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Amazon.co.jp ・本 (320ページ) / ISBN・EAN: 9784622079699
感想・レビュー・書評
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アラブ文学者である著者が、アラブの世界を文学の観点から見渡し、小説を書くということ、小説を読むということの意味を問い直した本。岡真理の文章は終始切れ味が鋭く、言葉の持つ力をひしひしと感じた。これほど凛とした文章で、美しく、力強く思いを言語化することができるのか。本に宿る祈りが、そのまま結晶化したような、そのような訴求力のある本だった。
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アラブ文学を縦横に批評し、暴力、差別、ジェンダー、シオニズムなどかの地を取り巻く問題を照らす。
苛烈な環境下では文学が生まれにくい(生まれない)という指摘はまさにその通りだろう。
文学に問題を解決する力はないけれど、そこに問題があることを世界に知らしめる力がある。
声なき声を伝える力がある。声なき声それは祈りに似ている。 -
何か月もかかって、ようやく読み終わった。一章一章に、それだけの重みがあった。
私は、文学がどういう状況なら生まれえるのかを、真剣に考えて来なかったという気がしている。自分自身が「書く」人間で、時折病気によって中断せざるを得ないつらさを抱えているにもかかわらず、さまざまの本を読んできたにかかわらず、である。また、「書かれるもの」に対し、『地べたに座り、ことばを挟まずただその言うことを聞く』ということもしてこなかった。私にとってずっと、文学/ペンは、暴力に立ち向かう武器だったように思うーーつまり、暴力に対抗する暴力でしかなかった、ということだ。
ただの暴力は、ひとを、不可逆に捻じ曲げてしまう。それも私はこの本を読んでからやっとはっとした……。ひとがなに人にもなりうる世界を、理想として抱くことができるということに、その考え方を頭の中で可視化してもらったことをありがたく思った。
祈りとしての文学。ひとを自分に引き付けて考えることを、もうすこし学美宅感じる。 -
以下読書メモ
『アラブ、祈りとしての文学』 岡真理
1.小説、この無能なものたち
文学は無力か? Cfサルトル
2.数に抗して
膨大な死者の数に居直ることは、他者の命の価値を否定することと同義である
サラ・ロイ「染料とは他者の人間性の否定であり、人間の尊厳の剥奪であり、この点においてイスラエル兵もナチスのドイツ兵も変わりはない」
3.イメージ、それでもなお←ホロコーストとナクバの、この「イメージ」をめぐる圧倒的な差異
ナクバの「イメージ」の不在
4.ナクバの記憶
カナファー二―『悲しいオレンジの実る土地』
ナクバから20年という歳月を経て書かれた「まだ幼かったあの日」においては、語りの視線は少年のものではなく、少年をまなざすものになっている
→このまなざしは少年と同じくらい非力である
何もなしえぬままに、ただカタストロフを見つめることしかできない、ただ祈ることしかできないそのまなざしは、ベンヤミンの歴史の天使のそれを髣髴とさせる
「彼は顔を過去の方に向けている。私たちの目には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただ一つ、破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫の上に瓦礫を重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。」
天使のまなざし ただ凝視し、祈ることしかできなくとも、「否」の意志を引き継ぐ
5.異郷(ゴルバ)と幻影(ファンタズム)
ガーダ・サンマーン『四角い月』「金属製の鍔」
異邦人≒幽霊? パリにおけるゴルバが幽霊とともに幽霊のように生きることを可能にする
被抑圧者におけるレイシズムの複雑な交差
「猫の首を刎ねる」死のイメージと結びつく結婚
故国の伝統的価値観を脱ぎ捨てることのできた女性とできなかった男性の対比
生と死、伝統と順応とのあいだで宙吊り状態にある
「書きとめよ、私はアラブ女ではない」における主体の仮託
生きている者にも自分の幽霊がある (ブローティガンのみた廃屋の子どもたち?)
6.ポストコロニアル・モンスター
ユースフ・イドリース『黒い警官』
「殴打という、人間の身体に直接加えられる暴力の結果、人間が人間としてこの世界で生きていく上での「安寧」の喪失を経験したシャウキーは、二度と再びもとの人間に戻ることができなかった」
7.背教の書物
〇「肉慾の家」におけるコーラン読みと娘たちの禁忌の共謀関係
何がハラームであるかを、社会的規範においてではなく、人間が「生きる」という」絶対的な地平において捉えたのだった
乖離した形骸化した規範にしたがい、禁忌を形式的にしか問わない欺瞞的な聖職者たちの象徴
〇イドリース『アル・ハラーム』においてアジーザが自分を犯した地主の息子に覚えた欲望
この一瞬には、生の充足を渇望させる上、あるまじきものとしての「貧困」という絶対的禁忌が凝縮して描かれている
この「内面」にアジーザは罪を認める→それはアジーザが「神」を内面化しているから
「倫理的価値観が一方では相対化されながら、人間の生の真実を見ない形骸化した規範が絶対的なものとされて人が裁かれる社会の矛盾と欺瞞」
8.大地に秘められたもの
引きつづきアジーザの話。
「革命を真に成就せしめた力とは、知識人革命家が紡ぐ政治的言説とはまったく無縁なところで、大地に這いつくばって背中に鞭を喰らいながら生きる、もっとも収奪された者たちの「否」の意志のなかにある」
イドリースはエジプトの大地に秘められたもの言わぬ無産労働者たちの存在の深奥に宿るまったき生への希求と反抗の意志を、サバルタン女の身体という性的欲望に結晶化させて書いた。←しかし、これさえも男性知識人作家によるサバルタン女のセクシュアリティの文学的搾取であることを忘れてはならない
9コンスタンティーヌ、あるいは恋する虜(ジュネの小説)
アフラーム・モスタガーネミー『肉体の記憶』(アルジェリア人女性によって初めてアラビア語で書かれた小説)
アフラームへの想いをこめてコンスタンティーヌの吊り橋を描くハーレド
「恋愛とは、現実に起きたこと以上に、人間の想像力のなかで体験される出来事ではないか」
「過去と現在、夢と現実、故郷と異郷とを架橋する橋、彼を歓喜と苦悩、エロスとタナトスのはざまに宙吊りにする橋」
起きないことはたしかに想像され、そして想像されることによって、私たちのなかでたしかに生きられている。恋愛がそうであるように、甘美であると同時に痛みに満ちた記憶として。ありえたかもしれない別の未来の可能性に開かれた記憶として、起こらなかったけれども、起こりえたかもしれない過去を想起し顕彰することで、アルジェリアの「現在」を救済すること。そこに、ベンヤミンの「歴史の概念について」の反響を聴き取ることは可能
10.アッラーとチョコレート
フェミニスト的でもイスラーム的でもない抵抗・率直な生のあり方
エジプトの女性作家「遠景のミナレット」
夫の突然の死を前にしても冷静でいることが何も不思議ではない彼女の孤独な生
「景色」ではなく「眺め」 五感を通じて表現される孤独
ムスリム女性自身のアイデンティティにおけるイスラーム
イスラームにおいて夫婦間の性愛は、男女の情愛を深める大切なコミュニケーションであるのに、それを一顧だにしない夫こそ神の教えに反する
再帰的に自分を問うこと 応答責任 一貫性なき中でのしたたかさ
「家父長制のもとで抑圧されるエジプト女性の物語が、私たちのまなざしのなかでムスリム女性を、私たちとは本質的に異なる、異様な抑圧を被る存在であるかのように他者化し、さらにはイスラームをも他者化するようなものとして読まれがち」
11.越境の夢
『豊穣な記憶』
名家出身で自活するサハルと家父長主義的な伝統的価値観を遵守するルミヤ
サハルの客観的な語りとルミヤの二人称的な語り
それを「抵抗」として名指したり分節したりすることなく、ただそれを生きている者たちによってこそ、実は根源的な抵抗が生きられている
サハル『ひまわり』におけるサボテン かつてパレスチナ人の村があったことの証左
知識人として構築された自分が、体制の権威を分有した世界から、サバルタンの言葉が聴きとれる世界に越境してゆく
12.記憶のアラベスク
イスラエル生まれのパレスチナ人作家アントン・シャンマースの自伝的小説『アラベスク』単一ではなく複数の声により語り継がれる物語 共時的 縦糸と横糸のように
アラビア語ではなくヘブライ語で私的で個人的な物語が描かれる
複数性に開かれた物語
13.祖国と裏切り
『アラベスク』で描かれたパレスチナ自身による「裏切り」
Cf 戦後ナチス協力者として裁かれた、カポとして働いたユダヤ人
レバノンの作家ユリヤース・ホーリー『太陽の門』
祖国の至高性とおいう暴力と抑圧から自らを解放するための日常性
14.ネイションの彼岸
『太陽の門』における糸で縫い合わされたパン
人間が「なに人」でもありうるという可能性
15.非国民の共同体
他者のために祈る 文学の役割
グアテマラ内戦における遺骸の転がる濠の底をのぞき込む人々の目
カメラマンの視線は死者のまなざしである
「作家は、頭蓋骨に穿たれた二つの眼窩に湛えられた深い闇からこの世界を幻視し、彼岸と此岸のあわいで、起こらなかったけれども、もしかしたら起こりえたかもしれない未來を夢見続ける死者たちの息づかいに耳を澄ます。」
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2024年12月26日、グラビティの読書の星で「中学生から知りたい パレスチナのこと」を読んでる人が、この本を副読本にと紹介していた。
「岡真里先生のファンなので、朝の読書はこの本❗️今読んでる「アラブ、祈りとしての文学」の副読本としても良き」 -
だから、小説を読む者たちは潜在的に非国民である。
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アラブ文学を通して、文学全般に対してもっと掘り下げた見方ができること、またこれまで読んできた文学(小説)に対して自分の範囲内に留まっていたことを気づかせてくれる素晴らしい本だった。身近に感じる、共感することは決して悪いことではないけれど、感じたあとに、それとは別にもう一歩ふみ込むことの大事さをひしひしと感じた。
文学を丁寧に解説し背景なども含めて紹介してくれていることによって、これまで自分が読んできた海外文学の分からずナアナアにしてきた部分や、だからこそ読んでいて身近に感じたことの解像度が上がり、繋がっていくことでより見えてくるものがあって読んで本当に良かった。また文学(小説)ではなく演劇について語っている部分があり、かなり目からウロコだった。
イスラエル、パレスチナで起きていること。数字に換言することで見えなくなる個人、一人の命の重み。そして文学、物語がそのなかで果たすものとは何なのか。人間として生きるということ、決して蔑ろにしてはいけないこと。強制的に土地を剥奪されること、故郷のこと……。知ってしまうことは背負うことで逃れられなく重く苦しいことだけれど、だからこそ覚悟を持って知ることの大切さを強く思う。
何度もいうけれど本当に読んで良かった。 -
文学とは何のためにあるのか?何の役に立つというのか?を考えたことがある人なら、胸にくる素晴らしい一冊だと思います。
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平成の終わり頃くらいに名著を再読している。こちらは2015年刊行の新装版。
イスラエル&パレスチナ問題になると、サイードのオリエンタリズム論が(未だに)有効になるのは何故だ。
【書誌情報】
著者:岡 真理
Photo:Jean Marc Tingaud
四六判 タテ188mm×ヨコ128mm/320頁
定価 3,240円(本体3,000円)
ISBN 978-4-622-07969-9 C0010
2015年11月25日発行
http://www.msz.co.jp/book/detail/07969.html
【目次】
もくじ [/]
1 小説、この無能なものたち 001
檻の中の生
小さき人々
バルコニーの花、そしてリヴィングのレモネード
祈りとしての文学
註 018
2 数に抗して 019
アーミナの縁結び
数に溺れて
数のシニシズム
「命」の側に
註 037
3 イメージ、それでもなお 041
閉じてゆく世界の中で
ナクバ――大いなる禍い
記憶の非対称性
イメージの不在
メモリサイド――記憶の抹殺
イメージ、それでもなお
註 061
4 ナクバの記憶 063
ラムレの証言
悲しいオレンジの実る土地
まだ幼かったあの日
歴史の天使
オリーヴの種子
註 084
5 異郷と幻影 085
ゴルバ文学
アフリカの魔術師
人間ヨーヨー
私だけの部屋
註 103
6 ポストコロニアル・モンスター 105
あの時代
二匹の野獣
殴打の哲学
ポストコロニアル・モンスター
註 121
7 背教の書物 127
肉の家
アル=ハラーム――真の禁忌
禁忌の書物
註 145
8 大地に秘められたもの 147
エジプト固有の文学
隠喩としてのヒロイン
生への意志
隠喩としてのサバルタン
21世紀のアジーザたち
註 165
9 コンスタンティーヌ、あるいは恋する虜 167
純粋恋愛小説
怒りの秋
砕け散った夢
未来の記憶
起こらなかったけれども、起こりえたかも知れない過去
註 185
10 アッラーとチョコレート 187
ムスリム女性文学の可能性
イスラームを生きる女性たち
女たちの抵抗
共犯する女たちのシスターフッド
註 209
11 越境の夢 211
豊穣な記憶
ひまわり
零度の女
越境の夢
註 229
12 記憶のアラベスク 231
ある一族の物語
物語のポリフォニー
ヘブライ語小説
単一の物語に抗して
註 248
13 祖国と裏切り 249
制裁される女たち協力者[コラボレーター]
ファーカハーニー広場を見下ろすバルコニー
至高の祖国、宿命の愛
裏切りとジェンダー
註 267
14 ネイションの彼岸 269
ナクバとは何か
女たちの経験
占有に抗して
母語という祖国
未来の祖国[ワタン]
註 289
15 非国民の共同体(二〇〇八年 ナクバから六〇年目の五月に) 291
演じるということ
シャティーラの四時間
祈りとしての小説
非在の贖い
想像の共同体
あとがき(二〇〇八年十一月 岡 真理) [309-311]
新装版へのあとがき(二〇一五年十一月 岡 真理) [312-313]
【抜き書き】
・地の文は、二重引用符 “ ”で括った。
・小説引用部分は、二重山括弧《 》で括った。
・註は全括弧[ ]で括り、引用部分の直後に置いた。
・中略は〔……〕で示した。
□p. 29
“毎日十数人の命が奪われるのはパレスチナの日常であって、それが日常であるかぎり、特別の関心は払われない。結局のところ「大量殺戮」を私たちが問題にするのは、数字が喚起するセンセーショナリズムのゆえであって、そこで殺される一人ひとりの人間たちの命ゆえではないということになる。他者の命に対する私たちの感覚は、桁違いの数字という衝撃がなければ痛痒を感じないほど鈍感なものだということだ(さらに言えば、私たちが生きている社会は、暴漢に殺されるいたいけな幼児の死に反応して犯人に死刑を叫んでも、冬を越せずに命を落とす無数の路上生活者にはおそろしく無関心である。〔……〕)。”
□p. 30
“日々の殺人そのものが統計的観点から管理され、「日常」として遂行されているという事実に、殺人がシステマティックかつ日常的に遂行されたホロコーストとの類似性をどうしても感じないわけにはいかない[註11]。同時に、死者数の統制という戦術を裏打ちしている人間に対するシニシズムにも、六〇年前、彼らの父祖たちが体験したホロコーストを思わざるを得ない。
ホロコーストを体験したユダヤ人がなぜパレスチナ人に同じことを繰り返すのか、という問いをよく聞く。〔……〕シオニズムにおいては当初より、パレスチナ人に対してユダヤ人と対等な人間性がそもそも否定されていたのであり、パレスチナ人の人間性の否定のうえに建国されたイスラエルがユダヤ人国家維持のためにパレスチナ人に対して行使する暴力において、パレスチナ人の人間性が顧みられないのは、実はきわめて当然のことなのだ。
だとすれば、先の問いは、ホロコーストというレイシズムによる悲劇の経験を、私たちはいかにして、イスラエルのユダヤ人がパレスチナ人に対するレイシズムを克服する契機となしうるのか、と言い直されるべきかもしれない。”
[註11 現代世界、とりわけ欧米社会においては、イスラエルをナチスになぞらえる言説は反ユダヤ主義のプロパガンダの最たるものとして即座に糾弾されることになる。ほかの社会に関してならば語りうる(サッダーム・フセインやナセルがイスラエル社会で積極的にヒトラーになぞらえられたように、それがアラブ社会であるなら、むしろ語ることが推奨さえされる)ナチスとの類似性も、ことイスラエルに関してはタブーとされる。そうしたタブーが、何を隠蔽し、何に資することになるのか、私たちは考えなければならないだろう。これら社会で「反ユダヤ主義者」のレッテルを貼られることの致命性ゆえイスラエル批判を控える知識人も少なくない。Judith Butler, `No, it's Not Anti-Semitic`, Adam Shatz ed, Prophets Outcast: A Century of Dissident Jewish Writing about Zionism and Israel, Nation Books, 2004. 参照 。]
□pp. 30-32
“ホロコーストはそれを体験した人間たちに何を教えたのか?〔……〕それはかつて起こったのだから、また起こるかもしれない。人間にとって他者の命などどうでもよいのだから。そのことをとりかえしのつかない形で体験してしまった者たちにとって、同じことが二度と繰り返されないためには、人間の命の大切さなどという普遍的命題をおめでたく信じることではなく、それがいかに虚構であるかを肝に銘じることのほうがはるかに現実的と思われたとしてなんの不思議があろう。
世界が関心を示すのは数であって、他者の命に対してはどこ でも無関心であるのなら、600万という巨大な数字が、その巨大さゆえに強調され特権化され、彼らの死者は、ほかの死者たちの死から区別されるだろう。「人間とは決してこのように死んではならないという真理」は彼らだけのものとされ、他者の殺戮は、世界を刺激しないように統計的観点から管理されるだろう。〔……〕「命の大切さ」などと言いながら、この私たち自身がいかに人間一個の命をないがしろにしているかを思い出せば、私たちは果たして彼らのシニシズムを批判できるだろうか。
死者の統計数値から炙り出される彼らのシニシズムは、彼らの振る舞いが、ホロコーストを経験したユダヤ人「にもかかわらず」ではなく、むしろホロコーストを経験したユダヤ人「だからこそ」なのだということを物語っているように思えてならない。シオニズムはナチズム同様、他者に対するレイシズムを分有しているが[12]、イスラエルによるパレスチナ人迫害がホロコーストと決定的に異なるのは、その根底に、世界に対するこのシニシズムがあることだ。少なくともナチスは、世界が事実を知れば、ユダヤ人問題の「最終的解決」は達成不可能になると考えていたのではないか。だからこそ、実態を隠蔽する婉曲語法が編み出され、証拠隠滅が図られたのだと言える。同様に、「私たちは知らなかった」という言葉が、もし戦後ドイツ社会において免罪符としての機能を果たしうるのであるとすれば、それは、その言葉が同時に「知っていれば必ずや反対していた」ということを意味するからである。だが、ほんとうにそうなのか。彼らはほんとうに「知らなかった」のだろうか。そうではないことを犠牲者は知っているのではないか。
パレスチナで起きていることを私たちは知らないわけではない。知ろうと思えばいくらでも知ることができる。〔……〕他者の命に対する私たちの無関心こそが殺人者たちにシニシズムを備給し、彼らが他者を殺すことを正当化し続けるものとして機能しているのである。
だとすれば、パレスチナ人が人間の尊厳を否定され、日々殺されゆくことの「あってはならなさ」を描くとは、このシニシズムに抗して、世界に抗して、人間一個の命の大切さを語ることにほかならない。”
[註12 実際にホロコーストで殺されたヨーロッパ・ユダヤ人は「人種」的にはキリスト教徒のヨーロッパ人と同じ人々であるが、近代ヨーロッパ社会において「ユダヤ人」は、ヨーロッパ人とは人種の異なる、アラブ人などと同じアジア系の「セム人」と見なされた。「反ユダヤ主義」を英語でAnti-Semitism 「反セム主義」と 言うのはそのためである。つまり、反ユダヤ主義は、キリスト教徒と信仰を異にするユダヤ人に対する差別と同時に、アジア人に対する人種差別をも内包している。同様に、パレスチナの地にユダヤ人国家の建設を企図したシオニストのユダヤ人たちは、自らをヨーロッパ人と見なし、パレスチナ先住民を遅れたアジア人と見なす、レイシズムに浸潤された近代ヨーロッパのオリエンタリズムのまなざしを共有していた。]
□pp. 4-6
“〔……〕占領下で若いパレスチナ人の男性であることは潜在的テロリストであることと同義であり、日々、恥辱にまみれることにほかならない。
ジハードにとって生きるとは、ただただ己れの無力を思い知らされるだけの毎日を送ることだ。未来への展望など何ひとつ思い描けない。自らの努力によってこの八方塞がりの情況が好転する望みはどこにもないのだから。外出禁止令がしかれていなくても、フェンスに囲まれた小さな街の囚われの人生であることに変わりはない。25歳の青年が生きるには残酷すぎる、まさに飼い殺しのような人生。ジハードの人生を想像して思った。彼がある日、自爆したとしても、私はちっとも不思議に思わないにちがいないと。祖国解放のために抵抗者となって殉じることは、生きているかぎり彼から奪われている社会的尊敬を手に入れる、唯一残された手立てなのだから。むしろ不思議なのは、このような救いのない情況のなかで、それでもなおジハードが、そしてほかにも無数にいるであろう彼のような青年たちが、自爆を思いとどまっていることのほうだった。
あなたが置かれている情況を考えれば、自爆しても何の不思議もないと思う。いったい何があなたに自爆を思いとどまらせているの? そう率直に訊ねると彼は言った。
「ぼくはテロリズムには反対です。ぼく自身死にたくはないし、人も殺したくない。でも、分かりません。ぼくの友人にも、そう言いながらある日、突然、自爆攻撃をした者がいます。ぼくも同じようにしないとは言い切れません……。でも、ぼくは生きたい。パレスチナ人が正当な権利を回復するという希望がある限り……」。
「希望があるの?」
「希望は……あります」
「いったいどこに? どんな希望があるというの!?」
残酷にも重ねて訊かずにはおれなかった。未来への展望などまったくない、どう考えても救いのないこのような情況のなかで、それでもジハードや、彼のような青年たちに自爆を思いとどまらせているものがあるとしたら、それは何なのか。いかなる力が彼らをこの世界に踏みとどまらせているのか。その力を明らかにすること、それは今、この時代の思想的急務であるように私には思われた。
「どこにどんなとは言えないけど……希望はあると信じています」。
それは決して確信に満ちた口調ではなかった。むしろ、懐疑と苦渋のなかから絞りだされた言葉だった。希望を託したいと思う現実の何事も、理性による吟味に決して耐ええないことを彼自身よく分かっている。しかし、だからこそ、希望はあると信じないなら、あとに残されているのは他者の命を巻き添えに自らの肉体をダイナマイトで木っ端微塵に吹き飛ばすことだけだ。希望とは今日を生き延びる力のことであるとすれば、明日また新しい日が始まるから、新しい別の未来がありうるかもしれないと根拠なく信じることこそが、今日を生きのびるためには、どうしても必要なのではないか。
ジハードに出会い、彼が生きているこの生こそがパレスチナ問題なのだと思った。ジハードが、そして無数にいる彼のような青年たちの生、その一つひとつこそが「パレスチナ問題」であるのだと。”
□pp. 34-35
“〔……〕そして、この、あらゆる死に抗して、人が他者の命に寄せる愛ゆえに、世界はなお善として肯定される。ここに、殺人者たちのシニシズムに対する根源的な「否」が宣言されている。占領に抗して、すべての死に抗して、それでもなお私たちは他者の命の大切さ、世界の美しさを決して手放しはしないのだという宣言。〔……〕「アーミナ」とはアラビア語で「信じる人」を意味する。夫のジャマールは生前、アーミナにこう語った。
《人間とはいつ、自ら敗れ去るか、ねえアーミナ、きみは知っているかい? 人はね、自分が愛するもののことを忘れて、自分のことしか考えなくなったとき、自ら敗れ去るのだよ。たとえ彼にとってその瞬間、大切なものは自分自身をおいてほかにないと彼が思っていたとしてもね。それは本当のところ街をからっぽにしてしまうんだ。人もいなければ木々も、通りも、思い出も、家すらなく、あるのはただ家の壁の影だけ、そんな空っぽな街に……。》
自分と自分たちだけのことしか考えなくなったとき、人間は自ら敗北するのだというその言葉は、パレスチナ人に自分たちと等価の人間性を認めず、自分たちの安全保障しか眼中にないユダヤ人国家の国民たちに対する根源的な批判であるだろう。空っぽな街とは、ホロコーストの犠牲者の末裔を名乗る者たちが生きる、シニシズムに侵された空しい世界の謂いにほかならない。人間の尊厳を否定された自分たちだからこそ、占領に抗して〔……〕世界が善なることを信じ続けること、それが彼らの根源的な抵抗になる。”
□p. 203
“歴史的にはイスラーム世界を植民地化した西洋の帝国列強主義が、イスラーム社会における女性差別をイスラーム文化全般の後進性の証とすることで植民地支配を正当化した。そして近年では、2001年9月11日「同時多発テロ」に見舞われた合州国の「対テロ戦争」において、イスラーム「原理主義」政権とされるターリバーンによる抑圧からアフガン女性を解放するという言説によって、アフガニスタン空爆の正当化が図られた。このように、「イスラームと女性」とは、一文化におけるジェンダーという問題を越えて、現代世界において特殊な政治的負荷を帯びた問題である。”
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