ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

  • みすず書房
4.10
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本棚登録 : 1184
レビュー : 125
  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622076537

作品紹介・あらすじ

言語をつくるのはほんとうに本能か?数がない、「右と左」の概念も、色名もない、神もいない-あらゆる西欧的な普遍幻想を揺さぶる、ピダハンの認知世界。

感想・レビュー・書評

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  • 現代社会とはまた違う興味深い価値観や文化が描かれているのだけれど、筆者の書き方が非常にユーモラスで読みやすい。
    好きな時に好きな分寝て、好きな時に食べ、好きな時に働くのいいな。
    夢と現実に体験したことは同列というのもおもしろい。寝るのがより楽しくなりそう。

  • 読み物としては大変面白いです。言語学者としてフィールドワークに行って知られざる言語を採集してくるのって憧れます。
    ピダハンの暮らしも、死と隣り合わせなのにいつも笑顔。すごいなぁ。

    旅行者として短い間旅したことがあるだけだけど、アマゾンは本当に美しいところなので(虫にさえ襲われなければ…)機会があればこんな風に長く滞在してみたい。

    その旅の間だけでもアメリカ人がブラジルで困り果てている姿を何度も目にしました。著者も同じ経験をしていますね。アメリカ人とブラジルは相性が悪いのでしょうか(笑)

    それはさておき、
    本書ではピダハン語の特殊性をことさらに強調して、従来の言語理論(主にチョムスキーの普遍文法)に反論しているわけですが、
    日本語話者として読むとそんなに特殊か??と思ってしまうわけです。

    ピダハン語の、単語の意味をイントネーションで区別する、なんてのは日本語では普通にやってますし、埋め込み文が存在しない、という特徴も、チョムスキーの理論でいうところのパラメータにゼロつまり「埋め込まない」ってのも含めちゃえばよくない?
    (すみません、チョムスキー難しすぎて分かってないんでめっちゃ素人意見なのですが…でもあの論理式みたいなのは好き)

    いろんな言語があるんだからそんなのもあるだろう。くらいにしか思わなかったので、やっぱりアメリカ向けなのかな。。
    文化が言語/文法に影響を与えるなんてのも、そりゃ多少はありますよね。数量的に測りにくいので言語「理論」にはしにくそうですが。

    というわけで、後半の言語学関係の部分に腑に落ちない点があるものの、全体としてはとても楽しく読んだので☆4つです。

  • 早いもので、もう4月。新しい年度を迎えて、新社会人、新入生など、新しい生活へと身を転じることになる方も多いのではないだろうか。

    新しい環境に入ると、えてして慣れるまでに時間を要するものであるが、この要因の一つに文脈の把握に時間が掛かるということが挙げられる。話している言葉そのものは理解できても、本当の意味で理解できるようになるためには、その組織体の文化を含めた背景がきちんと理解されている必要があるのだ。ほんの些細なことでさえも、異文化間で解釈が大きく異なるということは起こりうるものである。

    そんな中、本書の著者の異文化体験のユニークさは、群を抜いている。ブラジルの先住民、ピダハンの人々と30年以上に渡ってともに暮らし、彼らがどのように世界を見て、どのように理解しているのかを観察し続けたのだ。当初の目的はキリスト教の伝道師として、布教活動を行うこと。しかし、そこでの生活は著者の運命を大きく変えるようなものであった。

    南アメリカ北部、アマゾン川を河口から南南西へ向かうとアマゾン川はやがてマデイラ川と名前を変え、南へと支流が分かれている。その支流のさらに支流となっているのがピダハンの母なる川、マイシだ。支流とはいえ川幅が200メートルにもなる大河であり、その川辺の約80kmくらいのエリアに棲む400〜500人の部族、それがピダハンだ。

    ピダハンは羽毛飾りをつけないし、手の込んだ儀式もしない。ボディ・ペインティングもせず、アマゾンのほかの部族のようにはっきりと目に見える形で文化を誇示しない。いわゆるヤノマミのようなフォトジェニックさに欠けるのだ。しかし、その最大の特徴は、彼らが使用する言語そのものにある。

    ピダハン語は、現存するどの言語とも類縁関係がないという。音素は現存する言語のなかで最も少ない11種類しかなく、その他にも多くの言語に見られる要素が欠落しているのだ。

    まず数がない。そして物を数えたり、計算をしたりということもしない。また、「すべての」とか「それぞれの」「あらゆる」などの数量詞も存在しない。それだけでなく、左右の概念もない、色を表す単語もない、神もいないという、ないない尽くしなのである。

    しかし本当に驚くポイントが、さらに2点ある。一つ目は、きわめて音素が少ないピダハン語だが、声調やアクセント、音節の重みなどを駆使し、口笛や鼻歌、叫び声や歌のようにさえ聞こえる言葉を発生するということだ。

    これを著者は、「ディスコースのチャンネル(伝達の回路)」と呼んでいる。ピダハン語には5つのチャンネルがあって、それぞれが特別な文化的役割をもっているのだ。5つとは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、それに通常の語り、つまり子音と母音を用いた語りだ。

    口笛語りは狩りの時に使われ、ハミング語りはプライベートな語りの時、音楽語りは新しい情報を伝達する時など、文化的な用途に応じて語りが選択されるのだ。このような手段が存在するということは、文化が言語に多大な影響を与えているということの確固たる証拠とも言える。そして、この文化と音声構造の関係というのは、長らく言語学によって完全に無視されてきた領域であったのだという。

    もう1つが、多くの言語学者が普遍的な文法の1つと考えていた「再帰」という形式を持たないということである。例えば、「魚を釣った男が家にいる」というような文を例に見てみよう。

    「魚を釣った人物」という関係節が「これこれの男」という名詞句のなかにあり、それがさらに「男が家にいる」という文のなかに登場している。このような文や句が、別の文や句のなかに現れる入れ子構造は「再帰」と呼ばれ、言語に無限の創造性を与える基本的な道具であると考えられてきた。これがピダハン語には見られないのだ。よってピダハンの文章は、単純な構造の文章のみで構成される。

    このことが真に重要なのは、大部分の人の思考のプロセスで当たり前のように行われている「再帰」が、ノーム・チョムスキーが提唱した「普遍文法」、あるいはスティーブン・ピンカーの提唱した「言語本能」であるという定説に真っ向から反する事実であったということだ。文法というものが、遺伝子の一部という先天的なもの依拠しているのではなく、知性の働きの一部という後天的なものに依拠している可能性すら示唆しているのだ。

    一体なぜ、ピダハンの言語はかくも特徴的なものとなったのか?著者の更なるフィールドワークにより、このピダハンの言語を規定している決定的な要因が「直接体験」というものにあるということが、導き出されてきた。ピダハンの言語と文化は、直接的でないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。

    この原則に依れば、ピダハンが実際に見ていない出来事に関する定型の言葉や行為を退け、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌うということの説明がつく。数や色がないことも、その一例である。これらは直接体験とは別次元の、普遍化のための技能であるからだ。

    その代わりに、実際に経験した人物、あるいは直接聞いた人物が、その価値や情報をできるだけ生の形で言葉を通して伝えようとするのが、ピダハン特有のコミュニケーションということなのである。

    このような思考様式を持っているからこそ、ピダハン社会は外の世界の知識や習慣をやすやすと取り入れないようになっているとも言える。実際に、宣教師として訪れたはずの著者は、キリスト教の布教を断念し、なんと最終的には無神論者へと鞍替えしてしまうのだ。

    そして本書が問いかけているのは、我々がこのピダハンの特異な文化を、どのように受け止めるべきなのかということでもある。僕は、この「直接経験の法則」に基づく言語を、「言葉の断捨離」と位置付けたら、その捉え方も大きく変わってくるのではないかと感じた。

    ピダハンはその法則に基づき、自分たちの思考の範囲を「今、ここ、自分」に絞っている。このことによる機会損失はもちろん否定できないのだが、同時に不安や恐れ、絶望といった西洋社会を席巻している厄災をも、ほとんど取り除いてしまっているのだ。

    事実、ピダハンには、抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作など、産業界の進んだ社会では日常的な精神疾患の形跡が見られないのだという。また、著者自身、ピダハンが心配だという言葉を発することですら、聞いたことがないそうだ。

    これに倣えば、我々が普段口にする発言の内容を「今、ここ、自分」に絞り込むことによって、さまざまな弊害が消え、毎日の気分が軽くなる可能性だって否定はできないと思うのだ。

    今日、世界には6500ほどの言語があり、その半数が今後50年から100年の間に消滅する恐れがあるという。すでに400人を割っているとされるピダハン語も、その一つだ。そして、これらの消滅言語が一体なぜ残されなければならないのか?本書は、そんな疑問に対するシンプルな解答も提示している。そこには、消えてしまっては二度と取り戻せない、生きるための智慧があるからなのだ。

  • 言語本能を超える文化と世界観

    原題Don't sleep, there are snakes(おやすみの挨拶)
    by Daniel L. Everett

    Piraha=ピダハン言語

    音声が少ない

    ブラジル先住民

    1977年

    一緒に暮らし、言葉を採取して文化を知る

  • 半分ほど読んだところ。めちゃめちゃ面白い。
    アガーピ(村人のひとり)がカオアーイーボーギー(精霊)のように話しているのを対面で確認したのに、翌日アガーピに聞くと全然心当たりがないように振る舞うのとか、コーホイビイーイヒーアイ(村人のひとり)がある日ティアーアバハイになって(改名して)いて「コーホイはここにはいない」と言ったりするのとか、何かこう自己同一性というものが全く重視されていなくて面白い。
    もともと人間はこんな感じで暮らしていて、そのために解離という機能を持っているんじゃなかろうか、と思った。

    読了。
    先だって読んだ本ではカティ族には東西南北の考え方がないらしいということに驚いたけれど、ピダハンには左右という考え方もないらしかった。自分を基準に相対的に右、左というのではなく、周囲の地形を基準に例えば川の「上流の方、下流の方」という考え方。圧倒される。
    著者がキリスト教の伝道師だったため、そちらの点でも面白かった。マジで信仰している人はこう思っているのかー、という興味深さ。ピダハンの文化で暮らす中でその価値観が揺れ、変化する様もつぶさに描かれていて最高だった。良い本。

  • アマゾン奥地に少数民族である「ピダハン」の村に住み、その言葉を研究した宣教師が書いた本。ピダハンの言葉には左右も、数も、色もない。過去も未来もなく、自分が体験したことしか話さない。昼起きて夜寝るという概念もないようだ。彼らは、他の民族より自分達のほうが優れていると思っているから外部の文化を取り入れない。モノは持ってないし多くを語る言葉もないけれども、決して怒らずいつも笑っているそうだ。ピダハンをダシに現代人を批判するつもりは全くないですが、ひとつの極北を知ることで自分のポジションを絶対認識するようなことはありますよね。そんな気がしました。ちなみに、そんなところに行ってキリスト教の布教も何もなかろう、と思って読んでたら、結局著者自身、キリスト教を捨ててしまったというオチでした。面白い本でした!!

  • いゃあ 面白かった
    「読書」の楽しみを満喫させてもらいました

    地球上には
    我々が
    行ったことがない
    逢ったこともない
    見たこともない
    聞いたこともない
    触れたこともない
    ものが
    それはそれは どっさり
    あることでしょう

    私たちの文化というモノサシが
    単なる 一つにすぎない
    ということを
    改めて 思い知らされました

    それでも
    「共感」してしまう部分があるところに
    自分の中の 人類のDNAを感じてしまいます

    それにしても
    ウーギアーイ先生はたいしたものだ

  • 評判は聞いていたけど、ほんとに面白い!
    ピダハンとは、ブラジルのアマゾンに暮らす狩猟採集民族のひとつ。著者は、もともとは聖書をピダハン語に訳すというミッションを負ってアメリカから派遣された伝道師かつ言語学者で、70年代末から30年以上にわたって、彼らと付き合い続けてきた。文化人類学者がアマゾンの部族について書いたものはいろいろあるけれど、言語学者の目から見たピダハンのユニークさは、実に魅力的だ。
     たとえば、ピダハン語で使われる音は、母音が3つ、子音も男性で8つ、女性で7つだけ。これにさまざまな音調や歌、ハミングをくみあわせてコミュニケーションをとる。「1,2,3…」という数の概念、「右」「左」の概念もない。入れ子構造の構文もないという、きわめてシンプルな言語なのだ。
    しかも、シンプルなのは言語だけではない。彼らは、基本的に自分が直接体験したことしか言語化しないため、親族関係を示す語に「祖父」はあっても「曾祖父」はない。創世神話すらなく、祖先や神のための儀式も行わない。まさに言語学の、いや「人間」という存在に関するこれまでの常識をくつがえしてしまうような人々なのである。
    このシンプルな言語・生活・文化は、ピダハンが「低い」レベルにとどまっていることを意味しているのだろうか?著者自身、最初は、ピダハンが複雑な儀式や文化様式をもたないことに失望し、もっと「興味深い」部族のところに派遣されればよかったのにと思ったことを告白している。だが著者によれば、彼らのシンプルな生活様式は、アマゾンの環境と完全に合致しているのだ。ピダハンたちは食糧を貯めこまず、複雑な道具も必要としないかわり、よく働き、夜も害獣がいるのでぐっすりとは眠りこまない。それで必要十分な生活ができている。つまり、この人々は、現代の高度文明に達する能力がなかったのではなく、あえてそうしようとはしなかったのだ。
    たしかにピダハンの社会に創造や個性、進化は欠けているかもしれないが、「しかしもし自分の人生を脅かすものが何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。」
    実際、彼らはもっともよく笑い、よくおしゃべりし、人生に満足している人々だと著者はいう。彼らの存在は、私たちのあり方こそがもっとも優れており普遍的だという思いあがりを心地よく打ちのめして、異なる生のありかたに想像力をひらかせてくれるだろう。
    しかし、ピダハンがこのように魅力的な人々として私たちに紹介されたのは、ひとえに、先入観や価値判断によって自分を閉ざさず、異なる人々から謙虚に学ぶ態度を備えたこの著者の曇りなき眼差しのおかげだ。ピダハンとその言葉を知るにつれ、聖書をピダハン語に翻訳するという任務の不可能性に気づかされた著者は、ついにキリスト教の信仰を捨て、家族も崩壊することになったと告白している。自分の物差しを捨て、他者の目で世界を見て、自分を変えることのできるこの著者の勇気に、深く力づけられる。

  • 言語学、文化人類学いずれの領域でも驚くような報告。アマゾンの支流域マイシ川に暮らす人口400人あまりの先住民族ピダハンの人々は、狩猟採集のみを生活の糧として暮らしている。彼らに比べれば、ヤノマミでさえも文明との接点は多いと思える。ピダハンの言語には、挨拶言葉も、数の概念も、右左の概念も、色を表す言葉もない。音素は、わずかに11。高低の声調はある。例えば、「おやすみ」の挨拶の代りには「眠るなよ。ヘビがいるから」と告げる。ワニ、ピラニア、電気ウナギ、アナコンダ、ジャガー、マラリア―これが彼らの住む環境だ。

  • 消滅が危惧される言語をもつアマゾンの少数民族。「乱交」システムや、文明を拒否し自分たちのスタイルに満足していること、原罪も死の恐怖も無く(そのため伝道の試みは失敗)、彼らは幸せそうにも見える。が、アマゾンの自然は厳しい。死は日常のことだ。
    「直接体験の原則」は強力で、テープレコーダーをトランシーバーと思い込むし、イエスなどという過去の人の言葉は信じない。
    世界に類似するものが無いというその言語は特殊で、構造は単純。and/orにあたるものも、数詞もない。音素は少なく、しばしば交代する。そのかわり、声調や5つのチャンネル(口笛、ハミング、音楽、叫び、普通の語り)をもつ。自分の文化に特化するというエソテリック性が高い。そして、チョムスキー派によれば普遍的に存在するはずの再帰構造がまったく見られない(これはかなりの論争になった)。
    筆者は、生活シーンや文化から切り離されてきた言語学研究に異を唱え、フィールド調査に基づく人類学のような方法論で行うべきだと主張する。
    これだけ文法が簡単なら、幼児語がないのもある意味当然と思える。

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