明るい部屋―写真についての覚書

制作 : Roland Barthes  花輪 光 
  • みすず書房
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本棚登録 : 702
レビュー : 38
  • Amazon.co.jp ・本 (157ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622049050

作品紹介・あらすじ

本書は、現象学的な方法によって、写真の本質・ノエマ(『それはかつてあった』)を明証しようとした写真論である。

感想・レビュー・書評

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  •  「写真とはそれ自体何であるのか、いかなる本質的特徴によって他の映像の仲間から区別されるのか」。冒頭に置かれたこの問いへ応えるため、著者は本書で「無秩序性(分類が不可能)」、「実践(写真の物理的性質)」、「自己同一性(撮られた自分の写真を、本当の自分ではないと感じる)」などをキーワードに、写真の深部を注意深く探り当てていく。そして、「ストゥディウム(一般的関心)」と「プンクトゥム(著者を惹きつける細部)」という術語により、その特異性を説明できると結論する。
     けれども、まったく突然に著者はそれを取り消す。そして、亡くなった母への思慕や追悼を通過することで写真の本質に迫ろうとする後半では、論理が支配した前半から一転して、本書は私小説の気配を濃くする。
     哲学者・批評家であった著者の個人史と、学術的な写真論が融合した、比類のない一冊。

  • 写真論。論文としても読めるし、私小説としても読めてしまうって驚き。かなりメランコリーに傾いてはいるけれど・・・でも写真史にとっては重要な一冊。文章に、行間に、余白に、母への愛がそっと息をしている

  • バルトは個別的なことと普遍性の間のギャップという問題意識を長く持ち続けたような気がする。この写真論もその問題意識上にあるだろう。個別性をダイアン・アーバス的に普遍性へとつなげようとする姿は、たぶん失敗しているにせよ感動的。

  • 写真とは、一度しか起こらなかったことを再現するもの。偶発的なものであり、あるがままのものである。仏教で言う「空」。標識を与えるための原則を欠く写真は記号として固まらない。撮影者はカメラを通して自分が捉えたい被写体を眺め、区切り、枠に入れ、遠近法に従わせるのである。今日では誰もが至る所で写真を見るが、その中でもある種の写真だけが私の心に響き、私の関心を引く。写真の機能とは、知らせること、再現すること、不意に捉えること、意味すること、欲望をかきたてること、である。

  • 撮る人、撮られる人、写真を鑑賞する人、という三者の関係性によって写真は意味を帯びる。
    撮る人/撮られる人にとって今の瞬間を切り取った写真も、写真を鑑賞する人にとっては過去に存在していた「今」の記録になる。
    写真において普遍的に美しい形式や構図などはなく、鑑賞する個人の文化的背景やその時の感情によって大きく良し悪しが決まる可能性がある。
    著者曰く、写真は過去と現在/自己と他者が介在した奇妙な特性を持ち狂気を内包している。その狂気を受け止めるかどうかは個人の選択になる。
    ただ、いわゆるトラウマが想起されるように、個人では選択不可能な気もするので、ここらへんは再度読み直し理解が深める必要あり。

    =====================
    社会は「写真」に分別を与え、写真を眺める
    人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとつとめる。
    その目的のために、社会は二つの方法を用いる。
    …以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを
    完璧な錯覚として文化コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる
    手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(pp.142-146)
    ====================

  • 写真論としては古典の部類。写真がモダンアートに取り込まれようとしている現在においては、歴史的な価値しかない内容。

  • ~狂気をとるか分別か?「写真」はそのいずれも選ぶことができる。

    なんと魅力的な文章か。バルトの解説本よりもバルトの言葉に触れるべきなのだ。

    抽象化を避け、だからといって具体を語り、陳腐化することのない視点。そこがすごい。

    ・写真が芸術に近づくのは絵画を通してではない。それは演劇を通してなのである。
    ・写真が心に触れるのは、その常套的な美辞麗句、技巧、現実、ルポルタージュ、芸術等々から引き離されたときである。
    ・思い出すことができないという宿命こそ、喪のもっとも堪えがたい特徴の一つ。
    ・プルースト:私はただ単に苦しむというだけでなく、その苦しみの独自性をあくまでも大事にしたかった。
    ・写真には未来がないのだ。写真にはいかなる未来志向も含まれていないが、これに対して映画は未来志向であり、したがっていささかもメランコリックではない。
    ・逆説的なことに、歴史と写真は同じ19世紀に考え出された。・・・写真の時代は、革命の、異議申し立ての、テロ行為の、爆発の時代、要するに我慢しない時代、成熟を拒否するあらゆるものの時代でもあるのだ。
    ・私は映画を一人で決して観ることには耐えられない(十分な数の観客がいなければ、十分な匿名状態は得られない)が、しかし写真を見るときは、一人になる必要がある。
    ・写真は、私の気違いじみた欲求に対して、ただ何とも言い表しようのないあるものによって応えることしかできない。・・・そのあるもの、それが雰囲気である。・・・言葉を欠いた悟りであり、「そのとおり、そう、そのとおり、まさにそのとおり」という境位の希に見る、おそらく唯一の明証であった。
    ・要するに雰囲気とは、おそらく、生命の価値を神秘的に顔に反映させる精神的なある何ものか、なのではなかろうか。
    ・一般的なものとなったイメージが、葛藤や欲望に満ちた人間の世界を例証すると称して、実はそれを完全に非現実化してしまうことが問題なのである。

  • 名文。写真に対する熱狂的な考察を、面白い観点、鋭い感性、分かりやすい文章を用いて書いている。写真論の先駆的な本。写真のオントロジーだけでなく、見る•見られる•撮る•撮られるなど立場をかえてそこに現れる人間の本質についても述べられていて、かなり面白い。

  • ゴージャスなナポリタン、つながり。

  •  ナポレオン皇帝の写真を見るということは、ナポレオン皇帝を見た誰かの眼になるということである。この事実は驚くべきことなのだが、一緒になって驚いてくれる人はいない。映画その他の映像の仲間とは別に、なぜ写真は存在するのか。写真は、ただ一度しか起こらなかった偶発的なものとして、二度とふたたび繰り返されることのないあるがままのものとしてある。

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著者プロフィール

フランスの批評家・思想家。1953 年に『零度のエクリチュール』を出版して以来、現代思想にかぎりない影響を与えつづけた。1975 年に彼自身が分類した位相によれば、(1)サルトル、マルクス、ブレヒトの読解をつうじて生まれた演劇論、『現代社会の神話』(2)ソシュールの読解をつうじて生まれた『記号学の原理』『モードの体系』(3)ソレルス、クリステヴァ、デリダ、ラカンの読解をつうじて生まれた『S/Z』『サド、フーリエ、ロヨラ』『記号の国』(4)ニーチェの読解をつうじて生まれた『テクストの快楽』『彼自身によるロラン・バルト』などの著作がある。そして『恋愛のディスクール・断章』『明るい部屋』を出版したが、その直後、1980 年2 月25 日に交通事故に遭い、3 月26 日に亡くなった。没後も、全集や講義ノート、日記などの刊行が相次いでいる。

「2018年 『声のきめ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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