- Amazon.co.jp ・本 (258ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622080459
作品紹介・あらすじ
小さな町セリイを舞台にした短編集28篇の全訳に『朝のコント』からの5篇を付した改訳決定版。
感想・レビュー・書評
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感性が違いすぎる。読ませる力はあるけれど、ちっともいいものだとは思わない。
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フランスの田舎に暮らす人々の喜怒哀楽。訳文のかもしだすユーモアも味わえる短編集。
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フランスの中央部に位置する人口二千人足らずの小さな町セリイを舞台に、そこに暮らす市井の人々のつつましやかな日常を、鮮やかに切り取って見せた短編小説集。家族の誕生や死、隣人との小さな諍い、時折起きる事件とも言えぬできごとを、乾いた筆致でさらりとスケッチした独特の作風は、小さなものを愛でる日本人によって殊の外愛され、他国に比べ根強い人気を持つという。映画の原作にもなった『ビュビュ・ド・モンパルナス』の名前だけは知っていたが、フィリップという作家は読んだことがなかった。
ヨーロッパ随一と言われる一万ヘクタールにも及ぶトロンセの森に囲まれた小さな町は木靴職人や家具屋、桶屋という森から取れる良質の木を使った仕事に頼る職人の町である。普段の食事はスープに浸したパン。客が来たときだけハムやソーセージ、それに葡萄酒を買いに行くという質素な生活を営む人々。『小さな町で』という題名から想像されるのは、あたたかな人々の心やしみじみとした人生の哀歓といったものだろう。
たしかにそういう話もある。田舎の人がいつまでも一つ話に語るような滑稽な逸話や子どもの心の中に入り込んだみずみずしい情感にあふれた作品も少なくない。しかし、一読後本の表紙を閉じて思うのは、非情な酷薄さと言うと言い過ぎかもしれないが、人間の生死を透徹した眼で見切ったという感じの冷たく乾いた印象である。
妻に死なれた男が、独身生活を謳歌するのも束の間、すぐにさびしくなり、新しい伴侶を一日で見つけて来るという「求婚者」。妻子を捨てた男が家に帰ってみると、そこには自分の代わりに昔の友人が妻と暮らしていた。男は、元の妻と友人、子どもたちと共に粗末な夕食をすませると、夜の町に戻ってゆくという「帰宅」。いずれも、別の終わり方もとることができる作品であるのに、あえて、そうはしない。
子どもの心理をつかむのに長けた作家だと思う。しかし、そこに描き出された子どもの心はと言えば、カービン銃を見つけた少年が犬を撃ち殺してしまう「犬の死」といい、教師の意地悪な仕打ちに対して、度重なる懇願にもかかわらず「否(ノン)」を言い続ける娘の心に寄り添った「強情な娘」、新しく生まれた弟が自分に向けられるはずの母の愛を奪い取ったと思い、嫉妬の果てに死を選び取る「アリス」と、どれもかなり暗い。
木靴職人の家に生まれたフィリップは7才で結核性の病に冒され顎が陥没するという悲劇に見舞われる。おまけに全身の発育が不全で、身長は153センチメートルしかない。長じてパリに出るが、街娼と同棲して梅毒をうつされ、最後はチフス、脳膜炎に冒されて死亡。享年35。作家の人生がその作品に影を落としているとしても無理はないかもしれない。訳者は「暗い題材を扱いながらも、フィリップはどこかにとぼけたようなおかしみ、人生そのものの諧謔をしのびこませるのを忘れない」と書くが、書き忘れた作品も少なくないように思う。
そんな中で、「人生そのものの諧謔」を感じさせてくれるのは、仲の悪かった隣同士の老嬢が、相手の引っ越しをきっかけに、友情を再発見する「お隣同士」。別れた女房と何年かぶりに町で出会って、当時は気づかなかった互いの良さを見つけながら、結局は今の結婚生活に戻らざるをえないというよくある話を描いた「再会」は、甘さの中に苦さを封じ込めた大人の味を感じさせてくれる。他にも、味わい深い佳作が並ぶ。シリーズ「大人の本棚」に相応しい小品集である。 -
100年ほど前に書かれた短篇集。
作者のフィリップが生まれたフランス、セリイを舞台にした町の住人たちのお話。
山田稔さんが翻訳をしているから、まるで山田さん自身が書いたようなの作品だった。
訳者解説にこの本について的確な説明があったので抜粋しておく。
《 四百字詰原稿用紙に直してほぼ十枚、このわずかな枚数のうちに人生の断片が、いやときには一つの人生がみごとに描き出されている。これらを読めば、長く書く必要はないことをあらためて反省させられるだろう。
貧困、不幸な恋、病気、老年、死 ──── こうした暗い題材を扱いながらも、フィリップはどこかにとぼけたようなおかしみ、人生そのものの諧謔をしのびこませるのを忘れない。そのエスプリというか奇妙なやさしさ、人生を低い視点から、狭く限って、鋭くながめる、》
すごく読みやすくておもしろくて、本当にあっという間に読み終えてしまった。
フィリップの他の作品も山田稔さんの訳で読んでみたくなった。 -
フランスの典型的小話〈コント〉の真髄。
決してイイ話ではない話がオムニバスでサラサラと語られていく。
時代と場所は違っても、かわらない人間の生活・心情がみえたように思う。
作者の破天荒な人生を解説で知ると、ストーリーにも深みがでる。
三年に一度くらいで読み返したい一冊。 -
ふたりは、人生で幸運にめぐまれなかった哀れな友達として手を握り合った。で終わる「再開」がいい!
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これといって強く残るような作品はないのですが、ちょっとした暇つぶしにはいいかも。もとが新聞に書いていたコントのようなものだそうで、確かに、新聞を読むときのひと時のお供にはいいのかな、とも思いました。
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絡みつくような人間関係がその背景に存在していることを強く匂わせながら、幾つもの小さな物語が、いたって何事もなかったかのように語られて行く。その物語の中心に居るのは「田舎の」人々である。シャルル=ルイ・フィリップの「小さな町で」に登場するそれらの人々を語る時、どうしても括弧つきの「田舎の」人々と形容しなければならない気になる。おそらく自分の偏見が色濃く混じっているのだろうけれど、その「田舎」という言葉には、汗臭くなった同じ服を年がら年中着ているような人々、稼ぎの殆どを飲んでしまうような人々、貧乏なのに子供が大勢いるような家族、などが含まれる。都会に住む人々に比べ、個性の色濃い人物ということになるだろう。
その小さな町では、全てのことは既に一度は起こったことがあるようであり、人々はどんな人生の不幸にも、大して動じているようではない。その一方で、全てのことは目新しく、一日一日の小さな変化が、町中の話題とならないことはない。そんな町に生まれ住んでいたら、さぞかし大変なことだろうなあ、と思わずにはいられない。
人間の個性が色濃いということと、人間関係が絡みつくようであるということには、明らかに強い相関があると思う。もちろん、どんな小さな社会、集団においても個性的な人は居て、その人の強い影響力というものはある。しかし、それが単独で存在する場合、その影響力、例えば磁石の生み出す磁場のようなものに例えられるのかも知れないその力は、比較的単純な形態に留まっており、そこから生じる結果も容易に予測可能である。しかし、影響力のある人物が一人ではなく二人になると、磁場の重ね合わせのように、二人の存在から作られる影響力の及ぶ範囲は複雑になってくる。磁性のプラス・マイナス、磁力を持つ点の動き、そんなようなものが絡んで来て、結果生まれるものの予測は、やや複雑になるだろう。そして、物理学で古くから言われているように、その点が三点を越えると、その運動は予測不可能な問題となり、ある点における磁場の強弱も結果として、推測不能なこととなる。とてもとても人間臭い「小さな町で」なのだけれど、そこに生み出されている磁場のようなものを想像すると、そこで起きている出来事の複雑さは膨大だ。自分はこれを読みながら、そんなことを考えていた。
田舎、というものは大きな変化とは遠く離れた存在のように、都会に住んでいるものはイメージしている。もちろん、都会で起こる劇的な変化とは異なるけれど、しかし、小さな町にも変化はある。その変化はもっぱら、人、によってもたらされる変化である。それは人間が何かを作り出したり、壊したりする、という意味ではなく、人間そのものが時々刻々変化するということが、もっとも大きな変化である、という意味だ。そして、お互いがお互いをよく知る関係であるだけに、あるいは知っていると思っている関係であるだけに、小さな変化であっても見逃されることがない。しかもその変化は基本的に予測不可能だ。例えば、建物なども確かに風化していくだろう。その変化は、ある時、おやっ、という感覚を持って受け止められるものかも知れない。しかし変化の速度は一定方向のゆるやかなものであり、その変化自体、折り込み済みのものとして認識され得る類いのものだとも言える。それに大して、人の変化は、一定ではあり得ない。昨日あった人の良かった人物が、誰かを殺すかも知れないし、出家するかも知れないし、死んでしまうかもしれない。それは全く予測不可能なできごとだ。しかし、人は人の変化に対しての学習による知識も仕入れている。ああ、あいつがああなったのは無理からぬことであるな、などと納得することもできるのだ。それが如何に短絡的な推察であったとしても、人は本能的に、そのような類型を他人に対して押し付けようとする。それはあるいは、そうすることで予測不能なものから醸し出される不安感をどこかに押し込めようとする無意識の防御なのかも知れない。もちろん、押し付けた方はそれで気が済む。しかし、押し付けられた方はそうはいかない。人の意見はもっともなことのようにも聞こえるが、自分の気持ちとはどこかが違う。そのことで、自分ではいつもと変わらない日常を送っていたつもりだったのに、気持ちがかき乱される。人と人との結びつきが強いからそんな小さな掛け違いが大きな事件へと発展してしまう。どうもこの「小さな町で」で描かれているのは、そんな物語ばかりのような気がしてならない。
もう一つ。この短篇とも言えない程の小さな物語達には、どことなく不幸の香りが常に漂っている。その多くは、貧困であり、そして、死、である。考えてみれば、死、というのは人間が自ら行える変化の中でももっとも劇的な変化であるのかも知れない。しかし、どうもこの超短篇集の中ではその変化が余りにも日常的なものとして、ある時には、変化としては認め得ない位のものとして登場する。そのことにとまどいを覚えてないでもない。それが、あまりに死というものが非日常になってしまった現代人であるところの自分であるが故に抱く感情なのか、あるいは、フィリップスがあまりに死と隣り合わせに居るような環境でこの物語を書いていたためなのか、判然とはしないのだが。
死、と共に、この物語群の中でもう一つ頻繁に取り上げられるものが、子供、である。子供は日々の変化が大人の変化に比べて劇的に大きい。種が目を出し双葉を開かせるエネルギーを内包しているように、子供にもエネルギーが詰まっている。そして、その事実だけでも子供から普通の大人が受ける印象は、陽、である。しかし、フィリップスの描く子供は、陰、である。煙草を吸う。ワインを飲む。盗みをする。いたずらをする。怒られる。子犬のふりをする。存在の小ささを精一杯大人に迷惑を掛けることで埋め合わせようとする。大人はそのことに悪態をつくだけで、子供を思いっきり邪険にする。その邪険さが愛情であるかのようにすら、振る舞う。それは、フィリップス自身が受けたトラウマに起因するものなのか、それとも、彼独特のシニカルな語り口に過ぎないのか。いずれにせよ、どこにも、大それた幸せは描かれず、人々は困窮しており、死が身近にあり、子供たちは老人のように生きている、小さな町。それにも拘わらず、なぜか心の芯が暖まるような感じになるのは何故なのだろうか。そのことが、何か忘れてはいけないものと強く結びついているような気がしてならないのだ。