アメリカの反知性主義

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (449ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622070665

作品紹介・あらすじ

アメリカの知的伝統とは?知識人は民主主義の実現に貢献する力になれるのか?政治・宗教・実業・教育・文学-建国から現代まで、アメリカ史の地下水脈を問うピュリッツァー賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  • ・伝統や学術ではなく聖書に基づく信仰のみを重んずる福音主義の影響。
    ・アメリカの建国当初は指導者=知識人であったが、のちに変化。哲学者であったトマス・ジェファソンへの攻撃、知性ではなく人格を重んずる風潮。専門職の軽視、軍歴などの荒仕事に象徴される男性性と対置される知性=女性性、政治は誰でもやれる仕事(であるべき)という考えが19世紀半ばまでに主流となる。流れが変わる契機となったのがセオドア・ローズヴェルトで、知性と男性性の両立を体現。政治における専門職・専門知識が再び重視されるようになるにつれ、知識人と権力が結びつくようになった。
    ・貴族制度に根差す既存の文化や伝統への反発→ビジネスの重視と文化そのものの軽視→職業教育偏重。
    ・画一的な既存カリキュラムを詰め込むだけの教育への反発から、子どもは本来必要なことを知っているという自然状態の過剰な偏重へ。
    ・知識人は社会を批判する立場であり、それゆえに疎外される。しかし疎外自体に価値がある訳ではない。権力と結びつくことで社会に自らの理想を実現させることと、権力を批判することで純粋性を維持すること、両方のバランスを持つことが必要。

    かなり分厚い内容の本で、消化しきれた気がしないが、アメリカ史の古典と言われつつも書かれていることは現代にも通じ、そして日本にも当てはまる。

  • 知的な生き方や、それを代表する知識人に対する不信感や軽蔑、そして憤りを表現する「反知性主義」という態度は、アメリカの歴史において建国間もないころから見られたとのことである。

    この本では、主に4つの分野からこの反知性主義の歴史を振り返り、逆に社会の中で知性が果たすべき役割やその特性をあぶりだそうとした歴史書である。

    本書がアメリカで出版されたのは1963年であり、それに先立つ10年間は、マッカーシズムからアイゼンハワー政権を通じて、アメリカに知性に対する否定的な見方が広まった時期でもあった。そのような中で、知性は本当に社会の敵なのか、知性の果たすべき役割は何なのかを真摯に探究した本になっている。

    本書が取り上げている4つの分野は、宗教、政治、ビジネス、教育である。

    ドグマ的な教義の解釈論や組織化された教会制度を批判し、神との直接的なつながりを取り戻そうとした福音派の宗教や、エリートによる支配を批判し、市井の人々の普通な感覚に基づいた平等主義的な政治を訴えた政治改革の主張は、知性の支配が陥りがちな危険をある面で鋭く突いている。

    同様に、ビジネスの世界でも学歴や理論より実務を重視し、教育の世界でも教養やあらかじめ定められたカリキュラムに基づく知識の習得よりも、実用的な職業訓練や生徒の自主的な学びを尊重しようとする考え方にも、一概に否定できない真実が含まれている。

    しかし、一方でそれらの考えを推し進める一派が知性を攻撃し、知性の役割を全面的に否定するような主張をすることは、本来知識の習得や知性を持った人間が行うことのできる冷静な反省を不可能にし、個人や社会が到達できる成長の範囲を狭い経験や視野の枠の中に閉じ込めてしまうことになる。

    筆者が本書を完成させた1963年の時点では、それらの動きには一定の歯止めがかかり、J. F. ケネディ政権のもと、知性の役割に対する再評価の動きも見られるようになってきた。

    しかし、本書の最後の章で、筆者は知性を担う知識人のありかたについても、非常に厳しい反省を加えている。それは、知識人自身がみずからを社会の中に適切に位置づけることを拒んできたのではないかということである。

    知識人は、自らの純粋性を保つため、社会からの疎外されることを進んで選ぶことがある。象牙の塔にこもることで、知識人としての矜持を保つという姿勢である。

    また一方で、知識人は社会の中で評価を得たいがために、自らの役割を専門知識の提供というテクニカルな領域に限定する態度も取りがちである。これは知識人が社会に順応することに対して持っている潜在的な罪の意識を回避することにもつながる。

    しかし、知識人の間でこのような分極化が進んでしまうことに対して、筆者は強い危機感を感じている。いずれも、知識人の本来の役割を十全に発揮した姿とはいえない。

    社会の複雑化、組織の大規模化、さらに科学技術の発展等の要因により、古代ギリシアやルネサンス期のような、哲学者であり政治家であり科学者であり芸術家であり一市民であるといった万能の天才が活躍する時代は、今後は期待できない。

    知識人は専門分野においてはある特定の領域において知識や判断材料を提供する役割にとどまるであろう。さらにその内容も、一般人に容易に評価できるものではなく、知識人相互の検証といったスタイルに移行している。

    しかし、知識人自身が、自らを疎外か順応かといった二者択一の両極に押しやってしまうことは、避けなければならない。そうではなく、多様な知識人のありかたを認める社会を作っていくことが大切だと筆者は述べている。

    筆者が描写する「情熱と反抗心によって名を馳せた知識人もいれば、優雅でぜいたくな知識人も、倹約化で厳格な知識人もいる。利口で複雑な知識人も、忍耐強く聡明な知識人も、主として観察力と忍耐力をそなえた知識人もいる」ような社会というのは、知識人相互や知識人と社会の間の対話が成り立った社会でなければ実現できない。

    そして、そのような社会の実現のために、私たちが持つべき率直さ、寛容さ、精神の遊びといったものの大切さも伝えてくれる本だった。

  • 前回のアメリカ大統領選挙で、開票にかかわってごたごたがあったことを覚えている人も多いだろう。現在では、本当はゴアが勝っていたというのは周知の事実である。歴史に「if」はないというのが定説だが、もし、ブッシュが負けていたら、今の世界はどうなっていただろうか。9.11に始まるテロ騒ぎやそれに対抗するための世界を巻き込んでの対イラク戦はなかったかもしれない。それでは、なぜ、そうまでして、アメリカはさして賢明とも思われぬ人物を首長に選んだのか。その理由として、企業家による政治支配があるのは誰にでも分かる当然の理由だが、そのもうひとつ奥にアメリカという国が持つ「知性」への嫌悪、反感というものがあったのだ。

    大著である。こういうのを労作というのだろう。アメリカにおける反知性主義的な動きを牧師の説教や大統領の演説、学者や作家の書いた物の中から幅広く渉猟し、この近来稀に見る大国の中に蔓延る「知性」的なものに対する反感をあぶりだしている。はじめに言っておく必要があるが、ここで問題にされているアメリカは、確たる根拠もなく外国を攻撃する現代のアメリカではなく、1950年代、マッカーシズムの嵐が吹き荒れた頃のアメリカである。考察の対象とされた時代は、建国からJ・F・ケネディの時代まで、対象とされた人々は、社会の上層部、政治家や学者知識人、宗教家、作家という国を動かしていく立場に置かれた人々である。

    一読して感じるのは、ある種の語彙から受ける古めかしさ(たとえば、ビート族、ヒップスター等の)である。ニューディールなどということばは、すでに歴史的な語彙として感じられるのか、かえって古めかしさを感じないのに、より現代に近いことばの方が、古びてしまうのは、「流行」というものの為せる業でもあろうか。しかし、その一方で記されている内容は、そのまま現代のアメリカを語っているものと読んでも通じるくらい古さを感じさせない。瞠目すべき分析がある訳ではないが、自国の歴史を書くときに歴史家が陥りがちな自国礼賛という悪弊から一歩身を引き、客観的に分析することができた筆者の功績である。アメリカという国が繰り返してきた知性蔑視とその反省に立った知性重視の歴史の中で、現在はまちがいなく「反知性主義」が勢力を握っていることが、引用文から伝わってくる。

    アメリカには過去がない。歴史を感じさせる遺跡もなければ、神話や古代の芸術、文学もない。ピューリタンに始まる彼の国にとって、そこから逃れてきたヨーロッパは、退廃と悪徳、偽善の巣窟であった。過去を振り返り、そこから学ぼうという心性の持ちようのない国としてアメリカは出発している。当然、貴族階級というものはなく、せいぜいがジェントルマン階級の所有する富を背景に国づくりがなされてきた。パトロンというものがなく、事業家たちがその代わりを努めたわけだが、その多くが自助努力の人たちであった。「叩き上げ」の人を尊敬する気風は、建国の父たちの時代から培われてきたアメリカの精神である。

    それでも、ニューイングランド時代には、大陸で受けた教育が新しい国を作るために重用された。しかし、西進を続けるうちに、荒々しい地平を開拓できる力、言動より行動、という直接的な能力が信奉されるようになった。ことは宗教においても、かわらない。もともとプロテスタントであることから聖書以外に本を読む必要を認めない。様々な儀式や教義に詳しい知識階級としての宗教家よりも直感的に民衆に訴えかけることのできる伝道家が力を持つに至る。知性というものが、過去のヨーロッパ出来の御託ばかり並べて、行動しようとしない、お上品な上流階級の飾り物のひとつのような扱いを受けるに至ったわけは、アメリカという国の歴史と深い関わりがあったのだ。

    「反知性主義」は、アメリカの歴史を通して伏流水のように一貫して流れ続け、何かことがあるたびに一気に噴き出す。現在、行なわれている大統領選の前哨戦においても、軍歴の有無が重要視されていることは、いうまでもない。軍歴でなければ大学時代フットボール選手であったことでもいい。本を書いたり、大学で学位を得たことなどは指導者の資質としては男性的でないと感じられ、かえって不利にひびくというお国柄である。デューイの教育論が、反知性主義とどう結びついたか、教師の地位の低さなど、教育の問題は、学力低下が叫ばれる我が国の教育問題を考える上でも貴重な考察を含んでいる。大冊ではあるが、内容は平易である。常日頃、アメリカが変だと感じている人にお勧めしたい。

  • 1.宗教における反知性主義
     神学を極めたからといって信仰心が無ければ神の救いを得ることはできない。教養の低い者ほど知性に惑わされることなく神の意志を直観することができる。知的レベルの低い移民には神学は理解できず、彼らに寄り添って教えを広めてくれる巡回牧師のほうが、ハーバード出の学者よりも布教の目的を達成しやすい。

    2.政治における反知性主義
     政治的闘争においては男性的であるという事が何より重要であり、選挙においても同じである。知性は女々しさを印象づけるだけであり、ハーバード出という経歴は選挙において不利に働く。政治は基本的に闘争であり知性を必要としない。従って閣僚ポスト輪番制を採用することで知識人を権力から締め出す理由となる。

    3.ビジネスにおける反知性主義
     アメリカのビジネスはたたき上げの連中によって築かれてきた。彼らの人生は神話となってアメリカ国民の精神に浸透している。ビジネスが高度に組織化されて専門分化されたとしても企業の幹部候補生にはあえて重要度の低い仕事を与えることでたたき上げの精神を植え付けるべきである。

    4.教育における反知性主義
     旧来のカリキュラムにあるような国語、算数、理科、社会はビジネス上の利益に直結するものではない。またこれらの科目を学ぶことが人生の難題を克服する助けになるわけでもない。現実には学習適応度の低い子供が大勢を占めているわけだから、このような子供たちに合わせた教育をする必要がある。そのことは民主主義の理念に照らし合わせても極めて妥当である。そこで自動車運転や料理といったむしろ生活に適応できる教育を重視する必要がある。

     アメリカの反知性主義というのは大体こんな感じであるが、日本にも結構あてはまるような気がする。我々読書人も本を読むこと自体(特に小説)には多かれ少なかれ罪悪感を感じたりするわけで、我々の生きづらさの原因を知り、生存戦略を考える一助になるだろう。

  • 米社会の基底部に存在する反知性主義の淵源に迫る
    昨今のアメリカの行動を熟考と批判精神を欠いた「反知性的」振る舞いだと感じる人は少なくないだろう。一方で、アメリカが国際社会の中で他を圧するパワーを持っていることに疑いを持つ者もいない。なぜ「反知性主義」のアメリカが他を圧するパワーを持っているのか。
    「反知性主義」とは、単に無知蒙昧を擁護する立場ではない。それは、平等主義、実用主義、実践主義として現れる心的姿勢と理念であり、知性と知識人に対する憤りと疑惑となって現れる。このような意味での「反知性主義」は、普遍的な性格を持つ。しかし、本書は、アメリカ固有の「反知性主義」を問題とし、それがいかにアメリカ社会の本質に深く関わってきたかを解き明かしていく。40年前に出版された本書が今なお色褪せないゆえんである。
    アメリカにおける「反知性主義」の伝統は、ヨーロッパの宗教的伝統を断ち切って移民してきた人々が、その精神的安定の基盤を聖書(イエスの福音)のみに求めようとした福音主義の伝統の中に見出せる。福音主義は、万人の平等を強調すると同時に、当時の知的階級を代表する聖職者たちを排除していった。
    「反知性主義」は、政治の世界でも、知性と教養を持つ者による支配を否定し、平民の参加を推し進めた。アメリカで人気のある大統領は、決して知識人タイプの人物ではなかった。1952年の大統領選挙で勝利を収めたのは、いかにも知識人好みのスティーブンソンではなく、アイクの愛称で知られる庶民的なアイゼンハワーだったことも知識人に対する不人気を象徴する。
    実用や実践を重んじるビジネスの世界も、しばしば「反知性主義」的である。文化や伝統的価値を著しく欠くアメリカ社会では、ビジネスの成功はそれに代わり得る位置を占め、知識人と対立してきた。しかし、このような社会において知識人は、自ら拠って立つ基盤をビジネスの成功に求めざるを得ないという逆説も存在する。単純な二項対立で「反知性主義」の問題を扱えないことが繰り返し指摘されている。
    「反知性主義」は平等教育、民主主義教育を掲げるあらゆる教育改革運動の中にも見出せる。デューイの教育思想も「反知性主義」的伝統の下で解釈し直される。
    本書は、アメリカにおける「反知性主義」を単に糾弾するのではなく、その歴史的水脈を明らかにすることによって、現代社会において知識人が果たし得る役割とは何かを鋭く問い掛けてやまない。
    (2004.4.17 週刊東洋経済掲載)

  • アメリカの「正義」を根柢から支える「知性への敵視」という伝統
     

    本書の主題は、アメリカ合衆国が建国以来、広く社会に浸透している「反知性主義」。

    まず、建国と密接に関わる宗教的な知性への敵視である。宗教的な純粋の探求が「新大陸」へ人々を向かわせた。純粋なキリスト教への回帰は福音主義に基づく平等としての理想郷建設と向かうが、同時にこれは宗教における学問性を危険なものとして退ける傾向を帯びることになる。

    そしてこれが政治の世界にも顔を出すことになる。知識人や専門家が指導者になるよりも、無学の男や大衆の英雄が大統領に選ばれることがしばしばある。時代の変遷のなかで、専門家の役割は必然的に高まっていくが、知性への敵視は弱まることはない。政治における知識人の役割が高まることは、産業世界でも同時進行だが、ここでもその傾向は無関係ではない。

    最後は、驚くことに教育の分野における反知性主義。発端は19世紀初頭だが、1910年頃にそれは本格化する。民主主義や経済生活の向上に資するのは実学とされ、実用に反する学問は「無用の長物」として扱われる。

    かくも様々な分野で知性への敵視の伝統が脈々と根付いていることには驚くほかないが、これはまさにアメリカ合衆国が民主的制度や平等主義的感情に基礎づけられていることのひとつの帰結でもあろう。だからといって、民主的制度や平等主義を否定してもはじまらない。問題は、知性の驕りと「知性への敵視」という感情である。そしてこの情況を克服するには、鍛え上げた知性の力によるほかない。

    アメリカ社会におけるそのような伝統を概観した一冊だが、決して他人事ではない。戦慄する前に、反知性と知性の関係を自身の問題としてとらえるほかない。

  • ホーフスタッターの有名な本。近年「反知性主義」という言葉が盛んに使われるが、そのもととなっているのはこの著書だ。この本の表紙に写っているのは、「赤狩り」旋風を吹き起こしたマッカーシーである。
    反知性主義とは、民主主義や社会主義のようなはっきりとした主義主張のある思想のことではない。それは、知性的であることに対するさまざまな意味での反感だったり、知性よりも別の人間の側面を優位におくことだったりすることだ。著者は様々な文脈における反知性的態度を一括して「反知性主義」と呼んでいる。著者によれば、アメリカには建国当初からそうした反知性的傾向が強いらしいのだ。
    しかし、具体的にどのようなものかを例示しなければ、反知性主義がどういったものであるかは分かりにくいだろう。具体的には、以下のようなものだ。
    宗教……進化論に対する対決。知性よりも信仰を重んじるべきだ。大学は信仰を失わせる。
    実業界……大学出は役に立たない知識を詰め込んでいる。経験がすべて。
    政治……インテリの社会実験は机上の空論を現実に適用する危険なものだ。政治は汚い男社会の原理で動いており、優男の知識人に活躍の余地はない。
    労働運動……汗水たらして労働しない知識人に労働運動の主導はできない。
    教育……民主的教育は、子供たちに教育を合わせるべきであり、知識を押し付けるべきではない。
    日本でもこうした意見はありふれたもので、だれもが日常的に経験したことがあるはずだ。そしてこういう意見も、極端な場合を除けば、尤もなところがある。
    感動的なのは、そうした多様な敵対的態度に囲まれた知識人をあつかった最終章である。知識人はどうするべきだろうか。著者は、体制に順応することもひとつの手だとして否定しない。しかし著者の共感は、あきらかに、逆境におかれながらも信念を貫く孤独で不屈な知識人のほうにある。著者はアメリカ社会を批評しながら、そうした社会に生きる知識人を応援しているのだ。

  • アメリカはエリートによって成立した国ではない。本書を読むとそのことがよくわかる。

  • 積読になっていたのを年末に奮起して成敗してやったのだが、かなりの読み応えであった。この本を十分にあじわうには、ワタクシの知性ではちょっと足りないのかもしれない。長くはないもののアメリカの通史をさらえて反知性主義と知識人のせめぎあいを丁寧に丁寧に事例をつらねて検証していくので、ある程度はアメリカの歴史、特に政治史、文化史、宗教史に案内がないとつらい感じはある。特に19世紀は「南北戦争あったよね」「ジャクソンってなんかひどかったらしいね」くらいの感覚しかないので苦戦した。

    とは言え、皆様ご承知のとおり、反知性主義(と、それと対になる知識人サイドの問題)はまったく古びても廃れてもおらず、本書の議論の多くはそのまま現代にもってきても全然違和感がない。ジェファソンがそのスノッブさゆえに攻撃されるさまからはオバマを連想してしまうし、右翼は標的としての共産主義者を必要としていたなんて話は共産主義者をヒラリー・クリントンに置き換えてみてはどうか。

    ひとつ本書で気づかされたのは、反知性主義と知識人とは、アメリカの歴史を通じて一種のシーソーゲームを演じてきている点だ。たとえば、本書執筆の背景として1950年代の赤狩り等があることは裏表紙の紹介文にもあるとおりだが、本書が出版された1962年には、スプートニクショックもあって反知性主義はいったん鳴りを潜め、赤狩りも終息し、時代はベスト&ブライテストのケネディ政権になっている。そういった揺り戻しは建国時代からずっと交互に続いている。2020年にはどのような顛末が待ち受けているのだろう。

    最後に一点、誤訳を発見したのでご参考までに。
    196ページに「人気投票」なる語句が何回か登場しており、その部分は意味が取りづらくなっている。それはpopular voteの誤訳で、正しくは「総得票数」とでもすべき語句。有権者が直接選出するのは選挙人団であるための独特の用語である。

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    歴史

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