林芙美子放浪記 (大人の本棚)

著者 :
  • みすず書房
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本棚登録 : 44
感想 : 9
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  • Amazon.co.jp ・本 (271ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622080442

作品紹介・あらすじ

私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない-一生に一度しか書けない進行形の"青春の書"、林芙美子『放浪記』改造社版(昭和5年刊)をここにおくる。

感想・レビュー・書評

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  • 私は宿命的に放浪者である。
    私は古里を持たない。

    私の唯一の理想は、女成金になりたい事だった。

    林芙美子の『放浪記』には、改造社版(昭和5年刊)と後に芙美子がかなり手を入れた決定版(新潮文庫版)があるそうです。
    森まゆみさんの巻末エッセイを読むと、この2つの『放浪記』には、かなりの印象の違いがあることがわかります。原『放浪記』は一生に一度しか書けない進行形の「青春の書」。いま流布している『放浪記』は「成功者の自伝」と書かれていました。
    わたしが読んだのは原『放浪記』改造社版です。とにかく芙美子の気迫に圧倒されました。身よりもなにもない東京で、職を転々としながら貧乏生活を送る芙美子。付き合う男は浮気男に暴力男と男運も全くない。お金もない。世知辛い世の中に泣きたくなっては、男にすがりつきたくなる数え切れないほどの夜。それでも芙美子は自分の力で生きていきます。
    何でそんなに頑張れるの?何があなたを突き動かすの?その源にあるのは、何か書きたい、何か読みたい。という狂おしいほどの切実な想いなのだと思います。その芙美子の生き様が、この改造社版『放浪記』には記されているように思いました。
    『放浪記』がベストセラーになったことにより、やっと『放浪記』の世界から脱出する事が出来た芙美子。『放浪記』は芙美子にとっては文学の原点であるはずなのに、その『放浪記』に何故、芙美子は思いっきり書き直し手を加えたのか。『放浪記』は芙美子にとって悪夢のような記憶が多々あったろうと森さんは書かれています。芙美子自身も「放浪記をみるのがつらくて、暫く絶版にしておきました」と話しているようです。
    確かに、この改造社版『放浪記』を読めば、芙美子の叫びが聞こえてくるようでした。お金がほしい。男がほしい。酒に溺れる・・・なるほど品は良くないかもしれません。でもだからこそ生身の芙美子がここにいるようで、彼女が愛おしくて堪らなくなるのです。

  • 森まゆみさん苦心の「原典・改造社版」復活!
    普及している新潮文庫版は後からどんどん手が入れられていてパンチに欠ける。
    やっぱりビンボーなカフェの女給文士のデビュー作ったら、このくらいイキオイがなきゃウソでしょう(笑)。

    読みながら、私はふと、同じ苗字でコピーライターで「○○○○を買っておうちに帰ろう」で一発当てた田舎もん(ごめんね)で、最初信じられないくらい地味な苦労をした反動か、上昇志向がすごく強い女性作家のことを思い出していた。
    芙美子の夫は売れないけど「画家」、林某の夫は「東大卒」。
    芙美子の養子は学習院、林某は高齢出産で子作りのいきさつを夫が書かれ。
    さすがに昔アグネスと論争しただけあって、表舞台には出てきませんが、お子さま。

    林芙美子は私が唯一「新潮社文学アルバム」を持っている作家である。
    亡くなったとき葬儀委員長の川端康成が
    「故人はいろいろありましたが、あと数時間で灰になってしまうのでゆるしてやって下さい云々。」
    というようなことを述べた、激しい女性作家でもあった。
    なにしろ来る仕事全部断らないので、新人はお茶を挽くのである。
    「新人つぶし」と誤解されたとしてもいたしかたない。
    「女流作家」の間口は狭く、文士は基本的に男性中心の時代だったのだ。
    その「女流枠」をゆずらないのだから、敵も多かったろう。

    しかし、私はこの本の「淫売婦と飯屋」で泣かされてしまうのである。(食い意地が張っているから・笑)
    十銭玉いっこだけを握りしめて飯を食いに来る「ドロドロに汚れた」労働者。
    十二銭でごった煮定食を食べる芙美子。
    なんだこれは、ゾラの「居酒屋」じゃないか。
    冒頭の、のヒロイン・ジェルヴェーズの披露宴じゃないか。
    ウサギの丸焼きが出たとき笑いながら「ドブのウサギ(ネコ)じゃないだろうな!」と料理人にからむ極貧の人々。(「居酒屋」に関しては今手元に本がないので間違っているところもあるかもしれないが)

    森光子の「放浪記」で、でんぐりがえりを観ておけばよかったと悔やむ私である。
    (2010/08/14現在、森さんはまだお元気ですが、ドクターストップがかかりました)

  • 「愛情とか肉親とか世間とか夫とか
     脳のくさりかけた私には
     縁遠いやうな気がします。
     叫ぶ勇気もない故
     死にたいと思ってもその元気もない
    (略)
     何とかキセキはあらはれないものか
     何とかどうにか出来ないものか
     私が働いてゐる金はどこへ逃げていくのか!」

    芙美子〜〜〜〜〜
    他人とは思えない…

    一人の女の、すごい生の声!貧困、食欲、恋愛、
    いつもがけっぷちなのに深刻にならない。カラカラしている。


    森まゆみの解説によると、文庫版は改悪されていて、この「改造社版」のほうが良いらしいです。
    比べてみるとたしかに。

  • 芸術家をめざす原初の女のうめきや叫びが叩きつけられたような作品。

  • 放浪記というタイトルから、様々な土地を流れ流れていくんだろうなと昔から思い込んでいたのだけど、割ととどまってるな…?と読みながら思っていたら、職と男を放浪しているといった文章があり、そういうことかー!と一気に納得。
    ふるさとを持たない放浪者、という冒頭の文章がより染み入る。
    内面の放浪なんだなぁ…。
    解説で後年、林芙美子自身が書き直した文章と元々のものを比べてあったが、オリジナルの方が断然魅力的。
    内容はしんどいところも多いが、リズムと若さがぴったり合って、跳ねるような文章が心地好かった。

  • 文庫はずいぶん整えてしまっているのだなあ!
    とあとがきにて
    手元に置くときはこちらの本と文庫版
    両方読みたいなと思いました

  • NHKのテレビドラマで放浪記を見ました。
    林芙美子の青春を書いたと読むこともできる。

    再びNHKで取り上げられ、J ブンガクの7月に放送された。

  • 内容(「BOOK」データベースより)
    私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない―一生に一度しか書けない進行形の“青春の書”、林芙美子『放浪記』改造社版(昭和5年刊)をここにおくる。

    内容(「MARC」データベースより)
    林芙美子の自由な生き方、個性の真骨頂である「放浪記」を、改造社版(昭和5年刊)をテクストに、明治、大正、昭和期の人物エッセイに定評のある森まゆみが、その異同を明らかにする一冊。

  • たくましく、つつましく、底辺で生きる人。
    冒頭の「私は宿命的に放浪者である。
    私は古里を持たない」に集約される人生。

    夢は「女成金」。辛酸をなめても、
    何度でも立ち上がる野太さ。
    悪態、自暴自棄、開き直りなど、
    歯に衣着せぬ、思いのたけ。
    ところどころに、胸を打つ弱音。

    「悪口雑言の中に
    私はいぢらしい程小さくしやがんでゐる」

    「ドクドク流れ落ちる涙と、
    ガスのやうにシユウシユウ抜けて行く、悲しみの氾濫」

    「水つぽい瞳を向けてお話をするのゝ様は、
    歪んだ窓外の漂々としたお月様ばかり……」

    「透徹した青空に、お母さんの情熱が一本の電線となつて、
    早く帰つておいでと呼んでゐる」

    走るように綴る、この改造社版は、
    勢いがある一方で、わかりづらい箇所も。
    成功者の回想録だとしても、
    作家自身が校正を入れ、
    読み手をより意識したであろう、
    新潮文庫版も読んでみたい。

    共感。

    「やつぱり旅はいゝ。
    あの濁つた都会の片隅でへこたれてゐるより、
    こんなにさつぱりした気持になつて、自由にのびのび息を吸へる事は、
    あゝやつぱり生きてゐる事もいゝなと思ふ」

    旅に生きた人。
    人を旅した女性。
    自らを表した作家。

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著者プロフィール

1903(明治36)年生まれ、1951(昭和26)年6月28日没。
詩集『蒼馬を見たり』(南宋書院、1929年)、『放浪記』『続放浪記』(改造社、1930年)など、生前の単行本170冊。

「2021年 『新選 林芙美子童話集 第3巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

林芙美子の作品

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