ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在

著者 :
  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622087533

作品紹介・あらすじ

ウイルスとは、いったい何者なのか? あるものは感染した宿主を献身的に育て上げ、またあるものは動物である宿主に光合成能力を与えてしまう。数万年の凍結状態に置かれても、ばらばらになっても“復活”し、気候変動や深海の生態系にもかかわっている……。多種多様なウイルスのあり方を知ることで、「ウイルス=病原体」という固定観念が打ち破られ、「生命の起源」や「生物と非生物の違い」など、生物学の根幹にかかわる疑問へと導かれていく一冊。

感想・レビュー・書評

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  • ウイルスの生存戦略について知れる本。ウイルスは今この瞬間も、人類との共生の道を探っている。

    本書では、ヒト中心の視点からではなく、生命体としてのウイルスの視点から俯瞰したウイルスの世界が紹介されている。

    ウイルスと聞くと、ヒトの生存を脅かすものと考えられがちだ。しかし、本書で山内氏が述べているように、“ウイルスは私たちの外敵であり、また私たち自身を構成する重要な要素でもある。”

    本来、ウイルスは独力では増殖できず、生物の細胞に侵入して増殖する。ウイルスは宿主を渡り歩いて生き延びてきたり、宿主と平和共存したりしてきた。

    ところが二一世紀にメタゲノム解析が可能になり、細胞を介さず原子をつないで感染力を持つ生きたウイルスを試験管内で作れるようになった。たとえば、根絶が宣言された天然痘ウイルスはそのゲノムの塩基配列が公開されている。WHOは禁止しているものの規制に抜け穴があり、ゲノムの人工合成が可能である。いつバイオテロが起きてもおかしくない状況だという。

    鳥インフルエンザウイルスにヒトが感染し、死に至るケースも報告されている。これはヒトの新型インフルエンザウイルスを引き起こすおそれがある。ヒトが食料源として動物を家畜化し、伴侶動物としてペットを飼い始めたことで、それまで宿主生物と平和共存していたウイルスが、別の動物やヒトへ移動し、ヒトの新型インフルエンザウイルスに姿を変えようとしているのだという。

    現在は「遺伝子ドライブ」のような、遺伝子改変を行い人類にとって害のあるウイルスを持った種を全滅させることのできる技術も生まれている。
    だが、果たしてそれは正解だろうか?

    ウイルスはわれわれに健康被害をもたらす一方で、レトロウイルスと呼ばれるウイルスに関連した配列は、われわれのゲノムの半分近くになるという。腸内のファージや皮膚のヴァイロームもヒトの美容と健康に必須のものだ。

    数千万年から数億年前から存在しているウイルスは、今もなお、ヒトとの共生の道を探っている。



    p2
    たとえば、ウイルスは細菌よりもはるかに小さく、単純な細胞だと考えられてきた。ところが近年、小型の細菌よりも大きな「巨大ウイルス」の発見が相次いでいる。

    p3
    ウイルスは、ウシの急性伝染病である口蹄疫とタバコの葉に斑点ができるタバコモザイク病の原因として、一九世紀末に初めて発見された。そして、ラテン語で「毒」を意味する「ウイルス」と名付けられた。

    細菌をはじめとするすべての生物の基本構造は「細胞」である。細胞は、栄養さえあれば独力で二つに分裂し、増殖する。このようなことができるのは、細胞がその膜の中に細胞の設計図(遺伝情報)である核酸(DNA)やタンパク質合成装置(酵素)などを備えているからだ。
    一方ウイルスは、独力では増殖できない。ウイルスは、遺伝情報を持つ核酸と、それを覆うタンパク質や脂質の入れ物からなる微粒子にすぎず、設計図に従ってタンパク質を合成する装置は備えていないからだ。しかしウイルスは、ひとたび生物の細胞に侵入すると、細胞のタンパク質合成装置をハイジャックしてウイルス粒子の各部分を合成させ、それらを組み立てることにより大量に増殖する。そのため、ウイルスは「借り物の生命」と呼ばれることもある。

    p4
    ウイルスには、核酸としてDNAを持つものとRNAを持つものがある。天然痘ウイルスやヘルペスウイルスはDNAウイルスであり、インフルエンザウイルスや麻疹ウイルスはRNAウイルスである。核酸は、タンパク質の殻(カプシド)に包まれており、多くはさらに被膜(エンベロープ)に覆われている。後者はエンベロープウイルスと呼ばれる。

    p6
    また多くの場合、一個のウイルスが細胞ち感染すると、五、六時間で一万個を超す子ウイルスが生まれる。これらが周囲の細胞に感染を広げることで、半日の間に一〇〇万個もの子ウイルスが産出されることになる。
    ウイルス核酸が細胞内で複製される際にコピーミスが起き、変異ウイルスが生まれることがある。短時間で膨大な数のウイルス集団が生まれてくるので、コピーミスのある核酸を持った変異ウイルスも絶えず生まれている。短期間に世代交代を繰り返すうちに、変異ウイルスが集団の大部分を占めるようになると、新種のウイルスが出現することになる。

    p7
    ウイルスの感染力は、一般に、六〇℃なら数秒、三七℃なら数分、二〇℃なら数時間、四℃なら数日で半減すると言われている。ただし、後述するノロウイルスのように、外界で長期間生存する例外的なウイルスも存在する。
    また、紫外線や薬品などでもウイルスは容易に死ぬ。専門的には「不活化」と言う。殺菌灯(厳密には殺ウイルス灯)は、紫外線を照射してウイルスを不活化する装置である。咳やくしゃみとともに放出されたウイルスは、太陽の紫外線ですぐに不活化される。大気中のオゾンの酸化効果も有効である。エンベロープには脂質が含まれているため、インフルエンザウイルスなどのエンベロープウイルスは洗剤で容易に不活化される。
    このように、ウイルスは宿主の体の中から外界に出るとすぐに死んでしまう。そのため、冷蔵設備のない状況では、ウイルスの保存や輸送は大きな問題であり、もっとも確実な方法は人間や動物をウイルスに感染させて移動させることであった。

    p11
    これまでに根絶に成功したウイルス感染症は、天然痘と牛疫だけである。牛疫は、四〇〇〇年前のエジプトのパピルスにも書かれているウシの致死的ウイルス感染症で、しばしば農耕の重要な担い手であるウシを全滅させたため、飢饉をもたらし、世界史を揺るがしてきた。なお、麻疹ウイルスは、この牛疫ウイルスがヒトに感染した結果生まれたと考えられている。

    p13
    インフルエンザウイルスなどのエンベロープに包まれたウイルスは数分で死滅するが、エンベロープを持たないウイルスは、外界からの影響に対する抵抗力が強く、長期間生存できる。とくにしぶといウイルスの代表例が、ノロウイルスである。

    p32
    一九一八年、当時「スペイン風邪」と呼ばれたインフルエンザのパンデミック(世界的流行)が起きた。

    p53
    実は、RNAには、自分自身の配列を切ったり貼ったりする、いわゆるカットアンドペーストの機能を持つものがあり、リボ酵素(リボザイム)と呼ばれている。つまり、RNAは遺伝情報だけではなく、複製を支える機能も持つことができるのである。この仮説は、細胞が誕生する以前にRNAがRNAによって増殖していたと考えることから「RNAワールド」仮説と呼ばれている。
    そしてウイルスは、このRNAワールドの時代に、この自己増殖性RNAから進化したという仮説がある。この仮説を支持する証拠として、ウイルスの仲間の「ウイロイド(「ウイルスのようなもの」という意味)」と呼ばれる遺伝因子がある。

    p64
    ヘルペスウイルスは、霊長類を含む多くの哺乳類(ウシ、ウマ、ブタ、イヌ、ネコ)、鳥類(ニワトリ、アヒル、シチメンチョウ、オウム)、爬虫類(トカゲ、コブラ、ウミガメ)、両生類(カエル)、魚類(コイ、サケ、ナマズ、ウナギ)など、脊椎動物に広く感染している。さらに無脊椎動物の軟体動物(カキ)にも感染している。

    p65
    下等動物から高等動物まで広く存在するヘルペスウイルスは、ウイルスが宿主とともに進化してきた経緯を知るのに好適なモデルとみなされている。遺伝子の塩基配列から系統樹を作って調べた結果では、哺乳類、鳥類、爬虫類のヘルペスウイルスの共通祖先は、なんと四億年前のデボン紀にさかのぼると推測された。ウイルスのタンパク質の殻(カプシド)と詳細な構造を比較すると、ヘルペスウイルスの共通祖先は、無脊椎動物から脊椎動物が分かれた五億年以上前のカンブリア紀にさかのぼることが予想されている。
    ヘルペスウイルスは持続感染する性質があるため、太古の昔から動物の系統進化とともに受け継がれてきたと考えられている。

    われわれは多くのヒトウイルスに感染しているが、それらはヒトで生まれたウイルスではなく、太古の時代から生物とともに進化してきたウイルスである。数千万年ないし数億年を生き延びてきたウイルスが、たった二〇万年前に出現したホモ・サピエンスに感染してヒトウイルスに進化し、われわれとともに生きるようになったというわけだ。

    p75
    その結果、「生命は、変化(進化)を伴う自己増殖が可能で代謝活性のある情報システムであって、エネルギーと適切な環境を必要とする」という文言が候補として選ばれた。

    このような作業の結果、最終的に生命は「self-reproduction with variations(変異を伴う自己増殖)」という三つの単語に集約された。一二三の定義のうち、このキーワードに近いもっとも簡潔な定義は、一九二四年にソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが述べた「複製と変異が可能なシステムはすべて生きている」であった。

    p76
    そこへ、一八六〇年、ワインやビールの発酵の原因として酵母(真菌)がパスツールにより発見され、「生きた微小な生物」として生物の仲間に入れられた。一八七六年にはロベルト・コッホが炭疽菌を分離した。当初は真菌も炭疽菌と同様に細菌の一種とされていたが、真菌には核があり細菌には核がないことから、二〇世紀半ば、生物はさらに真核生物(動物、植物、真菌)と原核生物(細菌)の二つに分けられた。

    p79
    生物についてさまざまな見解が飛び交う中、二〇〇二年に「ポリオウイルスを化学合成した」というショッキングな報告が発表された。細胞を介さずに、単なる物質にすぎない原子をつないで、感染力を持つ生きたウイルスを試験管内で作ったというのである。

    それまで、親のゲノムがなければ、子は細胞であれウイルスであれ生じないと信じられていた。彼らの試みは、ポリオウイルスを化学の範疇にまで還元して見せ、生物学の基本的原則を打ち破ったと言えるだろう。

    p81
    細菌には「クオラムセンシング」というシステムがある。クオラムとは、議会などで議決に必要な定足数を指す法律用語である。クオラムセンシングは、細菌の生息密度が高くなっていることを感知して、それを周辺の細菌に知らせるペプチドを放出するシステムで、集団感知システムとも呼ばれている。このペプチドは、特定のタンパク質の合成を促進するもので、病原細菌の場合には、菌数がある程度まで増えるとこのシステムにより毒素の生産が一斉に増加する。

    p85
    たとえばファージは、細菌のゲノムに自分の遺伝情報を組み込み、遺伝情報の一部となって潜伏する(プロファージ)。

    p88
    ヒト内在性レトロウイルス(HERV)の大本は、約三〇〇〇万〜四〇〇〇万年前に、霊長類の間で水平感染を起こしていたレトロウイルスだと考えられている。ある時、このウイルスがたまたま生殖系列の細胞(精子または卵子)に感染し、ゲノムに組み込まれ、宿主の遺伝子の一つとなった。その結果、親から子へと垂直に受け継がれるようになった。受精卵にレトロウイルスの遺伝情報が書き込まれたために、成長した個体の全身の細胞にレトロウイルスの遺伝情報が行き渡り、また子孫にも受け継がれるようになったのである。HERVは、長年の間に、遺伝子にさまざまな変異が起こって複製能力を失った結果、今はヒトでにのDNA中に眠っている。ただし、何かきっかけがあると働き出すことがある。

    p90
    ヒトのゲノムには、約二五万六〇〇〇個(組み込み部位)のHERVが存在している。

    ヒトの胎盤には、「合胞体栄養膜細胞」という細胞が集まっている構造がある。合胞体とは細胞膜同士が融合してできている多数の核を持った細胞のことで、これが胎児の血管と母親の結果の間を隔てている。この膜は、HERV-Wのエンベロープ遺伝子がコードするシンシチンというタンパク質の細胞融合活性により形成されると考えられている。胎児が父親から受け継ぐ遺伝形質は母親にとっては異物なので、胎児は母親のリンパ球により排除されるはずだが、この特殊な膜が胎児に必要な栄養だけを通して、母親のリンパ球の侵入を防いでいると考えられている。つまり、ウイルスの遺産に守られてわれわれは生まれてきたというわけである。
    HERV-Hは、多能性の維持に関わっていることが推測されている。受精卵は、分裂を繰り返し、身体のあらゆる細胞へと分化できる「多能性」を持っている。ES(胚性幹)細胞は発生初期の多能性を持つ状態の細胞から分離したものであり、iPS細胞は体細胞に分化したものを未分化の段階にリセットしたもので、どちらもこの多能性を持っている。ES細胞、iPS細胞のいずれでも、HERV-Hが異常に高度に発現していて、分化が始まると、発現が低下することがわかっている。
    一方、HERVは病気にも関わっている可能性が考えられている。たとえばHERV-Wは、多発性硬化症と呼ばれる神経疾患の原因に関わっている可能性が疑われている。また、HERV-Kは睾丸腫瘍や悪性黒色腫などのガンへの関与が疑われている。
    ここで紹介したのは、HERVの役割の氷山の一角にすぎない。さまざまな病気に関わっている可能性だけでなく、数千万年にわたる進化にどのように関わってきたかを解明することも、すべてこれからの研究課題である。

    p93
    現在、オーストラリアのコアラの間でレトロウイルスの内在化が進んでおり、注目を集めている。

    オーストラリアのコアラは、白血病にかかって、免疫力が低下して死亡するものが多い。

    p98
    われわれは健康被害を及ぼす数多くのウイルスに曝されているが、その一方で、体内ではHERVが染色体に組み込まれて潜んでいる。HERVの祖先と推測されるレトロトランスポゾンはヒトゲノムの三四%を占めており、HERVの九%と合わせると、レトロウイルスに関連した配列がわれわれのゲノムの半分近くになる。ウイルスは私たちの外敵であり、また私たち自身を構成する重要な要素でもある。そして、後者の内在性ウイルスの実態は、まだほとんどわかっていない。

    p126
    「ウイルスは光学顕微鏡では見えない」という二〇世紀初めに生まれた常識から抜け出すことができなかったのだ。巨大ウイルスの発見は、先入観にとらわれずに、自然界を観察する必要性をあらためて示していると言えよう。

    p132
    ウイルスが生存し続けるには、特定の種の宿主から宿主へとウイルスが渡り歩ける必要がある。

    p137
    海洋のうち、太陽光が届く水深二〇〇メートルまでの領域を「有光層」といい、それより深い部分はすべて深海に分類される。有光層では、微細藻類が光合成により二酸化炭素と水を有機物質に変換し、同化や呼吸といった細胞活動を行う。これらの微細藻類は動物プランクトンや魚の餌となり、魚の死骸や排泄物は細菌などにより分解され、可溶性有機炭素として海水中に溶け込む。可溶性有機炭素の一部は大気中に放出され、分解されなかった死骸はマリンスノーとなって海底に沈んでいく。
    深海には、太陽光はほとんど届かない。ここでは、暗闇、高水圧、低水温、低酸素といった過酷な環境に適応するため、有光層とは大きく異なる独自の生態系が構築されている。光合成でエネルギーを得る生物は生息できないため、深海魚などの生物は、有光層から沈んできて深海底を漂うマリンスノーを餌としている。原核生物(細菌とアーキア)は、プランクトンや魚の市街の有機物質を栄養として増殖している。

    p138
    深海底には、三五〇℃にも達する熱水が噴き出す「熱水噴出孔」と呼ばれる場所がある。この熱水に金属の硫化物が大量に含まれている場合は、熱水が深海の冷たい水で冷やされると、金属の硫化物が化学反応を起こして黒く変化する。それが黒い煙が立ちのぼるように見えることから、この種の熱水噴出孔はブラックスモーカーとも呼ばれている。熱水噴出孔は、原子的生命が生まれた場所の有力な候補とみなされており、そこにおける生命活動への関心が高まっている。

    p139
    熱水噴出孔周辺あら分離された細菌やアーキアでも、そのゲノムにウイルスの活動の痕跡が見られる。それは、ゲノムの中のクリスパー(CRISPR)と呼ばれる配列である。これは、二〇ないし五〇塩基が繰り返されている短い配列で、繰り返しの間にスペーサーと呼ばれる配列が存在する。このスペーサーの部分に、過去に感染したウイルスの遺伝子の一部が組み込まれているのだ。細胞がウイルスに侵入された時、細胞のDNAにそのウイルスの遺伝情報と一致するスペーサーがあれば、クリスパー近傍のDNA切断酵素が動員されてらウイルスDNAが認識され切断される。このように、クリスパー配列は過去におけるウイルスの侵入の記録であり、同じウイルスにふたたび感染症された時と免疫機能を司ると考えられている。

    p141
    太陽光は水深約二〇〇メートルまで到達する。この有光層では、主に微細藻類が光合成により水と二酸化炭素を有機物に変換していて、その結果、二酸化炭素が海水中に取り込まれる。その際に分解された水からは酸素が放出される。海洋におけるこの炭素循環で発生する酸素の量は地球上の約三分の二を占める。

    p146
    この二〇年あまりの研究で、これまで完全にブラックボックスだった水圏のウイルスワールドが垣間見えてきた。海は地球の七割以上を占め、水深を考えれば、ウイルスが生息しうる容積は陸地をはるかに超える。海のウイルスは、地球上でもっとも数がおおく、もっとも多様性に富む生物の群と言える。

    p164
    そして、最大のリスクは合成生物学の進展であって、合成天然痘ウイルスは、自然界の天然痘ウイルスよりも広がりやすいものに、もしけは治療薬に抵抗するようにデザインされた危険性の高いウイルスになりうると警告している。

    p166
    かつて、農耕の重要な労働力だったウシとの共同生活の中で、牛疫ウイルスがヒトに偶然感染した。そして、最初はウシとヒトの間で広がっていたものがヒトにだけ感染する麻疹ウイルスに進化したと考えられている。

    p168
    麻疹ウイルスの存続戦略は、そのずば抜けた伝播力にある。ほかの広がりやすいウイルスと比較すると、一人の麻疹患者が一二〜一八人に感染させるのに対して、天然痘ウイルスは六〜七人、インフルエンザウイルスは二〜三人に感染させるにすぎない。既知の全ウイルスの中で、麻疹ウイルスは最高の伝播力を持っているのである。
    麻疹ウイルスは、患者の咳やくしゃみの飛沫とともに呼吸器から感染する。接触による感染も起こす。飛沫の水分が乾燥して直径五マイクロメートル以下の粒子(飛沫核)になると、その中に含まれるウイルスは空気中で二時間くらいは生きている。感染したヒトは、最初は風邪のような症状を示し、数日後から発疹が出て、その段階で初めて麻疹と診断されるが、ウイルスは症状が現れる前から排出され始めているので、その頃には感染が広がっている。発疹が出て麻疹と診断されたあとも、ウイルスは四日ほど排出され続ける。
    多くのヒトは二、三週間で回復する。しかし、麻疹ウイルスはHIVと同様に免疫力を低下させるため、症状がなくなっても体の抵抗力が一ヶ月間くらいは低下しており、ほかの細菌やウイルスによる感染を起こしやすい。

    麻疹は一度かかると終生免疫ができるため、ふたたびかかることはない。そのため、小規模なヒトの集団の中では、麻疹ウイルスは急速に広がってすぐに感染先を失い、途絶えてしまうのである。麻疹ウイルスが生き延び続けるには、未感染のヒトが次々に現れる場所が必要になる。それはすなわち、人口密度の高い都市部である。麻疹ウイルスは、都市部の新たに生まれてくる子供に次々に感染することにより存続してきた。麻疹が全世界に広がっていったのは、近世になって都市が出現した後と考えられている。麻疹ウイルスが存続できる都市は、少なくとも二五万ないし五〇万人の規模と推定されている。

    p169
    麻疹は子供の病気とみなされている。それは、その高い伝播力のために大多数のヒトが子供のうちにかかってしまうからであって、大人がかかりにくい病気というわけではない。麻疹に免疫がなければ、大人も子供も同じようにかかる。むしろ大人の方が、症状が強くなりやすい。

    p172
    その後、麻疹は多くの先進国で排除され、日本でも二〇一五年に「麻疹の排除」がWHOにより確認された。日本では現在も麻疹が発生しているが、これまでのところ、すべて海外から持ち込まれたウイルスによるものである。

    p193
    そして水痘から回復しても、水痘ウイルスは対外に排出されずに潜伏し、数十年後、加齢による免疫力の低下などで再発する。その病名は水痘ではなく「帯状疱疹」となる。
    帯状疱疹は、免疫力の低下などをきっかけに水痘ウイルスが増殖を始め、感覚神経に沿って、胴体、顔、頭、四肢などの皮膚で増殖して潰瘍病変が作られる病気である。

    p196
    EBウイルスもまた、多くのヒトの体内に潜伏しているウイルスである。このウイルスに子供が感染した場合は、風邪のような症状だけで治る。思春期以降に感染すると、約半数のヒトが伝染病単核球症を発症する。日本では二〜三歳までに七〇%くらいが感染し、二〇歳くらいまでに九〇%以上が感染する。

    p201
    ヒトの体の中には、ヘルペスウイルスなどの限られた種類のウイルスを除けば、ウイルスはほとんど存在していないと見なされてきた。ところが、前述のメタゲノム解析が人体にも応用されるようになって、ヴァイローム(virome, オームはギリシア語で「すべて」を意味する)と呼ばれるウイルス集団が発見された。

    ヒトの胃腸炎の原因になるウイルスの多くがRNAウイルスであることは知られていたが、健康なヒトの腸内のウイルスは、まったくのブラックボックスだった。

    p202
    腸内には一〇〇兆を超す細菌が生息しているが、その数十倍のファージが存在すると推定されている。ファージの種類の分布には、世界規模で共通した傾向が見られる、一方、潰瘍性大腸炎など、消化器の病気にかかっているヒトの場合は、その共通した傾向からの逸脱が見られる。このことから、ファージが腸内細菌のバランスを維持することでヒトの健康に役立っている可能性が考えられている。
    ウイルスは体表にも常在している。健康な男女から、一ヶ月にわたって皮膚の拭い液を採取してウイルス様粒子
    精製し、メタゲノム解析を行ったところ、皮膚のヴァイロームの組成には個人差があり、また同一人物でも一ヶ月の間に明らかな変化が見られた。多くのヒトで、パピローマウイルスとポリオーマウイルスなどが存在していた。この二つのウイルスは、かつては同じグループに分類されていたもので、皮膚のいぼやガン(パピローマウイルスは子宮頸がん、ポリオーマウイルスは皮膚ガン)の原因にもなる。典型的な尻尾のあるファージも検出されたが、九〇%以上は未知のものだった。同定できたファージの中には、表皮ブドウ球菌やプロピオニバクテリウム(通称ニキビ菌と呼ばれる細菌などが含まれる)に感染するものがあった。皮膚には一兆に達する皮膚常在菌が生息しており、多くは、皮膚の美容や健康の維持に役立っている。ファージは間接的にこれらの役割を支えている可能性があると考えられている。

    p203
    ヴァイロームの本格的な研究が始まってからまだ一〇年しか経っていない。今後、われわれの体内のウイルスが、われわられの健康や病気に果たす役割が明らかになっていくと期待されている。

    p217
    家禽であれペットであれ、あるいは実験動物としてであれ、ヒト社会の中で、自然界とは異なり頻繁に接触が起きうる飼育環境を設けることは、ウイルスに新天地へと進出するチャンスを与えてしまうことを意味している。

    インフルエンザウイルス粒子の表面には、ヘマグルチニン(H)とノイラミニダーゼ(N)と呼ばれる二つのタンパク質が存在している。Hには一八の型、Nには一一の型があり、その組み合わせでウイルスは分類されている。普通、ヒトの間で流行しているのはH1N1で、高病原性トリインフルエンザウイルスはH5N1である。
    このH5N1ウイルスが、ヒトの新型インフルエンザを引き起こすおそれがあるとして注目されている。

    p221
    カモの間で数千万年も平和に暮らしていてたインフルエンザウイルスは、二〇世紀にカモ→アヒル→ニワトリ→ヒトという思いがけない経路を見つけ、ヒトの新型インフルエンザウイルスに姿を変えようとしているのである。

    現在、われわれの周囲に存在するウイルスの多くは、おそらく数百万年から数千万年にもわたって宿主生物と平和共存してきたものである。

    p231
    とくに進んでいるのはDNAワクチンの開発である。これは、分離ウイルスの遺伝情報のデータベースをもとに、ワクチンとして働くウイルスタンパク質のDNAを設計・構築して、プラスミドに組み込んだものである。プラスミドとは、細胞の中で自立増殖する二本鎖DNAで、大腸菌で容易に大量生産できる。このように、DNAワクチンにはウイルスそのものを用いないワクチンであるという長所がある。また、新たに出現するウイルスに対してすぐにワクチン化できる。

  • ウイルスの意味について、結局明快な結論は出していないように思います。しかし、普段の生活ではほんの一部しか関わりのない莫大なウイルス世界について嫌というほど知識を得ることができます。
    たかだかいくつかのDNA/RNAとタンパク質が入っただけの、普通の分子みたいに結晶化もできてしまう塊、それも他の生物の細胞がなければ何もできない物体を生物と言っていいのか…?でも環境に合わせてこれでもかと遺伝子を残そうとする様はまさに生物の進化そのもの…
    改めて遺伝子というシステムの巧妙さに驚きつつ、生物の歴史に想いを馳せることのできる一冊だと思います。

  • ウイルス研究に長年携わってきた著者が、その歴史と変遷を語ります。
    人間のすぐ傍に存在している見えない隣人の、生態の奥深さに感動しました。
    非常にわかりやすく書かれていますが、入門書というには少し難しいと思えます。
    遺伝子やウイルスについての知識があったほうが読みやすいでしょう。

  • 面白かった…ウイルス関連本では頭抜けている

    こんなに知的好奇心をくすぐられる本は中々ない。ヒト中心の視点ではなくウイルスの視点から自然界を眺めたら、色んな概念が覆される

  • Premium Selection vol.7

  • ウイルスというと生命か、生命でないのか、というあたりで理解がとまっていたが、本書で「生命体としてのウイルスの視点」に接して、考え方が変わってきた。海洋中にも天文学的な数が存在する、人間のゲノムのなかにも、人体のなかにも潜んでいる。生命の定義にあてはまるかどうかというより、生命として考える方が、ゆたかであるということかと。ウイルスの「意味論」としては、人間の都合だけでウイルスを考えてはいけないというところかと思う。

  • Covid19が確認されるちょうど1年前に上梓された本。
    この本からわかることは、ウィルスのことをわかった気になってはならないということだ。
    Covid19は、どうすれば感染が防げるのかはわかっているが、ウィルスそのもののことはわからない。
    解決策がわからない問題が難しいのではなく、どうすれば解決するのか極めてはっきりわかっている問題のほうが難しいのだ。

    P3 ウィルスは独力では増殖できない。ウィルスは、遺伝情報を持つ核酸と、それを覆うたんぱく質や脂質の入れ物からなる微粒子にすぎず、設計図に従ってたんぱく質を合成する装置は備えていないからだ。

    P20 致死的な傷の場所が異なるウィルス同士では、互いに傷を直して生き返ることができる。ウィルスの死は、生物の死の概念を超えていると言えるだろう。

    P182 高い電波力・致死率の病気を起こすウィルスは、宿主の生物が高密度に集まっている環境でなければ存続できない。その意味で、これらの病は、都市化や畜産業の発展などへ舵を切った人類の宿痾と言える。今後もさらに人口が増え続ける以上、毒性の高い病原ウィルスが出現するリスクはさらに高まっていくだろう。

    P203 腸内は、皮膚の表面と同様に体の外であると考えることもできる。【中略】今後、我々の体内のウィルスが、我々の健康や病気に果たす役割が明らかになっていくと期待されている。

  • ウィルス学の泰斗による、ウィルス及び感染症についての研究史と最新の成果(といっても、新型コロナ以前の2018年出版)を踏まえた本書は、もちろん、コロナ禍がはじまっていた2020年7月に購入したもの。なかなか、読みすすめることができていなかった。関係する書籍を複数並行読みをしているせいだ。

    本書をよんでいて、地球はウィルスの惑星だと思ったのは、水圏ウィルス学という最近の成果の紹介の部分である。地球上のどのような水にも、ウィルスを含む多様な微生物が発見されていて、その大多数が、全く知られていなかったもの(気づかれていなかった)であるという。また、人体には遺伝子の中に残るウィルスの痕跡をふくめて、多様な微生物と共生関係にあり、どのような共生関係であるのかも不明であるし、また、個人によってもそのバリエーションが異なり、同じ個人でも時間によって相が変わっているという。そもそもが、受精して胎盤に着床した受精卵には、精子から持ち込まれた異物が含まれているから、当然、免疫が発動されて排除されようとするはずだが、ウィルスによって持ち込まれた遺伝子コードが発現して、成長が継続するという。これは、おそらくは、有胎盤類が誕生したところまで遡るウィルス感染が我々を生んでいるということを意味している。ウィルスを避ける、清潔にするということは、生存に関わることだと言うことも、頭の中に入れておかねければならない、ということだ。

  • 新型コロナウイルスに翻弄されて2年。ワクチンを打った人も周りに増えてきている一方で、ウイルスによって、オリンピックは無観客になったり、個人的にも、世界的にも大打撃を与えられた。そもそもウイルスって何なんだろう。今だから読みたくなったウイルスの変遷、仕組みをまとめた本だ。

    例えば、「なぜ石鹸で手を洗うことが予防になるのか?」ウイルスの核を覆っている外殻が、石鹸の中の油に弱いうえ、その核だけではウイルスが生き延びれないため。また、「なぜ長い間ある国で清浄されたと思われていたウイルスが数十年後に突然現れるのか?」それには各国の発展や輸出・輸入による動物や商品の取引など、大きい経済の動きが関連していたりする。
    (個人的には動物実験や新たに出てきたウイルス性の病気に対して牛やウサギ、猿が大量に死んでいるのが心が痛んだ…。)

    ウイルスの仕組みの解説、ワクチンが作られるまでの世界的な歴史の流れなど、コロナウイルスに限らず色々なウイルスについてのイメージがよりわかるエピソードがたくさんあった。それを今の新型コロナウイルスの動きとも繋がる部分があると思う。

    読んでみるととても目から鱗な事実が多くて、すごく面白かった。この本が新型コロナウイルスが出現する前に出版されていたのに、DNAワクチンの仕組みについても解説されているのが、今の時期とリンクしていて不思議な気持ちになる。

    高校の時に生物を選択して勉強していた人なら、「あ〜この単語あったわ〜」と懐かしい気持ちになるかもしれない。

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著者プロフィール

1931年、神奈川県生まれ。東京大学農学部獣医畜産学科卒業。農学博士。北里研究所所員、国立予防衛生研究所室長、東京大学医科学研究所教授、日本生物科学研究所主任研究員を経て、現在、東京大学名誉教授、日本ウイルス学会名誉会員、ベルギー・リエージュ大学名誉博士。専門はウイルス学。主な著書に『エマージングウイルスの世紀』(河出書房新社、1997)『ウイルスと人間』(岩波書店、2005)『史上最大の伝染病 牛疫 根絶までの四〇〇〇年』(岩波書店、2009)『ウイルスと地球生命』(岩波書店、2012)『近代医学の先駆者――ハンターとジェンナー』(岩波書店、2015)『はしかの脅威と驚異』(岩波書店、2017)『ウイルス・ルネッサンス』(東京化学同人、2017)『ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在』(みすず書房、2018)『ウイルスの世紀――なぜ繰り返し出現するのか』(みすず書房、2020)など、主な訳書にアマンダ・ケイ・マクヴェティ『牛疫――兵器化され、根絶されたウイルス』(みすず書房、2020)などがある。

「2022年 『異種移植 医療は種の境界を超えられるか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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