エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】

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  • Amazon.co.jp ・本 (472ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622086284

作品紹介・あらすじ

〈彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが「陳腐」であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的なまたは鬼神に憑かれたような底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、やはりこれは決してありふれたことではない。死に直面した人間が、しかも絞首台の下で、これまでいつも葬式のさいに聞いてきた言葉のほか何も考えられず、しかもその「高貴な言葉」に心を奪われて自分の死という現実をすっかり忘れてしまうなどというようなことは、何としてもそうざらにあることではない。このような現実離れや思考していないことは、人間のうちにおそらくは潜んでいる悪の本能のすべてを挙げてかかったよりも猛威を逞(たくま)しくすることがあるということ――これが事実エルサレムにおいて学び得た教訓であった。しかしこれは一つの教訓であって、この現象の解明でもそれに関する理論でもなかったのである〉

組織と個人、ホロコーストと法、正義、人類への罪… アイヒマン裁判から著者が見、考え、判断したことは。最新の研究成果にしたがい、より正確かつ読みやすくし、新たな解説も付した新版を刊行する。

感想・レビュー・書評

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  • 本書の存在を知ってから10年。辛うじて読了。内容は副題のとおり。社会の一員として、誰もがアイヒマンになりうる可能性を心に留めていきたいと思う。

  • 理系大学受験のため、世界史は試験をパスする程度の知識しか学んでいなかったため、本書の前半は読むのに相当苦労した。出てくるカタカナの人物名・組織名を把握しきれず、相関関係なども分からなかった。それゆえほぼ流し読み状態であったが、当時のナチス政権が広範に渡ってユダヤ人の絶滅を、かなり熱心に行っていたという事は充分理解できた。

    アイヒマンという人物は「ユダヤ人を絶滅させる熱意に満ちた極悪非道な人物」ではなかったようだ、という記述は本書で何回も出てくる。ナチスという政治団体で、上からの命令に従って動いた歯車に過ぎなかったのである。その事を言い訳にして、罪はあまり重くはないかのようにアイヒマン自身は思っていたらしい。

    最終的に、アイヒマンは主として〈"人類"に対する罪〉で裁かれ、死刑が執行された。いわゆる戦争犯罪を真の意味で公平に裁く事の難しさも読み取れた。アイヒマン含めナチスが行ってきた事を擁護する気は一ミリたりともないが、その時点の法に照らし合わせた時に、彼らが行った罪は明確にはなかったのである。もしナチスを"人道"に対する罪で裁くとすれば、勝利側の連合国軍にも罪に問われる行為があったことは否定しづらいのではないか。しかし、ナチスはユダヤ人の殲滅という明確な思想を持ち、熱狂的に計画を実行していたのだから、"人類"に対する罪に問うのは適切であろう。

    本書から受け取る印象として「悪の陳腐さ」というのは誠に的を射ていると思う。悪というものは正義の真反対などという明確なものではなく、複雑かつ曖昧であり、そこら中にありふれているのだでは、「悪」を犯さないためにはどうするべきか?…これは人類がこれからも永遠に考え続けなければならない問いである。はたして、正解は出てくるのであろうか。

  • 好きな人が読んだから読んだ

  • カタチ的には一周したが、まだ読めていない。
    読んでよかったし、今読んでよかった(若いころだとたぶん、ほとんど、今よりもずっと、この本の意義がわからなかったと思う。いまは、意義があることだけは、すごくわかる)

    ヒトラー率いるドイツ帝国の、ユダヤ人問題の〈最終的解決=絶滅〉において、ユダヤ人を殺戮収容所に輸送する任務に着いていた、アドルフ・アイヒマンについて書かれているこの本は、ずっと思っていたように、舌鋒鋭く「陳腐な悪」を断罪するものではなかった。これは裁判記録ーーしかも、不親切なほど注釈が少ないーーである。

    「ザ・ニューヨーカー」で連載されたこの報告(レポート)は、エルサレム裁判の法廷のようすからはじまり、主に、裁判で(または裁判の前に)明らかになっている「ユダヤ人の輸送」について、順を追って述べている。

    正直なところ、歴史や地理、人名がほとんど分からないので、「本書の大部分には、ユダヤ人の輸送が、各国や地域の状況に応じて進められてきたことが書かれている」ことしか読み取れていないが、これらの部分の、アイヒマンのどちらかといえばつまらない人物像と、「その裁判の場がどのような意味を帯びていたのか」「裁判でなにが裁かれているのか」を語るとき、筆者の思いが強くなっている、気がした。
    また、ドイツ帝国のユダヤ人絶滅にかかわる要求に対して、各国が軒並み肯首するなかで、政治的理由からデンマークが、人間的?文化的状況からイタリアが、簡単にユダヤ人の迫害に協力しなかったこと、また、逆に、ルーマニアはドイツより早く、むごい形でユダヤ人を虐殺し、引き際もドイツより早かった、という部分が印象的だった。

    たぶん、この本の宣伝文句に取られている、読みどころでもある部分は、「エピローグ」と「追記」だろう。「エピローグ」でアーレントは、けっきょくアイヒマンが何によって裁かれるべきだったのか、その唯一の理由を、判事による仮定の呼びかけの形で語る。また、「追記」では、この本が巻き起こした論争を整理したうえで、この本が扱っている問題について、改めて述べている。

    彼女によると、アイヒマンは、かつて例のない、そして、人類の未来に再び起こりうる、起こった時点の法では裁き得ない罪、すなわち「人類に対する罪」によって裁かれるべきである。たとえば、国家の政策としてある民族を追い出すとか、利害関係のある国の人間を大量に殺すとかではなく、その必要がないのに、無意味に、ある民族を地球から殲滅する計画に服従(服従とは支持である)した、というのが、彼の罪であるという。

    また、後者について、アーレントは「どの程度までエルサレムの法廷が正義の要求を満たすのに成功したかということ以外には何も語っていない」という。すごく俗っぽく大雑把に、言葉ではなくこの部分から受けた印象を述べるならば、「あることを一般化しすぎたり矮小化しすぎたりするのではなく、ひとつの、この事象のなかに、人間が正義や法を考えるための『なにか』がある」という感覚とか、「それが何なのかという考えを拙速に導こうとしたり、本に書かれていることの一部を取り出して賞賛とか批判とかを加えたりするのではなく、ただ、きちんと事実関係と関連する文脈を追って、ひとのことばやアリモノの思考に頼らず、自分で意味づけすべきだ」という信念とかを、このあたりは述べている気がする。

    いずれにせよ、まごうことなき名著だし、この本が世界にある意味とか、人が思考し語り残すことの意味みたいなことをきちんと思ったはじめての本かもしれない。 

  • ナチスの大量虐殺がどのように生まれたのか、その主犯格の裁判の様子を本にしたもの。
    悪の陳腐さの副題通り、ハイヒマンはただヒトラー、ナチスに認めて貰いたかっただけ。
    入党の理由として、就職難でたまたま入っただけ。
    それが、虐殺の理由。途中から人を殺す感覚が麻痺して来た。

    自分で考えなくなることがいかに危ないか、また人は認められたいという理由でも人を簡単に殺せる。
    人の本質的な一面を捉えた本。

  • ちょうどこの本を読み終わった日の朝刊にポーランドで、ナチスによるユダヤ人のホロコーストに「ポーランド人が加担した」などと記載すること禁ずる(罰則付き)法案が可決されたという報道が。
    アーレントが読んだらどう思うだろうか?

  • とても興味深い内容だけど文章が難しい。

  • やっと読み終えることができた。全部読んだ自分に拍手。

    訳者である大久保和郎さんの解説、その後にある、山田正行さんの新版への解説の二つを読んで、本編に入ることをお勧めする。基本的にエピローグと追記以外は、アイヒマン裁判を傍聴したアーレントの報告書的な感じなので、彼女の思想だったり、悪って何?みたいな問いは登場しない。最初からそういうのが出てくると思ってた自分は、肩透かしを食らった。なので、二つの解説を読んで、本書の流れ、時代的立ち位置、出版後の論争などを知った上で、読んだ方が数倍面白いはず。

    にしても、ドイツ生まれのユダヤ人である彼女が、全く感情的にならずに、どちらかに肩入れすることもなく、客観的な視点で、人間の本来の悪の陳腐さを分析したことが凄まじい。ただ一貫して彼女の文章の背後に、アイヒマンへの並々ならぬ怒り、正確に言えば彼のような人間を作り出した社会システムへの怒り、を感じた。

  • なんとまぁ438ページ。ぶっちゃけ、エピローグと追記を読めば、筆者の意図はわかる!が、なるほど…となるので、できれば全部読むのがおすすめ。

    深井龍之介さんがYouTubeで言っていた本のフルマラソンでいうと、30キロくらいでキツかったぁ…

    p.33 もしアイヒマンが殺人の共犯として告発されていたとしたら、果たして、彼は有罪を認めたであろうか?認めたかもしれないが、ただそれには重要な条件がついていただろう。つまり、彼が行っていた事は、遡及的にのみ罪となるのであり、彼は常に法を遵守する市民だったのだ。彼が最善を尽くして遂行したヒトラーの命令は、第3帝国においては法としての力を持っていたからである。(弁護側、アイヒマンの主張の裏付けとして、第3帝国における憲法についての最も光明の研究者の1人で、現在バイエルン州の教育文化相となっているテオドルマウンスの証言を引っ張り出すこともできただろう。彼は1943年に警察の形態と権利の中で、総統(フューラー)の命令は…現行法秩序の絶対的な中心であると言っているのである。

    p.46 これは決して静止することがなく、その中では彼のような人間、自分の属する社会的階級からも、自分の家族からも、したがってまた自分の目から見ても既に失敗者としか見られぬ人間でも、元からもう一度やり直して出世することができる運動だった。そして自分がなすべき仕事(例えば、人間を国外に移住させる代わりに貨車に詰めて、私に送り込むと言うような仕事)が、必ずしも彼の気に入るものではなかったとしても、彼が万事はドイツの敗北とともに惨憺(さんたん)たる結末を見るだろうとかなり早くから予想していたとしても、彼の最も心にかけていた計画(ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島に強制移転させる計画、ポーランドのニスコ地方に「ユダヤ人移住地」を建設しようと言う計画、彼のベルリンの事務所の周りにロシアの戦車を撃退するための綿密な防御施設を巡らせようと言う実験)が、すべて水泡に記したとしても、またこれは彼の最大の嘆きと悲しみだったが、彼がついにSS (中佐に相当する階級)以上に小休止得なかったとしても、要するに、あのヴィーンでの1年を除いて、彼の生涯は失意の連続だったとしても、彼はもう一つの人生を選んでいたらどうなっていたかを消して忘れはしなかった。亡命者として惨めな生活を送っていた。アルゼンチンに置いてばかりか、彼の生命は失われたも同然だった。エルサレムの法廷に置いてすら、彼は直も、もし誰かが訪ねたとすればヴァキューム石油会社の出張セールスマンとして平和で平凡な生涯を全うするよりは、退役した中佐として絞首刑にされることを選んだだろう。

    p.253 法的には頭ユダヤ人の地位は、他のすべての少数民族のそれと同じものだったが、政治的にはそしてこれこそ決定的なことになるのだが、彼らはこの地方で唯一の自分の強度(ホームランド)を持たない民族集団だった。つまり、彼らは住民中の多数を占める土地がなかったのである。それでも彼らは生生や中央の同胞ほどにはバラバラになって暮らしてはいなかった。そしてそちらではヒトラーの出現以前からユダヤ人をユダヤ人と呼ぶ事は、反ユダヤ主義の印だったのに反して、東ユダヤ人は、味方からも、敵からも他の民族と異なったいっこの民族として承認されていたのだ。このことは、東方の同化しているユダヤ人の地位に重大な影響を及ぼし、何らかの形で同化しているのが普通とされている。西方のユダヤ人のチートの決定的な相違を作った。

    p.340 また、暗闇のうちに、死の収容所において、実際に「自らの手で死の道具」動かしていたのは、通常被収容者と犠牲者自身だったと言う奇妙な事実を認めることにもなるのだ。

    p.341 概ね直接に死の道具を操った人間から離れれば離れるほど、責任の程度は増大するのである

    ゼルヴァーチウス博士の言葉↓
    被告は、国家行為を実行したに過ぎない、彼の身に起こった事は、今後また誰に起こるかわからない、文明、世界全体がこの問題に直面している、小嶋は身代わり贖罪者(スケープゴート)である、ドイツの元政府は自分で責任を負うまいとして国際法に背いて、彼をエルサレムの法廷に委ねたのだと。

    p.369 1935年のニュルンベルク法は、マジョリティーのドイツ人がユダヤ人少数者に対して以前から行っていた差別を合法化した。国際法によれば、彼らの少数民族方眼国際的に承認された少数民族条約や協定に定められている権利並びに保障に従う限り、ドイツ国民がそれに該当すると、見る住民中のいかなる部分を少数民族と宣言しようとも、それは主権たるドイツ国民の権利だった。

    p.370 合法化された差別は、すべてバルカン諸国が行っていたし、大量の追放は数々の革命の後に起こった。新しい罪、人道に対する罪、あるいは、人間の本性そのものに対する罪と言う意味におけるが出現したのは、ドイツ民族は、ドイツ国内にユダヤ人が入るのを好まないだけでなく、ユダヤ民族全体を地球上から抹殺することを願っていると宣言した時だった。追放とジェノサイドとは、2つとも国際的犯罪ではあるが、はっきりと区別されなければならない。前者は、隣国の国民に対する犯罪であるのに対して、後者は人類の多様性、すなわちそれなしには、人類もしくは人間性と言う言葉そのものが意味を失うような人間後の特徴に対する攻撃なのだ。

    p.372 ヤスパースは、ある1事だけは確実であると述べた。「この罪は普通の殺人以上でも以下でもある」。しかもそれは戦争犯罪ではないが、「もし諸国家がこのような罪を犯すことを許されていたならば、人類は確実に滅亡する」ことは疑いない、と。

    p.376 一度行われ、そして人類の歴史に記された行為は、すべて、その事実が過去のことになってしまってからは、長く可能性として人類の下にとどまる。これが人類の行うことの性格なのである。かつていかなる罰の人間が罪を犯すのを妨げるに足る抑止力を持たなかった。反対に、どのような罰が行われたにせよ、これまでになかったある罪が一度行われてしまえば、それが再び行われる可能性は、最初に行われる場合よりも大きいのだ。街が犯した罪が繰り返される可能性を支持する。特殊な理由の方はもっとはっきりしている。現代の人口の爆発的増加と、オートメーションによって進行の大きな部分を労働力の先から行っても、余計なものにする技術手段の発見とは、時を同じくする。しかも、この技術手段は、核エネルギーによって、ヒトラーのガス殺設備も、それに比べれば、子供のおもちゃみたいに見える道具を使って、この余計な人口の脅威を解決することを可能にする。この恐るべき位置は我々の旋律せしめるに十分であろう。

    前例のないことも一旦出現してしまえば、将来のための前例になるかもしれない。人道に対する罪に触れる。すべての裁判が、今日ではまだ理想でしかない基準に従って行われなければならないのは、基本的にはその理由による。もしジェノサイドが本当に将来の可能性として存在するならば、地球上のいかなる民族もそして言うまでもなく、イスラエルの内外音を問わず、ユダヤ民族は、特に国際法の上力の保護もなしに、自分が生き続けられるものと理性的に確信していられるものではあるまい。今まで前例がなかった犯罪の処理が成功だったか、失敗だったかは、この処理がどの程度まで国際刑法の制定のために妥当な前例となり得るかによってのみ判断されよう。

    p.380 まさに、実に多くの人々が彼に似ていたし、しかもその多くのものが倒錯しても、いずれサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだったし、今でもノーマルであると言うことなのだ。我々の法制度と我々の道徳的判断基準から見れば、この正常性は、すべて残虐行為を一緒にしたよりも、我々をはるかに凌駕させる。なぜなら、それはニュルンベルク裁判で繰り返し繰り返し、被告やその弁護士が言ったように、事実上、人類の敵であるこの新しい形の犯罪者は、自分が悪いことをしていると知る、あるいは感じることをほとんど不可能とするような状況のもとで、その罪を犯していることを意味しているからだ。これについての証拠は、主要戦犯裁判に見られたものよりも、小嶋のケースの方がもっと説得的である。主要戦犯たちがいくら良心にやましいところはないと、誓っても、上からの命令の復習と言う弁解とともに、場合によっては復習しなかったと言う豪語も見られたのだから、彼らの違い等は無視しても良い。しかし、この日、主要戦犯たちが正直でなかった事は明らかだったとしても、彼らがやましい良心を持っていたことを現実に証明する唯一の根拠は、ナチが、そして特にアイヒマンの所属していた犯罪組織が、戦争の最後の数ヶ月の間証拠隠滅に大わらわだったと言う事実だけであった。これでは、むしろ薄弱な根拠でしかない。それは次のようなことを彼らが認識していたことの証明にしかならない。すなわち、大量虐殺の掟は、その新規さゆえにまだ他の国々に受け入れられていないと言うこと、あるいはなぜ自身の言い方によれば、人間以下の人間の支配、特にシオン賢者たちの支配から人間を解放する戦いに彼らが破れたと言うことなのである。要するに、一般人の言葉で言えば、それは敗北の辞任を証明しているだけなのだ。彼らが勝ったとすれば、彼らのうち1人でも良心の疚しさ(やましさ)に悩んだだろうか。

    p.382 君は戦争中で民族に対して行われた犯罪が有史以来、最大の罪であることを認め、その中で君が演じた役割を認めた。しかし、君は、自分を消して卑しい時から恋したのではない、誰かを殺したいと言う気持ちもなかったし、ユダヤ人を憎んでもいなかった、けれども、こうするより他なかったし、自分に罪があるとは感じていないと言った。われわれは、それを信じる事は全く不可能ではないまでも困難であると思う。それほどたくさんではないが、この動機と良心の問題について、君の主張を否定する、疑問を残さの証拠もいくつかある。君はまた、最終的解決に置いて、君の演じた役割は、偶発的なものに過ぎず、ほとんどどんな人間でも君の側流やれた、それ故、潜在的には、ほとんどすべてのドイツ人が同罪であると言った。君がそこで言おうとした事は、すべての、もしくはほとんどすべての人間が有罪である場合には、有罪なものは1人もいないと言うことだった。これは事実ごく普通の結論だが、我々はこれを君に認めようと思わない。そして、我々がそれに反対する理由がわからなければ、ソドムとゴモラの物語を思い出してもらいたい。聖書にある。この隣同士の2つの街は、そこに住む人々が等しく、罪を犯したため、天からの日に焼き付くされたのだ。ついでに言うが、これは集団的な罪と言う。最近流行の観念とは何の関係もない。この観念に従えば、人々は自分の行ったのではなく、朝自分の名において行われたこと、自分が参加もせず、それから利益もえなかったことについて有罪である、もしくは罪を感じるとされるのであるが。換言すれば、法の前での有罪と無罪は、客観的な性質のものであって、たとえ八千万のドイツ人が君と同じことをしたとしても、その事は君にとって言い訳とならなかったろう。

    p.389 ヒトラー体制は、単にドイツ国民8000世界のユダヤ人にとってとってのみならず、ヨーロッパの中心で起こったこの大災厄を忘れておらず、したがってそれと、折り合いをつけることもできないでいる世界の全ての人々にとっても、克服されていない過去をなしていると言うことだった。のみならず、これはおそらくもっと良きにそむくことであろうが、今日直人々につきまとい主く、その心にのしかかって用などとは、私には夢にも思えなかった、現代的に複雑に屈折した一般的な道徳的問題が、突然公衆の関心の前面に現れたと言うことだった。

    p.395 アイヒマンはいやー子でもマクベスでもなかった。しかも悪人になって見せようと言うリチャード3世の決心など、彼に無縁のものはなかったろう。自分の商品にはおそらく熱心だったと言うことのほかに、彼には何らの時もなかったのだ。そしてそのこの熱心さはそれ自体としては、決して犯罪的なものではなかった。もちろん、彼は自分がその後釜になるために上役を観察することなどを決してしなかったら。足ない表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。まさに、この想像力の欠如のために、彼は数ヶ月にわたって警察デジモンにあたる。ドイツユダヤ人と向き合って座り、自分の心の健を打ち明け、自分がSS中佐の階級までしか送信しなかった理由や、出世しなかったのは、自分のせいではないと言うことを、繰り返し繰り返し説明することができたのである。大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終弁論において、「なち政府の命じた、価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。全く施行していないこと。これは愚かさとは決して同じではない、それが彼があの時代の最大の犯罪者の1人になる素因だったのだ。このことが陳腐であり、それのみか滑稽であるとしても、また1階に努力してみても、アイヒマンから悪魔的なまたは鬼神に取り付かれたような底知れぬさを引き出す事は不可能だとしても、やはりこれは決してありふれたことではない。死に直面した人間が、しかも、絞首台の下で、これまでいつも葬式の際に聞いていた言葉のほか、何も考えられず、しかもその高貴な言葉に心を奪われて、自分の姿と言う現実をすっかり忘れてしまうなどと言う事は、なんとしてもそうざらにあることではない。

    p.416 彼女は、彼女の理由からこの犯罪者に時計を要求するのだ。その理由とは、英語のcrime against humanityと言う言葉の曖昧さを彼女は彼が言っているが、これはドイツ語には人道に対する罪と人類に対する罪と言う2つの言葉があるからである。これを虐待とか人質射殺と言うような戦時の残虐行為ですら、人道に対する罪ではあるが、人類に対する罪ではない。しかし、ある人種、ある民族、ある人間集団の存在を全体として規定すること、その存在を否定する権利が自分にあると思う。嫌がること、これは人類に対する罪と言う全く新しい範疇の罪悪であり、このような犯罪者とあ、つぶさに天をいただくことができないと彼女は断定する。小嶋の行為のひとつひとつについていかに酌量の余地があろうとも、この行店で妥協の余地なく、彼に私を宣告しなければならないのである。ここに彼女の特徴的な思考法が見られる。(ついでに言えば、彼女の師カール・ヤスバースは死刑廃止は、当然とする含意のもとに、この犯罪は例外的なものだから、例外的に死刑を適用すべきだと主張している。)

    p.434 アーレントによれば、小嶋は次のような人物である。学業成績はぱっとしなかったが、14億は強く、それなりに栄達を果たすが、課長止まりで、後の高級幹部などではない。他人の立場に立って考えるのが苦手で、紋切り型の表現でしか話すことができない。ほら吹きで、また気分の高揚は顕著な心理的特徴と言えるが、それでも精神病理学的には正常である。ユダヤ人像を抱くとか、反ユダヤ主義イデオロギーに沿ってもいない。ユダヤ人問題、専門家としての仕事ぶりからもわかるように、小竹の面では愚かではないが、自分のしている事について施行していない。犯罪歴はなく、「法を遵守する市民」を辞任する。総じて、夜に言われる極悪非道の「怪物」と言う封書は立っておらず、むしろ「どうか」と思わせる。要するに、アイヒマンは夏、体制下の他のドイツ人たちと特段違う所のない、ほぼ普通の人間なのである。しかし、この「普通」が「平凡」や「物」、ひいては「陳腐」と言う語への連想に、うっかり導かれると、途端に「アイヒマンは教育とは、無縁のただのつまらない男だとアーレントは言っている」と言う誤解の大旋風が起こることになる。

    アイヒマン自身は、確かに、大量虐殺に直接的に関わっておらず、多くの人を殺そうと言う意図もなかった。常識に基づいて考えれば、そもそも殺人は違法な行為であるばかりでなく、人を殺すにあたっては、良心の疾しさを覚えないはずがない。ところが、ナチ体制では「殺すべし」と言うヒトラーの意思こそが法であり、「法を遵守する市民」であれば、それに従うの義務であり、それに反抗するところが、協力的なユダヤ人もいることで、本来生ずるはずの良心の葛藤も、あらかじめ大幅に縮減されていた。「汝殺すべからず」が「汝殺すべし」と逆転した。この道徳的に転倒された世界の中での行為について、「普通」に行為したアイヒマンは、果たしていかなる罪にということができるのか。なち大勢の問題とは別にそうした体制は無し。ドイツ対1階でも生じる、そうした全体主義的な体制の下にいる自分の行為を施行することのないーー「陳腐さ」はこの事と相関するーー個人の罪や責任はいかにして問われ得るのか。アーレントが遭遇したのは、この問題だったとひとまずは言えるだろう。

  • エルサレムでのアイヒマンの裁判ー元ナチ親衛隊中佐でユダヤ人移住局長であったアイヒマンのユダヤ人強制移送を裁く裁判ーの取材報告。
    著者は心理学者アーレント。アイヒマンと同い年でナチ政権発足後にアメリカに亡命した人物だ。

    アイヒマンの犯した罪は、出世欲の強い人物の思考停止、想像力欠如が生んだとアーレントは指摘している。
    たとえその背景に全体主義的統治、あるいは官僚制が人間を「行政装置の中の単なる歯車」に変える実態があったとしても、その罪は赦されるものではないとも書いている。
    アイヒマンは裁判中、口元を不自然に歪めていたそうだ。恐らく神経症状ではないだろうか。

    それで官僚制的日本企業に勤めていた頃に大嫌いだった上司を思い出した。その上司も出世欲が強く、上層部の指示に絶対服従し、自分の言葉を持たない人物で、目元が時折不自然に釣り上がる癖があった。

    私自身が感じていたその上司や官僚制的日本企業に対する嫌悪感の正体を本書に見たように思う。

    文章が読みにくいので星4つとしたが、日本の官僚制的組織で働く人に勧めたい本だ。
      

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著者プロフィール

1906-1975。ドイツのハノーファー近郊リンデンでユダヤ系の家庭に生まれる。マールブルク大学でハイデガーとブルトマンに、ハイデルベルク大学でヤスパースに、フライブルク大学でフッサールに学ぶ。1928年、ヤスパースのもとで「アウグスティヌスの愛の概念」によって学位取得。ナチ政権成立後(1933)パリに亡命し、亡命ユダヤ人救出活動に従事する。1941年、アメリカに亡命。1951年、市民権取得、その後、バークレー、シカゴ、プリンストン、コロンビア各大学の教授・客員教授などを歴任、1967年、ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学教授に任命される。著書に『アウグスティヌスの愛の概念』(1929、みすず書房2002)『全体主義の起原』全3巻(1951、みすず書房1972、1974、2017)『人間の条件』(1958、筑摩書房1994、ドイツ語版『活動的生』1960、みすず書房2015)『エルサレムのアイヒマン』(1963、みすず書房1969、2017)『革命について』(1963、筑摩書房1995、ドイツ語版『革命論』1965、みすず書房2022)など。

「2022年 『革命論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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