- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622075028
感想・レビュー・書評
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なんという喪失感なのか。
彼の絶望を理解することは到底できないが、こんなにも愛する対象があるということ。
その対象が母君であるということ。
ロラン氏の母君は聖性の人だったと彼は書いている。
決して小言など言わない人だったと。
非ー暴力の人だったと。
訳者の解説から知り得た事↓
ロラン氏の没後(1980年没)遺品から沢山の原稿がみつかりそれらはIMEC(現代刊行物研究所)に厳重に保管されている。その原稿の中にあったカードの束がこの作品だ。読めばわかるがこのうえなく私的かつ内的であるためにIMECでの閲覧も許されていないものだった。
この作品が本当に世に出てよかったのかはロラン氏がすでに鬼籍のため答えはない本である。
これを読んでいると、死に対する考えが変わってしまう。もはやとてつもなく死というものが耐え難く恐ろしいものに感じる。自分の死ではなく愛する者の死というのがこれほどのものかと、その絶望はその後の生き方をまるで変えてしまうのか。
ロラン氏が母上の死後に書いた作品「明るい部屋」が気になる。こんなにもロラン氏を絶望の淵に置き去りにした母上の写真をめぐる作品のようです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
人といることの思い出。
何も自分のことを知らない人に認められるよりも今自分が知っている人たちにより幸せになってほしい。
喪に服するというのはどんな状態なんだろう?
知らない間に自分の心が削られているのかも知れない。
なぜ自殺をするのか、死んだら今の世界より良くなる、マシになるなんてなんで分かるのか。 -
…書き手を全く知らないで、手を出してはいけない分野でした。(パラ見して、読みやすそうな詩だーとか思っちゃったんだもの)
仏の批評家、思想家の著者様が、母を亡くした後、2年近くの間に過度に書かれた日記。
悲しみ、心の揺らぎの断片を覗き見した感じです。
著者様の本をひとつでも読んでから、再読したいと思いました。 -
(後で書きます)
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大学図書館で借りる、¥0.
いつかまた、誰か何かを喪ったときに読もうと思う。 -
ひとことでいうと、とっびきり読みやすい。
そしてもう、ひたすら切なく美しい。
ロランバルトとロマンロランの違いさえわからない、あたしのような文学101にもでも、この美しさとせつなさは、きっちりと、伝わりました。
ロランバルトという人が(大丈夫、彼がどんな人かなんてここではまったくどうでもいいから)、亡くなった大切な人を思い、ひたすら言葉を産み落とす、そのメモを並べなおしただけ、と、いえなくはない。いや、ありていに言えばそれだけの本なのだ。
でもなんなんだろう?この、共振。いや強振?
メモ書きの羅列だからひとつひとつはとても短い。1ページ以上になることもほとんどない。繰り返しも多い。難しいことも書かれていないし、脚注が丁寧に書かれているので支離滅裂ということもない。きわめて冷静だ。
だのにそこにあるのは明らかに、髪の毛一本分の狂気と隣り合わせになるまでの喪失感と鬱と、慟哭と、迸るような悲嘆な愛情なのだ。
シンプルな中に悲しみが伝わり、それにあてられながらも同時に、立ち上がる強さを目の当たりにして、まるで舞台を見ているかのように、この魂の独白に吸い寄せられて胸が痛い。
ロランバルトは最愛の母なきあと、最後の作品を胸に抱きながら交通事故で亡くなる。生きようと漸く立ち上がった彼をだったのに、その姿を見てそのタイミングで神様が彼を愛する母に逢わせてやろうとしたのだろうか。時に私には、神がわからなくなる。なんともやるせない最後だと、思う私は理解力が足らないのだろうか。ロランは笑って、死んだのだろうか。 -
遺族の心理を知るための貴重な資料。言葉のエキスパートによる率直な苦痛、不満の吐露が綴られている。
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心が落ち着きたいときに、たまに手に取る。ドーンと泣きたい時に泣けなかった辛いとき悲しいときに心の汗をかきたいときも。だれもが共感できることを、本当に人を愛せる人達との共通の言葉が書かれている。バルトって好きだ・・・。バルトに愛されたバルトの母と接してみたい(不可能だが)。
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演劇のエクリチュールの中のカミュとの書簡のやりとりと若干矛盾するかもしれないが、本書では、最も個人的で他にナニモノにも還元できないバルトにとってのバルトの「母の死」さえも、書かれ、読まれることにより、文学の持つ普遍性の引力に引きずられる、その事を認めつつもそれに抗う意志を感じる。
印象に残る(と言いつつそれ程記憶に自信がないが)一節は、友人に何か書いているのかと聞かれ、何も書いていないということを言ったら「まだ早いのよ、無理しなくていい、時間がたてば・・・」と言われ、時間が経ってどうにかなると考えるのは馬鹿だ、本当の愛はそんなものではないし、もし(母の)喪が時間と共に風化したり、不在に慣れたりするのであれば、それ程恐ろしいことはない。 -
2009年2月にスイユ社から出たばかりのロラン・バルト『喪の日記』が、早くも邦訳刊行された(みすず書房)。翻訳家たちの完璧主義とやらが災いしているのだろうか、世の中には、何年十何年と訳者の書斎で居眠りを続ける洋書が多いというのに、今回の早期刊行は非常に喜ばしいことである。
バルトという人は周知のように、みずからの家庭を持つことはなく、「生涯で唯一敬愛した女性」である母親とずっと二人暮らしをしてきたが、1977年10月にその母がついに病死する。そして1980年の2月に起きた交通事故が、彼自身の命をも奪ってしまうわけだが、母の死の翌日から悲嘆と孤独の心情を綴りはじめた『喪の日記 Journal de deuil』と名づけられたカードの束が、死後、IMEC(現代刊行物研究所)によって厳重に保管されていた。没後30年近くが経過し、日記に登場する関係者のプライバシーが問題視されなくなったと思われる中、このカードの束をIMECの研究員がまとめた本書は、バルト著作史上もっとも悲痛な作品となった。単なる肉親の死という理解では片付けられない悲しみと自殺衝動が、単純なことばの集積の中に何度もくり返される。
“10月31日 今までにない奇妙な鋭さをもって、人々の醜さや美しさを(街路で)眺めてしまう。”(29頁)
“11月11日 ひどい一日。ますます不幸だと感じる。泣く。”(47頁)
“1978年5月28日 喪の真実は、単純そのものである。マムが死んでしまった今、わたしは死のふちに立たされているということだ(わたしを死から分かつのは、もはや時間だけである)。”(133頁)
しかし、わずかな変化の兆候が現れる。悲嘆だけに染められていたことばがやがて、写真をめぐることば、写真についての本を書くことへの希望へと変化していく。のちの『明るい部屋』の構想みたいなものの始まりである。書くことだけが、バルトを支えていたことがわかる。
“1978年6月13日 けさ、やっとのことで写真を手にとり、一枚の写真に心ゆさぶられる。少女のマムが、おとなしく、ひかえめに、フィリップ・バンジェのかたわらにいる写真だ(シュヌヴィエールの温室、1898年)。涙がでてくる。自殺したいという思いさえなくなる。”(107頁)
このようにして私たち読者は、晩年の代表作『明るい部屋』が生成される、その初期衝動を悲痛なドキュメントとして受け取る。私たちはすでに、彼自身の突発的な死が、もうそこまで近づいていることを知っているわけであり、まるで悲劇の舞台を最終幕から逆算して観ているかのような奇妙な感覚に襲われるだろう。しかも、その後の『明るい部屋』のスピーディな完成が、なにか喪の完遂、昇華のようなものにはなり得なかったという事実をも知っているのである。
ロランバルトの作品





