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本 ・本 (328ページ) / ISBN・EAN: 9784622077770
感想・レビュー・書評
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恐ろしい量の付箋が。
とても長く引用したのでそこから少しだけ特に選んでみるとしたら、
「神話は現場では作られない」
「患者の改善に自尊心を置いてはならない」
だろうか。
前者は、妄想や幻聴は小さな時のふとした事が元になることも多いが、だからといって小さな時にそれにショックを受けているというよりは、少し不思議だな、と思って忘れていただけのことが心の底にまだ眠っていてそれが現れることがあるという話だった(いや、本文読まないと何のことかでしょうから、下ではきちんと抜き書きしてます)。
二念を継がないという白隠禅師の言葉があるそうですが、自分を苦しめたりストレスを感じたりするのは、環境や何かの事件、事実ではなくてそれに対する自分の解釈なんだよな、と改めて感じた。
後者は仕事に関して。サービス業の接客も、後輩の指導や教育も、自分の言ったことと受け取る相手の姿勢や置かれている状況で結果が全く変わってくる。だから、人と人が関わるサービスにおいて、結果に重点を置くと、独善的になってしまう。そうか、精神科医でも、そうなのか。
・精神科医は、後の精神科医が困るようなクセをつけない心掛けが必要である。クセがどうやってつくのか私にはわからないが、患者の士気を維持し、その自尊心を珠玉のごとく大切にしていれば、クセはつかないであろう。
会社と上司のクセは社員につくが逆はない。友人関係でついたクセは本人の人格の延長であるが、治療の場合のクセは病因と精神科医の問題であろう。
医師は「みずからたのむところがある」けれども「威張らない」ほうがよい。ナースのクセはなぜかつかないようである。
私はしばしば数代前の治療者の努力が私の時に実るのを感じた。果実は即座に実らなくて当然ではないか。だから、改善を自己の行為にして誇るのは実情に反することがしばしばある。
・30年前はアメリカの精神科医に会うと、非常に忙しいのは保険の査定員とのやりとりが大変だからだと言っていました。時間の三分の一は査定員とのやりとりに費やされていたそうです。
ところが、それが変わってきたわけです。どういうふうに変わってきたかというと、アメリカの主要な病因は生命保険会社が所有してしまいました。そういう形になってきたので、今度は医者の方では反論できなくなったわけです。なぜなら、ある生命保険会社に入るということは、その生命保険会社の指定する病院で、そこに雇われている医者に診てもらうことになる。そのときに、治療の方法というものは生命保険会社によって費用対効果によってきめられているわけです。
ですから、医師はもう論争はしなくても良いのですが、マネジドケア、つまり管理ケアという生命保険会社が決めたベストの治療法に従って実行するのが原状らしいのです。
それが日本の将来に出現するかどうかということは、私にはわかりませんが、とにかくアメリカの精神科医に直接、面会したり、また、間接に会って話を聞きますと、アメリカのようになってはいけないと言われました。これは、自分たちが好んだ結果ではなく、「敗北した」ということを医者としては考えているみたいです。
・(九州には)現場で実行しながら考え、考えながら実行してゆくということ、理屈がいかにもそうでも「感性の論理」とでもいうべきものが納得しないと受け入れず、逆に「ほんとうらしさの感覚」があればまず受け入れてから考えてみる、というところがあろうかと思います。何よりもそれは非常時に現れます。
阪神・淡路大震災のとき、北九州市の医療監(坂口先生です)はただちに神戸市役所に電話していましたが、「援助はもういりません」というその口調に、これはただごとではないと早速チームを組んで現場に行ってみると、果たして、精神保健課にはただ一人の出勤者が、送られてきたファックスの紙の山と鳴りっぱなしの電話の中で茫然と立ち尽くしていて、予測通り「もうお手上げだ」というのが援助辞退の理由だったと聞きました。私は実情がそのとおりだと知っていましたが、北九州の責任者が電話ひとつでこれだけの判断をしたのはさすがだと思います。
・一般に心理テストというものは深度が不明の魚群探知機であると思ってよい。
ある深度より浅いものは心の検閲装置によって除去され、その深度よりも下層のものは抑圧によってそもそも現れない。それぞれの方法には固有の深度があって、おのずと違いがあるようだ。むろん、深度という一次元で表現するのは単純すぎる。しかし、SCI、Y-G、P-F、TAT、ロールシャッハの順で後ほど魚群は深海のところにいるといっても、まあ間違いないだろう。つまり、画像が関与してくるほど、深度が深くなる傾向があるようだ。
・丹念に描き込まれた画とたどたどしく引かれた一本の線とは哲学的に対等である。
引かれた一本の線で何が分かるか?少なくともまだ画を描く段階ではないことがわかる。私が実際にああそうか、と目から鱗が落ちる感じを持ったのは、ある外来患者が急速な寛解をみせて職場復帰がテーマとなった時であった。私は何かもろさを感じた。私のいう「壁の塗り立て」状態である。そういう時の私は患者に「まだ壁の塗り立てではないかね」と言って画用紙の縁に沿って枠を描き、「この枠の中を自由に仕切るように」と頼んだ。その結果がバラバラの仕切りであったので「もう少し乾くのを待つほうが後々よいと思う」といった。
なお、「自由に仕切ること」が重要であって、「縦に半分、次に横に半分」といえば患者はできる。「自由に」という決断が関所なのである。しかし、職場に復帰すれば大決断、小決断がいっぱい待っているではないか。
この空間分割法はミニマムの決断である。実際、病人であろうとなかろうと、人間の行為の中で決断が最大のエネルギーを要するものだと思う。誰でもそうだが、特に苦しむのが精神科の患者であり、これをバイパスするのが非行者であると思う。
非行はワンパターンなのである。箱庭で“模写”、たとえば「宝塚遊園地」を作るのは有機溶媒常用者を含む非行者だけである。統合失調症の人はいかに弱々しく、あるいは2、3個しか置かない「貧しい」箱庭を作っても、決して「現実の模写」の箱庭は置かない。断固、オリジナルな置き方をするのである。彼らはユニークでありオリジナルであるべく迫られているといおうか。
それは悲劇かもしれないが、しかし彼らの箱庭を思い浮かべる時、統合失調症の人の「尊厳」としかいいようのないものを私は実感する。自立しかしようのない彼らを思い、彼らにさらに自立を迫るのは滑稽ではなかったかと思ったりもする。むしろ模倣を、できるなら、勧めたい。実際、社会復帰訓練は模倣であると思う。
・箱庭が統合性の回復を見る指標として役に立つのは、だいたい一瞥して統合性がわかるからであるが、もう少しいえば、箱庭を大局的にみる三つの観点は「豊富性」「整合性」「全体性」だからである。
この三つは、一つに偏ると他が怪しくなるという三すくみ構造をもっている。物を豊富にならべれば、統制がとりにくくなって整合性、全体性が怪しくなる。整合性にこだわりすぎると選べるものが限られてきて、たとえば家具だけになったりし、豊かさと全体性が損なわれる。
箱庭の事物はサイズが不整合にできている。富士山と五重塔とが同じ大きさであり、木と人とがそう違わない。この不整合に意味があるのである。全体性を最優先させるとわずかなものを置けばよいわけだが、素寒貧な印象になってしまう。ジャンケンではないが、三つ物があって一つばかりに力を入れれば他が立ち行かなくなる実例である。そして、三者をほどよくまとめらるようになれば、それは回復そのもののよさと回復後のいろいろな見込みのよさを示唆してくれる。
・私はうつ病の人には絵画療法をしないが、それは昔スイスから出ていた精神病患者の絵画集にうつ病患者の画がけっこうあって、裏に書いてある予後に自殺が多かったからである。断崖絶壁で囲まれた台地の精密な鉛筆画が印象的である。精神的視野が突然ひらけるのはうつ病の人には危ないのではないかと思い、私はその絵画療法には慎重である。
うつ病の人の精神的視野の狭さは一種の保護枠ではないかとも思う。しかし、うつ病の人の回復期後期に樹木画を描いてもらうと、たいていの医師が職場復帰を認めるだろう状態の患者の樹木画がなお、けっこう萎縮的であったり、歪んだり、枯れ木であったりすることが決して少なくない。
・境界型パーソナリティ障碍は、重症の統合失調症よりも治療の場で行う描画で混乱がいっそう大きい。
特に風景構成法である。遠くのもののほうが大きい逆遠近法ならまだましなほうである。なぐり描きはそもそもできない。色彩分割法もあやしい。この事実はあまり知られていない。
境界型パーソナリティ障碍は、その絵をみてはじめて、なるほど、統合失調症よりも治療が紆余曲折を経るのは当たり前だと思われるにちがいない。
ただし、中原淳一ばりの眼が大きく潤んだような女性の絵をはじめ、持参する甘い画に目をくらまされることがある。画家としての才能さえ云々される患者が風景構成法はできないことがあるのだ。もっとも、境界型パーソナリティ障碍の人は、指示されて画を描くことを好まなくて、拒んだり、指示とは別の「お得意の」絵を代わりに描いたりすることが多い。しかし、この行為はそれはそれで何かを意味している。絵は言語ほど飾れないのである。
・非行少年やシンナー、アルコール中毒者は、ある段階までは、かなり統合性の高い風景構成法を描く。これは先に述べた箱庭の模倣性と対象的である。私は文化に左右される程度が、この二つの場合には大きいと思う。1970年代には、この人たちが統合性の高い風景構成法を描く場合には、
①家や木や人が複数であって、しかも同じ形、同じサイズであり、どれがメインということがない。
②川がいつのまにかどこかに消えるなど、誤魔化している部分がある。
③人は皆田んぼで一生懸命働いている(本人の日常と正反対である)。
④手前の山並みの向こうに、もう一つ、雪を頂いた高い山並みがある。ひょうびょうとしてはるかな、到達できない高山である。これが(当時の)シンナーの人の世界なのだと実感した。メインの「自分の家(居場所)」を持たず、ある誤魔化しの下に生きていて、働くことをもっぱら理想としながら、手前の現世の山の他に遠い到達不能の、おそらく憧れの何かがあるのだ。
・私はかつて絵画療法を行った8人に14年後再会して、風景構成法をやってもらったことがある。
彼らは全員がまだ外来に通っている慢性患者であった。なるほど新たな風景には一種の「くすみ」が生じていた。風景構成法に対して当時とちがって気のなさそうな人が多かった。これは、もはや治療者ではない私とつくる場だから当然であろう。年齢ももう中老か初老であった。
しかし、彼らは、私が質問など一切しなかったのに、全員が14年前の風景構成法を記憶にまざまざと呼び起こすことができた。「あ、やりましたね。覚えていますよ」「あの時の川はこうでした」「私はあの時、山をここに描いたものです」というふうに語りながら、新たな風景を構成した。
この記憶のよさは私の心を大きく打った。人生の危機において医者と出会って治療の場で起こることはこれほどまでに記憶されているのだ。出会った当時すでに5~7年入院していた患者たちである。そして私がその病院を立ち去ってから14年の時間が流れている。慢性統合失調症患者としての日々を送っている人たちの中に手つかずにあるものの大きさを改めて実感した。
むろん、絵だけが記憶されているのではあるまい。発病の恐怖こそ昨日の如くであるかもしれない。さまざまな言葉も、摘出できない弾丸のように刺さっているかもしれない。
・出来上がった画をはさんで一対一で対話すると、病識の有無だけでなく、もっと具体的なことを楽に伝えることができる。たとえば、回復期に「鳥」の絵と「魚」の絵を交代に描く患者がいた。「飛ぶ」指向性と「潜る」指向性とがわずかな差で彼の未来への展望を争っていると私は感じた。
「この鳥は羽が生えそろっているかい」「えーと、もう少しかな」「そうね、もう少し羽を温めてみるか」「そうですね」「うん、それでも遅くないと思う」というような対話は、退院-社会復帰に関する押し問答よりも、私も楽であるが、患者も楽だろう。それは、ふくらみのある音調の会話で語られたからでもあるが、そのふくらみはこういう比喩の翼に乗ると患者の心にも私の心にも伝わりやすい。その時を思い出すと、今でも胸のひろがる思いがする。
・九年目に彼は病院に私を訪ねてきた。二人は秋天の下で薄の穂のそよぐ川原に腰を下ろした。彼は「こういうところにいると自分の悩みもはかないものに思えます」と言ったが、帰り道には、やって来た屑鉄を積んだバイクに足をさしのべて転覆させようとし、「自分が屑鉄だといわんとしたのだ」と言った。
秋の昼過ぎの一日がすべてをくつがえすことはない。しかし、サリヴァンが、たとえ過ぎ去ったことでも一度経験したことは患者から消えはしないといっていることにはうなずくところがあった。
・緩やかに経過して一見変わらないようにみえる統合失調症患者の経過を年表にしてみると、小さな改善の芽の後に、必ずそれを打ち消す方向の動きがある。しばしば目立たない動きである。
「ある系に変化が起こったならば、その系には必ず変化を打ち消す方向の力が働く」とは気体について高校で習ったことである。当時の私は「では系は変化しないではありませんか」と問うた。「それはね、きみ、力の作用点が違うから、系は変わるのだよ」。
おそらく、もっとも変化しない患者とは、作用と反作用の作用点が同じ患者であろう。妄想を訂正しようと雄弁をふるっても変わらないのは一般に同じ作用点に働きかけているためかもしれない。どこであるか、わからないにしても。
・フィードバックは、作用の結果を次に準備しつつある作用に入力するのであるから、必然的に「時遅れ」的である。
気体のような単純な系でなく、ホメオスタシスという複雑な生態系であっても、さらに複雑な対人関係でも、フィードバックは万能ではない。
実際、微かな徴候あるいは予想から行動を準備することが必要なのは、蝶のごとく舞い、蜂のように刺すモハメド・アリのビデオをゆっくり回してみれば分かることである。
・画を描くという行為には、フィードバックもフィードフォワード(雪崩のように、動きの影響が更に増幅する方向に向かうこと)もあり、両者が実に巧妙に組み合わされて、一つの時間的・空間的構築物となっている。そして作用点と反作用点が異なるということによって、系は、この両者とは別の、一つの高い次元において動くのである。
さらに兆候的なものも現れる。いちど不整合な絵で崖がテーマなので「何かこのごろ特別なことを考えていないか」ときくと「妹を殺そうかと思っている」と語り、絵のおかげで事なきを得たことがある。
・色彩分割画では市松模様(分散パターン)か英国の旗の図柄(集中パターン)に分かれる。
経験的に前者は安定期であって、強力な治療努力もその時には無効であることが多く、軽く支持して現状維持を目標としていると、ゆるやかな改善がボーナスとして起こることがある。
後者は、変化期であって、よい芽とわるい芽とが共存していると仮定して患者の言動をみると、なるほどと思うことが多い。
・外傷性の夢は、外傷自体を反復した夢を見ることが多く、時間が経過してもその加工はごく僅かで、しかも外傷との関係がはっきりとわかる。そのように外傷性障碍の絵画は統合失調症のような変化をしない。変化の開始までには長い時間を要するが、変化が始まれば、それは彼ら/彼女らが過去に生きなくなったかなり確実な証拠である。
・面接は、自然に生活中心となった(1回1~2時間のゆとりのある面接の話)。生活史全体の流れを上り下りしながら自然に語り合った。患者の食物の好みや好きな季節や趣味、あるいはひいきのスポーツチームまでを知った。それはほとんどロールシャッハ・テストなみに患者の人柄を教えた。私はオランダの精神科医リュムケの「深層心理学だけでなく、浅層心理学も重要だ」という提言を思い合わせた。
・H・S・サリヴァンは言語的精神療法というものはなく、あるのは音声的精神療法だけであるといっている。この主張の紹介が神田橋條治氏の足を一時期、芸術療法学会に運ばせた。氏は「言葉で絵画療法をしてみせる」と言っておられたという。
・絵ではウソはつけない。了解可能と了解不能との間の線引きもできない。絵画には妄想と非妄想との区別がない。夢に妄想は出てこないのと似ている。これは治療の場ではたいへん楽なことであった。
妄想は言語に関したものだとは宮本先生の主張の一つであった。心残りなのは、絵画療法はどうかと水を向けなかった患者の予後が、高い水準であってもいささか不安定なことである。その共通点は、言語表現が巧みな人たちである。「絵は苦手です」としり込みする場合に私は「治療のためには少しは苦手なことをするのもよいかも」と語っていたが、この言葉の中には私が意識していなかった真実があると思う。得意なもので治るなら治療者は要らない。得手なものは防衛に使われてきたものだったかもしれないのである。
・異常現象の方が人目につき、それが精神科医のもとに患者を導く。何科であれ、医師に語るべきは不具合であって、決して健康な面や好調の時期ではない。これが社会通念である。その結果かどうか、回復を語る語彙も表現も数少なく漠然としている。
ところで、京大のウイルス研究所病理学・天野重安教授から私の在籍当時、「ナカイ君、発病の病理と回復の病理は違うのだよ」と告げられたことがあった。この記憶は私には天啓であった。
・リラックスした関与的観察を行うのに良い一般的方法は、模写である。カルテに描き、色まで塗ることもある。模写は、ただ眺めただけでは理解できなかった絵の部分の秘めている意味、あるいは部分が全体に占める位置の意味などが実によくつかめるようにしてくれる。
・言語的アプローチの特徴は次の五点である。
①語りかけの相手を意識の中心に据えなければならない。
②導入に社交的レベルの対応が必要である。
③相手の心理への探り合いが起こりがちである。その結果、双方が相手への気遣いの塊になりがちである。
④語りの主導権は治療者に傾く。
⑤相手との心理的距離が測りがたい。
・言語側から非言語側に向かって伸びるアプローチがある。
それは、言語に属するが書きえないものである。それは、音調、抑揚、声の大小、高低、太細、清濁、寒暖、表裏、穏やかさ対けたたましさ、さらにはもっと繊細なキメである。また、声に伴うジェスチュア、顔の表情である。文法にもとづく狭義の言語を「言語の骨格」とすると、これらは「言語の肉体」である。
…画や粘土でこれに相当するものはタッチや塗り方の違いである。私の経過観察の経験では言語は表面的な変化を過大評価させがちである。
・そこから精神医学にもっていったもの(著者はウイルス学専攻だった)のなかで一番役に立ったのは、科学的に調べるのに適しているかどうかの判断です。適していないものは百年経っても実験を組むことはできない。この区別の仕方です。それで、いかに精神医学が遅れているかという一般論に悩まされなかったのが私の幸運だったと思います。
・ジョージ・シャラーという類人猿学者がいて、彼がゴリラと出会う話を本で読みました。…シャラーという人はひとりで森に入ります。するとゴリラにはさっぱり出会えないけれども、ゴリラのいた痕跡は便とか何かいっぱいあります。だからゴリラはこの森にいるに違いない。実際、シャラーが森のなかにいると四方八方からの視線を感じるのです。
それで、これは自分が過剰に人間でありすぎるからだ、森の一部になったらゴリラは出てくるんじゃないかと思って、森のなかにずっと立っていたんですね。そうして森の一部になりかけてきたかなと思う頃、ちらちらとゴリラが出てきて、結局最後はゴリラと一緒に壮大な夕日を眺めたりゴリラと背中を合わせて昼寝をするところまでいくわけです。
…当時の精神科病棟は閉鎖的で独特な匂いがして長くはいたくないものでしたが、私はシャラーの話を知ってから、まあその一部になったらいいだろうと思ったわけです。
…それから私の治療方法があまり自分を出さないものになり、窓を開け放ってそこに風が吹き込んでいるけれど誰もいない、という感じに近づいたの時のほうが面接がうまくいくことに、少しずつ気づいていくわけです。そのきっかけは、シャラーの昔々の本に始まることでした。
・せっかく舌を診るのである。まず、十分突き出せるかどうか。ふるえや舌こね運動はあるか。左右への触れはどうか。偏りの例が意外に多い。慢性患者で舌の正常なのはないぐらいである。
舌の実質というと、ほとんどが筋肉だが、これが委縮している。舌が小さい。あるいは平べったい。筋肉が弾力性を失っていて、歯の跡がくっきりと付いている。さらに筋肉が断裂していて、縦に、あるいは横に深い断層が走っていることも少なくない。
苔を診る。苔とは、糸状乳頭とその上にくっついている細胞や菌とその死骸や老廃産物である。生活臨床でいう能動型の、社会復帰段階がむつかしい慢性患者の舌が中医学的にはいちばん異常である。舌の実質が痩せているのに苔がべっとりと厚く、その下の毛細血管も真っ赤に充血している。資源が枯渇しかけているのに、前線では盛んに戦闘が行われ、補給も盛んであるという状態にたとえることができるだろうか。
糸状乳頭が長いということは、細胞の代謝が下がっていることを示唆する。舌苔が厚く褐色あるいは黒色なのは、口腔内部の自浄作用が円滑でないことを示唆していよう。
この厚い舌苔が取れることがあるが、その跡には、糸状乳頭の密度が下がっていたり、切り株のように先端がなくなっていたり、時にはまったくなくなって、いわゆる鏡舌になっていたりする。そういう患者は生命水準でも何かと闘い、力尽きてなおその闘いの姿勢を崩せずにいるのではないか。
・妄想や幻覚についても、私は時間や空間的限定を試みるけれども、これらを「自我に再統合する」という大それた課題を自分にも患者にも課さない。自我どころか、夢にさえ再統合できないからこそ、妄想や幻覚なのであろう。
これに対する姿勢が変わることは時に期待できるけれども、意識というものの逆説性のために、注意を向ければ向けるほど固着化し、重視すればするほど肥大するという傾向がある。カサブタのように要らなくなって脱落するのが、実現可能で、いちばん望ましいことではないだろうか。
・妄想を標的としないということは、また同じ話か、うるさいということと違う。焦点をもう少し奥に当てて聞くという感じなのだが、どういえばよいだろうか。音調がフラットでない妄想は身を入れて聞くことが多い。
たとえば、田中角栄から何億円貰ったという類の妄想にまじって、一人で家にいる時に「不良」が女を家に連れ込んで「悪いこと」をするのです、という話がこれに混じればこれははっとする。生活歴を聞いているからなのだが、父が母と離婚してから女性を連れ込んで、それを子どもが目撃し記憶しているという例も何度が経験した。
小学生以降だと、抜毛症など心身症になるのだが、三歳から五歳ぐらいだと、さまざまな父親が一つの父親に統合されかけているところであり、そういうことに及ぶ男が、父親の外見的特徴を持っているとしても、あの親しみをもって接してくる父親と同一人物とは思えなくても不思議ではない。
もっとも、こういう妄想がこの時にできて思春期に孵化するのを待っているとは思わない。ぼんやり不思議に思っていることが、思春期に結晶することのほうが多いだろう。神話は現場では作られないものだ。
…しかし、こういう話を中年の男性から聞いても、私の考えを解釈として返す気にならない。遥かな昔、とうてい呼び返せないことではないか。
私はやるせないため息をつく。多少意味があるとしたら、このため息である。この世には呼び返せないものもたくさんあるということだ。
・次に「機会」「タイミング」の重視である。これは全然神秘主義ではない。天文学でさえ観測のいい機会とそうでないときとがある。まして人間の生活である。患者の絵をみていても、まったく動かない時と、みるみる動くときとの差が著しい。
・患者の改善に自尊心を置くことを、かつてフリーダ・フロム・ライヒマンが戒めている。患者がよくなれば自尊心が上がり、悪化すれば下がるようでは、自尊心は株価のように絶えず上下するであろう。また、たとえ自尊心維持の手段であっても、患者(カントのいったように一般に人間)を目的でなく手段とするのはよろしくなかろう。
…私の仕事にあたっての士気の維持は、若い同僚の存在によるところが大であったと、その人々から離れた今、改めて思う。
・私は、長期的には、淘汰によって精神科の現場が改善することしか現実性がないと思っている。精神病院の改善は一人の人間ではできない。二宮尊徳のいうように、改革は四割の賛成者では潰されるが、六割の支持者があれば、他は大勢になびく。それまで待てとは改革のリアリストの言であると私は思う。
・精神科医の眼前から、よくなった患者はいつの間にか消え、いつまでもよくならない患者が残る。これは当然の理であり、またよくならない患者に注意を集中するのは当然のことであるが、それは無意識に一般化されやすい(患者が治ることに悲観的になる)。
私自身、この傾向とたたかい、修正しつづけてきたのである。私の周囲で精神病患者だった人たちの予後が一般的によく、また、私が大学で習った教授のうち三名が統合失調症を経過していたということを、私は何度も思い浮かべた。また、外科医の担当患者がみな死ななければ、外科医はさぞ悲観主義的になるだろうな、ということも考えた。
・われわれは自分がunique one(世界の中でただ一つ)であると同時にone of them(大勢の中の一人)であることを「知って」いる。
通常は前者のほうが後で、これを「唯我論的自己の発見」とし十歳前後に多いとする。後者のほうが先で、通常、「こころの理論」すなわち自分以外の人間には自分と相似たこころ(知情意)のあることの発見といわれている。だから、カトリックの新トマス学派などは「自己は他者からの贈物である」というのであろう。
この二つを論理的に統合することはできない。論理的とは言語的表現によってということである。つまり、この双方は論理的に一方から他方を導き出せるものではなく、言語的に関係を表現できない。
…こういう発見は世間の側、すなわち、家族や主治医に歓迎されがちである。しかし、この発見は危機でもある。言語的陳述によって証明できないことは妄想と同じである。
・「エウレカ体験」は危機なのである。先の症例一の少女は太陽まで思いめぐらして家族に舞い戻る。
(統合失調寛解後、成人式の案内を見たときに、団体、日本、世界には秩序があり、太陽も東から上って西に沈む、母には母の、妹には妹の立場がある。自分はあまりにも社会秩序を知らなかった、とばーっと目が覚めるような思いがし、その後滅裂思考、幻聴などで再入院した)
これは突然の、気が遠くなるような超限的な「視野拡大」である。精神健康の一つの条件に、何かに気づいた時、それをすぐに宇宙大に広げて考えないということがあるかもしれない。
・土居:「“わかる”と“わからない”」という題で、ぼくは退官記念の講義をしたけれども、ぼくの思考のなかでは、いつでも、何がわからないかということがかなり自覚されて思考しているわけですね。多くの思想家は、たいていシステムのなかで全てがわかるわけでしょう?そこは彼らとぼくはちがうね。詳細をみるコメント0件をすべて表示
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中井久夫の作品





