これが見納め―― 絶滅危惧の生きものたち、最後の光景

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622076162

作品紹介・あらすじ

絶滅危惧種をとりまく状況は最初から、身もふたもなく絶望的。D・アダムスの名作ノンフィクション。序文はリチャード・ドーキンス。

感想・レビュー・書評

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  • 淳水堂さんの感想に刺激されて読んでみる。著者のひとりは「銀河ヒッチハイク・ガイド」のダグラム・アダムスではありませんか。しかも序文はドーキンス博士。世界の絶滅危惧種の動物を見に行くBBCのラジオ番組の書籍化とのことですが、そのただ「見に行く」と断言する姿勢や同行する動物学者らとの珍道中が最高に面白くお腹が捩れる。ただ面白おかしいだけでなく、絶滅を回避するための動物保護の活動と、その活動にともなって生ずるどうしようもなく愚かな行為があまりに皮肉すぎ。さらに著者の手にかかって心にグッサリと刺さり笑いながらも切なく涙がこぼれる。序文ではその著者への愛が溢れ出ていてまた涙する。独りよがりで薄ぼんやりした自分褒め文学を読むより100倍すばらしい。
    例えばコモドドラゴンの章のタイトルは「ここにチキンあり」。なぜチキンなのかは読んでのお楽しみですが、メッセージは強烈。著者は動物学者でもないし生物学者でもないから絶滅危惧動物の生態についてはまったく触れられていない。笑。著者のシニカル・フィルターを通した動物を取り巻く人間たちの描写が鋭く、しかし進化論の核心なんかは的確についていて都合のいいようには解釈していないから心にいつまでも残ってしまう。マウンテンゴリラの章ではゴリラに人類の言語を教えようとする実験への疑問をあらわにしています。「わたしたちはかれらの声に耳を貸そうとしない。なのに、類人猿が語ることにならなぜ耳を貸すと思うのだろう。」科学という体裁を取りつつも傲慢なわれわれ。こういうリアルで非情な感じが夢見がちな緩いフィクションとの最大の違いなのだと感じてしまいます。
    ぐっさりツッコミながらも著者の視点にはまだ切ない愛があるから一方的に断罪するようなXX警察のようにはならない。自分にはこんな目線はもてるだろうか。ユーモアって大事だと再認識。もう一回銀河ヒッチハイク・ガイド読み直して鍛え直すかな。こんな素晴らしい本に出会えたのもこのサイトのおかげか。淳水堂さんにも感謝です。この本はもっと読まれてもいいはずだと心底思います。

    • 淳水堂さん
      diver0620さん(^o^)
      呼ばれたので参りました!(呼ばれましたよね!?ね?)
      序文良いですよね。本当にドーキンス博士はダグラス...
      diver0620さん(^o^)
      呼ばれたので参りました!(呼ばれましたよね!?ね?)
      序文良いですよね。本当にドーキンス博士はダグラス・アダムが好きなんだなあって。
      diver0620さんも書かれているように、こんなことをした人類を断罪する本でないところも良いんですよ「こんな動物がいる世界は楽しい。自分たちはできることをして次の世代につなごう」って、人類への希望も感じます。
      私はこれを読んでから『銀河ヒッチハイクガイド』シリーズへ行きました。
      この本は、他の皆さんのレビューも素敵ですよね。みんなが「読んで良かった」と思える本なんだなと思います。
      2024/01/15
    • diver0620さん
      淳水堂さん、ありがとうございます。
      早くも2024年一番の面白本って感じです。
      以前はバーでお酒飲みながら同僚と本の話しなんかしてましたが、...
      淳水堂さん、ありがとうございます。
      早くも2024年一番の面白本って感じです。
      以前はバーでお酒飲みながら同僚と本の話しなんかしてましたが、最近はそんなこともできなくなってしまいました。ブクログはその代わりです。これからも淳水堂さんの感想、レビュー楽しみにしてます〜
      2024/01/15
  • ユーモアSF作家ダグラス・アダムスがラジオ番組のために、動物学者のマーク・カーワディンとともに絶滅動物を訪ねに行った体験記。
    序文は「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンス。ドーキンスは「利己的な遺伝子」では「自然選択の実質的な単位が遺伝子であり、生物は遺伝子によって利用される"乗り物"に過ぎない」などという表現から、クールで客観的視点の持ち主かと思っていたが、こちらの序文では49歳で亡くなったダグラス・アダムスへの慕情に溢れている。この序文だけでダグラス・アダムスのこともリチャード・ドーキンスのこともを好きになってしまう。(私ダグラス・アダムスはこれで初めて知りました)

    もちろんダグラス・アダムスの本文も素晴らしい、皮肉さはあっても嫌らしさのない文面、愛情のあるユーモラスな目線、動物たちとの距離感、環境や動植物への乱獲に対する罪悪感とでも生きるためにはそれを自主解決していく思考。そして動物の進化や、自分の感情の動きをSF作家として考えてみる。この思考遊びを聞く(読む)のがまた楽しい。
    動物たちの記述も素晴らしく、とくに対象の動物と出会ったとき描写ときたら引き込まれずにはいられません。

    旅の様子もとにかく楽しい。
    「ほかの乗客から聞いたところでは、フロレス島にはぜんぶ合わせてトラックが3台しかないという話だったが、町に向かう途中の道でそのうちの6台に出くわした」(P36)とか言われて読者が「え?」ってなったりするんだが、島ののんびりさいい加減さに放り込まれた欧米人の戸惑いと開き直りが感じられます。

    さらに写真についている「一言」も楽しめる。
    足を泥沼に突っ込んでいる動物学者の写真に対して<虫歯の次に世界で最も多い病気(※貝からの感染症)に見事感染する方法を実演している。>
    保護のため厳重なフェンスに守られている樹木を<強制収容所に入れられた世界で唯一のコーヒーの木>などと。
    そんなユーモラスな説明の中に、原住民の女性の写真が出て<彼女の息子はオオトカゲに食い殺された>などとあるのでドキッとする。

    ダグラス・アダムスと、動物学者のマーク・カーワディンの掛け合いもまた楽しい。なんというか凹凹コンビ。
    まさにすべてのページで笑ったり、唸ったり、うなずいたり、突っ込んだりしながら読みました。

    さて、私がこちらにレビューを残すのは、あとになってその本を読んだ時の感覚を思い出したいからでして、この本は実に実におもしろく、読んだ時の感覚をまた反芻したい…ので以下だらだらと私が感じとったことを書いてゆきます。あくまでも「私がこう感じた」のであり、その通りに書かれているわけではありません。

    アイアイ:
    マダカスカル島のアイアイは、キツネザルの一種。彼らが苦手なのはサル。キツネザルと祖先は同じだが、サルは頭がよく体にも大きく容赦なくキツネザルの生息地を奪って行った。サルは…人間は結局世界を乗っ取ったんだ。
    そんななかでもアイアイがまだ生息しているマダカスカル、そこでわたしは見たんだ…アイアイを!
    その時は気絶しそうになった、なぜかと考えれば、私がサルだからだ。サルがキツネザルを見た瞬間だったんだ。

    コモドオオトカゲ:
    コモドオオトカゲは人間を食う。バリの現地民の足を引き裂いたり子供を食い殺したりする。唾液に毒があるから噛まれて2年後に死ぬことだってある。
    だからバリではオオトカゲのレストランを作っている。観光客の前でヤギを殺してオオトカゲに食わせるんだ。そうすれば少しは人間を食いに行かなくなるし、観光客の落としてゆく金でオオトカゲを保護できる。
    わたしはオオトカゲがニワトリやヤギを食うその眼を見てゾッとした。まるで殺人者にじっと見られたような気分になったんだ。
    動物を擬人化するのは正しくも相応しくもない。
    途方もなく大きなトカゲとして生きるのがどういうことか分からない、それはトカゲ自身にも分かっていない、それなのに人間である自分自身の感情や知覚を当てはめてしまうが、それが正しいわけではない。
    オオトカゲはおなかがすいたら自分の子供でさえ食うんだ。彼らが絶滅しないのは、まだ小さなトカゲが木に登って逃げられるから。
    だから守るためには人間の積極的かつ意図的な介入が必要となっているんだ。
    しかし珍しいオオトカゲを守るために、ありふれたヤギを殺して観光化している。私はオオトカゲの気配に怯えたヤギのあの鳴き声、あの引き立てられる姿をどう覚えておけばいいのだろう。

    ツカツクリ:
    この痩せてすばしっこいニワトリのような鳥を見ることは出来なくても、存在を感じうことは出来る。
    ツカツクリは卵を産むと、土と発行した植物をぎゅうぎゅうに突き固めた円錐状の盛り土の孵卵器を作るんだ。植物の腐敗によって起こる熱と、それを見張って材料を足したり引いたりする親のツカツクリのおかげで卵は安全に孵るんだ。

    トビハゼ:
    トビハゼたちは相変わらず枝の間で無益にピョンピョン飛び跳ねている。
    水中より陸上で生きられるか実験でもしているんだろうか?
    そうだとしたら、人間が三億五千万年かけて人間になったように、トビハゼも三億五千万年かけて地上生物になるのだろうか?だったらある種を絶滅に追い込み、それを救うために別の種族を殺すような歴史は歩まないでほしいと思う。

    マウンテンゴリラ:
    <ゴリラは畏るべき生き物である。(…略…)山野でこんな生き物に初めて出くわしたときは、頭の中が高速で空転してまるで動けなくなってしまう、たしかにこんな生き物はほかにいない強烈な、めまいにも似た様々な感情が頭に登ってくる。(P107)>
    <だしぬけに、奇妙で説明しがたい感覚―大型トラックに見られていると言う感覚に襲われた(…略…)
    わたしたちがたどっている道の三十メートルほど先、真っ正面に立っていた。あまりに巨大すぎて、逆に目に入らなかったのだ。マウンテンゴリラだ―というより、むしろゴリラマウンテン(ゴリラ山)と言うべきかもしれない。(P107)>
    リーダーは大人のオスの白い背中、シルバーバックのマウンテンゴリラ!
    人間とゴリラの群れの関係は、シルバーバックとの関係で決まる。
    わたしはゴリラとほんの二メートル近くまで近づいた。ゴリラが何をしているかは見ればわかる。ぐうたらしているのだ。
    動物を擬人化するのは良くないと思っても、だが彼らを擬人化せずにはいられない。「見ればわかる」という衝動を抑えることができないんだ。

    キタシロサイ:
    キタシロサイを始めてみたのは飛行機の上からだ。
    <地上七十メートルから見下ろしても、途方もなく巨大なものが動いているという感覚は信じられないほど強烈だった。(P130)>
    案内してくれたのは、川岸の灌木の茂みにある家に住む動物学者夫妻だ。
    この家は、子供のカバがリビングの鉢植えを齧ったり、ベビーベッドのヘリを枕にして寝たり、ヘビやゾウは庭に来て、ネズミは石鹸を齧り、白アリに床下の柱を齧られてゆく家だ。彼らは「都会でバスや誘拐の心配をするのと、ここでライオンの心配をするのは同じだ」と言っている。
    野生で動物たちを見ると、動物園で分かった気になっていることとあまりにも違って驚かされる。
    <巨大な獣が無限と思える空間を駆け抜けてゆく。それはまさしく自分の世界を支配する王者の姿だ。(P130)>
    しかしあまり完璧な王者ではない。だってあっちのシロサイは以前ハイエナにシッポを半分齧られて、もうその気はないよとハイエナに説明しようとして膠着状態に陥っているのだから。
    シロサイの第一感覚は嗅覚だ。人間のように視覚と言語に頼っていると、嗅覚の重用さはピンと来ない。
    そしてサイは、大きい相手は気にしない。だが数が多い相手は嫌がるんだ。だから私たちは一列になって、一匹の獣のようにシロサイに近づいたんだ。
    シロサイが激減したのはその牙のせいだ。精力剤や装飾品として使われたんだ、薬になるなんてなんの根拠もないのに!数千ドルで取引されるシロサイの牙だけど、シロサイを狩る密猟者にはほんの数ドルしか入らないというのは皮肉な話だ。
    しかしキタシロサイよりもっと数の少なかったミナミシロサイは、人間の介入によって数を増やしている。だからきっと人間にはキタシロサイを絶滅から救う手段があるはずだ。

    ケアオウム:
    ケアオウムは山に住むオウムで、すごく頭がよいんだ。くちばしが長くて曲がってて、自動車のワイパーをしょっちゅうむしりとる。
    なんといってもバードウォッチャーには人気がある。だって自分の名前を言いながら飛ぶんだ「ケア!ケア!ケア!」ってね。分かりづらい鳥たちにも見習ってほしいよ。

    カカポ:
    https://matome.naver.jp/odai/2139428906018254001
    カカポは時間に取り残された鳥だ。
    <その大きくて丸い、緑を帯びた褐色の顔を覗き込んでみれば、静かな、それでいて途方に暮れた幼子のような表情が浮かんでいる。それを見ると、思わず抱きしめてやりたくなる。なんにもこわいことはないんだよと、つい心にもないことを言って慰めてやりたくなる。(P168)>
    緑のオウムのカカポは、太って飛ぶことを忘れ、天敵の存在を知らないから外敵が現れてもじっと見つめるだけで逃げることも攻撃することもしない、さらに単独生活者でカカポ同士でいることも好きではない。彼らの求愛と言ったら!オスの独特な鳴き声は何を意味するのか人間にはとても理解できない。とても低音でとても響く、どこから聞こえてくるのかわからないくらいだ。そう、オスのカカポに会いにトコトコと三十キロも歩いてきたメスのカカポにすら分からないくらいだ。しかもメスのカカポときたら二、三年に一度しか発情しない、いったい彼らはどうして種として生き残ることができたんだ?
    <厳しい競争に生き残る生物を生み出すべしと言う規制から解き放たれて、自然が自由気ままに想像の腕を振るったのではないだろうか『こんなのくっつけてみたらどうかな。別に害はないし、結構面白いんじゃないの』といたずら書きをしてみたというか。(P173)>
    カカポがのんびり過ごしている島に、人間たちは他の動物たちを持ち込んだ。そして今度は、カカポを守るためにそれらの動物たちを捕まえては殺している。
    そのカカポをわたしたちは見たんだ、カカポ捜索員の腕に抱かれるその姿はまるで聖母子像だった…!
    <わたしたちの世代がカカポを守り続けることができれば、そこから先は次の世代の仕事です、その頃には新しい手段や技術や化学が生まれているでしょうしね。ですからわたしたちにできることは、自分が生きている限りはカカポを守り続けて、できるだけよい状態で次の世代に手渡すことです。そして私たちと同じように、次の世代もカカポを大事に思ってくれるように祈ることですね。(P208)>

    ヨウスコウカワイルカ:
    ヨウスコウカワイルカは、溺れ死んだ姫君の生まれ替わりだと言われている。その姫君は生前でどんな悪行を施したのだろう、船のスクリューに切り刻まれ、鉤だらけの漁網に引っかけられ、目は見えず、毒を盛られ、耳まで聞こえなくなっているのだから。
    わたしはこのイルカの置かれている状況を感じ取ろうとしてみた。
    まずこの中国。途方もない音に囲まれ、いたるところに痰壺があり、自転車は車の前を横切り、誰かに連絡を取ることなんてとてもできない。
    <だれかがどこかでなにかまちがっていると感じずにはいられなかった。まちがっているのが自分ではないという確信すら持てなかった。(P222)>
    そう、まさにヨウスコウカワイルカは同じ気分を味わっているのではないか?のんびり暮らしていた揚子江には船が溢れ、排水は流され、スクリューは四方八方から音を出し続け、慌てて浮かび上がろうとすれば自分を切り刻む。
    <半分目が見えないか、半分耳の聞こえない人が、ストロボ光のショーをやっているディスコで暮らしていて、そこではトイレは溢れているし、天井や通風機のファンがしょっちゅう頭に落ちてるし、食べ物は痛んでいるわけだね、君ならどうする?(P228)>
    いったいどれだけ揚子江の中はうるさいのだろう?わたちたちはその音を録音することを考えた。方法は、音声マイクにコンドームを被せて沈めるんだ。だれかコンドームを持っていないか?誰の荷物にもまぎれてもいないの?では買いに行かなければ。
    やっとのことでコンドームマイクを用意し河に沈めて驚いた。水中のスクリュー音とは交じり合って四方八方から常に聞こえてくるはっきりしない音の洪水だ。
    <この船の下か周囲のどこかに、高い知能を持った動物がいる。この世界をどんなふうに認識しているのかはほとんど想像もつかないが、この混雑し、汚染された騒々しい世界にかれらはいきているのだ、その生(せい)はたぶん、たゆまない困惑と飢えと苦痛と恐怖の連続に違いない(P254)>
    だがその後で出会った保護活動委員メンバーの話を聞いて、わたしはやっと中国人が何を考えているか分かったんだ。
    <この地域の住民は多少の利益を得ています。それは当然のことですが、この計画はそんな浅薄なものではありません、このイルカを種として存続させるのが目的です。私たちの世代で絶やすわけにはいきません。保護はわたしたちの義務です。たった二百頭しか残っていないのはわかっているのですから、防ぐ手立てを打たなければ絶滅してしまうでしょう。そうなったら、子孫やのちの世代に顔向けができません。(P259)>

    モーリシャス島の絶滅種保護活動家たち:
    ここはモーリシャス島だ。もともとはオランダの植民地で、オランダが出て行ってからはフランスに支配されて、フランスがナポレオン戦争でイギリスに負けてからはイギリス領になり、だからもとイギリスの植民地で、いまはイギリス連邦の一部で、住民はフランス語かクレオール語を話して、法律は基本的にイギリスと同じだから車は左側通行のはず…なのになぜ我々の乗っているこの車は右側を走っているのだろう?!?!
    この車の運転手であるリチャードをはじめとする絶滅機種保護活動家たちは、強烈な強迫観念の持ち主だ。鳥に執着するカールは、失敗した保護プログラムを打ち切るために派遣されて、そしてその鳥たちを繁殖させ自然に返すことに成功したんだ。まったく彼は落第生だろう?
    カールは言う。<自然保護はお上品じゃ勤まらない、動物をどっさり殺さなくてはならない。(P278)>
    <リチャードは腕を後ろに引いた。チョウゲンボウの頭がその動きを正確に追っている。アンダースローで大きく腕をふってリチャードは小さなネズミを空高くほうり上げた。一秒ほど、チョウゲンボウはただそれを目で追っていた。枝のうえでごくわずかに足踏みしながら、瞬時に微分計算をするという途方もない偉業を達成していた。ネズミは急勾配の放射線の頂点に達し、そのわずかな重みでゆっくり回転する。ついにチョウゲンボウは枝を離れ、長い振り子の先についた重りのように空中を滑って行った。その振り子の紐の長さ、支点の位置、そして振動のスピードをチョウゲンボウh正確に計算していた、振り子の円弧は落ちてくるネズミの軌道と鮮やかに交わり、チョウゲンボウはネズミを鉤爪できれいに捕え、そのまま空中を滑って近くの別の木に止まると、ネズミの頭を食いちぎった。(P286)>

    私たちはモーリシャス等から船でラウンド等へ渡った。
    ここには奇妙で貴重な植物がある。だが貴重とは誰にとってなのだろう?
    ここに保護されたヤシノキは、植物園を作るために伐採されそうになったところを植物学者によって気が付かれたんだ。「まれか、ややまれか(レア、ミディアムレア)」はどう判断される?
    そして「まれだ」と気が付かされた途端に、それを狙う人間たちが集まるんだ。「まれなものを持っていたい」という理由でね。あるコーヒーの木などそんな人々から守るために幾重にもフェンスに囲まれている。まるで強制収容所に入れられているみたいだ。
    そして「まれな」動物たちの首は、それ自身の胴体ではなく自分の家の壁に飾られた方がふさわしいと勘違いした人間たちにより取引されるんだ。

    <地球上の生命は、気が遠くなるほど複雑な系を成している、複雑すぎて、一つの系だということにすら人は長く気付かなかった。生命は単にそこにあるだけではなかったのに。非常に複雑なものがどんんなふうに機能しているか理解するためには-あるいはたんに機能している複雑な何かがそこにあると理解するためだけにでも、人はその全体をごく小さな部分に分けて、一度に一部分ずつ見なくてはならない、だからこと、生命を理解するうえで小さな島はきわめて重要なのだ。(P297)>

    最後にマーク・カーワディンが語る。
    <これほど多くの人々が、サイやインコやカカポやイルカなどの保護に打ち込んでいるのは、この理由があればこそだ、それは極めて単純な理由-かれらがいなくなったら、世界はそれだけ貧しく、暗く、寂しい場所になってしまうからなのである。(P316)>

  • SF作家による冒険譚?
    シニカルなユーモア溢れる文章で、絶滅危惧種に会いにいくというテーマは重いが、非常に面白い

    「ゴリラは畏るべき生きものだと言われる。わたしもそこに自分なりの感想を付け加えたい。ゴリラは畏るべき生きものである。」

    「人類は、他者の経験から学ぶことができるという点でほぼ唯一の動物であり、またそうするのをどう見てもいやがっているという点で大いに際立った動物でもある。」

  • ウィルコックス博士のヴェノモスの中で言及されていたので気になって手にとってみたら、カカポの話もあったので飛びついた。果たしてカカポのみにあらず全編非常に面白かった。前半はちょっとスロースタートだが後半はトップスピードで面白いです。もちろん肝が冷えます。"The Hitchhiker's Guide to the Galaxy"のオーサーと動物学者がBBCの番組の撮影で世界の絶滅寸前種を取材したときのダグラスがみたアウトテイクな、非常に西欧人的な視点ではあるがとてもフェア、実に率直で真面目で多くの人に読んでもらいたいと思う、良著。

  •  絶滅が危惧されている動物たちを見に、SF作家と動物学者が世界各地へと旅する様子をルポした本書は、種の絶滅を追跡・検証する社会派の告発書ではなく、しばしば声を出して笑わずにはいられない、抱腹絶倒の一冊だ。絶滅寸前の動物に会うためにはトンデモない苦労があり、悲劇と喜劇は紙一重。そのことを呵呵大笑の筆致で綴った本文は、読者に笑われるのを今か今かと待っている。
     一方で、地球の生態系は人間が原因で多くの生き物を失ったが、本書では失われたものが何かをよくわかっている人たちが、被害を最小限に食い止めようと奔走している姿もコミカルに描かれる。彼らは狂信的にも見えるが、それは我々が何を失ったかを知らないだけなのかもしれない。なぜなら、著者らがカカポ(オウム目の鳥)に出会う章では、読者はクスクス笑った後に、突然熱い想いに胸を衝かれるのだ。我々は、彼らに何をしてしまったのかと。
     「彼ら(絶滅危惧種の動物たち)がいなくなったら、世界はそれだけ貧しく、暗く、寂しい場所になってしまう」。本書は、こうした危機感を広めることに、一役も二役も買うだろう。

  • 「銀河ヒッチハイクガイド」のダグラス・アダムスがこんな本を書いてたとは。高野秀行さんのブログで知った。さすが著者のこと、一ひねりも二ひねりもある書き方の中に、鋭い洞察があって興味深かった。

    著者はBBCの番組のレポーターとして、絶滅に瀕した生き物を見にあちこちへ出かけていく。アイアイや、コモドオオトカゲ、キタシロサイ、カカポ、ヨウスコウカワイルカなどなど。わたしが一番面白かったのは、コンゴにマウンテンゴリラを見に行った章。ヒトと祖先を同じくするゴリラは、間近で見るとやはりたたずまいが非常に「人間らしく」、どうしてもいったい何を考えているのかと思わずにはいられないのだそうだ。著者はそうした擬人化を厳しく排そうとするが、その葛藤を書いたところが面白かった。

    「ゴリラの顔を見ると『どういう生物かわかった』と思ってしまうが、じつはわかっていない。というか、安易で抗しがたい思い込みによって、理解するわずかな可能性を実際には封じているのだ」
    「そのうち、ゴリラの知性を判断しようとするとはなんと思いあがったことか、という気がしてきた。人間の知性は、どんな意味でも知性を測る基準というわけではないのに。そこで、向こうがわたしたちをどう見ているか想像しようとしたが、当然ながらそれはほとんど不可能だ。想像に基づくギャップに橋をかけようとすれば、どうしてもなんらかの仮定が必要になるが、言うまでもなくその仮定を設けるのはこちらだし、自分でも仮定していると気づかずにする仮定ぐらい、誤解を引き起こしやすいものはない」
    「わたしはまたゴリラの目を見た。知恵と知性を感じさせる目。それを見ていると、類人猿に言語を-人間の言語を教えようという試みに対する疑問がわいてくる。(中略)もともとそのなかから生まれたのでない言語で、かれらの生を語ることができるとでも思うのだろうか。ゴリラがまだ言語を獲得していないのでなく、人類がそれを失っているのではないだろうか」

    ここにあるのは、欧米流の独善主義とは無縁の考え方だ。著者は、別のところで宣教師の一団と飛行機に乗り合わせたとき、「わたしは宣教するというのが好きではない」とはっきり書いている。ここも面白いので引用しておこう。
    「わたしは神を信じていない。少なくとも、英国で英国人のために発明された神は信じていない。あれはとくに英国的なニーズを満たすためにでっちあげられたものだ。(中略)ああいうのを信じる人たちは、仲間内で信じるだけにして、発展途上国に輸出するのはやめてほしい」

    これは一面では、まさに英国流のクールで皮肉なものの見方だろうが、極東の島国人としてはやはり共感してしまう。「欧米」とつい一括りに考えがちだが、「宗教国家」アメリカとは根っこが違うと感じる。

    自然保護をやみくもに訴えるような本ではなくて、いろいろ考えさせられる。ただ、著者得意のクールでひねった書きぶりで(もちろん、笑えるところも多いが)、結局どういうことなのか、ややわかりにくい箇所が幾つかあり、そこがちょっと残念。

  •  原題は「Last Chance to See」で、筆者らが絶滅危惧の生物(動物、鳥類。爬虫類)を世界中に見に行ったルポである。
     これらは行くだけでもたいへんな僻地にわずかにいるだけであり、その旅行記というか苦労記でもあるが、それをイギリス人らしいユーモラスというか皮肉というか読む分にはおもしろく描いている。実際には、ものすごくたいへんだったに違いない。
     初刊は1990年で初邦訳は2011年であるが、内容的には決して古いものではない。今なお、それらの絶滅危機は去っていないし、人生を賭けてそれらを守る人々がいるのだ。
     ニホンウナギやクロマグロなど我々にとって身近な問題でもあるのだ。もっともっと話題になって、広く読まれてほしい本である。

  • SF作家の著者が、番組の企画で絶滅寸前の動物を訪ねて旅するノンフィクション。原著は1990年刊行。
    絶滅という重たい話題を扱いつつ、絶妙なユーモア満載の文章で大笑いしながら読める。動物についての記述だけでなく、生息地へ至る旅の様子や、現地の人間模様も面白くて紀行文学のようだ。
    非効率で不親切な行政、現地の観光地化、自然保護のため尽力する研究者の奇人ぶり。それらは単なる添え物ではなく、動物がなぜ絶滅に瀕したか、なぜ絶滅の寸前で持ちこたえているかの要因そのものでもあると気づかされる。
    たとえばゴリラの保護が、観光と結びつくことによって成立しているという指摘。
    「慎重に管理・監視をするなら、観光こそがゴリラの生き残りを保証する道だ(中略)ゴリラはいま地元の住民(とその政府)にとって、殺すよりも生かしておいたほうが儲かる存在になっているのだ(p115)」
    文体は[ https://booklog.jp/item/1/4105058517 ]と似たものを感じた。鮮烈で過酷な旅がなんともおかしみを持って描かれるユーモア感覚は、やはりイギリス人の面目躍如か。

  • 序文を書いてるリチャード・ドーキンスって「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンスだよな? 本文もなんか妙な調子があって面白そうだし、と思って読んでみて、もっと大事なことを見逃しているのに気づいた。ダグラス・アダムスって「銀河ヒッチハイク・ガイド」のダグラス・アダムスじゃん!

    本書はドタバタコメディSFではなくて、絶滅危惧種の生き物たちに会いに行くドキュメンタリーのはずなんだけれど、ほとんどドタバタコメディドキュメンタリーだった。相棒の動物学者マークを始めとする登場人物たちも、「銀河ヒッチハイク・ガイド」のへんてこな登場人物たちに勝るとも劣らない変人揃い。あの珍道中をこんなところでもう一度読めるとは思わなかった。

    著者の語り口はあくまでも軽いが、ふざけたり、茶化したりしている感じはしない。深刻ぶりはしないが、ドライでユーモラスな語り口にニヤニヤしながら読み進めるうちに、絶滅の淵に追いやられている生き物たちの悲しみがじわじわと迫ってくる。
    そういえば、「銀河ヒッチハイク・ガイド」も、「銀河ハイウェイ」の建設の邪魔になる地球がいきなり破壊される、というオープニングだった。ぼくらは似たようなことをやっているんだな。

    思いがけない良書だった。

  • 人と動物の関係を主観的・客観的に語っている。随所にユーモアが光る。
    今読むと当時の状況との差について考えさせられる。熱意のある人々にも関わらず状況はあまり改善していない。

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著者プロフィール

1952-2001年。英ケンブリッジ生まれ。1978年BBCラジオドラマ「銀河ヒッチハイク・ガイド」脚本を執筆。翌年、同脚本を小説化し大ベストセラーに。モンティ・パイソンの脚本に携わっていたことも。

「2022年 『これが見納め』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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