎 一つの伝記』(読売文学賞)など。
訳書に
『カフカ小説全集』(全6巻、日本翻訳文化賞)、
『ファウスト』(毎日出版文化賞)など。

「2019年 『ことば事始め』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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