- Amazon.co.jp ・本 (235ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622050094
作品紹介・あらすじ
マスメディアに現われるフィクションとしての「イスラム」。現代アメリカ最高の批評家が、その造出過程を見事に抉り、「知と権力」の構造を鋭く撃つ問題作。
感想・レビュー・書評
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今日の世界のシステムがどういうふうに歴史的に形成され、これからどうなっていくのか、ということを考えるにあたって、ポストコロニアル関係をざっと流し読み中。
本書は、サイードの著作としては、「オリエンタリズム」とともに、最初期に日本に紹介されたもの。
「オリエンタリズム」で主張された、西洋がいかにイスラム、オリエントを自分の都合のいいように、つまり支配するためのものとして、理解してきたか。そして、アカデミックな知が権力といかに談合していたか。という話の現代版である。
現代版といっても、当時の現代はイラン革命のさなかで、テヘランのアメリカ大使館占拠問題とその報道が分析の中心となる。
うーん、確かに、私たちがイスラムを見る構図は、今になっても変らない、というか9.11以降、よりステレオタイプ化しているんだろうなー、と思った。「イスラム」に関する問題がこれだけ大きくなっているにもかかわらず、あるいは、大きくなっているがゆえに、自分中心にしかそれを見る事ができない。ということか。
「知識と権力」の関係について、ディスクール分析を通じて、迫っていくという方法論は、フーコーの影響が大きい。なので、この本の分析内容については、そうだなと思う事やなかなかスリリングな分析が多いのだが、思想的にはフーコー的な問題設定を大きくはみ出す余剰みたいな部分は少ない気もした。
フーコーを超えるような視点が、「オリエンタリズム」批判のなかで、もっと明確にでてくれば、面白いのにな、と思った。
先日読んだスピヴァクの「サバルタンは語ることはできるか」のフーコー、ドゥルーズ批判が、ポストコロニアル批評、のなかで、注目される意味がなんとなく分かったような気がした。(といっても、スピヴァクが引用するのが、デリダとマルクスなので、なんだかなー、なのだが)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
不愉快なラベルが早く処分される日なんかこない、とニヒルな態度を取ると一見かっこいいんだけどなんの解決にもならないんだよねって話。
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「オリエンタリズム」のサイードが、現代西欧世界においてイスラームの表象がいかに形成されるかについて考察している。「オリエンタリズム」と並ぶサイードの代表作。
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これは読んで疲れた!彼が主張していることは、わかるし、アメリカの文化がここまで浸透している現在、心に留めていたほうがいいだろう。しかし、彼の文章は読みにくい。