おしゃべりな脳の研究 内言・聴声・対話的思考

  • みすず書房 (2022年4月5日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (336ページ) / ISBN・EAN: 9784622090779

作品紹介・あらすじ

あなたの頭の中の声は、どんなスピードで語りますか? 脳内の語りをつねに使って思考しているのに、私たちはこんな素朴な問いにさえ答えられない。本書は、内なる声(内言)や聴声(幻聴)の本質を探り、それらと思考や意識との関係を捉えなおす試みだ。
読めば、内言や聴声の経験の想像を超える多様さに、まず驚かされる。脳内の「声」は当人の声に似ているか、完全な文章で語るかといった一般的性質はもちろん、スポーツ選手のセルフトーク、ろう者の場合、小説家が登場人物の台詞を綴る場合、黙読、fMRIで捉えた特徴など、内言や聴声があらゆる方向から調べられている。「声」の経験の圧倒的な多様性の前では、日常的に感覚している脳内の語りと、「病的」とされてきた聴声の間の線引きも色褪せはじめる。
「多くの人の内言には、ほかの声が満ちあふれているのである。」「私たちは聴声経験の聴覚的性質にこだわるのをやめて、見過ごされてきた事実に目を向けるべきである。まず、声は交流できる存在だということ。」これらは、「対話的思考」と呼ぶべき本性への手がかりであると著者は言う。ピアジェ、ヴィゴツキーといった偉大な心理学者たちも、内言や聴声を意識の本性についての大きな手がかりとした。読み進めるほどに心を奪われる、ユニークな探究の書。

感想・レビュー・書評

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  • 内言、黙読、幻聴(聴声)といった頭の中で「話される」言葉についての研究をまとめたもの。こういう研究分野があるんだと知った。頭の中の会話が、どのように記憶や推論や能力に結び付いているのかが語られることを期待したが、その辺りの詰めはまだ研究途上であるのか薄い印象だった。

    DES (記述的経験サンプリング)という任意のタイミングでの内言を観察者から直接聞き取る方法や、fMRIによる脳の活動状況を測定するなどの手段によりこれまで内なるものとして科学的探索の外部にあった内言を科学の分析に乗せることを可能としている。

    黙って考えているとき、言葉でしゃべるように考えているのか、黙読するときに頭の中での言語活動は、実際に発話しているときとどう違うのかが論じられる。実際に自分の中で考えが言語化されているか怪しいし、考えているとしてどの程度の割合で考えているかわからない。スマホを持って常にそこから情報のインプットがある状態だと内言化して考える能力に影響があるのではないかと想像してしまう。「スマホ脳」という言葉もできたように、内言の時代における変化の可能性やその変化はどのようなものであるのかについての深堀りをした考察が欲しかったと思う。

    その観点では、本書の中でも何度も取り上げられているジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』がまず思い浮かぶ。この本を手に取ったのも、『神々の沈黙』とどこか関係がありそうだからというのが理由のひとつでもある。ジェインズの論によると、古代以前の人類は右脳と左脳とは別の言語活動を行い、人々は内言を神の声として聴き、行動を起こしていたという。ジェインズの理論が正しい証拠はないが、内言や聴声がその人が育つ社会によって大きく異なる可能性があるのはありそうなことだ。

    また、本書の主張のひとつは、聴声が比較的一般的で必ずしも精神病者でなくともありありと声を聴いている人がいるということだ。実際に聴声者が何人か紹介される。外界の声を聴くことも頭の中で起きることであるのだし、想像でその人の声を頭の中で再生することも起きていることなのだから、何らかの理由で内なる声を聴くようになることもおかしなことではないのかもしれない。

    研究紹介としては問題ない本なのかもしれないが、もう少し踏み込んだ結論が出ていれば面白かったかもしれない。

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    『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』(ジュリアン・ジェインズ)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4314009780

  • 人は脳内で常に会話劇を上演している。心理学用語で「内言」と呼ばれる"頭のなかのおしゃべり"を研究している発達心理学者が、内言はどのように機能し、なぜ聞こえてくるのかを、スポーツ選手、小説家、子どもたち、統合失調症を持つ人、ろう者など幅広い例から考えていくサイエンス・ノンフィクション。


    私は一人っ子なせいか、子どものころからずっと脳内で「パーソナリティ:自分/ ゲスト:自分 / 作家:自分」のラジオ放送を垂れ流して生きてきた。だから本書の主題は「わかる!」と「そうだったんだ」の連続だった。
    たとえば、内言が未来へのリハーサルとして有用であること。役所の窓口に行く前に段取りを頭のなかで反芻する人間にはとてもよくわかる。スポーツにおけるイメージトレーニングはその発展形だと、初めて一つに繋がった。なるほどぉ。
    著者の専門である発達心理学では、子どもが心理を築き上げていく過程を探っている。話せるようになった子どもは、作業しながら独り言を口にしはじめる。その内容からは、内言が他者の心を推論する社会的認知に関わっていることがわかるという。対話が内在化するとは、他者が内在化すること。子どもは自分のなかに他者を住まわせることで社会に適応していく。
    また、言語にも「内面的な言語」と「外面的な言語」があり、英語は内言を表現するのに工夫が必要な言語だったからこそモダニストは〈意識の流れ〉という文体を発明する必要があった、という指摘が面白かった。前から『源氏物語』ってめっちゃ〈意識の流れ〉だよなとか、ヴァージニア・ウルフって日本の少女漫画文法で読めるよなとか思ってきたのだが、それは日本語が内面的な言語だからなのかもしれない。
    本書の後半は、統合失調症を発症して声が聞こえるようになった人たち(聴声者)の体験を取り上げる。内言はそもそも他者の声の内在化なのだが、通常はそれが自分の声でしかないことも理解している。統合失調症によって聞こえる声(聴声)は自分と完全に分離しているように感じられ、自分を責め苛みトラウマを抉る。著者はトラウマが脳内で声として表現されるのは、内言の対話思考と関係するのではないかと考えている。聴声者のグループに参加して意見交換をしているが、今のところ医師と当事者のあいだでは内言よりも記憶に由来するという説が有力だという。
    先月読んだヴェロニカ・オキーンの『記憶は実在するか』でも同じように統合失調症による声の話があったが、そこでは記憶に機能不全が起こると個人のアイデンティティが崩れ、自分の考えが他者の声にしか感じられなくなるのだと説明されていた。これは記憶説と内言説をゆるやかに繋げる見解だと思う。本書でも語られるように自伝的記憶と内言の結びつきが強いのであれば、記憶説と内言説は全く矛盾することなく一つにまとまるのではないだろうか。
    おそらく著者は内言説を採ることで、「異常」とされている聴声と「正常」な内言との差はあいまいでシームレスなものだと示し、統合失調症のスティグマを薄めるのに役立てたいのではないかと感じた。小説家でもある自身の視点からキャラクターが人格を持ちだす瞬間と聴声を結びつけて、「作家は聴声的な経験を探し求める」と言っているのもユニークだし実感がこもっている。
    本書ではさまざまなトピックが取り上げられていてどれも面白いので、俎上に上がらなかった事柄についても考えを巡らせたくなる。たとえば、声の幻覚は人の存在感の幻覚だと書かれているけど、それならば霊視体験との繋がりはどうなのかとか(本書は意図的にスピリチュアルな話を避けている気がする)。音声メディアや映像メディアが内言にどのような影響を与えているのかとか。
    一番気になるのは、日記やSNSと内言の関係性。私は日記をつけ(られ)ない人間だったけど、Twitterというソーシャルメディアが脳内ラジオ体質と恐ろしいほど相性が良いために、とりとめない考えのログが取れるようになった。それをきっかけに内言のスタイルもきっと変わっているのだろう。自分と同じように脳内ラジオが止まらない体質の人がこんなにいるのだとわかったのも、SNSが普及してからだった。
    こうやって感想を書きながら思うに、「書く」ということは常に「書く私」と「読む私」との対話である。スポーツ選手が実行者の体と指示者の頭に分かれてセルフトークするのと同じく、書くという手の運動と思考が分かれているがために、私たちは自分自身と批判的な距離を取り、眺められるようになる。もしかすると、文字と聴声とは同じものなのかもしれない。声を病ではなく神と結びつけて、それを書き残すことが文字の重大な役目だった時代もあったことを思えば。言霊ってそういうことなのかもしれない。

  • 黙読中に文章が声となって脳に響く。その声が響かないと本に集中していない。
    音はないのに頭の中で音で会話している。どうなってるのか不思議です。

  • 軸となる明確な結論が出るわけではないが、内言について、精神病に閉じないフラットな視点から様々な論点を提示している。
    個人的な体験としては、内言→幻聴は統合失調症と直結して捉えられることが多かった記憶があるので、その認識を改める良い機会だった。雑に統合失調症にまとめられて生活苦しい方が日本には多そうだなと思った。

    自分の思考についても考えさせられた。対話はあまりピンとこず、自身とは異なる別人格が話しかけてきたこともないが、黙読したり思考が流れているこの状況はなんなんだろう、と客観的に認知してみると面白い。

  • "外言"が"他者とのおしゃべり"だとすれば、"内言"は"心のおしゃべり"、"セルフトーク"あるいは"無音の独り言"のことで、漫画であれば、あの点線で囲われた吹き出しで表される。
    一方で、自らが生み出したという自覚もなければ、鳴き声など言語ですらない幻聴もある。
    本書の表紙になぜ鳩の絵があるかと言えば、神の声を鳩の囀りとして聞いたことに由来しているのだろう。
    追い払いたくても追い払えず、常につきまとい続ける声もあれば、啓示を与え、叱咤・激励し、創造性の源にもなる脳内の言葉。
    これは、いったいどのように生まれるのだろうか?

    本書の冒頭、コートで自分としゃべるテニス選手の例が紹介されている。
    プロ野球であれば、かつて巨人の桑田選手もマウンド上でボールに向かってつぶやいていたが、あたかも脳内にいるコーチと会話するがごとく、そこで助言や叱咤を授けられる。
    このように内言は、自己制御の機能を持ち合わせていて、プロ選手はパフォーマンスの向上に役立てている。

    しかし我々はセルフトークを、誰に教わるでもなく、2歳になる幼児からすでに実践しはじめている。
    言葉を覚え、他者との意思疎通を始めるとほどなく、その対話が自己にも向けられ、内言の基盤が築かれるのだ。
    ここに、内言がなぜ対話の性質を伴っているのかの答えがある。
    子どもが他者と交わす会話が「地下に潜る」ことで、 つまり内在化されることで、 外的なやりとりの無音版を形成し、内言が現れる。

    さらに発話がこのように内在化する過程では、内言を徐々に変容もさせていく。
    「内言は通常の発話の約10倍速く心をよぎる」と言われるように、短縮や省略、凝縮されることで、聞き手である自分以外には理解されないものに変わっていく。
    そういう意味で、登場人物の心の言葉を表現する、漫画のあの点線で囲われた吹き出しは偽りで、実態は解読不能の暗号に近い。
    藤井聡太7冠の深すぎる読み筋も、もし心の声が言葉になって聞こえたとしても、実際には彼にしか解読できないか、そもそもスピードに追いつけないだろう。

    じゃあ、この内言をどうやって研究するのか?
    内観は経験そのものではなく、常にある意味で経験の記憶であり、観察という行為自体によってそれも変質させられてしまうと言われるのに、かなり難しい対象であることに違いない。
    筆者らは、記述的経験サンプリング(DES)という手法を用い、日常生活において被験者に、ランダムでブザー音が鳴る小型装置を身につけさせ、その合図の瞬間の経験を書き取らせている。
    その経験とは、視覚的イメージや身体的感覚、そして内言だ。
    間を置かず、鮮度の高い状態で意識経験を記述することで、変質を防止している。

    しかしこの手法は、批判が多い。
    まず意識の瞬間を捉えたと言っても、記憶によって事後に再構築されるのを排除したわけではなく、不完全なものにすぎないという点。
    それともっと手厳しいのは、全体に信頼性が低く、あまりにも非科学的過ぎるという批判も。
    ただ、主観的経験を一顧だにしない心の科学などありえないし、それこそ空虚で無意味だろう。
    脳画像研究のように、実験室で人為的に外部から刺激を与え、どの脳の領域や神経が活性化したかをモニタリングするだけでは、それも限界がある。
    そもそも我々の経験は、そうした計器パネルの針の触れやパターンに還元されるものではないはずだ。

    内言は、日常生活の発話が省略され、縮約された形となることが多く、しかも自分自身の声や訛りが反映されることも。
    もう一つ、関連して黙読の話も面白い。
    「黙読という営みが、個人的な思考、つまり自立した思考をもたらした」と言われるほど、これが文化的に果した役割は大きい。
    小説を読む醍醐味は、頭の中が登場人物たちの声でいっぱいになることで、作家のなかには、この内言を最高の建築材料として用いる者もいる。

    「ジョイスの文章の中では、内と外の境界が透過性になっている。世界が心の中に取り込まれ、思考が世界へ広がっている」

    「小説家は架空の声を巧みに操ることで、私たちをコントロールされた自己消滅へ導き、その後、もとの自分へ無事に帰してくれる」

    「小説を読むことは、ほかの心との最高に親密な関わり合いになる」

    それだけ感情移入が強烈なためか、しばしば愛読書の映画化は、キャラの声がイメージと違うなどの不満につながることも。
    あるいは「名前はボンド。ジェームズ・ボンド」という一文を読んだだけで、ショーン・コネリーやダニエル・クレイグの声が聞こえてしまったり、中には手紙を読むとき、手紙の書き手の話し声が聞こえるという人も。

    なぜ内言が創造性をもたらすのかと問いに対して、著者は私たちの内言が対話的であり、私たちの思考も対話的であるためだと答える。
    内なる対話者同士が、それぞれの声を持つことで、さまざまな視点を出会わせ、内在化させる。
    内言は他者との会話から発達し、そのために複数の視点が切り替わる性質を保持している。
    自分に質問し、自分が答える。
    対話的な内言を行うためには、社会的認知、自分と共有する人たちの思考や感情や態度を表象する能力が欠かせない。
    幼い子が一人でママゴト遊びをしているところを思い浮かべてみるといい。
    子どもは、複数の人物を一人で実演し、疑問を投げかけ、それに答えるなど対話を内在化させている。
    たとえ内言の中でも、対話であるかぎり、他者の心を取り込む必要がある。
    このように、自分と話すことには社会的な要素がいくらか含まれているのだ。
    心の中に別の視点を受け入れて、脳内で対話すること。
    そして、その先に創造的瞬間がもたらされること。
    ゴッホも、弟テオとの手紙のやり取りを通じ、創作のヒントを得ていたが、その内容も実は、ほとんど自分自身と議論しているかのようなもので、彼はそこで内なる対話的思考を行なっていたのだ。

    本書の中盤では、神の声を聞いたという中世の女性の聴声経験に触れ、深刻な神経障害をもたらす幻聴をこれまでの議論とどのように区別するかが語られている。
    統合失調症患者の幻聴の仕組みは大きく2つあって、内言出所誤認説とトラウマ記憶説がある。

    前者の説は、内なる発言を生成する脳領域から、発話を検知する脳領域への信号伝達で問題が起きていると考え、「これにはまったく注意を払うなよ。これはおまえがしゃべっていることだぞ」というような正常な信号が、「聴く」側の脳領域に届いていないために、外部の声と処理されるのだと説明する。

    しかしこれでは、非言語性の幻聴(音楽や犬の鳴き声)を説明しにくい。
    そこで後者の説では、トラウマ記憶から幻聴を説明する。
    トラウマが必ず幻聴を引き起こすというわけではないが、おぞましい出来事のイメージは、通常の記憶として認識される文脈情報から切り離され、浮遊状態でいるため、いつでも意識に侵入してきやすい。
    本来なら無関係な情報は意識から締め出しておくことが出来るはずなのに難しく、幻覚と記憶の境目が曖昧だ。
    文脈という拠り所を失った記憶の、意識への侵入により、声を聴いてしまうのだと説明する。

    しかし、過去のトラウマ的出来事がフラッシュバックして忠実に再現されるのだとしたら、記憶の仕組みはそのようなものではなく、常に再構築の繰り返しだという事実と適合しないではないか、と。
    ここで第三の説が登場する。
    そうではなく、トラウマ経験を耐えるため、自らをばらばらに引き裂く解離が幻聴と関連しているのではないか、精神的な逃亡はむしろ自然な反応で、解離した自己によって、私ではない声を引き寄せているのだと説明する。
    いちおう著者もこの立場のようだが、確定的なものではない。

    小説を「声から作られる架空の世界」と呼ぶほど、作家によっては内なる声を自身の創作に利用するなど、声は創造性をもたらす一方で、幻聴など一歩間違えれば、精神科病院と隣り合わせの危うい声でもある。
    内言は果たして、豊穣な対話なのか、治療を必要とする病的症状なのか。

    著者は、なぜ幻聴をもたらすような因子が遺伝子プールから根絶されないのか、創造性とのトレードオフなのかを最後に問うている。
    著者の結論はこう。
    これまで見たように子どもは、私的発話により自分の行動を調節したり、認知的なメリットを得るなどの機能的な側面がある。

    患者の苦痛を弱めるセラピーにも利用されるなど、内なる声は"安全メカニズム"でもある。
    内言は、生物を苦しみから立ち直りやすくするなどの進化上の役割がある、と。
    どうだろう?
    そんな、自己制御的で、ヒーリング的な効果があるから残ったのではないと思えるなぁ。
    むしろ休むことを知らない脳が、孤独だろうが何だろうが、心の中をまるで合唱のように様々な声で埋め尽くす、ある意味で内言は脳の"おしゃぶり"的なものでしかないと思っている。
    上手に利用すればメリットになるし、収集がつかなくなればデメリットになる。
    絶えず続く脳内の声と、否が応でも、我々は折り合いをつけて生きるしかないのでは。

    著者は作家であるためか、様々な内観のなかの、脳内の言葉、つまり内言にのみ焦点を当てているが、それは一部でしかないし、視覚的イメージや身体的感覚もある。
    それにそれらは、独立して生じるというより、複合的に起こる方が一般的だ。
    自分はどちらかと言うと、視覚的イメージや身体的感覚の方が強烈で、とりわけ独特な匂いを感じることがよくあった。
    場所を選ばず、鼻孔のそれこそ奥の奥から発せられる匂い。
    香しいとか、臭いとかではない、一度嗅ぐと忘れられないような、異質な感覚。
    この体験は、決して私だけではないんだろうな。

  • この本を一気に読んだので、途中クラクラして来ましたが何とか読了。

    本を読むとき、今ではこれが普通と思う『黙読』が、かつては(西暦300年後半)とても変わった行いだったということに驚きました。

    書類や手紙など文章を書く際に、頭の中に思い浮かぶスピードがとても早く書くことは到底追いつきません。その辺りが書かれているか?期待しましたが、思考の速さだけ少し記載がありました。

    頭の中で次々と起こる思考・言葉が、自分のものであると感じない方もいるそうで、精神疾患について多くの記載があります。

  • 141.5 : 普通心理学.心理各論

  • 自分は内言や独り言が多いので考えさせられる本だった。自分Aと自分Bで会話しているような感覚があったりする。他の人にもある感覚なんだとわかってよかった。冷静になって物事に対処したいときほど独り言が出てくるのにも納得いった。まだまだわからないことが多い分野なので研究が進んでほしい。

  • 自分の頭の中で行われる思考の「声」について書かれた本。自分にはあまりそういう認識がなかったので、多くの人が思考で自分と「対話」しているというのには驚いた(これは終盤で、ある特徴を持つ人たちは対話的内話が乏しいらしいとネタばらし的な回答が得られるのだが…)。自分の思考に伴う「内話」、統合失調症の象徴のようになっている「聴声」の研究の話が続くが、わかっていないことがまだ多すぎてちょっととっ散らかった印象かも。統合失調症の聴声が内声の認識の失敗であるという説は別の本でも読んだが、トラウマ説というのが別にあって競合しているというのは初めて知った。もっと研究が進めば面白そうな分野であることは確かだし、また読みたいテーマ。

  • K

  • 日本語で読みなおしてもやっぱりそんなにおもしろくない、っていうか私はこのネタについてもっと知りたいことが別にあるようだ。

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著者プロフィール

(Charles Fernyhough)
ダラム大学心理学教授。専門は発達心理学、とくに、幻聴・内言(内語)・イマジナリーコンパニオン(想像上の仲間)といった現象に関する認知発達心理学や、心の理論と個人差、ヴィゴツキー、文芸と認知、などを研究テーマとしている。著書に、The Baby in the Mirror: A Child’s World from Birth to Three(Granta, 2008)、Pieces of Light: How the New Science of Memory Illuminates the Stories We Tell About Our Pasts(Profile, 2012; 英国王立協会Winton Prize for Science Books 2013最終候補作)。小説も2作書いている。The Auctioneer(Fourth Estate, 1999)、A Box of Birds(Unbound, 2013)。

「2022年 『おしゃべりな脳の研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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