- Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622079088
作品紹介・あらすじ
二百年前にブラジルから西アフリカに渡り奴隷商人となった男の数奇な生涯と、現代に続く彼の子孫の実態を描いた、震えるような傑作。ヘルツォーク監督の映画『コブラ・ヴェルデ』の原作としても知られる伝説的なフィクション。ダホメー王国(現在のベナン共和国)の実在人物デ・ソウザに題材をとって、大西洋の両岸、百年の時間を自在に往還しつつ生き生きと語る。現地を悉知した旅する作家による新訳で、読者の期待に応える。
感想・レビュー・書評
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かつて『ウィダの総督』というタイトルで訳されていたブルース・チャトウィンの数少ないフィクションの新訳である。サザビーズでも指折りの目利きとして知られながら、世界各地を旅して歩き、現地での見聞や蒐集した資料を駆使して、それまで誰も試みたことのない斬新なジャンルを創出したチャトウィン。ありきたりの紀行では満足できない作家的気質と天賦の才能が編み出した手法はノンフィクション・ノベルと呼ばれたりもしたが、いかに史実に基づいていようが、その淡々とした叙述が小説よりノンフィクションを思わせようが、『ウィダーの副王』は紛れもない小説である。
西アフリカギニア湾岸のベナン共和国はかつてダホメー王国と呼ばれ、奴隷売買が禁じられるまで、各国に奴隷を輸送する基地として繁栄を誇っていた。首都アボメーは内陸高地にあるため、奴隷を運び出す港は海沿いのウィダーに置かれていた。序文のなかでチャトウィンは執筆に至る経過を簡単に叙している。それによれば、作者は二度ダホメーを訪れている。再訪の目的はブラジル出身の白人奴隷商人フランシスコ・フェリクス・デ・ソウザの生涯について材料を集めるためだった。序文に簡潔に記されたデ・ソウザの数奇極まる生涯は小説中のドン・フランシスコのそれにそのまま重なっている。まばらな資料の間隙を埋めるため、作家は空想をもってそれに代えた。名前を変えたのはそのためである。
小説はドン・フランシスコことフランシスコ・マノエル・ダ・シルヴァ没後百十七年目に開かれたウィダーにおける故人の鎮魂ミサと追悼の宴の紹介から始まる。かつては偉容を誇った大聖堂も王国がベナン人民共和国に変わってからはさすがに落剥の色が濃い。西アフリカ各地からやってきた大人数の一団は屋敷に場所を移す。豪華なブラジル風晩餐の途中に死者の祭列が闖入し、山羊の首が切り落とされ、その血が死者のベッドや墓、祭壇の上に撒き散らされる。カトリックのミサとブードゥー教の祭儀の宗教混淆(サンクレティスム)である。宴席ではドン・フランシスコの莫大な財産の行方が話題の的だ。ラジオから大統領の緊急演説が聞こえているが、聞く者とてない。
第二章は宴席の向こうで死を迎えようとしているドン・フランシスコの愛娘エウジェニア・シルヴァの悲劇的な一生がまるで一篇の短篇小説のように挿入される。そのなかには故人の息子と孫のこれもまた悲劇としか言いようのない死の顛末が入れ子細工のように象嵌されている。第一、二章はまるまる一族の繁栄の陰画、つまりかつての栄耀栄華の痕跡であり、滲みの披露に費やされる。唯一人の生き証人エウジェニアが死んだ今となってはドン・フランシスコの生涯はいまや知る人もない。混沌そのものといえる末裔たちの乱痴気騒ぎと娘や息子の不幸な生涯の向こうに透けて見えるドン・フランシスコの生涯の物語とは。
第三章から第五章までが、ブラジル生まれのマノエル少年が単身アフリカに渡り、ダホメー王の生涯の友となり、ウィダーの副王に任ぜられ、ドン・フランシスコという王にだけ許される呼称で呼ばれるようになるまでの人生を描く。早くに両親に死に別れ、旱魃の飢餓にあえぎ、子どものうちから他人の中で独り生きていく術を身につけざるを得なかったマノエルは勇気とともに酷薄さを身に帯びた少年だった。その勇気が、誰も行きたがらないアフリカ行きを志願させ、狂気のダホメー王に一目置かせることとなる。
全滅した要塞を立て直し、奴隷貿易を再開させるまでの活躍は痛快なのだが、マノエルには人に好かれる才能と共に、人をたやすく信じてしまう癖も備わっていた。王によって囚われインディゴの入った樽に全身漬けられたり、轡で口に栓をされたり、アフリカへ行くきっかけとなった友人にも好いようにあしらわれたり、と人生の折り返し点を過ぎた辺りからは苦難の連続。さしもの剛毅なドン・フランシスコも、ブラジルへの郷愁からは自由になれない。王との契約に縛られ帰郷もかなわない我が身に代えて二人の娘を故国に送るのだが、娘の末路は哀れなものだ。
領地でもなければ、奴隷の確保でもない、ただただ敵の首を切ることだけが目的の戦争、頭蓋骨で部屋を飾る王、女戦士の軍団、絶えざる毒殺の恐怖といった想像を絶した驚異的な世界は、ガルシア=マルケスをはじめとするラテン・アメリカ文学を思わせるが、冷静沈着な記述スタイルから窺えるのは魔術的リアリズムというよりは古典的様式美である。チャトウィンの筆は、人生の最も輝いている時も惨めで救いがたい時も、何ら変化することなくただ事実を淡々と述べてゆく。その筆致は時に酷薄非情とさえ思えるほど。しかし、扇情的な叙述もお涙頂戴的な泣き言もない「述べて作らず」といった文章は、読むほどに故郷喪失者の筆舌に尽くしがたい苦衷を能弁に語って止むことがない。
小説は最終章で長い回想から覚め、現実世界に戻る。しかし、その世界で今行われようとしていることが過去の王国で行われた事跡の繰り返しに過ぎないことは誰の目にも明らかだ。永劫回帰。すべてはくり返す。人間のやることには進歩も成長もない。ブルース・チャトウィンのアイロニカルな視線が見据えた渾身のラストに戦慄が走る。旦敬介の訳は読みやすく雄渾。チャトウィンは好い訳者を得た。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
私にチャトウィンの文体について述べる学は無いが、この訳でなかったら、ここまで魅了されなかったと思う。まず最初に目を見張った表現は13ページ。創始者の鎮魂のミサに出席している、樹木の葉やライオンや軍人独裁者の肖像などがプリントされた木綿生地を身につけた末裔の女性たちが、クレドの歌で(しぶしぶ)立ち上がった場面を「文字やライオンや枝葉や軍人独裁者が衣擦れとともに再構成された。」との描写。
次いで21ページ。「アラビア文字の華麗な飾り書きのように見えたものは、平底の小舟で家路を急ぐカヌー乗りの男たちだった。」印象深い箇所は枚挙に遑がない。
気分の悪くなる場面のほうが多く、生い立ちが不運続きだったとはいえ、主人公は十分罪深い人間なのだが、母に抱きしめられながら家鴨の群れを見つめた記憶、自分を終生裏切らなかったタパリーカを侮蔑した英国副領事を許さなかったこと、ドナ・ルシアーナとの相互の慈愛に、わずかに良心を見出せる。
現代、国家警察隊のパトリス中佐の、ベゴニアとゴキブリを踏みつぶす行為は、きっと何かを象徴しているのだろう。
帰還は叶わぬと思いながら最後まで望郷し、結局「キリスト教的な葬儀になるはずはなかった」最後を迎えた男の一生に、数日トランス状態となった読書だった。 -
奴隷商人の男とその家族の物語は、奴隷として扱われる人々の印象が薄く、それは結果的に人間がただの商品と化していた悲劇を描くことに繋がっている気がした。もしかすると、描かれた主人公の人生が僕が薄いと感じる部分を補完してたのかもしれない。
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チャトウィンの数少ない著作をコンプリート。本書の新訳、「黒が丘の上で」、「ウッツ男爵」など近年出版が相次ぎありがたいかぎり。
ところで数少ないが、どれもずいぶん違う。「これもチャトウィンなのか」と意外に思いながら読んだ。ベナンの奴隷貿易商を題材にしており、一族の数奇な運命やアフリカ土着の風俗や風景の異様で濃厚な描写は、多く指摘されているようにG・マルケスの「100年の孤独」のようだ。200ページ程度なのだが、ずいぶん長い小説を読んでいるようだった。「ウッツ男爵」の美術コレクターとはがらりと変わるが、前書きによるとチャトウィンは実際にベナンに行きモデルとなった人物について取材しているといい、テーマの掘り下げかたの深さや扱いのうまさは共通している。文章はチャトウィンらしく、簡潔にて端正。
ベナンに詳しい翻訳者が詳細な後書きを付けているのがとても参考になる。