誰がために医師はいる――クスリとヒトの現代論

著者 :
  • みすず書房
4.45
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本棚登録 : 675
感想 : 63
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  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622089926

作品紹介・あらすじ

「私たち医療者にできるのは、依存症者が落ち着いて自分の今後を考えられる機会と情報を与え、彼らが自分を変えるための行動を起こしたときに伴走し、「それでいいんだよ」と応援することくらいしかない。たとえていえば、医療者ができるのは、海に溺れている依存症者に対して「浮き輪」を──できれば絶妙なタイミングで──投げてやり、陸地のある方向を教えることだけであり、その「浮き輪」を自分の手でつかんで陸地まで泳いでいくのは、依存症者自身なのだ」
わが国の精神科医療では、派閥主義や利権争いによって「患者にとって無意味な」治療が、あたりまえのように行われている。著者はアディクション(嗜癖障害)臨床の中で、ときに無力感にさいなまれながらも、常に患者のためになる治療だけを考えつづけてきた。
「薬物依存症者には刑罰よりも治療を」と訴えつづけてきた著者は、依存症患者を適切に治療し減らすためには、メディアや社会も変わるべきだと主張する――人びとを孤立から救い、「安心して誰かに依存できる社会」を作ることこそ、依存症への最大の治療なのだ。
雑誌「みすず」の好評連載を単行本化。アディクション臨床の最前線で戦ってきた著者の半生記。

感想・レビュー・書評

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  • 「世の中には、生きるために不健康や痛さを必要とする人がいる。」(本文P56より)
    衝撃的な一文だが、私たち日本人大好きな「ちゃんとやる」「頑張る」などの精神論では片付かない問題が私たちの心にも社会にも存在している。

    依存症や嗜癖障害で苦しむ人たちに伴走してこられた精神科医 松本俊彦さんの1冊。

    松本さんが医者、それも精神科、さらに依存症を専門とする道を目指した経緯や、とても個人的なイタリア車への熱い思いやコーヒーカフェイン依存症であった事柄など、お人柄が伺える内容も満載。

    酒や薬物がなぜ違法の扱いを各国で受けるようになったのかという社会的背景が、ご自身の考察として述べられ、興味深い。
    第一次大戦当時、禁欲主義的プロテスタント移民の精神と、酒造メーカーの多くがドイツ系のため嫌悪感による相乗効果が禁酒ムーブメントに繋がったとのこと。

    大麻については同様に、メキシコ系移民への差別感情や文化的反発が背景からとの説明。人はやはり異物異質に不安や嫌悪を抱く生き物だと納得する。

    薬物やアルコール依存患者については、日本はワイドショーやもやはワイドショーと大差ない報道番組が「定型」や「標準」を確立してしまっている。

    すなわちダメな人。弱い人。快楽ばかりを追い求め、努力も我慢も足りないどうしようもない人と。

    カメラが追いかけ、本人が深く謝罪し、世間が納得するまで責め続ける。ヤフコメもね。
    門外漢の芸能人やコメンテーターが「世論」の代表者として弾じ、処罰感情を扇動する。街録インタビューでもう一押し。

    松本さんもこうしたメディアのポピュリズム扇動による処罰感情の行き過ぎを懸念され、また一部のみを切り取り単純化する放送の在り方について過去の出演時の苦い経験を説かれている。
    「分かりやすさ」は危険だなあと再認識。

    印象的だった箇所:
    ●「生き延びるための不健康」
    本文P.56より:
    何かの依存症を抱える人だけのものではないのかもしれないと思う。一見すると健康そうに日々のルーティンを生きている人たちのなかにも、ささやかな不健康や痛みでバランスをとっている人は少なくないのではないかとのこと。
    例として
    蕎麦を覆い尽くすほど大量に振りかけられた唐辛子の真赤な色。本来痛みしかないはず。

    ●生き延びるために、子どもの頃から「気分を変える、逸らす」物質が必要であった人生史がある。
    本文P.4より:
    忘れてはならないのは、人生早期より「気分を変える」物質を必要とした背景には、しばしば過酷な成育歴が存在するということだ。

    ●本文P.20より:
    患者たちは安心して人に依存できない人たち、あるいは、心にぽっかりと心を開いた穴を、「人とのつながり」ではなく、クスリという「物」で埋めようとする人たちだ。

    ●本文P.74より:
    「コミュニティとは、結局、それまで出会った人たちの集合体、集団である。」
    人は信頼する集団の規範、自分にとって大切な集団の規範だけを尊重し、遵守するものである。

    ●本文P.38より:
    「神様、私にお与えください
    変えられないものを受け入れる落ち着きを
     変えられるものを変える勇気を
     そして、その2つを見分ける賢さを」
     (ダルクの誓いの言葉より)

    「好きなものを嫌いにさせる」ことはできない。つまり誰も人を変えることはできない、変えられるものは自分だけなのである…。
    以上。

    「ちゃんとすれば」「しっかりやれば」「我慢すれば」万事解決というのは幻だよなあ。もちろん努力せずに結果や幸運を手にすることはそもそも難しいが。

    「手のかからない患者」は実は深刻な問題を抱え込んでいていう事実も推して知るべし。
    元来、「人間一般に対する信頼感、期待感なさと表裏一体のもので、実は援助希求性の乏しさ。『人に依存できない』人。」というのは私そのもの。少しずつ荷を下ろせたらいいのだけれど。

    嗜癖や依存症に限らず、「生きづらさ」を感じる人には救いとなる言葉がいっぱい。
    今回も松本先生の著作は救いに満ちた言葉溢れる一冊でした。

  • 覚醒剤と言えば、ダメ、ゼッタイ。のイメージが強すぎて、それ以上の事は深く知ろうとは思わなかったけれど、今回この本を読んですごく勉強になった。ぜひおすすめしたい。

    覚醒剤依存の本質は快楽ではなく、苦痛。
    依存症になる位薬に頼ってしまう人は何かしらの心の苦痛を取り除きたいから。
    だから私達は法規制をむやみに増やすよりも痛みを抱えた人の支援が必要との事。

    依存症の子の言葉
    「人は裏切る、クスリは裏切らない。」
    すごい言葉だね。
    でも私だって人に頼るのが難しい場合がある、その場合はモノに頼ってしまう事だってきっとあるし、何か心に大きい傷が出来たら依存症に転ばないとも限らない。どんな人だって依存症になるリスクはある。
    そう言う人が少しでも減る様な社会を目指す為、少しでも著者の考えが広まると良いと思う。

  • 今週の本棚:渡邊十絲子・評 『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』=松本俊彦・著 | 毎日新聞(有料記事)
    https://mainichi.jp/articles/20210515/ddm/015/070/007000c

    誰がために医師はいる | みすず書房
    https://www.msz.co.jp/book/detail/08992/

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      猫はカフェイン中毒、カワイイ中毒である、、、
      猫はカフェイン中毒、カワイイ中毒である、、、
      2021/05/15
  • 本当に素晴らしい本。すべての人に読んでほしい。
    辛い状況にいる人は、こういう頼りになるお医者さんがいることが、心の支えになる。
    辛い状況の人が周りに一人もいない、見たことも聞いたこともない、って人はいないと思う。(ニコチンやカフェインやアルコール含む)に依存しないと生きていけない人と接することはあるし、自分や大切な人が依存症に陥る可能性もある。
    何より、絶対にそうならないとしても、依存症から立ち直ろうとする人を偏見によって叩きのめす可能性が減らせる。
    精神医療に関わる医師、看護師、カウンセラー、問題児童・生徒を抱える学校の先生にもぜひ読んでほしい。

    あまりに響く言葉ばかりで、引用したらほぼ全文になってしまいそうなくらい。
    ヤンキー(不良)全盛期に中学時代を過ごし、大切な友人を薬物で失った経験、自身もカフェインやニコチン、ゲーム、車の改造に依存した経験を率直にかたっているからこそ、この人の患者に対する思いが「本物」であることがわかる。
    初めから名医だったわけではなく、様々な患者さんから教えてもらって今があるのだ、という姿勢も好ましい。

    特に衝撃を受けたのは、刑務所で自殺した覚せい剤依存症の女性のエピソードと、多重人格を「詐病」とされて少年院出所直後に殺人未遂事件を起こした少年のエピソード。これらの人は本当は救えたのである。それを罰するばかりでケアを怠った結果、第三者にまで危害が及ぶことになってしまった。
    依存症を犯罪として取り締まっても、解決にはならないということ。
    依存症の人は「人に依存できない」「自分のコミュニティに信頼がおけない」状態にある、と。そこを解決しなければ何度逮捕して服役しても、また繰り返すことになる。

    日本の司法と精神医療が変わることを願ってやまない。
    特に虐待を受けた子どもたちをケアすることは喫緊の課題である。
    虐待に気づかれないまま大人になってしまった当事者が味わう地獄のような苦しみ、それを紛らわすための薬物依存は、適切なケアを行うことで治療することができ、人生を取り戻せる。それは、本当に日本人全員が知っておくべきことだと思う。

  • 自身の興味のある領域とも似通う部分がありなかなか教訓となる内容だった。医者はともかく精神科医ならば読んでおいて損はない。

    個人的に、依存症も過食摂食障害も反社会的行動も手段は違えど全て愛情の飢餓を代償しているに過ぎないと思っている。
    しかし、その大元を辿ることを大半の医者は放棄せざるを得ないのが今の医療の現実であるとともに、患者もまた辿られることに恐怖を覚えている。
    そのジレンマとどう向き合っていくかが精神科医の勘案すべき所なのかもしれない。

    ✏一般に若さとは心の可塑性の高さを意味し、精神科治療においてプラスに働くことが多いが、依存症治療にかぎっていえば必ずしもそうとはかぎらない。むしろ若さとは「失うもののなさ」を意味し、ともすれば、破滅に向かって真っ逆さまに転落するかのような自己破壊的な行動につながりやすい面もある。

    ✏しかし、ひねくれ、挑戦的な表現とはいえ、人に対する絶望をあえて誰かに伝える、という矛盾した行為そのものが、「人とのつながり」を求める気持ちの表れとはいえまいか?

    ✏彼の指摘はまさに正鵠を射ていた。説教や叱責といったものは、それこそ彼の周囲にいる素人の人たちが無償でやっていることだ。それと同じものを、いやしくも国家資格を持つ専門家が有償で提供してはいけない。

    ✏浮き輪を投げて、彼らが陸地を目指して泳がなかったとしても、そのことに関して私たちはどうにも責任のとりようがない。しかし、それは無責任とは違う。当事者の健康さを信じ、相手の「心の自由」を保証するがゆえの配慮なのだ。

    ✏なにしろ、依存症という病気は本質的には「治りたくない」病だ。

    ✏これはもはや治療ではない。営業、いや誘惑といったほうがよいかもしれない。

    ✏依存症は否認の病といわれているが、実は、心的外傷後ストレス障害にもまた否認の病としての特徴がある。トラウマを抱えた患者の多くは、「悪いのは自分、だから、罰として、毎晩こんなつらい思いをしなければならないんだ」と思い込んでいて、このうえ自分が「病気」に罹患していると認めるのは、ただでさえどん底状態の自尊心をさらに傷つけることになりかねない。だから否認するのだ。

    ✏「心の痛みを身体の痛みに置き換えているんです。心の痛みは何かわけわかんなくて怖いんです。でも、こうやって腕に傷をつければ、「痛いのはここなんだ」って自分に言い聞かせることができるんです。

    ✏要するに、安心できない場所では自傷行為さえできない、ということなのだ。自傷行為は、少しならば安心できる環境、多少は自分の苦痛を理解してくれる人がいるかもしれない環境で起こる現象なのである。

    ✏少年矯正の世界から学んだことが二つある。一つは、「困った人は困っている人かもしれない」ということ、そしてもう一つは、「暴力は自然発生するものではなく、他者から学ぶものである」ということだ。

    ✏人は誰しも生産的な存在でありたいと願う動物だ。

    ✏断言しておきたい。もっとも人を粗暴にする薬物はアルコールだ。さまざまな暴力犯罪、児童虐待やドメスティックバイオレンス、交通事故といった事件の多くで、その背景にアルコール酩酊の影響があり、その数は覚せい剤とは比較にならない。

    ✏多くの国でアルコールが許容されているのは、おそらく二つの理由によるのだろう。一つは、その歴史の長さと社会浸透度ゆえであり、もう一つは、現状の世界では、「ワインは神聖なるキリストの血」と見なす宗教的世界観が主流だから、というものだ。

    ✏この世には「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは薬物の「よい使い方」と「悪い使い方」だけである、ということだ。

    ✏この答えには続きがある。「悪い使い方」をする人は、必ずや薬物とは別に何か困りごとや悩みごとを抱えている。それこそが、私が医師として薬物依存症患者と向き合いつづけている理由なのだ。

    ✏先輩の一人はある格言を教えてくれた。曰く、「内科医はなんでも知っているが何もできない。外科医はなんでもやるが何も知らない。精神科医は何も知らないし、何もできない」。

    ✏ラベリングにはさしたる意味はない。彼女の生きざまというか、痛みに満ちた人生の物語を理解していれば、それで十分寄り添える。

    ✏そのときようやく気づいたのは、ご婦人の「手のかからなさ」とは、実は、援助希求性の乏しさや、人間一般に対する信頼感、期待感のなさと表裏一体のものであった、ということだった。

    ✏切れ味のよい、「あの薬のおかげで救われた!」という効果が自覚できる薬は、長期的には好ましくない。そして、その人が抱える心の傷が深刻なものであればあるほど、劇的な効果をもたらす薬は危険である。そう考えるからだ。

    ✏「法に触れることは、「ダメ。ゼッタイ。」」という道徳教育が、日本人の「逮捕されずにハイになる」ことへの執念を育んだともいえるだろう。

    ✏アディクション(依存症)の反対語は、「しらふ」ではなく、コネクション(つながり)

    ✏「アヤナイ」は「相手とのあいだに垣根を作らない。相手を自分のことのように思う」という態度なのだ。  この言葉は、そのときの私たちにぴったりだった。支援者/被支援者、あるいは専門家/当事者という垣根を越えて、音楽という「化学物質なしの酔い」を介してつながっていたからだ。

  • もう目から鱗がバラバラ落ちた。「蒙を啓かれる」とはこういうことかも。誰だったか、優れた知見は、読むとまるで以前から知っていた当然のことのような気がすると言っていたが、まさにそれ。非常に読みやすい文章で、すいすい読み終え、もう一度付箋を貼りながら読み返したら、付箋だらけになった。

    みすずの本なので、ちょっと構えて読み出したのだけど(裏表紙の紹介もガチガチだし)、自分の来し方を交えながら綴られていて、思っていたよりずっとソフトな読み心地だった。いやもちろん、著者は依存症を主に診る精神科医なので、ハードな話もたくさん出てくる。それでも、陰惨な雰囲気にはならないのは、著者が、依存症を含めた精神疾患の患者に対して、とてもオープンな気持ちで向かい合っているからだと思う。薬物依存など「市民社会」とは切り離された闇の世界の話だと思っていたが、それは刷り込まれた思いこみだったのだと教えられた。

    薬物(主に覚醒剤など)への自分の知識は、まさに著者が批判する「人間やめますか」とか「ダメ。ゼッタイ」とかの言葉を掲げて行われてきたキャンペーンによるものだ。薬物に関わると人間ではなくなる、薬物を一度でも摂取したら一生幻覚やフラッシュバックから逃れられない、だからダメ、ゼッタイ。そうした知識は誤っているし、薬物への対策として効果がないうえに、薬物に依存することでしか生きられない人をより孤立に追いやるものだ。臨床経験と依存症自助グループとの関わりから、著者はそうした考えにたどりつく。変わるべきは社会の側。耐えられないほどの苦痛を持つ人が、薬物にではなく、「人」に頼れる社会が必要だという、その提言は鋭く、重い。






    以下は覚え書き。

    ・同じ依存症でも、アルコールと薬物では様々な違いがあり、特に違うのが発症年齢。アルコールは中高年(ほとんど男性)。薬物の多くは10代半ばで社会不適応行動(非行)の一つとして乱用が始まる。
    「忘れてはならないのは、人生早期より『気分を変える』物質を必要とする背景には、しばしば過酷な生育歴が存在するということだ」「誰もがそうなる(違法薬物に耽溺する)わけではない。なるのは決まって心の痛みを抱えている者だ」

    ・「『依存症は、道徳心の欠如や意志の弱さのせいではない。病気なのだ』ということを最初に唱えたのは、医者ではなく、自助グループを立ち上げた当事者だった」「要するに、依存症という病気は、まずは当事者によって発見され、医学は長いことそれを疑った後にようやく追認し、その後、今日まで当事者の経験と知恵を学んで(もしくは、盗んで)きたわけだ」

    ・ある女性患者の死に衝撃を受けた著者は、時間をかけて二つの視点を持つに至る。一つは、トラウマ体験が引き起こす深刻な影響。もう一つは薬物依存症の本質は「快感」ではなく「苦痛」であるという認識。患者は「快感」が忘れられないから薬物を手放せない(世間の認識)のではなく、薬物が、ずっと自分を苛んできた「苦痛」を一時的に消してくれるから手放せないのだ。

    ・同様のことが自傷行為や過食・嘔吐にも言える。トラウマ記憶という自分ではコントロールできない痛みから、ほんの一瞬でもいいから気を逸らすために、コントロールできる痛みを用いる。
    「世の中には、生きるためには不健康さや痛みを必要とする人がいる-」

    ・「虐待行為と自傷行為は密接な関係があるが、虐待を受けている家のなかで自傷行為をくりかえす子どもはきわめてまれである」「要するに、安心できない場所では自傷行為さえできない、ということなのだ」

    ・「少年矯正の世界から学んだことが二つある。一つは、『困った人は困っている人かもしれない』ということ、そしてもう一つは、『暴力は自然発生するものではなく、他者から学ぶものである』ということだ」「なぜ一部の人はコミュニティの規範を軽視し、それを逸脱するのか。その答えはあまりにも明瞭ではないか。それは、その人がコミュニティに対する信頼感を抱けていないからなのだ。コミュニティとは、結局、それまで出会った人たちの集合体、集団である。そして、人は信頼する集団の規範、自分にとって大切な集団の規範だけを尊重し、遵守するものである」

    ・著者は若い頃、古いアルファロメオをせっせと改造して乗っていたそうだ。
    「いまある自分(の車)との折り合いをつける方法という点で、身体改造(タトゥーやピアス)と車の改造は共通している気がした。いいかえれば、いまの自分は認められないが、だからといって自分を完全否定するつもりはないということだ」

    ・「四半世紀におよぶ依存症臨床の経験を経て確信しているのは、あらゆる薬物のなかでもっとも心身の健康被害が深刻なのは、まちがいなくアルコールであるということだ」「断言しておきたい。もっとも人を粗暴にする薬物はアルコールだ。さまざまな暴力犯罪、児童虐待やドメスティックバイオレンス、交通事故といった事件の多くで、その背景にアルコール酩酊の影響があり、その数は覚醒剤とは比較にならない」 
    権威ある医学雑誌に掲載された研究においても「害の総合得点がもっとも高い薬物はアルコールであり、アルコールの場合、特に社会への害が他の薬物から突出していたのだ」「要するに、アルコールは、自他に対する衝動性・攻撃性を刺激し、解き放つのだ」

    ・「最近つくづく思うことがある。それは、この世には『よい薬物』も『悪い薬物』もなく、あるのは薬物の『よい使い方』と『悪い使い方』だけである、ということだ。これが、『なぜアルコールはよくて、覚せい剤がダメなのか』というあの患者の問いかけに対する、私なりの答えだ」「そして、この答えには続きがある。『悪い使い方』をする人は、必ずや薬物とは別に何か困りごとや悩みごとを抱えている。それこそが、私が医師として薬物依存症患者と向き合いつづけている理由なのだ」

    ・「薬害というものの大半は、医師の悪意ではなく、善意によって作り出される。つまり、人は自分の痛みに弱いだけでなく、目の前にいる他人の痛みにも弱い生き物なのだ」

    ・最近四半世紀の「薬物乱用栄枯盛衰」。90年代には、80年代一世を風靡したシンナーが急速に人気を失い、覚醒剤が一気に台頭。2000年代に入ると、未規制薬物(マジックマッシュルームなど)が登場し、順次規制される。処方薬リタリンの乱用。
    「そして2010年代、あの忌まわしい危険ドラッグが登場し、国内全域を覆い尽くすような『ブーム』へと突入することとなったのだ」「規制側と開発者側とのイタチごっこの末に、モンスターのような危険きわまりない薬物が誕生し、国内各地で多くの中毒死と交通事故を発生させたのだ。最終的には販売店舗の撤退によってこの一禍は表面上鎮静したものの、あの数年間は、やみくもな規制がいかに使用者個人と社会を危険に曝すのかを証明する、一つの壮大な社会実験だったと思う」
    危険ドラッグを使っていた人の一部が、代わりになるものとしてハマるのがやはりアルコールで、好まれるのは「ストロング系」。自助グループの施設長の言葉「やっぱり最後にたどり着くのは、世界最古にして最悪の薬物、アルコールなんだな」

    ・著者が過酷な虐待による解離性同一性障害(いわゆる二重人格)と診断した少年が、少年院で適切な治療が受けられず、出院後殺人未遂事件を起こした、とある。
    「矯正施設の堅牢な管理体制は、解離性同一性障害を抱える者の暴力的人格をしばしば悪化させる。その管理的環境に適応的で従順な交代人格を作り出し、施設内では一見平穏に過ごすものの、抑圧された怒りや憎悪の感情は確実に暴力的人格を肥大させてしまうからだ。そして、悲劇は決まって地域に戻ってから起こる。鎖を解き放たれた内面のモンスターは、施設内で増強された暴力性を地域に出てから爆発させるのだ」
    上記の危険ドラッグの件とあわせて、もっとも衝撃を受けた。事件・事故の背後に潜む薬物(とりわけアルコール)の影響や、犯罪者の生育歴(被虐待歴)について、もっと目が向けられ、地道な対策が練られなければならないと強く思った。

  • 一気に読み終えた。著者が悩みながら、自身も依存症を自覚しながら、薬を処方する立場の精神科医としてどう患者と対峙しているのかを赤裸々に綴っている。素晴らしい一冊。

  • 本の雑誌・年間特集号から。高野秀行氏が絶賛オススメしていたもの。その中で”控えめに言って傑作”という評価をなされていたけど、私も大賛成。版元や装丁から、一見お堅い本に思えてしまうけど、これは医学書というより、誰でも手軽に手に取れるエッセイと言った方が近い。精神科領域の中でも、アディクションに焦点が当てられている、というか著者の専門がその分野なんだけど、”ダメ、ゼッタイ”で取り締まるばかりでなく、そこに至る背景にもっと目を向けないと、根本的解決に繋がらないってのは、激しく首肯。前にも読んだけど、アルコールの方がずっと社会に対する害悪は大きいっていうのも、まさにその通りだと思える。読み易いけど気付きの多い、素敵作品。

  • p5 薬物依存 20-30代 そして忘れてならないのは、人生早期より気分を変える物質を必要とした背景には、しばしば過酷な生育歴が存在するということだ

    p17 人は裏切るけど、シンナーは俺を裏切らない

    p20 人は裏切るが、クスリは裏切らない アディクション臨床で、これと同じ言葉を何人もの患者から聞かされた
    彼らは安心して人に依存できない人たち、あるいは、心にぽっかりと口を開けた穴を、人とのつながりではなく、クスリという物で埋めようとする人たちだ

    p29 覚醒剤依存症患者より、クスリのやめ方を教えてほしいといわれた

    p35 自助グループの2つの効果 過去と未来の自分と出会うことができる 

    p36 自助グループで一番大切にされるのは、初めてmeetingにやってきた新しい仲間 (過去の自分)

    p37 人生において最も悲惨なことは、ひどい目に合うことではありません。一人で苦しむことです

    p39 依存症は、道徳心の欠如や意志の弱さのせいではない。病気なのだ。最初に唱えたのは意志でなく、自助グループを立ち上げた当事者

    p42 どこかに「このままではだめだ」「もう少しマシな人生を送りたい」という気持ちが存在するからだ。その部分ーそのわずかな心の隙間ーにどうやって自分の足先を突っ込み、相手のドアを開けさせるか

    p52 たとえば入院などして安全な環境に身を置くと、その安堵感のせいか気が緩み、心の別室の扉が開き、記憶の解凍が始まってしまうのだ。
    どう考えても心的外傷後ストレス障害の症状、すわんわち、トラウマ記憶のフラッシュバックだった
    トラウマ記憶のフラッシュバックが引き起こす心の痛みを紛らわせる方法が、少なくともあの時点ではそれしかなかったからではないのか

    p55 あの患者のおかげで、私はアディクションに関してこれまでとは違う2つの視点を持つことができた。一つは、トラウマ体験が引き起こす深刻な影響であった。もう一つは薬物依存の本質は「快感」ではなく、「苦痛」であるという認識だった
    薬物依存症患者は、薬物が引き起こす、それこそめくるめく「快感」が忘れられないがゆえに薬物を手放せない(=正の強化)のではない。その薬物が、これまでずっと自分を苛んできた「苦痛」を一時的に消してくれるがゆえ、薬物を手放せないのだ(=負の強化)

    p71 少年鑑別所や少年院の子ども そのような環境を生き延びるには、リストカットや薬物の乱用によって自身の心の痛みを麻痺させるしかなかったような気がする。しかし、そのようにして自身の心の痛みに鈍感になるなかで、いつしか他人の痛みにもどんかんとなり、共感性が損なわれていってしまうように思われた

    ただ「聞くこと」だけでも拒絶的な硬い態度がやわらぎ、好ましい方向に変化する子どもも少なくなかった

    たとえ過酷なトラウマ体験に関する質問をした場合でさえ、子どもたちの話を信じる態度で傾聴し、「とても大変だったね」「本当によく生き延びたね」「あなたは悪くない」というありきたりな言葉かけだけでも、彼らは顔を上げ、少しだけ目に光が灯るのだ

    p73 安心できない場所では自傷行為さえできない

    p74 暴力は自然発生するのではなく、他者から学ぶものである

    なぜ、一部の人はコミュニティの規範を軽視し、それを逸脱するのか。その答えはあまりにも明瞭ではないか。それは、その人がコミュニティに対する信頼感を抱けていないからだ。

    p112 次回の診療予約をとること自体に治療的な意味があり、予約の有無こそが生ける人と死せる人とを隔てるものなのだ

    p118 覚醒剤依存症患者のなかにはワーカホリックといってもよいほどの働き者が意外に多いのだ。そういった人たちは、週末の夜にハイになるために覚せい剤を使うのではなく、平日の日中にルーティンをこなすために使う

    p122 断言しておきたい。もっとも人を粗暴にする薬物はアルコールだ

    アルコールが人と楽しい時間を過ごすための薬物だとすれば、覚醒剤は自分の世界に引きこもり、孤独に没頭するための薬物なのだ

    p124 人間は薬物を使う動物である

    p131 最近つくづく思うことがある。それは、この世にはよい薬物も悪い薬物もなく、あるのは薬物のよい使い方と悪い使い方だけである

    p156 精神科 煎じ詰めれば3つしかない 泣き言と戯言と寝言
    うつ病や双極性障害のうつ状態を泣き言、統合失調症や双極性障害の躁状態を戯言、せん妄などの意識障害を寝言

    p175 我が国の精神科医療 ドリフ外来 つまり夜眠れるか、飯食べているか?、歯磨いたか?、じゃまた来週
    といったやり取りで、次々に患者を診察室に呼び込み、追っ払う

    p178 ベンゾ依存症患者は、快感を求めて薬物を乱用しているのではなく、あくまでも苦痛の緩和をもとめて薬物を乱用している

    p190 そのときようやく気づいたのは、ご婦人の「手のかからなさ」とは、実は援助希求性の乏しさや、人間一般に対する信頼感、期待感のなさと表裏一体のものであった、ということだった。彼女もまた人に依存できない人だったのだ。そのような患者が、治療経過のなかで予期せぬネガティブな出来事の遭遇し、あるいは精神的危機に瀕すれば、どうなるのか。無力感を否認し、まやかしのセルフコントロール感を維持するために、手元にある藁にしがみつくのは容易に想像がつく。彼女の場合、その藁がベンゾだったのだろう

    白衣を着た売人

    p205 やっぱり最後にたどり着くのは、世界最古にして最悪の薬物、アルコールなんだな

    p211 作家ジョハンハリは、TEDトークのなかで、「アディクションの反対語は、しらふでなく、コネクション(つながり)と主張している。

    p211 ネズミの楽園 楽園ネズミと植民地ネズミ 楽園ネズミはモルヒネ水に目もくれず、ふつうの水をのみながら他のネズミとじゃれあう 植民地ネズミはモルヒネ依存症になるが、楽園に移すと、楽園ネズミと交流し、一緒に遊び、ふつうの水を飲み始める

  • 大学時代に精神科の講義を受けたことがある。
    その時、精神疾患の定義の曖昧さに驚いた。
    しかも診断のポイントは社会的な摩擦があるかどうかという話だった。
    恐ろしいと思った。
    患者のための医療が行われているとは思えなかった。
    患者を社会から排除したり、社会に都合の良いように矯正するための医療としか思えず、数回講義を受けた後、単位を取るのを諦めた。

    この本の著者、松本先生は、逆だ。
    「困った人」は「困っている人」かもしれない、とおっしゃっている。

    松本先生は私より年上なので、きっと、私が講義で聞いたような精神科治療を先輩医師から教えられたはずだ。
    松本先生はそんな先輩医師の指導を居眠りしてやり過ごし、患者や元患者から必要な医療を見出して構築されたようだ。
    あの、象牙の塔で!
    かっこいいったらありゃしない。


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著者プロフィール

医師、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所依存症研究部長。
主な著作に『自分を傷つけずにはいられない―自傷から回復するためのヒント』二〇一五年、講談社。『誰がために医師はいる―クスリとヒトの現代論』二〇二一年、みすず書房。『世界一やさしい依存症入門; やめられないのは誰かのせい? (一四 歳の世渡り術)』二〇二一年、河出書房新社。『依存症と人類―われわれはアルコール・薬物と共存できるのか』C・E・フィッシャー著、翻訳、二〇二三年、みすず書房。ほか。

「2023年 『弱さの情報公開―つなぐー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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