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本 ・本 (328ページ) / ISBN・EAN: 9784622076858
感想・レビュー・書評
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文献操作型論文としてはよくできている。人がサスペンスを求める動機についての考察の結論はもっともだと思う。
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あとがきに書いてあるようにこの本は、「東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース」に提出した博士論文を改稿したものだそうです。
漢字多過ぎです。寿限無かっ…。
(まあ、会社の部署名とかっていうのも、往々にそういうことになるんで、仕方ないんですけどね。でも、ちょっと笑っちゃいますね。著者も微妙に、「正確を期す」ことと並行して、自虐的ギャグとして敢えて書いている気がします)
包み隠さず正直に言うと、本書で語られるコトバの多くが、僕には判りませんでした…。
ただ、だからといって読書として愉しくなかった訳ではないんですね。
厳密に言うと、「賦活する」「アクセシビリティ―」「行動主義心理学モデル」「ロラン・バルトが構想した説話論」「直接的な反映論」というような文言が出てくると、コトバそれ自体が、不勉強なのでわからん…ということです。
ま、でも、日本の最高学府で博士号取るための論文ですから、改稿されているとしても、多少そういうのは当たり前だろうなあ、と。
生活上の「誰でも判るレベル」ではない、平たく言うと難しいコトバで考えて、難しいコトバで語ることでしか、見えてこないモノゴトというものも確実にあるでしょう。
そういうことを誰かがやることで、回りまわって、「誰でも判るレベル」の、常識とか、モノの考え方が変わって行ったりするんだと思います。
その代り、それには即効性はありません。だから、専門的な学問とか研究というのは、ビジネスの世界と同じような1年2年の短期的な成果主義で評価しては、絶対にイケない分野だと思います。子育てみたいなものですね。
(まあ、だからといって権威主義や内輪な馴れ合いで評価して良い訳でもないので、ココのところは永遠に正解の無い難しいトコロなんですけどね)
という訳なので、僕には判らない事もいっぱいありましたけど、判らないところでは、いつも通り一切落ち込まずにザクザク飛ばし気味に読んでいきました。
面白かったんです。
(なんですが、僕自身が恐らくそれなりに強度な映画オタク、映画史オタク、だと思うので、汎用性があるかどうかはサッパリ自信がありません)
要は、題名の通り「サスペンス映画の歴史」な訳です。
ま、そもそも何が「サスペンス映画」かって言うのも、「恋愛映画」「アクション映画」というのと同じくらいムツカシイ訳ですけど。
そういうムツカシイところは、ドンドン捨て置いて読みます(笑)。
書く側の都合と読む側の都合は違いますからね。常に自分勝手に読みます(笑)。
(それでも刷り込みのように何かの新しい歯ごたえがありますから、ムツカシ目の本を読むのも楽しいものです)
やはり学術論文だからなのか(?)、几帳面に、リュミエールの映画の創成期から、年代的に順を追った、「世界映画の歴史総まくり、こぼれ話やナルホド噺が満載」という本だ、とも言えます。(というか、そういう次元でしか僕は楽しんでいません)
以下、かなり、僕なりのコトバになってしまいますが…。
サスペンス、というのが、「どうなっちゃうんだろう」というドキドキ感のようなものだったとして。
映画、というモノが発明されて、だんだんと物語で楽しませる(物語でも楽しませる)ようになってきたときに。
まずはまあ、乱暴な言葉ですが原始的に、アクション、つまり役者の肉体のハラハラドキドキを愉しませる。
例えば、宙ずりになっちゃた、助かるかな、みたいなことです。
そして、間に合うかな、みたいなことになる。死にそうな人と、助けに行く人を交互に見せたりします。
もうここまでだけで、007とかそういう娯楽的なアクション映画みたいなのは、今でも変わらない訳ですが。
そして、今の普通の暮しでも、例えば写真をスマホで撮っても分かることですが、
「生の眼で見ると感じること。広いなー、とか、きれいだなー、とか、かわいいなあー、とか。そういうことが写真にすると伝わらないな」
ということがあると思います。
その逆もまたある、ということなんです。
「こういう風に撮ると、編集すると。肉眼で物事を見るよりも、広く感じる。きれいに見える。そして…切迫しているように見える。怖く感じる。どきどきする」
みたいなことに気づいて、いろいろ新しい工夫をする訳です。
そして、「こういうことは、小説では上手く行くけど、映画だと白ける。逆に、映画だと物凄く面白いけど、文章にしたら詰まらん」みたいな、それぞれの個性がある訳です。
(そういうことが、「映画的だ」みたいなことだと思うんですけど)
そして、映画の内容とか、「何が怖いのか」「どういう人が犯人なのか」「どのくらいニヒルな雰囲気なのか」みたいなことが。
歌は世につれ映画も世につれ、時代と共に変わっていきます。
「こういう雰囲気の映画は、前の時代には無かったな」みたいなこと。
作り手の純技術的・機材的なことだったりもしますけれど、結局は「どんな雰囲気の、どんな味わいの映画を見せたいか」ということに尽きる訳です。
そこで、映画史と世界史は必ず、コインの表裏になります。
ナチスの時代だから。
不景気で暗い時代だったから。
冷戦の時代だったから。
バブルだったから。
そういうところで、作り手の個性も興味深くなります。
「サザンの桑田さんはこういう育ちだから、歌詞もこんな味わいがあるんだ、へー」みたいなことなんです。
自分の好みで細部まで作ることが許された、ヒットメーカーの巨匠たち。グリフィスさんは。ヒッチコックさんは。
こういう時代にこういう育ちで、こういう価値観とか好みがあったから、こういう映画になったんだなあ、みたいなことです。
そして、ヒッチコックさんの映画や、ルビッチさんの映画の、独特の味わいってなんなんだろうねー、という愉しいお話も盛り込まれています。
もっと身近な例で言うと、クリント・イーストウッドさんの映画について。
あるいはブライアン・デ・パルマさんとか、スティーブン・スピルバーグさんの映画について。
色んな「へー」があります。
ある程度分量を観ていくと、ヒッチコックさんとかイーストウッドさんの映画って、同じ「サスペンス映画」という仲間でも、なんとなくいつもどこかしらか「独特だなあ。変態だなあ」というような感じがあるんですね。
それはいったい何なんだろう、というお話です。
これはつまり、ビールが大好きな人がいて、「なんとなくヱビスが好きだなあ」と思っていたとして。
「ヱビスビールの作り方は、実は普通のビールこういうところが違っていて、それは作り手のこういう意図があるんですよ」
という話を聞くのは、面白いじゃないですか。
そういう感じの愉しみが、まずは入り口としてあります。
そういう風に愉しんでいくと、「映画」からでも「美味しいもの」からでも「マンガ」からでも「歌謡曲」からでも「プロレス」からでも「絵画」「草花」「建築」「お酒」…どんなものでも興味は広がります。歴史であり、地域ごとの風土であり気候であり、お金と欲望の流れであり、偶然と天才とテクノロジーによる革命であり、名もなき地上の星たちの地道な積み重ねであり、ヒトの良心とダークサイドの本能であり、美しいこととかカッコイイこととかの謎めいた深淵だったりします。
知ることと考えることが、想像していくことが、他人と話したり共有したりすることが、愉快になってきます。
そういう、現実我が身の半径3m以内の、労働とか家事とか人間関係とかっていうことから、飛躍したトコロでの、「脳みその中の、想像する娯楽」みたいなことを広げていくことで。
ひょっとすると僕らは、「自分とは違う習慣とか価値観を持っている人への、寛容さ」みたいなこととか、「自分の周りの人たちの意見だけが全てではない、と孤立を恐れない勇気」みたいなこととか、「判りやすい解決策に飛びつく危険を避ける賢明さや忍耐力」とか、「違う角度や立場から見たら、正義や正解はまた違うことになる、と確信する謙虚さ」みたいなことを、持つことが出来るのかも知れませんね。
もしそれが学問の愉しみということだとすれば、この本は立派に「映画史」ということからガクモンすることの桃源郷を垣間見せてくれる素敵な本です。
何歳になっても、お金がなくても、時間がなくても、便所の中だって、本が一冊あれば、学問は出来る。
そしてそんなことから、ひょっとすると長い夜は朝を迎え、人は約束の地で手を握り合い、象は平原に帰ることが出来るのかも知れませんね。ま、ちょっとふざけて大げさですが(笑)。 -
【選書者コメント】蓮實重彦も絶賛のサスペンス映画論。
[請求記号]7700:1344 -
とりあえず、ヒッチコック見ますw
それから改めて読む。
著者プロフィール
三浦哲哉の作品





