- Amazon.co.jp ・本 (456ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622077534
作品紹介・あらすじ
石器からコンピューターまでのテクノロジーに通底する普遍的法則を追究。雑誌
『Wired』の創刊編集長によるテクノロジー版〈種の起源〉。
感想・レビュー・書評
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平易なようで難解なので、最初に解説を読んでから本文に入った方がわかりやすかったかもしれない。
人間が意思でテクノロジーを利用しているのではなくて、テクニウムという法則というか概念というか生命体っぽいものというか、そういうものの中でテクノロジーが自律的に衝き動いていて、エントロピーとは逆の、秩序を形成しているのだという世界観がとても興味深い。いぬのみみ多数つけた。
テクノロジーをコントロールできているのはアーミッシュとユナ・ボマーというくだりは面白かった。
[more]<blockquote>P17 我々はテクノロジーというとぴかぴかなガジェットを想像しがちだ。ソフトウェアがそうであるように、テクノロジーが非物質的な形で存在しうると認めても、このカテゴリの中には絵画や文字、音楽、ダンス、詩や芸術一般を含めようとはしないだろう。しかし実際は含めるべきなのだ。両方とも我々の行動を変化させ、物事の起こる順序を変えたり未来の発明を可能にしてくれたりするものだからだ。
P23 テクニウムはそれ特有の要求を持つ。それは多くの大規模で相互に深く接続されたシステムがそうであるように、自分自身を整理し、自らを階層的に組み直そうとする。そしてテクニウムはそれ自体を維持し、すべての生命システムがするように自己を永続的に存在させようとする。そしてそれが成長すると、こうした固有の要求が複雑性や力をましていく。【中略】テクニウムでは要求は、考え抜かれた決定であることを意味しない。私はテクニウムに意識があるとは(現時点では)思っていない。
P25 今やテクニウムは我々の世界では自然に匹敵する力になっている。だから我々はテクニウムに対しても自然に対してと同じ姿勢で向き合うべきだ。
P29 道具はその起源や基本からして、われわれの生命のように自然なものだ。
P48 道徳は我々の意思や知性の有用な産物であり、そういう意味でテクノロジーなのだ。
P53 テクニウムとは人間の拡張だ。【中略】もしテクノロジーが人間の拡張であるなら、それは遺伝子ではなく知性の拡張なのだ。つまりテクノロジーは我々のアイデアが拡張した身体だ。
P61 事前に意図しなかった発明は、生物学では外適応と呼ばれる。この外適応が自然の中でどれほどあるかはわからないが、テクニウムの中では日常的に起きる。テクニウムとはこの外適応に他ならない。
P76 エクソトロピーはただの非カオスを超えたもっと高い意味を持っている。それ自体で一つの力と考えることができ、その力の後押しを受けて本来はありえない存在が保持されているのだ。【中略】エクソトロピーは秩序の増加ということになる。【中略】情報と等価ではないが似ており、さらに自己組織化を伴うということだ。
P116 安価なエネルギーを利用することは、テクニウムにおいて大きな突破口になった。しかし効率のいいエネルギーを発見することが決定的だとすると、中国が最初の工業国になっていないとおかしい。中国にはそのエネルギーを解放する鍵となる科学が欠けていた。
P130 細胞膜の壁の強度は水の表面張力によって決められ、可能な体の最大の縦横比の定数が決定される。水に依存する生物はいつどこで進化しようと、この普遍的な大きさの比に収束する。
P151 テクニウムはある傾向であり実体ではない。テクニウムとそれを構成するテクノロジーは大きな人工物ではなく大きな過程だ。
P163 次の大発明にはたくさんの転載は必要ないと指摘した。あるアイデアが空中を漂ってきたら、それに関する兆候が必然的にでてくる。あとは頭のいい多作な人々を十分な数だけ集め、それを捕りに行けばいいのだ。
P165 発明の逆ピラミッドー可能性について考える人1000〜10000→いかに実現するか検討する人1000→詳細の決定できる人100→実動する装置を作れる人10→実用化着手する人1
P170 歴史上ずっと、発明や発見のほとんどは2人以上の人によって独立になされている。
P177 テクニウムには固有の順序があるので、先に大きく跳躍することが難しい。
P179 古いテクノロジーの導入に失敗した国は、新しいテクノロジーがやってきたときに不利な立場にある。【中略】テクノロジーは生物のように、ある段階に至るまでに一連の進展を必要とする。
P192 新しいものが選択肢として与えられて、それを受け入れるかどうか選べるとしても、それは必ずしもずっと選択可能というわけではない。多くの場合、新しいテクノロジーは、それを使うことを結局のところ強制するように社会を変えてしまうのだ。
P245 どんな中毒も治すには原因となる快楽ではなく患者のほうを変化させることが必要だ。中毒を克服した人は、そうやって自分たちの無力さを乗り越える。もしテクニウムが中毒なら、テクニウム側を変えることによって問題を解決することはできない。
P256 アーミッシュは、新しいものに悪いところがないかを熱心に試してきた人に頼っているのだ。(アルファ・ギークの)アイヴァンは、近所の人や家族や司祭が熱心に見守る中、そのテクノロジーを手に入れ使いこなしていく。彼らはそれによる利益と不利益を天秤にかける。
P259 彼らのモットーは「まず試して、必要なら後でやめればいい」ということだ。われわれは試すのは得意だがやめるのが苦手だ。アーミッシュの方法を満たすには、集団でやめることに上達しなければならないが。それは多元的な社会では非常に難しい。
P265 (アーミッシュがなぜ北米以外にいないのか)テクノロジー漬けのアメリカ以外ではこうした考えは馬鹿げているのだろう。抜け出る元がなければ抜け出ることはできない。
P272 潜在力を開花させる機会は他人の仕事によってもたらされている。他人が拡張することで自分も広がり続けるのだ。
P281 (テクノロジーの結末を予測することが)難しいのは我々にも原因があって、それはついつい新しいものが古い仕事をよりよくこなすと想像したがるためだ。最初の自動車が「馬なし馬車」と呼ばれたのもそのためだ。
P285 リスク回避成功は理性を失わせる。人は注目したいリスクを選択する。
P290 テクノロジーは決して「安全であることが確認される」ことはない。テクノロジーは常に利用者によって再設計され、そのテクノロジーを含むテクニウムによって変化を受けるので、常に監視しながら継続的に試験されなくてはならない。
P295 疑わしいテクノロジーを禁止したり放棄したりするだけではうまくいかない。それより新しい働きを見つけたほうがいい。
P303 ひどいアイデアに対する正しい反応は、試行を止めることではない。むしろ、より良いアイデアを思いつくことだ。なんのアイデアもないより悪いアイデアがあったほうがいいのは、悪いアイデアは少なくとも修正できるが、全くアイデアがなければ何の希望もないからだ。
P322 我々の体の大きさは、奇妙なことにこの宇宙の中の中間に位置する。知られている最も小さなものは我々の大きさの30乗分の1で、最大の者は30乗倍だ。
P330 地域的多様性が、世界と接続されたまま、はっきりと差異を持ったままでいられるなら、その違いは世界的に着実に価値を増すだろう。接続されてはいるが違っているという釣り合いを維持するのは大変なことだ。
P339 生命の自己増殖は、テクニウムと同じく、自ずと偏在に向かう。
P369 製造されたほとんどの物には愛好家がいる。MITの社会学者シェリー・タークルは、テクノロジーが個人に崇められる事例を「喚起対象」と呼んでいる。
P372 未来になれば、テクノロジーを愛することはより優しくなっているだろう。機械は進化の段階を上がるごとに我々の心をつかんで行く。
P400 我々は、テクノロジーの最良の物を増大させると言う道徳的な義務を負っている。テクノロジーの多様性と範囲を大きくすると、現役世代の自分自身や他人の選択肢だけでなく、将来世代の選択肢も増やすことになる。こうしてテクニウムが何代にもわたって複雑性や美を向上させていく。
P403 宇宙には有限と無限の2種類のゲームがある。有限ゲームは勝つために行う。無限ゲームはただ続けるためのゲームだ。無限ゲームはルールを変えることでしか続かない。終わらないためには、そのルールでゲームは実行されなくてはならない。</blockquote>詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
テクノロジーを「テクニウム」という生物種になぞらえ、その様相について驚くべき深い洞察と極めて重要なビジョンを示す非常に興味深い本です。
テクノロジーの性質は、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』風に、人間の知性を<乗り物>にして一種自律的に進化するものである。その進化には方向性がありしかも「進化が進化する」驚異的なものである。
では人間はテクノロジーにどう向き合い、付き合えば良いのか。ここで原理主義的なラッダイトを実践したユナボマーと、テクノロジーの受容と選択を共同体としてコントロールするアーミッシュについて考察し、テクノロジーを「選択肢を解放するもの」と考え、とにかく新しいテクノロジーは「常に監視しながら継続的に試験されなくてはならない」としている。
筆者は最終章に神を引き合いに出していますが、正に神学や歴史学も同じフレームで考察すべきなのだと思います。筆者は(テクノロジーにおいて)未来は現在よりも良くなる史観をもっています。「テクノロジー」の定義からして人間はこれから逃れることは不可能であるため、やはりテクノロジーに対する態度は「常に監視しながら継続的に試験されなくてはならない」となるべきであると筆者の意見に賛成します(これはエリック・ブリニョルフソン他の『機械との競争』に対する部分的な回答になっており、結論の核の部分で一致しています)。 -
近年読んだ書籍で最も影響を受けた一つ。ケヴィン・ケリーが本書で語る「テクノロジーの進化は生物が進化してきた歴史の延長にある」という主張は慧眼だと思う。その主張に至るまでの例証もどれも興味深い。この本を読み、テクノロジーの進化というものが善悪論を超えて、ある種冷静に一つの現象として観察できるようになった気がする。
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テクノロジーがこれからどこへ向かっていくかを技術が生まれた歴史から遡って論じた本です。
とても長く、冗長な感じがしました。
なんどもこの手の話は聞いているので正直退屈でした。
読みたいところに絞って読んで、他は速読しました。 -
テクノロジーの話は後半の方で議論されている。
前半は、そもそもの文明の起こりについての記載が多かった。
後半を読むと、今後のテクノロジーの展望など、著者の意見が多数反映されているように思う。
テクノロジーの行く末はどうなるのか、ということに関して一つの視座を与えてくれると思うが、個人的には、話が難しく、あんまりよく分からなかった。
哲学書の読解が苦手なので、今後も定期的に読んでいきたい。 -
2014年に日本語版の初版が発売されていますので、それからだいぶたちますがやっと読む機会があり、読了しました(2022年に読了)。読み終わった直後の感想ですが、もり沢山の料理を堪能したような気分です。本書でケリー氏が主張したいことを一言でいうなら、テクノロジーにも生命的な進化の流れがあること、それを「テクニウム」と表現し、具体的なキーワードとして、複雑性、多様性、専門性、偏在性、自由度、相互性、美しさ、感受性、構造性、進化性などが高まることが述べられています。このあたりのキーワードは、ケリー氏の次の本である「インターネットの次に来るもの」に引き継がれているのだと思います。
テクノロジーは生命的であり、かつこのトレンドは今後より明確になっていく、という主張はかなり突飛とも言えますが、私は個人的には共感できました。厳密な意味での生命があるかどうか、という意味ではなく、「生命的」なふるまいをするであろうこと、それはAIの登場で明らかだということです。本書を読んで思い出したのが新スタートレックに登場するデータというアンドロイドです。このデータは少佐という階級なのですが、あるエピソードで、データが人なのかモノなのかについてピカード艦長と司令部の間で大きな議論に発展します(タイトルは覚えていませんがすごく感銘を受けたのを記憶しています)。その意味ではケリー氏の問いかけは数百年後も結論の出ていない論点なのかもしれません。
また本書を読んで思い出したのが岩井克人氏による法人論です。こちらは全くテクノロジーとは関係ありませんが、岩井氏は日本人が「法人」をヒトとしてみていること、対する欧米人は法人を「モノ」とみていることを指摘しています。もし日本人が「法人」をヒトとして見ているのなら、テクノロジー(あるいはテクニウム)を生き物とみることもあながちずれていないのではないか。近代社会はすべてのものをイチかゼロで弁別したがりますが、それこそ量子コンピュータが日常生活に浸透してくるころには、「A or B」ではなく「A and B」という世界観こそが正しくなるでしょう。そしてそうなればなるほどケリー氏のテクニウム観は説得力を増しているのではないかと思いました。 -
いろいろ考えさせられる内容である!
アーミッシュが、脱炭素原理主義者のように技術を全否定するのではなく、使ってみて評価して使い続けるのかを決めると言うのは興味深かった。 -
■一橋大学所在情報(HERMES-catalogへのリンク)
【書籍】
https://opac.lib.hit-u.ac.jp/opac/opac_link/bibid/1001045412
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面白いのだけど、概念の理解が難しい。それの過程自体を楽しみながら読みました。
ちゃんと理解できていないであろう前提で。テクニウムという視点で世の中を見ると、GAFAなどのプラットフォームが権勢を誇る現代の理解が進むかもしれない。