- 本 ・本 (232ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622088455
作品紹介・あらすじ
「物音ひとつしない静けさに被われることがある。何かを読み忘れていないか。そう思うのは、そんなときだ。書棚に置いたまま、まだ読んでいない書物が多数ある。また、書物のなかに含まれる作品のすべてを読むわけではないので、そこにも読まないものがあって、新雪のように降りつもる。そのことがこれまで以上に気になりはじめた。ある年齢を過ぎると、知らないまま行き過ぎることを惜しむ気持ちが高まるのだろうか。」(本書「異同」より)
これまで多くの読者と高い評価に支えられてきた散文集シリーズ。『忘れられる過去』(講談社エッセイ賞)、『過去をもつ人』(毎日出版文化賞書評賞)につらなる本書もまた、ぶれない著者の発見と指摘に、読む者は胸を突かれ、思念の方位を示される。そのありがたみは変わらない。
風景の時間、ゴーリキーの少女、名作の表情、制作のことば、川上未映子の詩、西鶴の奇談、テレビのなかの名作、など近作エッセイ45編に書き下ろしを加えた。
感想・レビュー・書評
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この書評自体が散文詩のよう、文学を味わい尽くすとはどういうことなのかを教えてくれる。
たまらなく読みたくなった作品
・美の要点 色川武大 うらおもて人生録 アンダーソン ワインズバーグ・オハイオ
・現象のなかの作品 二人の詩人に容赦ない批評 作家さん、気づき、学びなどの言葉の考察
・美しい人たちの町 サローヤン ヒューマンコメディ
西鶴の奇談 ぬけ穴の首
・光のなかでリーナは思う フォークナー 八月の光
・情景の日々 阿部昭詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
美しく静謐な文体。荒川洋治が愛した美しい詩や文章を伝える一冊。
一生のうちに読める本は限られている。なのに、玉石混交の書物の森には霧がかかっている。
そんな時『霧中の読書』は「灯り」となり、次に読むべき本を照らしてくれる。
彼の読書歴をなぞりたい。同じ本を読み、同じように感じてみたい。初めてそんなことを思った。
“秒針のように進む文章の美しさは、これ以上のものを小説に求める必要がないしるしだと思う。”いつの日か、こんな書評ができるようになりたい。
p35
いい作品だと活字はさらに美しく見える。活版でも、内容のない本だとかえってなかみのまずしさが目立つ。だから活版にふさわしい詩文はごく少数。ぼくはひところまで活版に愛着をもったが、いまはオフセットの本にもとてもいいものがあるので以前ほどの思いはない。だが活版の世界を知っていることは、一つの時代経験だと思う。
すべてがオフセットの時代になると、書物に対する気持ちがうすまる。本という「物」を見つめることで、内容のよさ、文章の美しさだけではなく、「物」が生まれるまでにかさわる人たちの工夫や努力、多くの人の存在の手触りを感じるなど、さまざまなことがわかって意識が広くなる。そうしたことがないと書物はただの情報の容物になってしまう。
p50
人はどんなときも、誰かを愛することなく生きることはできない。でもその相手の心を、ためしたり傷つけてみたくなる。
p66
どの作品にも、見たものを即座に心のなかへ移し変える場面がある。
p68
芥川龍之介「お富の貞操」は、明治元年から明治二三年までの話。お富と新公のやりとりも見どころだが、「何か心の伸びるような気がした」という、お富の最後のことばがいい。しっかり意味をつかめていないかもしれないのに、ぼくもまた「心の伸びる」思いがする。十分に理解できないとしても、ここがたいせつだと思われて、胸にとどまることがあるものだ。
p70
もとより読書というのは心もとないもので、いい作品に出会うたび、その作品がどういうものか、この世界のとまういう位置にあるのかと思う。一瞬見えにくいものに変わるのだ。読むことはその不安な気持ちを高めていくことであり、不安な思いとたたかっていくことなのだ。でもそれが楽しい、という気持ちに変わるときが訪れる。そこからはいっそう楽しい。
p71
私小説と思われるものも、一時期の人間の表情(しっかりとどめることで、すぐれた社会小説になっているのだ。
時代が遠ざかると、小説の表情も、あらたまる。その変化を知る。味わう。それも読むことから生まれる、よろこびのひとつなのだと思う。
p97
自然は、光をまとうとき、さらに輝きを見せる。上田三四二『涌井』(一九七五)の代表歌。
〈ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも〉
ほとんどひらがな。〈ちる〉も〈ひきて〉も〈ゆく〉も、ひらがなだ。普段のことばも、このような並びでつながると、とても美しいものになるのだ。なんてきれいな世界だろう。花びらの一連の動きが、いつまでも目のなかに光を残す。自然の光景があることで、その光景を観察することで、日本語の新しい世界が生まれることが、こうした作品でよくわかる。自然がなければ、表現は深化しなかっただろう。人間がいつも持ち合わせるものだけで書いていたら、表現は同じ地点にとどまり、枯れていくはずだ。
p126
どのようにして学生時代を過ごしたかは、どのようなものを読んだかということと深く結びつく。そんな時代の学生の心の世界がここにはひろがっているのだ。多くの書物を知っただけではない。読みおえたあとも、それを灯りにしていた。大切にして生きたあかしなのだ。その情景もかけがえのないものである。
p131
気忙しい日々。読むことはあとまわしになった。いい書物とはどのようなものか、そこから自分はどのくらい離れているのかも見えなくなる。情報化社会とはいうものの、ひとりひとりの内部の情報化は、たちおくれた。それが平成の時間だったのかもしれない。それでも人はどこかで、いい本を読むことを、そんな日があることを願っているのだ。
p198
秒針のように進む文章の美しさは、これ以上のものを小説に求める必要がないしるしだと思う。
p214
近代文学の解釈と鑑賞の書物は、一九七〇年代ころまではたくさん出ていた。吉田精一、塩田良平などの著作が特に知られた。明治・大正期の小説や詩には古いことばやことがらがたくさん出るので、説明が必要になる。そのときに、なくてはならない書物だった。だがそれ以降になると、古いことばやことがらを扱う作品は少なくなる。こまかい考証や注釈にこだわっている解釈と鑑賞の本は、時代遅れのものと映った。でも実は解釈と鑑賞の本は、ただこまかいだけではなく文学表現のよみとり方をとてもていねいに教えてくれたのだ。そこで行きかう文学的な知識、こまやかな視線の動きは次第に不要のものとみられるようになり、そのために文学の理解はせばめられる結果になった。今日の文芸誌に掲載される文芸評論は知識と情報を押し出し、一見高級な印象(与えるけれど、対象となることばや文章を読みとる点では粗雑であることが多い。内容も自身の知見を披露するばかりで、文学の基本理解を欠いた現代の読者のためのものとはなっていない。つまりそれは明らかに現代という時代を見失っていることであり、時代遅れなのである。吉田精一の本を開くと、もっと教えてほしいという気持ちが起きる。文学について知ってみたいという思いを知ることになるのだ。 -
いい感じに時間が過ぎる、読んでいると、そう。
一番最初の「椅子と世界」子供の学校で小さい椅子に大人が座り。いい情景。
こんなふうに過ごせたら、気持ち良いね。
読んでいると、気持ち良い。 -
荒川洋治はやっぱりいいな。ああ、ちゃんとした日本語を読んでるな、という感じがする。とても。
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水のような感性
なんていうんだろう…普遍性を感じる… -
高橋源一郎さんのNHKラジオより知って拝読。
手元に置いて何度か読み返したいと思える。
作者が本の波にもまれることをとても楽しんでいて、それを眺めているのが楽しい。私もこんな風にこだわりを持って言葉と向き合いたい。 -
いつもの当たり前のようでいて、どこから見付けてくるんだろうという着眼の冴えと妙を強く感じる。
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荒川洋治印の文芸エッセイ。安心感がある。
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漢和辞典は国語辞典と違って、言葉の補充がない。なるほど。
著者プロフィール
荒川洋治の作品





