忘れられる過去

著者 :
  • みすず書房
3.87
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本棚登録 : 150
感想 : 16
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  • Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622070535

作品紹介・あらすじ

「とはいえことばから目をはなすことはできないのだ。」生きること、本を読むこと、その事態の変化にもっとも敏感な批評精神による、新しいエッセイ74編。

感想・レビュー・書評

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  • かつて多くの人に読まれていたであろう、いまは読む人も少なくなった良書を、荒川洋治は取り上げる。まるで、静かな場所でぽつりぽつりと大事な話を始める人のように、本当に良いと思ったものについて、そっと語る。だからじっと耳をすませて、一言も聞きもらさないようにした。

    荒川洋治は、ことばとのかかわり方を大事にしながら読むひと。さらに彼の読書体験は、ひとの心をとらえる。わたしは魅了されっぱなしだった。

    自分がいかに本を読んでいないか痛感した。もっと本を読み、ものを感じとる力、静かにものを見つめる目を養いたいと思った。

    p15
    一冊の本を手にするということは、どうもそういうことらしい。自分のなかに何かの「種」、何かの「感覚」、おおげさにいえば何かの「伝統」のようなものが、芽生えるのだ。それはそのときのものとはならないにしても、そのあとのその人のなかにひきつがれるものだから軽くはない。し流されもしない。

    p19
    不思議なもので、背中の作家の名前を、三〇年も見ていると、なかみも「わかる」。第一一巻の徳田秋声は、しぶい文豪。若いときに読んでも、真価がわからないと聞いたので読まなかった。四〇代もなかばを過ぎた、ある夜。ふと背中を見たとき、
    「ああ、そうか。これが、徳田秋声なのだ」
    と思った。なんだか、わかったような気がした。つまり読むときが来たのだ。ぼくにとって本はそういうものだ。いつか身にせまる。強くせまる。そのためにも本があること、本の空気があることがだいじだ。そこにあるものは、これからもあるということなのである。

    p31
    いろんな理不尽なことが身のまわりに、社会にあるのに、ほとんどの場合、黙って眺めてぼくは生きている。

    p43
    作品を読むことはいい。でもいつまでも「読む」立場に甘えていると、ものごとのほんとうの理解は得られない。本を書くことは、責任のある仕事だけに、大きな意味をもつ。

    p78
    うん、自分が選んだだけに、さすがにいい本だった(!)
    などと思う。

    p83
    ひとつの方向に時代が流れ、もうどうにもそれにさからえなくなったとき、日常のひとつひとつの行為や思いは、どのようなものとして人の気持ちのなかにおさまるのだろうか。いっときいっときの気持ちが、行いが、どのようなものとしてその場を占め、また、かくまわれていくのだろう。それは想像するだけでも、苦しいことだ。人としていちばんつらいこと、普通の神経では耐えられないことだ。そう思うとき、こうした往来のちいさな描写を通り過ぎることはできない。

    p142
    この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。

    文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものなのである。そう考えるべきだ。特に社会問題が、もっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっと「実」の面を強調しなければならない。
    漱石、鴎外ではありふれているというなら、田山花袋「田舎教師」、徳田秋声「和解」、室生犀星「蜜のあはれ」、阿部知二「冬の宿」、梅崎春生「桜島」、伊藤整「氾濫」、高見順「いやな感じ」、三島由紀夫「橋づくし」、色川武大「百」、詩なら石原吉郎…...と、なんでもいいが、こうした作品を知ることと、知らないことでは人生がまるきりちがったものになる。
    それくらいの激しい力が文学にはある。読む人の現実を生活を一変させるのだ。

    p189
    いいほめことばを読むと、うれしくなる。いいもの、すばらしいものがこの世にある、たしかにあるのだと思う。そしてそれが生きるための力になることがわかるのだ。
    これからもほめことばをたいせつにしよう。自分へのものも、他人へのものも心にとどめよう。

    p205
    書店に本がない、学校でも教えられることはない、マスコミにも出ない、友だちの話にも出てこない。だが実はこういう人によって文学はつくられている。なぜなら文学はいまの人たちが関心をもつ世界だけを相手にしない。もっとひろいところに対象を定めて、人間というものをひろくふかく語っていこうというものだからだ。だからいまは知られない名前も重要なのだ。
    誰から教えられることもない。おもてだっては、話題にならない。でも文学を語るときに欠くことのできない人物、文学の話題をするとき、その名前を知らないと話そのものが成立しにくい、そういう人物がいっぱいいるのである。そういう人物とことがらで文学の世界はみたされている。いつもいつも目にしないが、それがないとこまる。いわば空気のようなレベルにあるもの、それを知ることが知識なのだ。本を読まなくなると、人は有名だとかいま話題だとか、そういう一定レベルでしかものを感じとれなくなる。いろんなレベルにあるものを知る。興味をもつ。それが読書の恵みなのだ。

    センチュリーブックス《人と作品》

  • ここに収められた随筆は、詩人で評論家でもある著が、'01年から'03年にかけて様々なメディアに発表した74篇の「本にまつわる随筆」を編んだ一冊。

    単なる書評ではなく、小説や作家への考察、本のある情景や読書について、当時の世相を絡め、時に警告、時に揶揄、時に指針を、しなやかな文章の中にそっと潜める。

    この中で、繰り返し読んだのは『文学は実学である』という随筆。

    要約すると‥‥
    この目で見える現実だけが現実だと思う人が
    増えている。文学は空理空論と片付けられ、
    経済全盛で文学は肩身が狭い。はたしてそう
    だろうか。現在の社会問題が人間の精神に起
    因している今こそ、文学の「実」の部分を強
    調すべきだ。良質な物語を知ると知らないと
    では、人生はまるっきり違う。読む人の現実
    を、生活を、激変させる力があるのだ。文学
    は現実的なものであり、強力な「実」の世界
    なのだ。医学、経済、法律学…、これまで実
    学と思われていたものが「怪しげ」なものに
    なり、人間を「狂わせる」ものになってきた
    ことを思えば、文学の立場は自ずと見えてく
    るはずだ。

    といった内容。
    持って回った文章ではなく、そこに俗臭さはなく、小難しい単語の乱用もない。嘆き咆哮するわけでもなく、気負いさもない。あくまでもさり気ない表現の中に、紙背に、ほとばしる思いを込める。それがこちらの心を大いに揺さぶる。

    井上ひさしは、エッセイの正体とは「自慢話をひけらかすこと」だと定義した。それに倣えば「私は本をこんな風に読み、こう理解した、わかりますかな?」と書いてしまえば嫌味で鼻白んでしまう。嫌味さをいかに抜くかが随筆の巧拙を決める。

    一気に読むのはもったいなく、夜更けにウイスキーを傾けながら、気長に味わうのにもってこい。「言葉の力」を再認識し、美しい日本語の世界を存分に味わえる一冊。

  • 2016/9/19

  • 2016/5/28購入

  • 収入の5%以上を本代に充てるのが、読書家の条件―。
    イギリスの批評家アーノルド・ベネットの名著「文学趣味」(1909)によると、そういうことらしいです。
    読書にまつわる74編のエッセーを収めた本書の中の1編「読書のようす」で紹介されています。
    荒川洋治さんのファンである自分は、本書をもう3回くらい読んでいますが、特にこの「収入の5%」がずっと頭の隅に引っ掛かり、月末に本代を計算して首を捻るのが習い性となりました。
    というのも、この水準をクリアするのは、なかなか至難だからです。
    単行本か文庫本かにもよりますが、いずれにしろ10冊前後といったあたりでしょうか。
    収入の少ない自分でさえ難しいのですから、収入の多い人にとって「5%」は大変だろうな、と想像して、私は「あっ」と気づきました。
    これは「収入が多くなればなるほど本を読みなさい」という寓意なのではないか、と。
    要するに、「経済的な水準が高ければ高いほど、知的水準も高めなければならない」ということなのでしょう。
    そんなわけで、読むたびに新たな発見があるのが本書の魅力。
    荒川さんは詩人だけあって、エッセーで用いられる言葉にはほんのりとした体温が感じられ、身体に染み入ってきます。
    ハードカバー269ページで2600円は私には高価ですが、金額をはるかに上回る価値があります。
    再読ですが、本書を含めれば、今月は「5%」に到達するかも。
    なんて。

  • 荒川洋治のエッセイは高校生のときに読み始めて、今回で5冊目。少し値が張るからなかなか買い集めることができない。
    エッセイ集「夜のある町で」の妹(もしくは弟)のようなエッセイに、ということで文学の話が多数。
    わたしはいつも作者のエッセイを読むときに息をあまりしていない。というかできない。
    やわらかい言葉のなかにも鋭く突いてくる。迫力があるのだと思う。
    わたしは近代文学を全然読んでこなかったから、国語便覧を開きながら、作者の語る文豪たちの名前を引いていった。そういう作業も楽しい。
    文学や詩の批評が多いから、「クリームドーナツ」や「メール」のような作者の生活が見えるエッセイも印象に残る。
    やはり人の生活というものがすべてだと思う。作品というものはいつの世も、人の生活を見つめているものが美しいし、正しい在り方だと感じる。うまく説明はできないけれど。

    文学は実学。役に立つ、立たないで価値を決めてしまってはあまりにもさみしいということを改めて教えてもらった。

  • 川上弘美さんのエッセイ「晴れたり曇ったり」の中で紹介されていたので、読んでみる。
    川上さんがこれを読んで「ていねいに生きようと思った」と書いていたところに惹かれたのだから、あたしは今たぶん「ていねいに生きたい」のだと思う。

    荒川さんのこのエッセイ(随想と言いたい感じ)を読んで思ったことは、穏やかそうな、よくも悪くも”天然”な感じのする人の文章なのに、
    すごく強いなと。
    私は自分が物事を白黒決めづらい、曖昧な質なものだから、こんな風に穏やかに、でも強く「私はこう思う」「こういうことはダメだと思う」「間違っていると思う」と言っているところにブチ当たるとドギマギしてしまう。
    そ、そんなに言い切っちゃって大丈夫かなぁ…と思う。
    でもそれは自分の中で、ちゃんと考えられて書かれたものだから平気なのだろうな。
    納得して、こう思うと、ひとつひとつのことに意見を持てることはかなり疲れることだと思う。
    心をフル回転させて、自分で多くを感じ取る必要がある。
    私にはそれが、あんまり足りていないことだなと思った。

  • 短いエッセイが集められている。たいていは見開き2ページの間におさまる長さ、いや短さである。どれも読みやすい。難しい言葉も、小賢しい理屈もない。手元に置いおいて、気の向いたとき、適当に開いたところを読む。これといったあてもなく電車に乗って、なんてことのない小さな田舎町の駅に降り立ったときのように、心の開けてくる感じと、奇妙な懐かしさが目の前に広がっている、そういう趣のあるエッセイ集である。

    エッセイの内容はほとんど、文学や本に関わりのあることばかり。詩に限らず、本や文学が根っから好きな人らしい。しかし、採り上げられている作家の名前は、かなり渋い。わざと有名な作品をさけたというのでもなさそう。ごく普通に自分の関心の向くまま、心にとまった本を読んで、その話を書いているだけなのだが、この人の書いたものを読んでいると、他の人が、自分の関心や興味より、他人の興味や時代の関心にしたがって本を読んだり書いたりしているのだということが逆に明らかになってくる。

    荒川さんは詩人。何年間も大学で講義をしているというのだから、もう少しえらぶったところが出てきてもいいのだけれど、ちっともそういったところが出てこないのは人柄というものだろう。詩を作るだけでなく、本も作る。それもまだ売れていないこれからという才能を見つけては自分の方から出かけていって詩集を作りたいという話を持ちかける。そうやって世に出した詩人も少なくない。全体に短いエッセイが多い中で、詩集を作る話だけは、熱の入り方がちがう。したがって長くなっている。その長さがまた、この人らしくて心地よい。

    「表現は全体でするものであり、誰かがいいものを書く、ということがたいせつであり、わざわざ自分が書くことはないのだ。自分が書く時期はおそらく、自分が思う以上に先の話なのである。文章や詩を書く人の中には、その書くことだけしか見えない人もいるが、ちょっと書くことの周囲をみてみると、いろんなものがある。見えたところから先にはずいぶん広い世界がひろがっており、本をつくることもそのひとつだし、本をつくらないまでも、興味深いこと、豊かなこと、楽しいものが書くことのまわりには想像する以上にある。」

    かくして、小説で読んだ場所を訪ねては、あるはずの山が存在しないのを発見したり、芥川の年譜にある友人を訪問したという記述から、実際に会えたか留守だったかを想像したり、文庫化されるときに並記される作品の変化(例えば、川端の『伊豆の踊子・禽獣・骨拾い』というのは凄い)を楽しんだりする。なるほど、まだまだ世界には興味深いことはたくさん転がっているものだ、と本くらいしか関心のない筆者のような者にもその豊かさに心躍る思いが湧いてくるのである。

    あまり肩肘張ったもの言いをしない荒川さんが「文学は実学である」ということだけは強調する。文学などは何の役にも立たないという風潮に異を唱える。ある種の文学を読むと読まないとではその人の人生はちがってくるはずだという。アナキスト詩人として知られる秋山清の「地べたの上で/そっと背なかをうごかし/全身をおこし/いっせいに立って向こうへゆく」という「落葉」という詩は「みじかいこの幾日がたのしかった」と結ばれる。はじめて落ち葉の気持ちが分かったと荒川さんは書いている。滋味あふれる一篇である。

  • この著者の本をはじめて読んだが、文学や言葉、人としてのありように対する深い思いが伝わる随筆だった。「文学は実学である」に代表されるように、文学ひいては文化への熱い言葉が心強い。そのほか、少しずつ使われなくなっている日常の言葉のこと、少し前の日本(電話やメールのない時代)で、人と会って話をするとはどのようなことだったかを述べた文章が、とても心に残った。

  • 詩人の荒川洋治は、近代日本文学の研究者でもあり、文学をめぐるショート・エッセイの名手でもある。彼のエッセイは、単行本にして4ページ以内のものが多く、センテンスも短いから、鞄の中に入れて持ち歩いて、ちょっとした空き時間に読むのにちょうどいい。「文学」が持つ静かな佇まいや奥行きを感じさせながらも、自我を偏重せずに視線が外に向かって開かれているから心地がよい。というわけで、どんどん読めるものだから、これまでに読んだ彼のエッセイ集を数えてみたら本書が5冊目だった。各編の所々には教訓と呼んでもいい人間に対する洞察がオチのように付いていて、少々巧くまとまり過ぎているものだから、ずるいな〜と思いもするのだけれど、それ以上に、文学が好きなんだな〜、世界が好きなんだな〜と思えるから悪い気はしない。『一冊の本を手にするということは、どうもそういうことらしい。自分のなかに何かの「種」、何かの「感覚」、おおげさにいえば何かの「伝統」のようなものが、芽生えるのだ。それはそのときのものとはならないにしても、そのあとのその人のなかにひきつがれるものだから軽くはない。流されもしない』『なぜなら文学はいまの人たちが関心をもつ世界だけを相手にはしない。もっとひろいところに対象を定めて、人間というものをひろくふかく語っていこうというものだからだ』『「詩のことばはフィクションである」という理念を放棄したとき、詩はあたりさわりのない抽象的語彙と、一般的生活心理を並べるだけの世界へとすべりおちる。「詩のことばはすなわち散文のことばである」とみられることへの恐怖心を、とりのぞく。そこから新世紀ははじまるべきだろう』。

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著者プロフィール

荒川洋治
一九四九 (昭和二四) 年、福井県生まれ。現代詩作家。早稲田大学第一文学部文芸科を卒業。七五年の詩集『水駅』でH氏賞を受賞。『渡世』で高見順賞、『空中の茱萸』で読売文学賞、『心理』で萩原朔太郎賞、『北山十八間戸』で鮎川信夫賞、評論集『文芸時評という感想』で小林秀雄賞、『過去をもつ人』で毎日出版文化賞書評賞を受賞。エッセイ集に『文学は実学である』など。二〇〇五年、新潮創刊一〇〇周年記念『名短篇』の編集長をつとめた。一七年より、川端康成文学賞選考委員。一九年、恩賜賞・日本芸術院賞を受賞。日本芸術院会員。

「2023年 『文庫の読書』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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