他者の苦痛へのまなざし

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (155ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622070474

作品紹介・あらすじ

写真は戦争やテロに対して抑止効果をもつのか?ゴヤからコソヴォ、9・11へ、自らの戦場体験を踏まえつつ、戦争の惨禍と映像の関係を追究した最新の写真論。

感想・レビュー・書評

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  • どれだけ悲惨な写真や映像を見せられたとしても、他者の痛みなんて本当に知ることはできない。だからといって、そこで写真というメディアに絶望するのではなく、希望を持つということ。知ることはできないけれど、それをきっかけに考えることはできる、ということ。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「それをきっかけに考えることはできる」
      圧倒されたりして思考停止になるコトがあります。考えるのを止めたら行動も出来ない。まぁ後先考えずに飛び...
      「それをきっかけに考えることはできる」
      圧倒されたりして思考停止になるコトがあります。考えるのを止めたら行動も出来ない。まぁ後先考えずに飛び出してしまうコトもありますが・・・
      セバスチャン・サルガドの写真は確かに圧倒される(ジェフ・ウォールは、全く知らないフォトグラファーでした、ペーパーバックの写真集があれば見てみたいです)。。。
      2012/08/04
  • 今日は、もう月曜日。故に、本当は、こんなとこに何かを書き残してる場合ではないのだけど、そんなことを言っていたら、きっと私は何も書かずに、すべてを忘れ去ってしまうに違いない。すべて忘れ去るなんてことはないんだけど、少なからずは忘れちゃいそう。だから少しでも書いておこうと思って。支離滅裂でも書いておこうと思って。誰のためでもなく、自分のために。自分の記憶のために。

    『他者の苦痛へのまなざし』は私にある思い出、ある記憶を想起させた。あくまで自分の中にある記憶だ。自分自身の記憶。

    19歳の私。あれは確か2月。私はルワンダにいた。かつて虐殺が起こった現場にいた。カルシウムのような遺骨のにおい。たくさんの骨が散らばっていた。ためらわれたのは、カメラのレンズを向けること。わたしには、カメラに収めることができなかった。一緒に行った仲間たちは、遺骨にレンズを向けていた。それを咎めるつもりは全くなかった。だけど、私はやめた。あきらめた。できなかった。臭いや空気まで、カメラに残すことができないとしたら、そこにおさめられた断片は、偽物だと思った。たしか、そう思ったはず。同時に、死者たちに対する、冒涜だと、わたしは思った。だから、わたしはジェノサイド現場の写真を、持っていない。

    ジェノサイドの起こった国、ルワンダで何を思ったかについては、これまで、いくつかの場所で誰かに話したりした。教育実習をふくめて。「自分が殺すことも、自分が殺されることも、普通にあり得る。この世界では。」ということ。「自分が誰かを殺し、自分が誰かに殺されることよりも。自分が愛している誰かが殺し、愛している誰かが殺されることが、恐ろしかった」ということ。行き着いた結論は、「愛。愛しかないのではないか。家族や友人や、恋人。身近な人を愛するということしか、私には言えないし、できないのではないか」ということ。

    ルワンダに私を向かわせたのは、何だったか?
    小中学生の頃、目にしたメディア。
    ホロコーストの写真・映画であり、731部隊の映画であり、アフリカをはじめとする紛争の写真集。
    アルジャジーラが配信したアフガニスタンの空爆の犠牲者の写真。
    中学生の頃、私はアフガニスタンの犠牲者の写真をノートにスクラップしていた。遠くからうつした空爆の写真は、花火のように。美しくもあった。死んだ子どもは人形のような目で1点を見つめていた。是正されるべき世界があるのに、のんきに日本でどうでもいい授業をやってる教師たちは、唾棄すべき「悪」だと、多少のそれぞれの生活に対する同情はあったものの、かなり強く思い込んでいた。世界を変革するために、自分は生きるんだと信じていた。同時に、にっちもさっちもいかぬまま、田舎で暮らしてる自分が許せなかった。

    「他者の苦痛へのまなざし」で思い出した。
    「本」があって、「思考」があって、「行動」があって、
    「本」だけでも、「思考」だけでも、「行動」だけでも、だめだ。

    戦おうか? 自分なりの方法で。
    まだ遅くねーだろ。

    苦しみ、もどかしさ、憤りこそ、
    我が魂の故郷。


    「他者の苦痛へのまなざしが主題であるかぎり、「われわれ」ということばは自明のものとして使われてはならない」

    「被写体をシュート(撮影する)行為と、人間をシュート(撃つ)行為との同一性」

    「ショックは慣れを生む。ショックは薄れる。」

    「人々は泣きたいのだ。物語という形をとったペイソスは薄れることがない」

    「映像は、距離を置いた地点から苦しみを眺める方法であるという理由で避難を受けてきた。まるでそれ以外に眺める方法があるかのように。しかし、近距離で、映像の介入なしに苦しみを眺めることも、眺めるという点では同じである」

  • ヴィジュアル偏重のSNS時代にも通じる。
    ・過剰な映像はついにはわれわれの感じる能力を減じ、われわれの良心を刺激することが少なくなる。(104)
    ・ワーズワースは「日々の」事件、「異常な出来ごと」について「時々刻々」伝わる情報が知性を鈍らせると指摘していた(106)
    ・一歩退いて考えることは何ら間違っていない。…「誰かを殴るという行為はその行為について考えることと両立しない」。(119)
    ・あなたたちには想像できない。…そのとおりだと、言わねばならない。(127)

  • 写真は主要な芸術のなかでただ一つ、専門的訓練や長年の経験をもつ者が、訓練も経験もない者にたいして絶対的な優位に立つことのない芸術である。これには多くの理由があるが、そのなかには写真を撮るさいに偶然(ないし幸運)が果たす大きな役割と、自発的で荒削りで不完全なものがよしとされる傾向がある。

  • スーザン・ソンタグの書いた本を読んだのはこれが1冊目。なので有名な『写真論』は現時点読んでいない。

    その重いタイトルや紹介文などからイメージしていたのと異なり、薄い本。字や余白も大きめで、その気なら短時間で読み通せてしまう。しかしメッセージは軽くない。タイトルに相応しい重みがある。

    知らない、あるいは辛うじて名前だけ聞いたことがある、もしくは世界史で名前だけ暗記して覚えた戦争や大量殺戮について、山ほど言及される。これが、地球人類の戦争状態という「事実」なのだろう。

    日本の事例もそれなりに明記されている。加害者としても被害者としても。

  • 映像の語る他者の苦痛を決して本当には理解することができない。だがその苦痛を生む世界のメカニズムを把握しようとする契機を、少なくとも写真は与えてくれる。

    [more]<blockquote>P5 他者の苦痛へのまなざしが主題である限り,「われわれ」という言葉は自明のものとして使われてはならない。

    P13 ヒックスのような写真がかきたてる哀れみと嫌悪が、われわれの関心をそらして,どのような写真が,誰の残虐行為が,誰の死が、示されて”いない”のか、を問うのをやめさせてはいけないのだ。

    P27 写真は主要な芸術の中でただ一つ,専門的訓練や長年の経験を持つ者が,訓練も経験もない者に対して絶対的な優位に立つことがない芸術である。(このようなプロとアマの同等性は文学には存在しない。文学では何事も偶然や幸運に依存しないし,洗練された言語は通常難のマイナスにもならない。演技に関わる芸術もしかり【攻略】)

    P69 遠い異国的な土地であればあるほど,我々は死者や死の間際にある人々を余すところなく真正面から捉える傾向がある。

    P77 無力な人々がキャプションの中で名前を与えられていないのは意味深長である。有名な人々にのみ名前を付与することはその他の人々を職業集団、民族集団,悲惨な状況にある集団の代表例という存在に格下げする。(サルガドの移住写真は)原因も種類も異なるあまたの悲惨をひとまとめにしている。【中略】このような大きな規模で捉えられた被写体に対しては,同情は的を失い,抽象的なものとなる。だがすべての政治は,歴史がすべてそうであるように,具体的なものである。

    P81 感情は言葉によるスローガンよりも,写真のまわりに結晶しやすい。

    P101 感じることが必ずしもよいとは限らない。周知のように感傷性は残忍さの嗜好と完全に両立する。

    P107 写真論以来,多くの批評家が言うように,戦争の苦しみはテレビのおかげで夜ごとの陳腐な番組と化した。【中略】新鮮な感情と適切な倫理によって経験に反応する我々の能力が,低劣で忌まわしい映像の容赦ない拡散によって失われつつある

    P154(訳者あと書きより)「誰かを殴るという行為はその行為について考えることと両立しない」は「他者の苦痛を救おうとする行為は,他者の苦痛を撮る行為と両立しない」とも言い換えられるだろう。そもそも「撮る」も「撃つ」も同じ「シュート」であることに言及して、写真には本来対象に対する攻撃的な側面があることが既に写真論の中で指摘されていた。</blockquote>

  • 「他者の苦痛へのまなざし」スーザン・ソンタグ著・北条文緒訳、みすず書房、2003.07.08
    156p ¥1,890 C1098 (2018.01.14読了)(2018.01.12拝借)(2003.08.25/2刷)
    写真は戦争の抑止力になるのかを論じた本です。
    「訳者あとがき」に内容が要領よく紹介してありますので拝借しましょう。
    (第一章)男女を問わず国籍を問わず、見る者を震撼させ反戦思想を抱かせるような映像は(スペイン内戦の写真のように)存在するかもしれない。だがどのような反戦的な映像もけっして次の戦争を阻止することはなかった、と著者は言う。(150頁)
    第二章は報道写真の果たす役割について述べながら、写真のデモクラシー、花形写真家・写真家集団・写真を主としたメディアの登場、写真のキャリア(経歴)など話題が多岐にわたっている。著者は、映像の持つ意味はその最初のコンテクストを離れたとき、変化しうるものであること、その場を離れれば同じ写真に別のキャプション、別の解釈が可能であり、写真はもとの被写体とは離れた経歴(キャリア)をもちうることを、シムの写真を例にとって示している。(150頁)
    第三章はカロや小屋に始まる苦痛の図像の系譜を、ヴェトナム戦争の、子どもが泣き叫びながら走ってくる、あのよく知られた写真まで辿っている。芸術性と記録性という写真の両面は、戦争写真の場合、近年は後者にもっぱら力点が置かれている。
    第四章は主として、写真の検閲の問題を論じている。
    (第五章)写真は現在進行中の不正を自覚し、歯止めをかけようとする行為への契機にはなるが、過去における不正を例証する写真についてはどうか。奴隷制や黒人への迫害の記録を残す博物館がアメリカにないことに触れて、アメリカの独善性とも呼ぶべきものが批判されている。(151頁)
    (第六章)写真は安易な同情を喚起するのではなく、現実の認識に向かう契機を与えることが望ましい。
    (第七章)映像の過剰が映像のインパクトを弱め、われわれは冷淡になり良心を刺激されなくなる、(という面があるが)巨大な悪と不正が引き起こす苦しみが現に存在するのであり、それに反応する良心は摩耗しているわけではない
    (結論)現実の苦痛と映像の苦痛とのあいだには無限の距離があるのだ

    多くの戦場カメラマンたちがいて、紛争地帯に入り込み報道写真を撮って世界に知らしめようとしています。その中の何人かは、巻き込まれて死亡しています。沢田教一さん、一ノ瀬泰造さん、後藤健二さん、等の本は読みました。記録として残したい、多くの人に実態を知ってほしい、ということなのでしょうね。スーザンさんの言うように、抑止力にはあまりならないし、キャプション次第で写真の意味するところが180度変わってしまう面もあります。報道されては困る場面は、撮らせなかったり、マスコミの自主規制で、報道を差し控えるというのもあると思われます。

    【目次】
    他者の苦痛へのまなざし
     1~9
    謝辞
    原注
    訳注
    訳者あとがき  北条文緒

    ●クリミア戦争(18頁)
    戦闘における軍隊の殺戮力は、クリミア戦争(1854-56年)直後に導入された後装銃や機関銃のような兵器によって、それまでにない規模に達していた。
    ●スペイン内戦(20頁)
    スペイン内戦(1936-39年)は現代的な意味で目撃された(「取材された」)最初の戦争であった。職業写真家の集団が戦線で、爆撃下の町で、撮った写真が直ちにスペインと外国の新聞・雑誌に掲載された。
    ●図像と写真(44頁)
    一般の言語では、ゴヤの作品のような手作りの図像と写真との違いを、芸術家は絵を「メイクし」(作り)、写真家は写真を「テイクする」(撮る)という月並みな言い方で説明する。
    写真の映像は、単に事件を透明に反映したものではない。それは常に誰かが選びとった映像である。
    ●演出(55頁)
    もっともよく知られた写真はどれも演出によるものではない、ということが確実になるのはヴェトナム戦争以降である。
    ●無関心(99頁)
    どこであれ自分が安全と感じるところにいる人は無関心なのだ。
    ●ボードレールの日記(106頁)
    年月日を問わず、新聞を開けば、必ずどの面にも、人間の最も恐るべき悪が記録されている。あらゆる新聞が第一行目から最後の行まで、恐怖の連続以外の何物でもない。戦争、犯罪、盗み、猥褻行為、拷問、君主の、国家の、個人の悪行、普遍的な残虐の饗宴、こうした忌まわしいアペリティフで、文明人は毎朝の食事を流しこむ。
    ●一事例(112頁)
    イギリスのフォトジャーナリスト、ポール・ロウがサラエヴォで撮った写真を、その二、三年前にソマリアで撮影した写真と一緒に、一部崩壊した画廊で展示した。サラエヴォの人々は自分たちの都市で進行する破壊の新たな映像を見たがっていたが、ソマリアの写真がそこに含まれていることに不満だった。
    自分たちの苦難を他の民族の苦難と並べて示すことは、その二つを比較することであり、サラエヴォの人々の殉死を単なる一事例へとおとしめる。

    ☆関連図書(既読)
    「泥まみれの死 沢田教一ベトナム写真集」沢田サタ著、講談社文庫、1999.11.15
    「ライカでグッドバイ」青木冨貴子著、文春文庫、1985.03.25
    「地雷を踏んだらサヨウナラ」一ノ瀬泰造著、講談社文庫、1985.03.15
    「シャッターチャンスはいちどだけ」石川文洋著、ポプラ社、1986.10.
    「女の国になったカンボジア」大石芳野著、講談社文庫、1984.10.15
    「ベトナムは、いま」大石芳野著、講談社文庫、1985.04.15
    「あの日、ベトナムに枯葉剤がふった」大石芳野著、くもん出版、1992.11.20
    「最前線ルポ 戦争の裏側」村田信一著、講談社文庫、1999.02.15
    「バグダッドブルー」村田信一著、講談社、2004.02.13
    「ダイヤモンドより平和がほしい」後藤健二著、汐文社、2005.07.
    「エイズの村に生まれて」後藤健二著、汐文社、2007.12.
    「ルワンダの祈り」後藤健二著、汐文社、2008.12.
    (2018年1月17日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    写真は戦争やテロに対して抑止効果をもつのか?ゴヤからコソヴォ、9・11へ、自らの戦場体験を踏まえつつ、戦争の惨禍と映像の関係を追究した最新の写真論。

  • 「他者の苦痛」とは端的に言えば、映像化された惨事、もっと具体例をいえば、戦争を写した写真や映像を意味している。たとえ、人が同情や憐憫、或いは人道的な怒りを胸に秘めて見たところで、そこに映し出されたものは「他者」の苦痛でしかない。ソンタグが問おうとしているのは、第三者が他者の「苦痛」を見ることについての当否である。

    ソンタグは、まず、フェミニズムの視点から戦争反対を訴えたウルフの『三ギニー』について触れながら、その中で同じ写真を見た二人が安易に「われわれ」と括られていることに疑義を呈する。映像は様々に解釈されうる。戦争の悲惨さを表現した写真が、そのまま戦争に対する批判を生むとは限らない。見る側の立つ地点がちがえば、その写真は被害をもたらした者への報復、復讐の思いを喚起することもあるからだ。ソンタグは、残虐な行為を眼にするたびに幻滅を感じたり、信じられないと思ったりする人間は成熟しておらず、道徳的に欠陥があると考える種類の人間である。一枚の写真を見る行為にも政治的な立場の選択がはたらいていることを明らかにする。

    絵画は作者が別人だと判明したときに偽物となるが、写真は被写体が本物でないときに偽物となる。絵画と比べて写真はより真実に近いという思いこみがある反面で、写真には常に「やらせ」疑惑がつきまとう。クリミア戦争から硫黄島に掲げられる星条旗の写真まで、より真実に見えるように加工された多くの例を挙げて、いかに過去の映像が作られたものであるかをソンタグは証している。問題は作られた映像にだけあるのではない。自国の戦死者の顔は見せないという了解事項や大量死の映像の秘匿に見られる検閲の事実は真実を伝える写真という媒体に対する疑いを深める。

    ソンタグはかつてその『写真論』の中で、大量に流される映像の過剰がわれわれの良心を麻痺させ冷淡にさせていると述べたが、今回の著書ではそれを訂正する。確かにTVに代表されるメディアは映像を陳腐化してはいるが、だからといって世界はメディアが作り出した「虚構」ではない。巨大な悪や不正は現実に存在し、それによって苦しむ人々がいる。映像の持つ限界は認めつつも、「残虐な映像をわれわれにつきまとわせよう」とソンタグは主張する。たしかに「映像が提示するものに対してわれわれは何も成し得ないという挫折感」はあるが、「誰かを殴るという行為はその行為について考えることと両立しない」。一歩退いて考えることもまた、知性を持つ者のなすべきことであるからだ。

  • 連日、タイムラインに表示されるパレスチナの殺害された子供の映像。
    を、挟む、友人の可愛い子供の写真。
    化粧品広告。
    指先を流れてゆく「虐殺」は、確かに私の目を数秒間奪って、心を痛めて、そしてまた流れていく。

    この本が日本で出版された2003年は、まだ今ほどスマホもSNSも浸透していなかったので、例に挙げられるのはTVや新聞、PC閲覧によるが、「われわれ」が戦争や、虐殺などの生々しい写真(や映像)を見るそのまなざしについて、様々な例を挙げながらソンタグ自身の迷いも含めた、「それでも」「われわれ」が、それらを見つめるときに何を思うべきかを問う。(なぜ「」付きのわれわれなのかも考えるポイントでした)

    たくさんの事例について、読みながら画像を検索すると、割と普通に見れてしまうそれらの写真。

    エディ・アダムスによるヴェトコン捕虜に射殺の瞬間を捉えた写真、
    ヒュン・コン・ウトによるベトナム戦争時、アメリカのナパーム弾から裸で逃げ惑う少女の写真、
    クメール・ルージュの記録係が残した、これから処刑される人々の写真(キリング・フィールドという名前で写真集になっている)、
    個人的にも今まで、何度も繰り返し見ているナチスによる収容所のユダヤ人の写真。

    戦争以外でも、ユージン・スミスによる水俣の写真など、それらの目を背けたくなる(と一般には形容されがちな)写真を見て何を感じるのか。

    ソンタグはバージニア・ウルフの「3ギニー」を例に挙げて、戦争により破壊された町や人体の写真が、「戦争を繰り返してはならない」という思いを喚起させるというウルフの、戦争嫌悪としての意見は、「政治を切り捨てている」と斬る。

    今、現在の世界で、戦争を無くすことが可能だと本当に信じている人間はいるのだろうか。
    それらの写真が「われわれ」にもたらす嫌悪感や同情や憐み、または怒りは、「われわれ」が遠い国からの見物人であるからに他ならない、と。
    むしろ、そのような惨たらしさのなかに、スペクタクルやある種ポルノ的な要素を感じさえしないだろうか、と。

    読んでいて、これは私のことだ、と痛感してしまった。水俣病の奇形児、様々な処刑方法、戦争で顔面に酷い損傷を受けた兵士など、私はそれらを見ることで後ろめたさと共に高揚感を覚える反道徳的な自分がいるのを突きつけられた。

    また、そのように苦痛が高揚へ変容する考えは、西欧の宗教的思想に基づくところが大きいというのは、先日読んだ大澤真幸の「世界史の哲学 古代篇」にもあった気がする。

    アメリカの独善性についての記述は何度も読んだ。

    国連安全保障理事会で、イスラエルに対して人道支援のための戦闘の一時的な停止などを求める決議案の採決が行われ、15か国のうち日本を含む12か国が賛成、アメリカが拒否権を行使して否決された件を思う。
    あのとき、アメリカのリンダ・トーマスグリーンフィールド国連大使が上げた手を、滴る血でコラージュした画像が流れた。
    この本を読んでからあの画像を思い返すと、「アメリカには奴隷博物館が無いのは何故なのか」というソンタグの問いに対しての、「悪が存在したことを認めることになるから」を考えずにはいられない。

    戦争で誰かを殺すのも、人種差別をするのも、大国への要請と引き換えにジャーナリストを誘拐し殺害するのも、それが野蛮人だからと思うほうが楽だけど、野蛮人は隣に居る人と同じ顔をしていて、それはつまり普通の人で、あんなことができるのはモンスターだと、遠い場所から見物人は言うし、そのように見せるよう報道する、キャプションをつける。

    「戦争や殺人の政治学にとりまかれている人々に同情するかわりに、彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているかもしれない、われわれが想像したくないような仕方で、という洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない。」

    その通りだと思う。洞察こそが課題、というソンタグの思い、しかしラスト、1992年、ジェフ・ウォールが作成さた「戦死した兵士たちは語る」というタイトルの巨大な写真を例に、考えることと、現実とに引き裂かれるような思いのこんな言葉で結ばれている。

    長いけど引用します。

    「われわれ」-この「われわれ」とはこの死者たちのような経験のようなものを何も体験したことのないすべての人間である-は理解しない。われわれは知らない。われわれはその体験がどのようなものであったか、本当には想像することができない。戦争がいかに恐ろしいか、どれほどの地獄であるか、その地獄がいかに平常となるか、想像できない。あなたたちには理解できない。戦火のなかに身を置き、身近にいた人々を倒した死を幸運にも逃れた人々、そのような兵士、ジャーナリスト、救援活動者、個人の目撃者は断固としてそう感じる。そのとおりだと、言わねばならない。

    それでも、それでも、と、それをどのようなまなざしで見るべきなのかと、永遠に問い考えることが、「われわれ」の見るべき仕方なのかと思う。見られる側になる可能性だってあるのだから。

    それにしても、ソンタグの知識の広さには唖然とする。こんな短めの考察に、膨大な引用や資料が散りばめられていて。
    途中で止まっている「反解釈」「新しい意志のスタイルズ」、ちゃんと読まねばなあ。

  • 良心の領界っていれると、この本がヒットした。中に入ってるのかな。

    人生の後輩たちへの言葉が良かった。
    傾注すること。それは、生命力で、他者と繋ぐもの。

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著者プロフィール

1933年生まれ。20世紀アメリカを代表する批評家・小説家。著書に『私は生まれなおしている』、『反解釈』、『写真論』、『火山に恋して』、『良心の領界』など。2004年没。

「2018年 『ラディカルな意志のスタイルズ[完全版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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