ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622076537

作品紹介・あらすじ

言語をつくるのはほんとうに本能か?数がない、「右と左」の概念も、色名もない、神もいない-あらゆる西欧的な普遍幻想を揺さぶる、ピダハンの認知世界。

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    「言語が人の認知に影響を与える」という学説は、今や広く知られている。
    では、「右」と「左」の概念が無い人々は、いったい世界をどのように見ているのか?

    本書は、言語学者であり宣教師でもある筆者が、アマゾンに住む民族「ピダハン」と生活し、彼らの特異な文法から生活様式と価値観を紐解いていった一冊である。

    ピダハンは非常に原始的であり、実際に見たものしか信じない。それは「論より証拠」の範疇を超えており、文法と思考そのものが「実際に見た」ことしか語れなくなっているのだ。そのため、ピダハン語に未来完了形はなく、「左右」「数字」「色」といった、原風景を抽象化する概念も存在しない。

    人間の歴史は空想と物語によって発展してきた。神、王、国、人権、生存権、貨幣と信用などのように、物質的には存在しない概念に言葉と定義をつけることによって、個人が集団に、集団が国に、国が世界に統合することが可能になった。こうした名づけがなければ、人間が自分の手の届く範囲以上に発展することは不可能だったであろう。

    ピダハンは、そうした人類の進歩の初期段階に位置する手つかずの人間達である。
    では、彼らはわれわれに比べて劣った民族なのだろうか?

    筆者はこれにNOと答える。「文法が有限だからといって、その言語が乏しいとかつまらないものであるとは言えないのだ。」

    私たちは自然と、原始的民族は私たちより劣った人間であるとみなす。その思いは物質的豊かさの違いから来るものだけではなく、知識の多寡と文化的な重層感から来るものでもある。早い話が、「われわれは複雑な社会だからエライのだ」という感覚を持っているからである。
    しかし、社会の複雑さを捨て去って、抽象的概念、つまり「未来についての心配」を思考そのものから取り払っている彼らは、周りまわって幸福な人々ではないだろうか。これ以上進歩しない代わりに、これ以上未来を知ろうとする必要もない。身の周りのことのみを考えて、一瞬一瞬を懸命に暮らすというのは、盲目ではなく一種の諦観だと言えるだろう。

    言語とはなにか、文化は言語に規定されうるか。
    ピダハンの価値観の珍しさに触れながら、筆者のフィールドワークの結晶を楽しんでいただきたい。

    ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

    【本書のまとめ】
    1 ピダハン語の特異性とピダハン語話者による認知
    ピダハン語:ブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの人々岳が使用している言語で、現在4,500人しか使用者がなく、消滅の危機にさらされている。

    ピダハン語は現存するどの言語とも類縁関係がない。
    ピダハン語には、言語学で言う「交感的言語使用」が見られない。交感的言語使用とは、こんにちは、さようなら、ご機嫌いかが、といった、新しい情報を提供するものではなく、人間関係の維持や対話の相手を和ませるものだ。ピダハン語にはありがとう、ごめんなさいに相当する言葉はなく、気持ちを態度で表現する。

    同様にピダハン語には、多くの言語に見られる要素が欠けている。比較級、色、数字を表す言葉もないのだ。それでいて文章のつなげ方が恐ろしく難しい。
    極めつけは方角である。ピダハンには右や左という概念がなく、方向を「上流」と「下流」で表す。ピダハンは常に自分と川との位置関係を把握しているのだ。

    環境をどう感知するかということさえも、自分の先入観や文化、そして経験によって、異文化間で単純に比較できないほど違ってくる場合がありうるのだ。
    ピダハンの言語は、世界についてわたしたちとは異なる視点を使い手に要求している。では、我々とは違った世界の見方をしている「ピダハン」の文化とはどういうものなのか?


    2 民族的ふるまい
    ピダハンは俗にいう「部族」らしい部族ではない。儀式やボディペインティングをせず、アマゾンの他の部族のように、目に見える形で文化を誇示しない。

    ピダハンの生活は物質とは無縁だ。家は天候から身を守るための簡素な小屋である。彼らは道具類をほとんど作らず、芸術品はほぼ皆無。あるとすれば弓などの狩猟道具だ。

    ピダハンは、われわれほど「食べ物」を重要視していない。
    まず彼らは3食も食べない。たいていは日に一食であり、食べられるものがあるときは無くなるまで食べつくす。それは食べ物が無いわけではなく、食べるという行為の優先順位が低いから、食べ物を口にしていないのだ。

    ピダハンは食品を保存する方法を知らない。それどころか、道具を軽視し、使い捨ての籠しか作らない。
    将来を気に病んだりしないことがピダハンの文化的な価値なのだ。

    加えて、彼らは儀式も行わない。何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物が行動や言葉といった「生の形」で伝えようとするのがピダハンなのだ。


    3 家族と集団
    ピダハンは穏やかで平和的な人々だ。ピダハンはどんなことにも笑い、いつも幸福な顔をしている。
    ピダハンは他の社会にはないほど家族関係が親密であり、集団意識がとても強い。一方、隣人と気軽に性交渉をしてもそれを善悪の基準として見ておらず、血縁を基準とした社会的基盤は薄い。浮気も普通にする。浮気したふたりは村を離れ、そのあいだ元の配偶者は彼らを探す。村を出たふたりは戻ってきて一緒に暮らしはじめる場合もあれば、元の鞘に収まろうとする場合もある。
    ピダハンは平穏を大切にしているが、仲間内の規範を破らないというわけではない。ただピダハンは、互いに助け合い、ときに他者の野蛮なふるまいにも忍耐強く愛情たっぷりに理解しようとするだけだ。

    ピダハンは、子どもを大人と対等に扱い、庇護する対象とは見ていない。乳離れすれば大人と同様に小食を強いられ、自分の力で狩りをすることを求められる。
    その背後には、「適者生存」のダーウィニズムがあるのだ。


    4 自然と直接体験
    ピギー:ピダハンが考えている地球の階層のこと。ピダハンは、この宇宙と地球がサンドイッチのように複数の階層になっていると信じている。

    ピダハンには数字の概念が無い。また、色の概念もない。
    それは、ピダハンは「語られるほとんどのことを、実際に目撃されたか、直接の目撃者から聞いたことに限定する」という価値観の中生きているからだ。

    ピダハンの言語と文化は、「直接的な体験ではないことを話してはならない」という文化の制約を受けている。ピダハンたちは、自分たちが話している時間の範疇に収まりきることについてのみ言及し、時間の埒外には言及しないのだ。

    これがピダハンを取り巻く「直接体験の法則」である。だから彼らには歴史や創世神話も無く、血縁関係も単純(自分が直接触れ合える範囲より外に広がらない)であり、数字という抽象的な記号の概念もないのだ。

    それでいて、ピダハンはよく「精霊と会った」と言う。彼らの言う精霊とは現代人の論じるスピリチュアルな存在ではなく、実際に「いる」ものとして、接触し、話し、自らに降霊させるものである。
    彼らは体験したものしか語らない。そのため、夢は彼らにとって「現実の体験」のように語られるのだ。


    5 ピダハン語の言語構造
    ピダハン語に音素が少ない(母音3種類、子音8種類)のは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、普通の語りなど、ディスコースのチャンネル(伝達の回路)がたくさんあり、子音も母音もさほど重要ではないからだ。

    言語とは、構成部分(単語、音声、文)の総和ではない。純然たる言語だけでは――その言語を成り立たせている文化の知識なしでは――十分なコミュニケーションや理解には不足なのだ。

    ピダハンは外国の思想や哲学、技術などを取り入れようとはしない。自分たちの文化に位置づけられていないもの、例えば他の宗教の神々や西洋的なバイキンといったものを話題にするということは、彼らに生き方やものの考え方の変革を迫る。ピダハンはそれを拒んできたため、話法が外部からわかりにくくなっているのだ。

    わたしたちは往々にして、自分たちが価値を認める事柄や、その事柄について言葉にするやり方はあくまでも「自然発生的」なものだと思いがちだが、そうではない。むしろ、ある特定の文化、特定の社会にたまたま生まれついたことによる、いわば偶発的なモノなのだ。

    ピダハン語には関係節がない。
    例えば、「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」と話したいとする。通常の言語では「ダンが買ってきた針」と「針を持ってきてくれ」の2つの文を並列にしたり入れ子にしたりして、一つの文として結合させる。
    しかし、ピダハン語では「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と言う。形の上では関係節とは言えないが、短文を並べることで関係節の表現を作っているのだ。

    ひとつの文や句が別の文のなかに入ってくる入れ子構造のことを「リカージョン」と呼ぶ。リカージョンは言語の豊かさのカギであり、リカージョンによって際限なく続く無数の文を作ることができる。かつてはリカージョンが人間の言語に不可欠の本質的機能だと考えられていた。
    しかし、ピダハン語にはリカージョンがないのだ。つまり、リカージョンは頭脳が利用できる道具の一つであるが、必ずしも使われるとは限らないということが分かったのだ。

    それはなぜなら、ピダハンの文化がIEP(直接体験)にもとづいているからだ。
    「ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」は2つに分解できる。「針を持ってきてくれ」と「ダンが買ってきた針」だ。そのうち、前者は断定であるが、後者に断定はない。ダンが本当にその針を購入したことを前提にできない以上、入れ子構造で文を作れない。だから、「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と断定文を続けるしかなくなる。ピダハンの文法はIEPによって制限を受けているのだ。

    リカージョンがないとは、文法上生成しうる文の数には上限があるということだ。
    だからといって、言語そのものが有限なわけでは無い。なぜなら、ピダハンが紡ぐ「物語」にはリカージョンが見られる――伏線や登場人物やさまざまな出来事が折り重なり、入り組み、絡み合ってできているからだ。文法が有限だからといって、その言語が乏しいとかつまらないものであるとは言えないのだ。

    言語や情報伝達の本質を理解するうえでは、文法だけが頼りではない。言語とはもっと広い人間の認知の所産であり、人間固有の特殊な文法などではない。

    わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。けれどももし、文化に引きずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化が世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることになる。

    ピダハンに出会った筆者は、長い間当然と思い、依拠してきた真実に疑問を持つようになった。ピダハンとともに生活していくうちに、自分が信仰と真実という幻想の中に生きていることに気づいたのだ。
    ピダハンは宣教師のように深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚をとること、カヌーを漕ぐこと、兄弟を愛することであり、そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあると言えるのではないだろうか。

  • ピダハンという少数民族のみが用いる言語の研究者の話.ピダハン語には直接体験の原理が有り,ピダハンが実際に見たものしか言語化することはなく,夢や精霊についてもその例外ではなく,彼らの世界は文字通りに見た世界でできている.このような言語に触れることによって著者は自らの信仰の欠点に気づいて,進行を捨てることに鳴る.また,言語学における一大理論であるチョムスキー理論ではこの言語を説明することができていない.科学ではしばしば理論から外れる例外的な存在をそもそも存在しないものとみなしてしまうという事があると感じた.全体的には難しい言語学の比率は少なく,ピダハンの部落に滞在したときの冒険譚や,ノンフィクションとしてサクサク読めた.

  • 現代社会とはまた違う興味深い価値観や文化が描かれているのだけれど、筆者の書き方が非常にユーモラスで読みやすい。
    好きな時に好きな分寝て、好きな時に食べ、好きな時に働くのいいな。
    夢と現実に体験したことは同列というのもおもしろい。寝るのがより楽しくなりそう。

  • 読み物としては大変面白いです。言語学者としてフィールドワークに行って知られざる言語を採集してくるのって憧れます。
    ピダハンの暮らしも、死と隣り合わせなのにいつも笑顔。すごいなぁ。

    旅行者として短い間旅したことがあるだけだけど、アマゾンは本当に美しいところなので(虫にさえ襲われなければ…)機会があればこんな風に長く滞在してみたい。

    その旅の間だけでもアメリカ人がブラジルで困り果てている姿を何度も目にしました。著者も同じ経験をしていますね。アメリカ人とブラジルは相性が悪いのでしょうか(笑)

    それはさておき、
    本書ではピダハン語の特殊性をことさらに強調して、従来の言語理論(主にチョムスキーの普遍文法)に反論しているわけですが、
    日本語話者として読むとそんなに特殊か??と思ってしまうわけです。

    ピダハン語の、単語の意味をイントネーションで区別する、なんてのは日本語では普通にやってますし、埋め込み文が存在しない、という特徴も、チョムスキーの理論でいうところのパラメータにゼロつまり「埋め込まない」ってのも含めちゃえばよくない?
    (すみません、チョムスキー難しすぎて分かってないんでめっちゃ素人意見なのですが…でもあの論理式みたいなのは好き)

    いろんな言語があるんだからそんなのもあるだろう。くらいにしか思わなかったので、やっぱりアメリカ向けなのかな。。
    文化が言語/文法に影響を与えるなんてのも、そりゃ多少はありますよね。数量的に測りにくいので言語「理論」にはしにくそうですが。

    というわけで、後半の言語学関係の部分に腑に落ちない点があるものの、全体としてはとても楽しく読んだので☆4つです。

  • 早いもので、もう4月。新しい年度を迎えて、新社会人、新入生など、新しい生活へと身を転じることになる方も多いのではないだろうか。

    新しい環境に入ると、えてして慣れるまでに時間を要するものであるが、この要因の一つに文脈の把握に時間が掛かるということが挙げられる。話している言葉そのものは理解できても、本当の意味で理解できるようになるためには、その組織体の文化を含めた背景がきちんと理解されている必要があるのだ。ほんの些細なことでさえも、異文化間で解釈が大きく異なるということは起こりうるものである。

    そんな中、本書の著者の異文化体験のユニークさは、群を抜いている。ブラジルの先住民、ピダハンの人々と30年以上に渡ってともに暮らし、彼らがどのように世界を見て、どのように理解しているのかを観察し続けたのだ。当初の目的はキリスト教の伝道師として、布教活動を行うこと。しかし、そこでの生活は著者の運命を大きく変えるようなものであった。

    南アメリカ北部、アマゾン川を河口から南南西へ向かうとアマゾン川はやがてマデイラ川と名前を変え、南へと支流が分かれている。その支流のさらに支流となっているのがピダハンの母なる川、マイシだ。支流とはいえ川幅が200メートルにもなる大河であり、その川辺の約80kmくらいのエリアに棲む400〜500人の部族、それがピダハンだ。

    ピダハンは羽毛飾りをつけないし、手の込んだ儀式もしない。ボディ・ペインティングもせず、アマゾンのほかの部族のようにはっきりと目に見える形で文化を誇示しない。いわゆるヤノマミのようなフォトジェニックさに欠けるのだ。しかし、その最大の特徴は、彼らが使用する言語そのものにある。

    ピダハン語は、現存するどの言語とも類縁関係がないという。音素は現存する言語のなかで最も少ない11種類しかなく、その他にも多くの言語に見られる要素が欠落しているのだ。

    まず数がない。そして物を数えたり、計算をしたりということもしない。また、「すべての」とか「それぞれの」「あらゆる」などの数量詞も存在しない。それだけでなく、左右の概念もない、色を表す単語もない、神もいないという、ないない尽くしなのである。

    しかし本当に驚くポイントが、さらに2点ある。一つ目は、きわめて音素が少ないピダハン語だが、声調やアクセント、音節の重みなどを駆使し、口笛や鼻歌、叫び声や歌のようにさえ聞こえる言葉を発生するということだ。

    これを著者は、「ディスコースのチャンネル(伝達の回路)」と呼んでいる。ピダハン語には5つのチャンネルがあって、それぞれが特別な文化的役割をもっているのだ。5つとは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、それに通常の語り、つまり子音と母音を用いた語りだ。

    口笛語りは狩りの時に使われ、ハミング語りはプライベートな語りの時、音楽語りは新しい情報を伝達する時など、文化的な用途に応じて語りが選択されるのだ。このような手段が存在するということは、文化が言語に多大な影響を与えているということの確固たる証拠とも言える。そして、この文化と音声構造の関係というのは、長らく言語学によって完全に無視されてきた領域であったのだという。

    もう1つが、多くの言語学者が普遍的な文法の1つと考えていた「再帰」という形式を持たないということである。例えば、「魚を釣った男が家にいる」というような文を例に見てみよう。

    「魚を釣った人物」という関係節が「これこれの男」という名詞句のなかにあり、それがさらに「男が家にいる」という文のなかに登場している。このような文や句が、別の文や句のなかに現れる入れ子構造は「再帰」と呼ばれ、言語に無限の創造性を与える基本的な道具であると考えられてきた。これがピダハン語には見られないのだ。よってピダハンの文章は、単純な構造の文章のみで構成される。

    このことが真に重要なのは、大部分の人の思考のプロセスで当たり前のように行われている「再帰」が、ノーム・チョムスキーが提唱した「普遍文法」、あるいはスティーブン・ピンカーの提唱した「言語本能」であるという定説に真っ向から反する事実であったということだ。文法というものが、遺伝子の一部という先天的なもの依拠しているのではなく、知性の働きの一部という後天的なものに依拠している可能性すら示唆しているのだ。

    一体なぜ、ピダハンの言語はかくも特徴的なものとなったのか?著者の更なるフィールドワークにより、このピダハンの言語を規定している決定的な要因が「直接体験」というものにあるということが、導き出されてきた。ピダハンの言語と文化は、直接的でないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。

    この原則に依れば、ピダハンが実際に見ていない出来事に関する定型の言葉や行為を退け、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌うということの説明がつく。数や色がないことも、その一例である。これらは直接体験とは別次元の、普遍化のための技能であるからだ。

    その代わりに、実際に経験した人物、あるいは直接聞いた人物が、その価値や情報をできるだけ生の形で言葉を通して伝えようとするのが、ピダハン特有のコミュニケーションということなのである。

    このような思考様式を持っているからこそ、ピダハン社会は外の世界の知識や習慣をやすやすと取り入れないようになっているとも言える。実際に、宣教師として訪れたはずの著者は、キリスト教の布教を断念し、なんと最終的には無神論者へと鞍替えしてしまうのだ。

    そして本書が問いかけているのは、我々がこのピダハンの特異な文化を、どのように受け止めるべきなのかということでもある。僕は、この「直接経験の法則」に基づく言語を、「言葉の断捨離」と位置付けたら、その捉え方も大きく変わってくるのではないかと感じた。

    ピダハンはその法則に基づき、自分たちの思考の範囲を「今、ここ、自分」に絞っている。このことによる機会損失はもちろん否定できないのだが、同時に不安や恐れ、絶望といった西洋社会を席巻している厄災をも、ほとんど取り除いてしまっているのだ。

    事実、ピダハンには、抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作など、産業界の進んだ社会では日常的な精神疾患の形跡が見られないのだという。また、著者自身、ピダハンが心配だという言葉を発することですら、聞いたことがないそうだ。

    これに倣えば、我々が普段口にする発言の内容を「今、ここ、自分」に絞り込むことによって、さまざまな弊害が消え、毎日の気分が軽くなる可能性だって否定はできないと思うのだ。

    今日、世界には6500ほどの言語があり、その半数が今後50年から100年の間に消滅する恐れがあるという。すでに400人を割っているとされるピダハン語も、その一つだ。そして、これらの消滅言語が一体なぜ残されなければならないのか?本書は、そんな疑問に対するシンプルな解答も提示している。そこには、消えてしまっては二度と取り戻せない、生きるための智慧があるからなのだ。

  • 著者を伝道師から無神論者へと変えることになったピダハンの人々は実に興味深い。
    "西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとは言えないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあると言えないだろうか。"
    言語学の説明の部分がちょっと難しすぎたかな。

  • 文化と言語によって自分(人間)の思考回路が作られているというのは感じていても、この本の中で何度も自分の言語に関する常識をひっくり返された。
    「直接体験の原理」。ピダハンが未開の地の原住民族ではあっても、彼らを魅力的にするのは全てこの原理なんだって最後にストンと来るのはとても面白い。
    言語学としても面白いし、前半のピダハンの文化も面白い。ずっと著者の話に爆笑させられながら読める。
    まだ自分の言葉に落とし込めるほどこの本を理解しきれてないのだと思うけれど、信仰や文化などと言語の関係性など、自分の思考原理となる大部分を理解するヒントがこの本にあるって思ってるし何回も読みたい。

  • 【はじめに】
    ピダハンはアマゾンに暮らす原住民族である。本書は、言語学者で当時キリスト教伝道師であった著者が、足掛け30年以上ピダハンとともに暮らした経験をもとに、彼らの言葉と思考・行動について愛と敬意をもって綴ったものだ。

    本書では、言語学的に貴重なピダハンの言語構造の話と、アマゾンで暮らすピダハン族の「哲学」、直接体験の原理、の話の大きく二つがテーマとされている。その二つは分かちがたく結びついているのだが、自分にとって、そしておそらく多くの人にとって、心に訴えかけるのは後者のピダハン族の「哲学」の方ではないだろうか。

    いずれにせよ、われわれからして完全に異文化であるピダハンとの長期にわたる交流から得られた知見による記述は、言語学や人類学という範疇を越えて非常に貴重な記録であり、広く読まれるべき貴重な考察である。

    【概要】
    ■ ピダハン語
    「文化と言語はセットであり、だからこそ言語は守られる価値がある」

    著者がピダハンの村に滞在した目的は、ピダハン語の研究とキリスト教の布教活動のためであった。そのうち、ピダハン語の習得は言語学者としての著者を大いに悩ませた。なぜならピダハン語が「度外れて独特な言語」であったからだ。

    またさらに、著者はピダハン語を話す現地の部族民との間で、英語やポルトガル語を介した学習ができない、いわゆる「単一言語」環境での調査が必須であった。さらに、ピダハン語が声調言語であることから発音やヒアリングが難しいことが習得の困難さに輪をかけた。母音が3つ、子音が8つと音素が少ないので、単語が長くなりがちとなる。これだけでも相当に困難であるのだが、その上ピダハン語が現存する他のどの言語とも似ていない独特な言語であるため、難易度がさらに増したのである。具体的な例としては、比較級に相当する表現がなかったり、色を表す単語がないなど、当然あるだろうと考えていた表現がない。また、「すべての」や「それぞれの」や「あらゆる」などの数量詞が存在しないし、物を数えたり、計算をせず、数の概念もどうやらないらしく数を表す言葉もない。ピダハンの言語利用には、「こんにちは」や「さようなら」といった「交感的言語使用」が見られない。「ありがとう」や「ごめんなさい」に相当する言葉もない。言明は、情報を求めるもの(質問)、新しい情報と明言するもの(宣言)、命令のどれかしかない。さらに関係代名詞などのリカージョンを表現する文法が存在していない。

    このことから、著者はチョムスキーの生成文法・普遍文法や、スティーブン・ピンカーの『言語を生み出す本能』の言語本能の存在を批判するようになる。著者の結論は、言語はチョムスキーの言うほどには互いに似ていない、ということだ。言い方を変えると、自分たちが知っている言語はたまたま似ているのであって、ピダハン語のようにまったく似ていない言語の存在もまた許されるということだ。また、著者は、言語上の文法や表現上の欠如は、文化的制約から来るものだとしており、チョムスキーの生成文法・普遍文法の概念を批判している。大御所のチョムスキーをここまで批判するのは、著者がよほど自信を持っているからに違いない。それは、長年のピダハン語の実地の研究から得た自信と自負というものだろう。

    ■ ピダハンの文化 ― 直接体験の原理
    「人類すべてがそうであるように、ピダハンの語る意味も彼らの価値観、彼らの信念に厳しく制約されているのである」
    ピダハン語を理解するためには、彼らの文化・価値観を共有することが必要となる。彼らの文化は、その言語と同じくわれわれの文化と似ていない。

    「人々は経験していない出来事については語らない ―― 遠い過去のことも、未来のことも、あるいは空想の物語も」

    ピダハンの文化は、「直接体験の原理」に根差している。彼らは、自らが直接体験をしたことか、話をしている相手が直接体験をしたことしか話題にすることがない。間接的な情報や空想に類することを話すことは文化的禁忌となっているとも考えられる。この原理が、言語を含めてピダハンの行動をも形作っているのである。

    著者は次のようにまとめる。
    「ピダハンの言語と文化は、直接的な体験でないことを話してはならないという文化の制約を受けているのだ。その制約とは、これまで深めてきた考えからすると、次のように要約できる。―― 叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる」

    先に述べたようにピダハン語には数を表す言葉がないが、彼らに数の概念を教えようとしても、計算ができるようにならなかったどころか10まで数を数えることもできなかった。これをもってピダハンの知的水準が低いという結論を出すことも可能なのかもしれないが、著者はそのようには捉えない。彼らの直接体験の原理にしたがうと、直接的な実体験を超える抽象化された計算の概念を身につける理由がないのがその原因だと考えるのだ。また、ピダハン語には親族を表す言葉が非常に少ないという。それも、自分たちが直接知らない曽祖父の代や直接会うことのない遠い親族のことを語る必要がないことからくるものだと著者は考える。このように、ピダハンの言語は、彼らの文化に強く制約を受けているというのが著者の主張である。

    また、ピダハンは外部の知識をなかなか採り入れない。カヌーの作り方を教えてもらいながらそれを一度は実際に作っても、次からは「作り方を知らない」と言って作らない。また、肉の保存方法(燻製や塩漬け)を知っていても、自分たちのために保存することもしない(ほかのアマゾンの先住民でそのような部族はほとんどありえないらしい)。食べ物にはあまりこだわらず、日に一度か多くても二度、ときには食べない日もある。これもまた、単純な見方をすれば、ピダハンが未開のままでいる原因であると解釈することも可能だが、著者はそれよりも未来のことよりもまず現在を大切にする彼らの文化を反映しているものだというのである。

    性交に関する道徳もかなり柔軟で自由だ。多くのピダハンが、躊躇いなく多くのピダハンと性交する。特に満月の夜の歌と踊りの際にはいつもよりも奔放にさらに多くの異性と性交する。それは彼らの将来ではなく現在に重要性を置く文化にも由来しているのではないかと考えられる。また、著者はこのように性交が非常に広く行われていることが、ピダハンの民族への帰属意識の強さのもとになっているのではないかと想定している。

    ピダハンでは、将来を気に病んだりしないことが文化的価値になっており、将来よりも現在を大切にする。したがって、彼らは進歩を望んでいないし、想像もしない。これが、ピダハンが変わらない理由だという。そのことは、いわゆる文明社会に住む人間からは後進性のように映る。しかし、それは他方の価値観からの一方的な見方であり、単に価値観の違いだということもまた可能である。著者によると、ピダハンは穏やかであり、彼らの敵意が内部でもよそものにも向けられるのを感じたことがない。誰に対しても、たとえ子供のしつけにおいても、暴力は許されない。浮気をされても、怒りをあらわにすることがない。

    著者も含めてピダハンと交流したものは口を揃えて次のように評価する ―― 「ピダハンは類を見ないほど幸せで充足した人々だ」

    ■ キリスト教伝道師の物語
    最初に述べたように、著者がピダハンと暮らし始めた理由のひとつは、キリスト教の伝道のためだ。著者はピダハンの人々に神の福音を伝えるためにその地に降り立ち、そのことを通して神の栄光を世界に広めるために来たのだった。ピダハン語の習得も、聖書の翻訳がその理由のひとつでもあった。

    しかしながら、ピダハンは外国の思想哲学や技術を受け入れなかったのと同じように、ほとんどキリスト教を受け入れることがなかった。聖書をピダハン語に翻訳する作業がまったく上手くいかなかったのは、彼らの文化に昔起きた出来事を伝える必要がなく、したがってその言語にもそれを伝える手段がなかったからであった。それらは文化的に翻訳不可能で、文化的な原理において受け入れ不可能なものであった。

    「ピダハンには、「見ることは信じること」であるばかりではなく、「信じることは見ること」でもある」

    そもそも、誰も会ったことのないイエス・キリストなる人物が語った言葉を受け入れることは彼らの理解の範囲外のことでもあり、彼らの価値観からは愚かなこと以外のなにものでもなかった。直接体験の原理による制約によって、彼らは神話を受け入れず、キリスト教の信仰もまったく受け入れることはなかった。

    ピダハンは、宗教的なことを信じない。絶対的なるものを信じない。それは、彼らには必要のないものであった。彼らは、「一度に一日づつ生きることの大切さを独自に発見している」。

    「自分たちの目の凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ」

    思えば、キリスト教の教義も聖書の言葉も非論理的なものであることには間違いなく、何でそんな昔生きていたのかもしれないおっさんの言うことをありがたがらないといけないのだという意見は、キリスト教徒の考えよりもよほど合理的だ。ましてや誰も見たこともない天国や地獄などを信じるのは頭がおかしいと考えるのは全く正当なことだと言える。

    結果的に著者はキリスト教を捨て、布教活動をあきらめる。著者はキリスト教以上にピダハンの生き方に憧れと正統性を見出したのだ。一方でその結論は、布教活動を意義あるものとして一緒にピダハンの村に赴き、非文明的な生活に耐えてきた著者の家族にとっては、受け入れ難いことであったのは想像に難くない。結果として、離婚につながるのだが、著者の元妻がピダハンの思想に触れ、著者がそれを論理的に説明をしても、キリスト教を捨てることを受け入れることがなかったのだというのは、逆に不思議なことに思える。

    ■ ピダハンの死生観
    本書を読んで、ピダハン語の分析や、ピダハンの直接体験の原理から来るさまざまな行動や考えにも深い驚きを覚えるのだが、それらの中でも大きく衝撃を受けるのは、ピダハンのその死生観である。

    冒頭のプロローグを締める次の言葉は、本書を読み終えた後、再度読み返すと改めて深い意味を持っていることがわかる。
    「ピダハンはわたしに、天国への期待や地獄への恐れをもたずに生と死と向き合い、微笑みながら大いなる淵源へと旅立つことの尊厳と、深い充足とを示してくれた。そうしたことをわたしはピダハンから教わり、生きているかぎり、彼らへの感謝の念をもちつづけるだろう」

    赴任当初、家族がマラリアにかかったときにピダハンはそのことを知りながら、誰も助けようとせず、それが当然であるかのように振る舞われたことが、著者が強い衝撃を受けた経験として描かれている。それにも増して衝撃的なのは、母親を亡くして死にかけているピダハンの赤ん坊を見殺しにしたところだろう。母乳を飲むことができなくなり、衰弱した赤ん坊を、著者の家族はチューブでミルクを入れてやるなど必死で助けようとするが、手を離して父親に任せたとき、父親はアルコールを摂取させて殺してしまったのだ。彼らの判断では、もうその赤ん坊は助かる見込みがなく、著者の行為はいたずらに苦しみを長引かせているだけのように映ったのだろう。いやむしろ、苦しみがどうのというよりも、そのまま息を引き取ることが彼らの価値観として正しいことだと考えただけなのかもしれない。

    「ピダハンはひとり残らず、近親者の死を目の当たりにしている。愛する者の亡骸をその目で見、その手で触れ、家の周りの森に埋葬してきたのだ。... ピダハンの生活に、死がのんびりと腰を落ち着ける余地はない」

    ここで思い出したのは、同じくアマゾンの原住民をNHKが取材した『ヤノマミ』である。『ヤノマミ』では、生まれてきた嬰児を母親が殺す場面がある。NHKスペシャルの放送でも触れられた衝撃的なシーンだが、そこには苦しみを長引かせないためであるというような理屈もない。母親が嬰児を殺す理由も明かされないし、われわれの理解を拒む。彼らにとって、そしておそらくはわれわれ現代人にとっても、人は理由もなく死ぬものだし、人が死ぬことは正しく正常なことなのだ。

    「ピダハンたちには、西洋人が彼らの二倍近くも長生きできると見込んでいることなど、知る由もない。見込んでいるどころか、それが権利だと考えているくらいだ」

    われわれは、あまりにも命を大事にしすぎているのかもしれない。どうせ死んでしまうのに。

    【所感】
    著者はこう書く ――「自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば」

    こうやって本に書かれ、そして翻訳されることがなければ、日本に住む自分がここに書かれたことに触れることはなかっただろう。それだけでも読書体験というのは素晴らしい。そう書くと、文字を持たないピダハンのことを下に見ることになってしまうのではないかという懸念もある。著者は、ピダハンが遅れた未開の民であるとすることを拒絶する。著者のガイドなく、ピダハン語の特徴やその外部の技術や知識を受け入れない態度について聞くと、単純に彼らは未開な部族であると結論づけていたかもしれない。しかし、それは集団としての価値観の違いであって、将来を気に病むことがなく、伝聞を拒否する文化であれば、そして彼らの死生観を受け入れることができたのであれば、文字や文明はまったく必要のないものだ。

    言うまでもなく、人類がここまで地球上で繁栄をしてきたのは文明化のおかげである。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』、マット・リドレーの『繁栄』、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』などでも人類史におけるいくつかの革新を描いている。競争と成長の原理が、規模の拡大を押しすすめて繁栄を支えてきた。その現代文明的価値観は世界のほとんどに行き渡り、いまや当然のものとされている。SDGsなどで修正は加えられることはあっても原則的な価値は変わることがないだろう。しかし、この本を読んで、もしかしたらそうではない文化的価値観も成長と平均寿命を諦めれば持続可能なものとして成立しうるのではないかと思った。ピダハンの存在はその証左である。われわれが今持っている価値観は倫理的にも論理的にも絶対ではないということを知らしめてくれる。

    想像するにピダハンの文化と価値観は、古来ずっと続いてきたものではなく、どこかで大きく変わったのだという可能性もあるのではないかと思った。彼らは、昔は他の部族と同じように創生神話を持ち、成長に向けて将来を考え、抽象的なことを考え、そして争いと苦悩とを抱えていたかもしれない。そういった中で、争いと苦悩とを克服するためにあるときから直接体験の原理が積極的に選び取られたものとなったということも考えられないだろうか。幸せを手に入れるためにあえて皆で利便性や成長とそして部族としての記憶を自ら捨てるのだ。そして、それがピダハン部族の信ずるところとなったということはないだろうか。他の部族がほぼ例外なく創生神話や他部族や西洋技術を容易に受容してしまうのに対してピダハンがそれを受け入れることがめったにないことは、彼らが無知で未開であるのではなく、あえてその道を集団として選んでいることを逆に示しているのではないか。

    もちろん、ピダハンの文化が成立するためには、まずピダハンの部族の全員がその文化を信じてそれに沿って行動することが必要条件となる。抜け駆けや心変わりは許されない。また、外部の変化は拒否されなくてはならない。部族の外部の人間は「仲間」とは異なるものである。そうであるがゆえに、憧れや嫉妬の対象とはならないのだ。そのことを考えると、ピダハンの文化が成立するための条件は、かなり不安定なものと言えるのかもしれない。

    この後の人生をピダハンのように生きたいと思うものではないし、文明化された世界に生きるものたちにはそのように思うことももはや許されない。それでも、自分の生きている社会の価値観が必ずしも絶対的なものではないということを理解することは必要なことではないにしても、努力をして理解する価値があることのように思う。そして、その上で敢えて今の価値観を選んでいるのだということを意識するべきことのように思うのだ。

    決して易しい本だとは思わないが、読まれるべき本。少し前に出版された本だが、ずっとKindle化されなかったので、手にとって読むまでに時間がかかったが、読んでよかった。


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    『ヤノマミ』(国分拓)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4140814098
    『ノモレ』(国分拓)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4103519614

  • 評判は聞いていたけど、ほんとに面白い!
    ピダハンとは、ブラジルのアマゾンに暮らす狩猟採集民族のひとつ。著者は、もともとは聖書をピダハン語に訳すというミッションを負ってアメリカから派遣された伝道師かつ言語学者で、70年代末から30年以上にわたって、彼らと付き合い続けてきた。文化人類学者がアマゾンの部族について書いたものはいろいろあるけれど、言語学者の目から見たピダハンのユニークさは、実に魅力的だ。
     たとえば、ピダハン語で使われる音は、母音が3つ、子音も男性で8つ、女性で7つだけ。これにさまざまな音調や歌、ハミングをくみあわせてコミュニケーションをとる。「1,2,3…」という数の概念、「右」「左」の概念もない。入れ子構造の構文もないという、きわめてシンプルな言語なのだ。
    しかも、シンプルなのは言語だけではない。彼らは、基本的に自分が直接体験したことしか言語化しないため、親族関係を示す語に「祖父」はあっても「曾祖父」はない。創世神話すらなく、祖先や神のための儀式も行わない。まさに言語学の、いや「人間」という存在に関するこれまでの常識をくつがえしてしまうような人々なのである。
    このシンプルな言語・生活・文化は、ピダハンが「低い」レベルにとどまっていることを意味しているのだろうか?著者自身、最初は、ピダハンが複雑な儀式や文化様式をもたないことに失望し、もっと「興味深い」部族のところに派遣されればよかったのにと思ったことを告白している。だが著者によれば、彼らのシンプルな生活様式は、アマゾンの環境と完全に合致しているのだ。ピダハンたちは食糧を貯めこまず、複雑な道具も必要としないかわり、よく働き、夜も害獣がいるのでぐっすりとは眠りこまない。それで必要十分な生活ができている。つまり、この人々は、現代の高度文明に達する能力がなかったのではなく、あえてそうしようとはしなかったのだ。
    たしかにピダハンの社会に創造や個性、進化は欠けているかもしれないが、「しかしもし自分の人生を脅かすものが何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。」
    実際、彼らはもっともよく笑い、よくおしゃべりし、人生に満足している人々だと著者はいう。彼らの存在は、私たちのあり方こそがもっとも優れており普遍的だという思いあがりを心地よく打ちのめして、異なる生のありかたに想像力をひらかせてくれるだろう。
    しかし、ピダハンがこのように魅力的な人々として私たちに紹介されたのは、ひとえに、先入観や価値判断によって自分を閉ざさず、異なる人々から謙虚に学ぶ態度を備えたこの著者の曇りなき眼差しのおかげだ。ピダハンとその言葉を知るにつれ、聖書をピダハン語に翻訳するという任務の不可能性に気づかされた著者は、ついにキリスト教の信仰を捨て、家族も崩壊することになったと告白している。自分の物差しを捨て、他者の目で世界を見て、自分を変えることのできるこの著者の勇気に、深く力づけられる。

  • 本書を読み通してみて俯瞰的に見えてきたのは,本書が文化人類学的な書籍と言う立ち位置だけの本ではなかったということです。本書は,言語学に対する新たな理論展開を促す書籍であることに加え,キリスト教伝道者としての著者の葛藤についても詳しく記されていたように思います。

    狩猟採集民族の複数の書籍の中で描かれている共通する部分もあります。彼らが遠い未来の不安などを考えることもなく,常に今現実の目の前に起きている出来事に対してのみ深く思考し考える特性を持つということです。いくつかの本を読めば読むほど,原始の世界に生きると私たちが考えているような彼らこそが,ニーチェの言う「大いなる正午」の体験を経た,超人たちであるように思えてなりません。とても勉強になりました

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