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Amazon.co.jp ・本 (304ページ) / ISBN・EAN: 9784622075929
感想・レビュー・書評
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https://opac.hama-med.ac.jp/opac/volume/484419詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
個人の事にフォーカスせず苦しみを社会的に切り込んでいく論文の集まり。
社会によって苦しめられている人達がいる。そのしゃかきにあなたはいるから責任がある。赤の他人であっても。というのが本書のテーマ。
論文の集まりなので頭に入ってきやすいものと難しいものに分かれた。 -
『他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る』
原題:SOCIAL SUFFERING (1997)
著者:アーサー・クラインマン
著者:ジョーン・クラインマン
著者:ヴィーナ・ダス
著者:ポール・ファーマー
著者:マーガレット・ロック
著者:E・ヴァレンタイン・ダニエル
著者:タラル・アサド
訳者:坂川雅子
解説:池澤夏樹
【書誌情報】
四六判 タテ188mm×ヨコ128mm/304頁
定価 3,672円(本体3,400円)
ISBN 978-4-622-07592-9 C0036
2011年3月22日発行
貧困・難民問題など、社会的につくられる苦しみをグローバルに捉える際、統計の網にかからない実相を捨象するのはあまりにたやすい。数値化の威力ばかりが叫ばれる時代にこそ、「質的な」側面へのアプローチが切実に求められる。
収録の論考は、ハイチにエイズを蔓延させる社会構造(ファーマー論文)、移民が民族と国家を失うプロセス(ダニエル論文)など、社会的につくられる苦しみについての当事者自身による「表現」を掘り起こしつつ、同時にそれをグローバルな視座から位置づけている。「ケヴィン・カーターの写真と同じように「他者の苦しみへの責任」は何らかの形で可視化されなければならない。商品になってしまうことも承知の上で、より強く訴える表現手段を用意しなければならない。この論集もそういう意図から編まれたものだ。」(「解説」より)
特に注目してほしいのは、社会的な苦しみにも「トリアージ」が必要だという、最貧困層の人々の支援を視野に入れたP・ファーマーによる訴えである。本書中でも苦しみに統一的基準を持ち込むことへの懸念を語るクラインマンらの見解との間に緊張が生じており、社会的苦しみをめぐる議論の焦点であることが見てとれる。この問題への定見をもつためにも本書は必読といえるだろう。
〈http://www.msz.co.jp/book/detail/07592.html〉
【目次】
序論(アーサー・クラインマン/ヴィーナ・ダス/マーガレット・ロック)
●遠くの苦しみへの接近とメディア●
苦しむ人々・衝撃的な映像――現代における苦しみの文化的流用(アーサー・クラインマン/ジョーン・クラインマン)
●声なき者の表現を掘り起こす/インド・パキスタン●
言語と身体――痛みの表現におけるそれぞれの働き(ヴィーナ・ダス)
●トリアージの必要を問う「極度の」苦しみ/ハイチ●
人々の「苦しみ」と構造的暴力――底辺から見えるもの(ポール・ファーマー)
●医療テクノロジーと人権/日本●
「苦しみ」の転換――北米と日本における死の再構築(マーガレット・ロック)
●移民の苦しみのありか/スリランカ・英国●
悩める国家、疎外される人々(E・ヴァレンタイン・ダニエル)
●抑圧装置の解体●
拷問――非人間的・屈辱的な残虐行為(タラル・アサド)
解説(池澤夏樹)
訳者あとがき
原著の収録論文
執筆者略歴 -
他者の苦しみを本当に理解することは可能なのか、というテーマのもと、構造的貧困、構造的暴力、構造的苦しみについての6つの論文が収録された本。ひとえに貧困といっても、そこには経済的・文化的・人種的・階級的・宗教的…さまざまな問題があって……読んでて眉間のシワが深くなってくる。2011出版で古い上、あんまり書店に置いてなさそうな本ですが考えさせられる本。悲観的にならなくてもいいけど、なんだろ、物事に対する自分のスタンスとか考え方を再考させられる…みたいな…。
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苦しみを個人的なものではなく社会的な構造の中で捉えることが大切であることが述べられている。
他人の苦しみを感じるということの背後には、文化的な壁、メディアを介することによって生じる変容などがある。
また、苦しみにも、肉体的なものや物理的なものだけでなく、構造的に作り出され隠蔽されるものもある。それらはより多くの人を苦しめている場合であっても、表面化することが少なく、また、捉えること、理解することが難しい。
これらの要因から、苦しみを定義し、計量し、政策的に軽減していくといったことには非常な困難が伴う。本書においても、苦しみの計量に対して否定的な見解もあるが、一方で、その構造を捉え、本質的な働きを把握することで、どの苦しみを取り除くことに限られた資源を投入すべきかを考えていく必要性を訴えている見解もある。
苦しみを解消し、その傷を癒すためには、個別のケアによるところと政策的なアプローチの両面が必要と思われるが、本書が扱っているような幅広い観点から「他者の苦しみ」を捉えることは、大切なことであると感じた。 -
久しぶりにイッキ読みしました。
とても面白かったです。
図書館で借りていたので、さっそく購入し蔵書の一部とします -
ソーシャルメディアでは、他者の苦しみに同情したり拡散したりというのをよく見る。新聞だって、概ねそんな記事ばかり。知っている人ならいざしらず、知らない人の苦しみに怒ったり責任を感じたり、僕はなかなかできない。そんなだとまずいのかな、と反省しつつ、できっこないとも思っていた。複数の視点・事例からの他者の苦しみの論文集なのだけど、やはり責任を持つのではなく、従来の思いを強めて、結論を出さずにもやもやし続けるのだなあと嫌になった。でもきちんと嫌になれてよかった。
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本書の原題は『ソーシャル・サファリング』で、直訳すると<社会的苦しみ>となる。これは、社会の構造と力によって苦しみを受けている人(たとえばスーダンの飢饉や、スリランカなどでの人種差別)に対して、その社会に属している側の我われには、一律に責任があるという考え方だ。本書には、そうした苦しみに異なる観点から取り組む、5つの論考が収められている。
スーダンやスリランカから、距離的にも心理的にも遠く離れている我われが、彼ら (の苦しみ)に対して責任があるというのは、飛躍した考え方だと思うかもしれない。彼らにできることなどないと思うかもしれない。我われだって、手の届く範囲の平和を守ることで手一杯だ。けれども、5つの論考のうちの1つは、日本が舞台なのだ。
我われは今、見ず知らずの多くの人たちから手を差し伸べられている。その返礼のためにも、見ず知らずの人たちの苦しみに気づく力が必要とされている。 -
必読の書と呼ばれる所以が、私には非常に理解できた。
人間なら生きているときにここに書かれているいろんな場面に頭を抱えることもある。
必読の書ではあるが、机上のことだけにとどまって欲しくないと著者も思うことだろう。共感とは言葉では簡単だが、実際にそこまで達せられて(もしくは自分に引き寄せてこそ)やっと踏み入れられることもある。 -
一見自分とは関係ないような遠くの、しかし繋がった世界の誰かの苦しみを、のうのうと生きていられる「私」はどう捉えましょうか。みたいなことの論集。
原著15編中6編の抽出らしい。他のも読みたい。
いかにも翻訳な文章はちょっと読みにくい。
非道なこと(たとえばどこか心理的に遠い国で起こっている虐殺)を知ったとき、足を踏んでいる側は踏まれた側の痛みを知らなくたって生きて行ける。
足を踏まれていない無関係の人がその事実を公にするのは、身の安全が保障されたお気楽な立場からの善意にすぎない。
じゃあ関係ないから手を出さないのがいいかといえばそんなことはなくて、「産むのも産まないのも親の身勝手」みたいなものだ。
どっちにしろ身勝手なんだから、自分の責任で選択しなきゃいけない。
知らなければ何もできない以上、知れる人には知る(知らせる)責任がある。
しかし「知る」を一歩間違えると勝手な物語を作り上げ犠牲者の烙印を押してその人たちの苦しみを消費することにつながりかねない。
こうやって考えて論じるのも平和なところの暇人たちのお遊びともなりかねないわけで、まともに向き合おうとするほどに机上の論理になってしまう。
日本の脳死論争のところはなんというか……どこからつっこめば……
原書が97年ってこともあるんだろうけど日本がそんなに宗教的な国だとは知らなかった。
わたしのしってるにほんとちがう。
「日本では不自然なことが忌避される」(これはそうかもしれない)から、「他人の臓器を使うなんて」と反発される。とか
「日本では贈答の文化があるから」「他人の臓器を無償で提供されることは」落ち着かない(一方的にもらうだけなんてダメ)とか
ええええ?献血は無償提供なんですけど。
日本では中絶が受けいれられているってのだって、宗教観なんかよりもジェンダー規範のほうが大きい。
バイアグラはあっさり認可するけど低用量ピルや子宮頸癌ワクチンは許さない親父に牛耳られた社会だとか、
お粗末な性教育と避妊しない男とそれを許しちゃう(あるいは受けいれざるを得ない)女というあたりのほうがずっとずっと重要だと思うんですけど。
そもそも受けいれられているというよりは黙認だし。
支援が必要な国を順位付けする「トリアージ」も、言ってることはわかる気がするんだけどその言葉はどうだろう。
もう死ぬんだからいいよねって「いらない国」に黒を貼り付けて切り捨てる方向にいっちゃいそうな気がする。
なんかなあ。
言葉が先鋭化しすぎて、現実を置き去りにしてしまうような危うさを感じる。
とはいえ全部がそうなわけではなくて、スリランカ難民を語ったE・V・ダニエルなんかは地に足が着いている。
生命の危機に瀕しているスリランカ人が、せめて子どもひとりだけでもと全財産をはたいてヨーロッパへ「不法入国」させる。
受入国のドイツ人はそれを「経済難民」とみなす。
なぜなら子どもが「お母さんも後からいくって言ってた」と言ったから。
やつら後から大挙して押し寄せてくる気だぜ、と考える。
著者は「南アジアでは痛みから目を逸らさせるために子どもに嘘をつく親はたくさんいる」と説明するけれど、「文化」に責を負わせるのはマーガレット・ロックが書いているような落とし穴じゃないだろうか。
子どもにも病気を告知するような「真実を話す習慣」は欧米でだって近年になってからできたものだ。
映画の「ライフイズビューティフル」では子どもに自分の死をひたかくしにする親が美しいものとして描かれていた。
あれは比較的最近の映画なんだから、今の人の価値観を反映しているはずだ。
受入国の言葉は、ヨーロッパ人だからわからないのではなく、はなからうさんくさい目でみているからこその感想だろうと思う。
アメリカに対する「まともな国」というイメージ(自己イメージ?)にちょっとびっくりした。
非宗教的で合理的で堂々と拷問なんかしなくて……
と思ったらそうか、このころはまだブッシュジュニアのアメリカじゃないのか。
この人たちが今書いたものを読みたい。
これをごくごくシンプルにすると
『わたしのせいじゃない』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4265038662になる。 -
この日本語タイトルは、強く訴えかけるものがある。ソーシャル・サファリング、すなわち私とはまったく関わりがないとはいえぬ他者の苦しみに対し、われわれはどのようなかたちで責任を負い、それにアプローチしていくべきなのか。特にこのような時期に、いまいちど立ち止まって考えたいと感じる人は多いだろう。
しかし、この論文集がそうした関心にこたえるものになっているかというと、残念ながらノーだ。インターディシプリナリーといえば聞こえはいいが、本書におさめられた論文それぞれの関心と視点、アプローチはあまりにまとまりがなく、「ソーシャル・サファリング」という共通の主題を、共同して掘り下げていこうとする姿勢が見えてこない。編者らは、苦しみを生み出し維持するグローバルなポリティカルエコノミーについて論じているが、そうした構造を維持してきた責任の大いなる一端が、他者の苦しみについて、その当事者を疎外するような形式において語り続けてきた知識人にあるという事実を真剣に考えたならば、構造の転換を目的とした知的共同作業にふさわしいアプローチを追求することもできたはずではないのか。個々の論文のなかにはすばらしいものもあるが、全体としてみれば、支配的構造の一角に座を占めその維持に加担してきた知識人たちが従来生産してきたものと大きく異なるように見えないということが、最大の問題点であるように思う。
第1章のクラインマン論文は、他者の苦しみをポルノグラフィーのように消費するジャーナリズムを批判するが、扇情的映像が覆い隠す権力構造をどう表象すべきかという問題を掘り下げるに至らず、つけたしのように情報を隠す反自由主義政権への批判を盛り込んだことで、いっそう曖昧な結論に終わっている。
印パ独立時の女性に対する暴力をあつかった第2章のダス論文は、一転して哲学的な内容で、1章とのあまりの落差に早くも混乱させられるが、身体に刻まれた痛みを守って沈黙してきた女性たちの痛みを想像界において表現しようとしたインド文学作品の考察を通して、痛みを表す言語の不在という問題をあつかっており、それなりに興味深く読んだ。
第3章のファーマー論文は、この論集でもっとも注目されているものだが、コントロバーシャルな「トリアージ」の提唱にのみ関心を集中すべきではないだろう。彼は、人種やジェンダー、経済的疎外といった複合的な要因にもとづく構造的暴力がいかに個人が経験する苦しみとして表現されるかを、ハイチの事例をあげて力強く論証している。「貧者は構造的暴力の苦しみを受けるリスクがもっとも高いだけでなく、それを表現することができない」という彼の指摘は重く受け止められるべきだが、トリアージという喩えを導入したことにより、複合的な要因が同時に作用して起きている構造的暴力を、経済的排除に還元してしまう危険がないともいえないのではないか。この重大な提起につづく第4章に、脳死に関する日米の合意形成をあつかったロック論文が収録されることの意味が、私にはまったく理解できなかった。アプローチも非常に伝統的である。
第5章、スリランカ・タミルの海外ディアスポラの国民国家に対する態度を、3世代に分けて論じたダニエル論文は面白かったが、著者の中心的関心であるハイデガー理論にもとづく国民国家論を完全に理解するのは難しく、ここでも、論文集全体のテーマとの関連を把握しづらかった。
第6章のアサド論文は、「苦しみ」に関するグローバルなポリティカルエコノミーの探求という意味では、もっとも考えさせられることの多かった論文かもしれない。国連を通して国際法にまで高められた「拷問」あるいは「残虐で非人間的、屈辱的な扱い」の禁止が歴史的に成立した過程をたどりながら、「拷問」の禁止が「人間性」の定義と不可分なかたちで植民地主義の中から成立してきたこと、それがきわめて曖昧で不確かなカテゴリーであることを明らかにしていく。残虐行為の問題化が、法的権利概念に依存するようになっているという指摘も、苦しみのポリティカルエコノミーに対する介入について、重大な懸念を示すものと受けとめた。
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