- Amazon.co.jp ・本 (608ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622077930
作品紹介・あらすじ
ホロコーストはどう語られ、記憶されるべきか。人類史上最悪のこの出来事は歴史学、文学、哲学を一変させ、その応答はいまも続く。生き残った人の証言、ホロコーストを題材にしたフィクション、歴史修正主義、哲学。それらを「読む」とは、どのようなことだろうか。レーヴィ、ヴィーゼル、レヴィナス、デリダ、アガンベン等、膨大なホロコースト表象を網羅して鮮やかに解読、直接体験していない大量死の記憶をいかに継承するかを問う。
感想・レビュー・書評
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第一部 文学
第二部 歴史学
第三部 哲学詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
エリ・ヴィーゼルはこう言っている。「トレウリンカに関する小説なるものは、トレブリンカに関するものではないか、小説ではないか、そのどちらかだ」。またアドルノは「犠牲者たちから芸術作品が作り出され、彼らを殺害した世界に餌として投げ与えられる」という事態に絶望している。にもかかわらず、ホロコースト・フィクションなるものがあってよいものか否かという論争は、未だ決着がついていない。このジャンルに属する作品が存在し、そのような本が読まれ、評され、教えられ云々、というのが現状だ。
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ロバート・イーグルストン『ホロコーストとポストモダン 歴史・文学・哲学はどう応答したか』みすず書房、読了。アドルノを引くまでもなくホロコーストは歴史・文学・哲学」を一変させた。その証言やテクストと論争、それをどのように「読む」のか。本書は、ホロコーストに対する膨大な応答を分析、その継承の意義を問う。
主として取り上げるのは、S・フリートレンダー、P・レヴィ、E・ヴィーゼル、レヴィナス、デリダ、アガンベン等々。歴史の消費は記憶を定型化させてしまう(把握の形而上学)。それに抗うのがポストモダニズムだと著者は言う。
歴史的事件における「同一化」と「差異化」。「体験」の「追体験」がそもそも可能なのか。全体性への回収を俊敏に退けることによってこそ継承は可能になるのではないか。それが「読む」ことだ(単独的なものの普遍性を思考すること・デリダ)。
ホロコーストを単純に暴力と同定することは不可能だ。そこに多様なリアリティが存在する。そしてその出来事を考えることが思想の役割である。600頁を超える本書はその一つの見本であり、読み手は西洋哲学の持つ深い基盤に圧倒されるであろう。
本書を読み終えて実感するのは、歴史的事象の是非評価以前に、ホロコースト(そしてその消費の政治性の問題もあるがひとまず措くが)は思想を生業とするものにとっては避けては通れぬ課題なのである。翻って日本思想界はどうか。暗澹とする。
日本においてポストモダンとは「クールでかっこいい」ケセラセラの相対主義。真剣に向き合うことへの促しこそポストモダンであるとすれば、それは、対極の受容であるし、歪曲された「消費」に他ならない。
現代日本思想史においてもその受容は変わりない。先の戦争における事象と真っ正面から格闘した思想家はどれだけいるのだろうか。数少ないエッジを除き、皆無と言って良い。植民地支配と戦争犯罪。軽率な論評ばかりだから、シンゾーやゼロが受ける。
著者はホロコーストや戦争犯罪が暴力云々以前に、そのの否定こそ、歴史というディスクール以前の暴力だと痛烈に指摘する。否定論の批判にこそポストモダニズムの歴史・文学・哲学は必要なのである、と。
朝鮮半島と台湾に対する植民地支配、そして帝国日本の戦争。情緒的な肯定論も用意された反対論もその実相から遠のいていく。時空間を隔てた我々がそれを「読む」とは何か。界の体たらくを批判する前に、課題を明確にしてくれた一書。