サド、フーリエ、ロヨラが<言語設立者(ロゴテート)>として、それぞれの言語体系(ラング)を基礎づけている3人であるということを議論する一冊。全然違う3人なのに面白い!というかサド以外著作は読んだことないのですが、読んでいます。
最初のはしがきで紹介される3名が行っている同一の操作について(p.4-8)
①孤立すること:"新しい言語体系は物質的空白から現れねばならない"
②分節化すること:"弁別的記号なしに言語体系はない"(サドは性的享楽を一文のなかのいくつかの単語(姿勢、形象、逸話、集会)のように配分する)
③整序すること:ただいくつかの基本的記号を組合わせるだけでなく、エロス的、幸福至上観的(ウーデモニスト)、または神秘的な、見事なシークェンスを、より上位の秩序、もはや統辞法のではなく韻律法のものである秩序のもとに置くからだ。この新たな言説(ディスクール)はひとりの<整序者>を、<儀典長>を、<修辞者>をもっている。…
④演劇化すること:表象作業を舞台装置で飾ることではなく、言語作用の限界をとりのぞくこと。…文体がエクリチュールのうちに解消されていくにしたがって、体系は体系的なものに、小説は小説的なものに、祈祷は幻影的なものに、解体する。…各人のうちに、いまではもう一種の舞台装置係しか残らない。
したがって、サド、フーリエ、ロヨラが言語体系の設立者であり、またそれだけであるのは、まさしく何事も語らないため、あるひとつの空在を守るためなのである…
<テキスト>を知的対象(省察、分析、比較、反映、等々の)として想像することほど、意欲を失わさせるものはない。<テキスト>は快楽の対象である。<テキスト>のああたえる享楽はしばしば文体的なものにすぎない。…とはいえときおり、<テキスト>の快楽はより深い在り方で達成されることがある(そしてここにこそ<テキスト>があると真に言いうるのは、そのときだ)。それは、≪文学的≫テキスト(<書物>)がわれわれの生にのり移ってくるとき、もうひとつ別のエクリチュール(<他者>のエクリチュール)がついに我々自身の日常性の断片を書くに至るとき、簡単に言えば一個の共=存が産れるとき、のことである。そのとき、<テキスト>の快楽の指標は、われわれがフーリエとともに、サドとともに生きうるであろうということだ。ひとりの作者と共に生きうること、それあかならずしも、この作者によってその著作のうちに示されたプログラムを、われわれの生活のうちに達成することを意味しない…サドとともに生きること、それは一定の時に、サドの言語を語ることであり…(ロヨラとともに生きること?ーどうしてそれが不可能であろう?もう一度繰り返せば、問題は、内容とか、確信とか、信仰とか、<主義>とか、さらにはイメージさえも、われわれの内部に移植することではない。問題は、テキストから、一種の幻影的秩序を受け取ることである…)(p.9-10)
ここで思い出したのは、ヴェイユのことです。
サドI
…サド的文法には、主としてふたつの、行為の規則がある。…第一のものは包括の規則である。行為の第二の規則は相互交換性の規則である。(p.40)
確かにサドの文書っていわゆるtop/bottomが入れ替わりがちか、言及されてないなあってずっと思っていたのですが答えがここに笑。
…この規則は個体のグループではなく行為の階級しか存在しない真に形態的な言語体系にサド的エロス性を同化させるからである。…第二の理由は、この規則はサド世界の分割を性的実践の個別性の上に基礎づけることをやめるよううながすからである(p.41)
ロヨラ
…隠遁者を孤立させるのは規定というもの自体であって、その内容ではないからだ。常識はずれであることによって、この規定は、習慣的なものから脱却させ、修行者を以前の(別の)動作からひきはなし、隠遁生活に入る前に話していた世俗の言語体系の観照を押しのけるのである。これらの約定のすべてには、修行者のうちに、新しい言語体系の練りあげと勝鬨とにとって必要な、一種の言語体系的空虚を捉えるという役割がある。空虚は理想的にはあらゆる記号顕現(セミオフアニー)の先行的空間だからだ。(p.69)
…イグナチオの木の逆説的な結果は、選択の諸要素を平衡させることであって、ひとの期待するかも知れないように、これらの要素のひとつに特権を授けることではない。というのはコードに組まれるものは、神のしるし(シーニエ)への呼びかけであって、直接的にこのしるしそのものではまったくないからだ(p.79-80)
…修行者はおのれをキリストと一体化することによって、逸話を生きねばならないのである。…<修行>には根本的には、ひとつの快楽(われわれが今日この語にみとめうる両義的な意味で)が含まれており、イグナチオ的演劇は修辞学的であるより幻影的である。≪場景(シーン)≫はここでは事実、ひとつの≪シナリオ≫なのであるから(p.85)
…神の形態の存在は場景を、幻影の逸話的資材を供給する。幻影においては、知られているようにーというのはこれが幻影の定義なのだからー主体が現前していなければならない。現働的なだれか(それがイグナチオであれ、修行者であれ、読者であれ、たいして問題ではない)が舞台上におのれの位置と役割とを占める。わたしが姿を現す。…しかし幻影に関するかぎり、このわたしの置かれた位置は流動的であり、散財的である。修行者は姿を消さないが、しかし事物のなかに移る、ちょうどハッシッシの吸飲者のまるまる全体が彼のパイプの煙のなかにかきあつめられ、≪みずから煙になる≫ように(p.87-8)
まさか直前読んでいた『人工楽園』の引用が出てくるなんて…。
…ほんとうのことを言えば、『心霊修業』が結局のところ闘いを挑むのはイメージの繁殖に対してではなく、はるかに劇的に、イメージの非在に対してなのである。…その治癒はこの患者に≪幻影を操る能力≫を再発見させる方法的努力として、定義している。…言葉(パロール)の患者を特徴づけるあの根本的無(語るべきこと、考えるべきこと、想像すべきこと、感じるべきこと、信じるべきことがない)よりは好ましい、幻影のこの培養を…導入しようと努めるのだ(p.95)
禅の知識がなさ過ぎて、…価値転換させることによって、瞑想を≪非強迫観念化≫すること…というのがわからない(p.97)泣
…神性は語る(というのは霊動は数多いから)が標示はしないこの対話には、たったひとつのさいごの脱出の道しか残されていない。それは、標示の停滞そのものをもって最終的な合図(シーニエ)とすることである。禁欲のさいごのそして困難な成果としてのこのさいごの読み方(シクチユール)、それは畏敬、神の沈黙の経緯による受理、記号(シーニエ)に対してではなく、記号の出現がおくれていることに対してあたえられた同意なのだ。…神の記号はこれを聴くという行為のうちに集中してはじめてその真姿をすべてあらわにするからだ。そのとき神託という行動はその円環を閉じることになる。というのあ、記号の欠如を記号に転じてきた結果、神託はその体系のうちに、記号のゼロ度と名づけられる、空虚だがしかし記号表現をもつこの位置を包みこむにいたったからだ。記号作用に還元されて、もはや神の空在はあらゆる閉じられた言語体系に結びつけられた充実を脅すことも、損うことも、中心をはずすこともできないのである(p.103-4)
フーリエ
…快楽には限度というものがなく、快楽は量化というものに屈することがなく、過度がその本質である。快楽それ自体が尺度なのである。≪感情≫は快楽に左右される。…≪感情≫はある欠乏の崇高な変形ではなく、反対に、ある充満の恐慌的溢出であるからだ。快楽は<死>を屈服させる。…(p.115)
正直、フーリエの章が一番よくわからなかった。著作もよんでないし
サドII
照明された肉体
…これらの無味だが完璧な肉体にテキスト的実在をあたえる手段がある。その手段は劇場だ。サド的肉体は、その無味乾燥ぶり、その抽象において捉えられるとき、実際は、舞台に満ちる光線に包まれて遠くから見られた肉体なのである。…(p.174)
不可能事(インポシビリア)
放蕩の行為は、言語作用の一事実として現れるのである。サドは言語作用を現実のもの(ル・レエル)に根本的な意味で対立させる、あるいはより正確に言えば、ただ≪言語作用の現実のもの(ル・レエル)≫ということだけを念頭に置く…≪現実のもの(ル・レエル)≫と書物とは断ち切られている。いかなる責務も両者を結びつけることはない。作者はおのれの作品について無限に語ることができる。が彼はおのれの作品を保証する義務をけっしてもっていない。(p.186)
鏡
<西欧>では鏡についてはつねに単数でしか語られないが、鏡というものはナルシシズムの(<自我>の、光線を屈折した<単位>の、集合した<肉体>の)象徴そのものとされてきた。鏡(複数の)、これはまったく別個のテーマであり、そのひとつの場合は、つねに虚無だけを反映するようにされて、ふたつの鏡がたがいに向き合うように配され(禅のイメージ)、もうひとつの場合は並置された多数の鏡が主体を周円的なイメージで取り囲み、ほかならぬそのことによってこのイメージの往復運動は抹殺される。これがサド的鏡の場合である。(p.189)
放蕩の家具
履物を履いたまま/脱いで室内に入ること。日本のことも言及されている。『表徴の帝国』読まねば…。
旅行
…サドの小説がわが文学から排除されているのは、小説の中の遍歴がここではけっして<唯一のもの>(時間の、心理の、幸福の本質)の探求であることがなく、つねに快楽の反復であるからだ。サド的流浪は当を得ないものであり、それは、この流浪が淫奔で犯罪的であるからではなく、色つやがなく、いわば無意味で、いかなる超絶性をも避けており、結着というものを欠いているからである。サド的流浪は何一つ啓示せず、変形させず、成熟させず、教育せず、昇華させず、完成せず、回収しないからだ、ただ、切断された、眩惑的な、反復される現在そのものを除いては。いかなる忍耐心も、いかなる経験もそこにはない。一切は、知の、能力の、享楽の頂点におけるこの時に向けられている。時間は整理もせず混乱もさせず、ただ反復し、連れ戻し、はじめからやり直し、精液の形成と消費を交代させるもの以外の韻律的リズムはない(p.203-4)
いや本当にこれ…
口述筆記
淫乱の場景はしたがって、書くこと(エクリチュール)の場景によって先立たれ、形成される。一切は幻影の口述筆記として行われる。手びきをするのは幻影だからだ。…(p.223)
沈黙
この静けさは、たっぷり油を塗られた淫乱の機械の静けさであり、きわめて好ましい能率を発揮しているためにそこには何かの溜息、旋律の声しか聞き分けられないのである。しかしとりわけ、偉大な禁欲行為(たとえば<禅>)の至高の矜持に似て、絶対化された音響空間の想像は肉体の統御、形象の抑制、場景の秩序を立証する。これは一言で言えば英雄的で貴族的な価値、ひとつの徳(潜在的能力)である。…サド的オルギアが静かなのはプチ=ブル的エロティスムのショーに類似しないためだからだ。(p.227)
固有名詞
あだ名の正当ぶり。…明白な意志(クレアウィル) (リベルタンの女のうちでももっとも手に負えない女の明白な意志が、母音中でももっとも鋭いふたつの母音をつうじて発せられる。彼女の名は、彼女のいつもとる食物、家禽の白身、レモンとオレンジの花を浮かべた水と同じ意味合いを持っている) (p.229)
クレアウィル、Clear willっていうことなんですか…!知りませんでした、教えてほしかったそれは澁澤せんせー…
頭だけの欲望
…男女の価値をなすものは、じつは精神なのである。精神は頭脳の沸騰(≪わたしは精液が彼の両の目から吐き出されるのを見た≫)であり同時に収益性の保証である。というのは精神は秩序立て、発明し、洗練するからだ。≪ああ、まったく、とわたしは相手に言った、精神が豊かであればあるほど、性的快楽の甘やかさをますます味わえるというものではなかろうか。≫(p.232)
うーん良…
訳者あとがき
…著者がエクリチュールと呼ぶのはまずこの制度としての社会的規制力に対抗するエネルギーをもった作家の意識としての書き方であり、その成果としての文章である。このエネルギーは作家の肉体を包む全体からの流動体であり、この点で固定的な文体と呼ばれるものと対立し、このゆえにエクリチュールは要約できない。逆に、要約可能な、たとえばひとつの哲学体系を記述する道具として言語活動が用いられたとき、それはエクリチュールではない、と著者は本書のなかで言っている。…著者の言うエクリチュールはこうして、社会に対する作家の意識の問題であるとともにーこれが輿論内か反輿論かの選択であるー記載法や句読法のレベルから始まって、制度外の、作家の自己同一性を確立する書き方の形式の問題でもある。その意味でエクリチュールは本文中で主張されているように体系的なものであり、それは発明された、したがって現実的にはあるいは究極的にはユートピア性を免れないー記号の体系でなければならない(p.299)