他者の苦痛へのまなざし

制作 : Susan Sontag  北条 文緒 
  • みすず書房 (2003年7月9日発売)
3.59
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  • 本棚登録 :328
  • レビュー :29
  • Amazon.co.jp ・本 (155ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622070474

作品紹介

写真は戦争やテロに対して抑止効果をもつのか?ゴヤからコソヴォ、9・11へ、自らの戦場体験を踏まえつつ、戦争の惨禍と映像の関係を追究した最新の写真論。

他者の苦痛へのまなざしの感想・レビュー・書評

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  • どれだけ悲惨な写真や映像を見せられたとしても、他者の痛みなんて本当に知ることはできない。だからといって、そこで写真というメディアに絶望するのではなく、希望を持つということ。知ることはできないけれど、それをきっかけに考えることはできる、ということ。

  • 「他者の苦痛へのまなざし」スーザン・ソンタグ著・北条文緒訳、みすず書房、2003.07.08
    156p ¥1,890 C1098 (2018.01.14読了)(2018.01.12拝借)(2003.08.25/2刷)
    写真は戦争の抑止力になるのかを論じた本です。
    「訳者あとがき」に内容が要領よく紹介してありますので拝借しましょう。
    (第一章)男女を問わず国籍を問わず、見る者を震撼させ反戦思想を抱かせるような映像は(スペイン内戦の写真のように)存在するかもしれない。だがどのような反戦的な映像もけっして次の戦争を阻止することはなかった、と著者は言う。(150頁)
    第二章は報道写真の果たす役割について述べながら、写真のデモクラシー、花形写真家・写真家集団・写真を主としたメディアの登場、写真のキャリア(経歴)など話題が多岐にわたっている。著者は、映像の持つ意味はその最初のコンテクストを離れたとき、変化しうるものであること、その場を離れれば同じ写真に別のキャプション、別の解釈が可能であり、写真はもとの被写体とは離れた経歴(キャリア)をもちうることを、シムの写真を例にとって示している。(150頁)
    第三章はカロや小屋に始まる苦痛の図像の系譜を、ヴェトナム戦争の、子どもが泣き叫びながら走ってくる、あのよく知られた写真まで辿っている。芸術性と記録性という写真の両面は、戦争写真の場合、近年は後者にもっぱら力点が置かれている。
    第四章は主として、写真の検閲の問題を論じている。
    (第五章)写真は現在進行中の不正を自覚し、歯止めをかけようとする行為への契機にはなるが、過去における不正を例証する写真についてはどうか。奴隷制や黒人への迫害の記録を残す博物館がアメリカにないことに触れて、アメリカの独善性とも呼ぶべきものが批判されている。(151頁)
    (第六章)写真は安易な同情を喚起するのではなく、現実の認識に向かう契機を与えることが望ましい。
    (第七章)映像の過剰が映像のインパクトを弱め、われわれは冷淡になり良心を刺激されなくなる、(という面があるが)巨大な悪と不正が引き起こす苦しみが現に存在するのであり、それに反応する良心は摩耗しているわけではない
    (結論)現実の苦痛と映像の苦痛とのあいだには無限の距離があるのだ

    多くの戦場カメラマンたちがいて、紛争地帯に入り込み報道写真を撮って世界に知らしめようとしています。その中の何人かは、巻き込まれて死亡しています。沢田教一さん、一ノ瀬泰造さん、後藤健二さん、等の本は読みました。記録として残したい、多くの人に実態を知ってほしい、ということなのでしょうね。スーザンさんの言うように、抑止力にはあまりならないし、キャプション次第で写真の意味するところが180度変わってしまう面もあります。報道されては困る場面は、撮らせなかったり、マスコミの自主規制で、報道を差し控えるというのもあると思われます。

    【目次】
    他者の苦痛へのまなざし
     1~9
    謝辞
    原注
    訳注
    訳者あとがき  北条文緒

    ●クリミア戦争(18頁)
    戦闘における軍隊の殺戮力は、クリミア戦争(1854-56年)直後に導入された後装銃や機関銃のような兵器によって、それまでにない規模に達していた。
    ●スペイン内戦(20頁)
    スペイン内戦(1936-39年)は現代的な意味で目撃された(「取材された」)最初の戦争であった。職業写真家の集団が戦線で、爆撃下の町で、撮った写真が直ちにスペインと外国の新聞・雑誌に掲載された。
    ●図像と写真(44頁)
    一般の言語では、ゴヤの作品のような手作りの図像と写真との違いを、芸術家は絵を「メイクし」(作り)、写真家は写真を「テイクする」(撮る)という月並みな言い方で説明する。
    写真の映像は、単に事件を透明に反映したものではない。それは常に誰かが選びとった映像である。
    ●演出(55頁)
    もっともよく知られた写真はどれも演出によるものではない、ということが確実になるのはヴェトナム戦争以降である。
    ●無関心(99頁)
    どこであれ自分が安全と感じるところにいる人は無関心なのだ。
    ●ボードレールの日記(106頁)
    年月日を問わず、新聞を開けば、必ずどの面にも、人間の最も恐るべき悪が記録されている。あらゆる新聞が第一行目から最後の行まで、恐怖の連続以外の何物でもない。戦争、犯罪、盗み、猥褻行為、拷問、君主の、国家の、個人の悪行、普遍的な残虐の饗宴、こうした忌まわしいアペリティフで、文明人は毎朝の食事を流しこむ。
    ●一事例(112頁)
    イギリスのフォトジャーナリスト、ポール・ロウがサラエヴォで撮った写真を、その二、三年前にソマリアで撮影した写真と一緒に、一部崩壊した画廊で展示した。サラエヴォの人々は自分たちの都市で進行する破壊の新たな映像を見たがっていたが、ソマリアの写真がそこに含まれていることに不満だった。
    自分たちの苦難を他の民族の苦難と並べて示すことは、その二つを比較することであり、サラエヴォの人々の殉死を単なる一事例へとおとしめる。

    ☆関連図書(既読)
    「泥まみれの死 沢田教一ベトナム写真集」沢田サタ著、講談社文庫、1999.11.15
    「ライカでグッドバイ」青木冨貴子著、文春文庫、1985.03.25
    「地雷を踏んだらサヨウナラ」一ノ瀬泰造著、講談社文庫、1985.03.15
    「シャッターチャンスはいちどだけ」石川文洋著、ポプラ社、1986.10.
    「女の国になったカンボジア」大石芳野著、講談社文庫、1984.10.15
    「ベトナムは、いま」大石芳野著、講談社文庫、1985.04.15
    「あの日、ベトナムに枯葉剤がふった」大石芳野著、くもん出版、1992.11.20
    「最前線ルポ 戦争の裏側」村田信一著、講談社文庫、1999.02.15
    「バグダッドブルー」村田信一著、講談社、2004.02.13
    「ダイヤモンドより平和がほしい」後藤健二著、汐文社、2005.07.
    「エイズの村に生まれて」後藤健二著、汐文社、2007.12.
    「ルワンダの祈り」後藤健二著、汐文社、2008.12.
    (2018年1月17日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    写真は戦争やテロに対して抑止効果をもつのか?ゴヤからコソヴォ、9・11へ、自らの戦場体験を踏まえつつ、戦争の惨禍と映像の関係を追究した最新の写真論。

  • 戦争、報道写真を主題に。

  • 哲学的な話かと思ったら戦争写真の分析の話だった。日本語のタイトルが良すぎるじゃないか

  • レポートのために再読。

  • うーん
    なんていうか。ごめんなさい
    戦争写真論だけども、考察が浅い

    読みすすめるのが苦痛だけど内容的にライトっていうめずらしいごほん

  • アメリカの作家・哲学者であるスーザン・ソンタグによる、戦争写真や映像、それらに類する苦痛を表した媒体を多角的に考察し論じた著作。
    結論から言えば非常に当然かつ退屈な意見でした。写真が齎す不快感や痛みの表象は必然的に体験した者にしか知り得ないものであり、写真を介したオブザーバーの位置にいる人間からすれば無感動・無関心です。無論、可哀想と思ったり何とかすべきだ、と考える者も大勢いますが、行動には移さない者がマジョリティでしょう。
    また、兼ねてより撮影者の主観によって歴史の一部を切り取った戦争写真は政治的目的で利用されてきたとも論じていますが、それも写真が持つ特性としては必然で、関心は持てませんでした。
    写真と戦争や悲惨、人間の情動の関係性を探究したいという方にはオススメですが、写真に興味がない方にとっては辟易することになるかもしれません。

  • 他者の苦痛に対して私達は相反した感情を持つことが出来る。苦痛に対する共感から目を背けてしまいたいと思う感情と、芸術的興味から、もしくは単純な興奮からもっと見ていたいと思う感情だ。70年代にソンタグが執筆した『写真論』の続編とも呼べる本書では、あらゆるものがスペクタクル(見世物)と化し戦争と日常が地続きとなってしまった21世紀の現代において、戦争写真を論点の中心におきながら私達の想像力の可能性について述べていく。「残酷な映像をわれわれにつきまとわせよう」という言葉はとても気高く、誠実さに溢れた言葉だと思う。

  • ここにあるのは明確な示唆ではなく、著者自身の逡巡の足跡そのものだ。

    それにしても「批評」という行為は罪深い。いままで考えもしなかった自明な事実に対して、疑問を投げかける余地があることを人々に気付かせる。批評とその対象。批評に対する批評…に対する批評。思考の階層がどこまで深くなれば、人間は解放されるのだろう。いや、潜る先に光はないのかもしれないな。

    深く暗闇に没したまま死を迎えるその瞬間、あらゆる思考から開放される。ただそれだけのことだ。

  • 「他者の苦痛」とは端的に言えば、映像化された惨事、もっと具体例をいえば、戦争を写した写真や映像を意味している。たとえ、人が同情や憐憫、或いは人道的な怒りを胸に秘めて見たところで、そこに映し出されたものは「他者」の苦痛でしかない。ソンタグが問おうとしているのは、第三者が他者の「苦痛」を見ることについての当否である。

    ソンタグは、まず、フェミニズムの視点から戦争反対を訴えたウルフの『三ギニー』について触れながら、その中で同じ写真を見た二人が安易に「われわれ」と括られていることに疑義を呈する。映像は様々に解釈されうる。戦争の悲惨さを表現した写真が、そのまま戦争に対する批判を生むとは限らない。見る側の立つ地点がちがえば、その写真は被害をもたらした者への報復、復讐の思いを喚起することもあるからだ。ソンタグは、残虐な行為を眼にするたびに幻滅を感じたり、信じられないと思ったりする人間は成熟しておらず、道徳的に欠陥があると考える種類の人間である。一枚の写真を見る行為にも政治的な立場の選択がはたらいていることを明らかにする。

    絵画は作者が別人だと判明したときに偽物となるが、写真は被写体が本物でないときに偽物となる。絵画と比べて写真はより真実に近いという思いこみがある反面で、写真には常に「やらせ」疑惑がつきまとう。クリミア戦争から硫黄島に掲げられる星条旗の写真まで、より真実に見えるように加工された多くの例を挙げて、いかに過去の映像が作られたものであるかをソンタグは証している。問題は作られた映像にだけあるのではない。自国の戦死者の顔は見せないという了解事項や大量死の映像の秘匿に見られる検閲の事実は真実を伝える写真という媒体に対する疑いを深める。

    ソンタグはかつてその『写真論』の中で、大量に流される映像の過剰がわれわれの良心を麻痺させ冷淡にさせていると述べたが、今回の著書ではそれを訂正する。確かにTVに代表されるメディアは映像を陳腐化してはいるが、だからといって世界はメディアが作り出した「虚構」ではない。巨大な悪や不正は現実に存在し、それによって苦しむ人々がいる。映像の持つ限界は認めつつも、「残虐な映像をわれわれにつきまとわせよう」とソンタグは主張する。たしかに「映像が提示するものに対してわれわれは何も成し得ないという挫折感」はあるが、「誰かを殴るという行為はその行為について考えることと両立しない」。一歩退いて考えることもまた、知性を持つ者のなすべきことであるからだ。

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