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本 ・本 (320ページ) / ISBN・EAN: 9784622096979
作品紹介・あらすじ
日本のエネルギー政策の恥部とも言うべき核燃料サイクル事業は、行き場のない放射性廃棄物(核のゴミ)を無用に増やしながら、まったく「サイクル」できないまま、十数兆円以上を注いで存続されてきた。本書は核燃料サイクルの来歴を覗き穴として、エネルギーと軍事にまたがる日本の「核」問題の来し方行く末を見つめ直す。
日本では、戦前から続く「資源小国が技術によって一等国に列す」という思想や、戦間~戦中期に構造化された電力の国家管理、冷戦期の「潜在的核武装」論など複数の水脈が、原子力エネルギー開発へと流れ込んだ。なかでも核燃料サイクルは、「核ナショナリズム」(疑似軍事力としての核技術の維持があってこそ、日本は一流国として立つことができるという思想)の申し子と言える。「安全保障に資する」という名分は、最近では原子力発電をとりまく客観的情勢が悪化するなかでの拠り所として公言されている。
著者はあらゆる側面から,この国の「核エネルギー」政策の誤謬を炙り出している。地震国日本にとって最大のリスク・重荷である原発と決別するための歴史認識の土台、そして、軍事・民生を問わず広く「反核」の意識を統合する論拠が見えてくる労作。
感想・レビュー・書評
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核ナショナリズムを突き進んでしまった日本は、3.11後も引き返すことができなくなっている。
この負の遺産を未来の国民にどう引き継いでいくつもりなのか。 -
半藤さんの著書を読んだ後では、特に彼の言葉が身に染みる。「起きては困ることは起きない」「底知れない無責任」
関わっている人間誰一人として責任逃れをさせない、というような気迫、怒りを感じる。そして、本書を読んでしまった私自身も責任からは逃れられない。 -
私が核燃サイクルの危険性を初めて認識したのは1988年の春だった。当時創刊されたDaysという雑誌に広瀬隆氏がラ・アーグとセラフィールド、両再処理工場付近のタンポポが異常に巨大化していることを告発する内容だった。その記事に大きな衝撃を受け、それ以来ずっと関連記事を追っている。私が原発に反対するのは事故の過酷さよりもむしろ廃棄物処理が技術的に不可能であることが第一の理由だ。たった数十年のエネルギーを賄うために、数千年、数万年後の子孫にまで廃棄物の処理を委ねるのは、著者が言う通り犯罪的だと思う。まさに「今だけ、金だけ、自分だけ」。
本書は専門外の人にもわかりやすく核燃サイクルの問題点が解説されており、理解しやすい。1988年当時に比べて今では格段に原発に対する意識や関心が深まっているが、もっと多くの人にこの本に書かれている真実を知ってもらいたい。
ただ不満もある。原発は決して安い電源でなく、CO2排出においてもマイナスになるという。これはそのとおりで、原発は包括原価方式でなければ経済的にペイしないというのは30年前から指摘されているところではあるが、本書の記述には具体性がない。こういうものは数字で示さなければ納得感は得られない。
いま一つは、高速炉から出た使用済燃料からのプルトニウム抽出の何が難しいのか、参考文献を示すだけで本文に書かれていない。ここは主題の核心にあたる部分なので詳しく説明して欲しかった。 -
原子力がエネルギー問題ではなく政治・軍事問題だということがよくわかった。
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鎌田慧の『六ヶ所村の記録』以来、日本の原発政策について気になっていた。筆者は在野の研究家として技術、政策の歴史的経緯や当事者たちの思惑を分析しその誤謬を洞察する。深い知識で新聞記事も多用し素人にも分かり易い問題提起の論考である。
原子力は人類が挑戦するフロンティアであるが、原爆が第二次大戦用に急拵えで開発された故の、「兵器と平和利用体系」の論理的齟齬内在の宿命をもつ。効用とリスク(何万年にも及ぶ危険性と莫大なコスト)のバランスであり、まさに政治に託された課題である。
知らずに考えることもなく安全神話に浸っていた自分の“おめでたさ”をこれほど痛感したことはない。
論点を抽出し日本の原発政策の流れを整理してみる。
2023年、岸田政権は福島の原発事故以来「脱原発で先々なくしていく」とした原発をウクライナ戦争のエネルギー危機を奇貨として「再稼働と60年超運転」へ推進策に転換した。
日本の原子力政策は1954年中曽根康弘の原子力予算案上程から始まり、当初の「原子力の平和利用」が岸信介により「潜在的核武装」の政治的意味を持つことになる。それは太平洋戦争時からの資源小国の強迫観念と戦後の原爆トラウマのなかで、日本の存在感を示す核ナショナリズム政策で核兵器は持たないが転用できる潜在能力(擬似軍事力)を持つ国になるというものである。これを戦後最大の国家事業に位置付けて推進した。1956年正力松太郎の発案で「原子力産業会議」が設立され首相の諮問機関として政策の中枢を担った。会長には’73年から15年間続けた有沢広巳、そして西澤潤一や今井啓・三村明夫らが名を連ねた。
原子力発電の後処理の一方式として核燃料サイクル路線を選択したが、それは最初から核燃料サイクルの確立を目的にしたものであった。
その再処理の増殖炉については
「炉内で消費した燃料以上に新しい燃料=プルトニウム239を作り出す仕組みの原子炉で、夢の原子炉と呼ばれている」(三菱重工社史)
「プルトニウムを燃料とし、発電しながら消費した以上の燃料を生成する画期的な原子炉」(東電社報)
「高速増殖炉が完成したら今後千年以上にわたって人類がエネルギー問題から解放されるのも夢でなくなる」(東電原子力本部長 副社長談)
「高速増殖炉が完成すればプルトニウムは無限に近い核燃料資源になる」(学術会議特別委委員長)
‥‥当時の関係者の能天気な駄法螺である。
原発の安全神話とならぶ「サイクルの増殖神話」である。また増殖は潜在的核兵器を持つことになるが、専ら原発の原料確保策として語るのみであった。
増殖の原子炉開発は茨城県大洗町の実験炉「常陽」から始め福井県敦賀市の原型炉「もんじゅ」へと移行する。それは’85年着工し‘94年一時臨界に達するも事故頻発で‘16年廃炉を決定する。高速増殖炉開発の技術的破綻であった。そもそも増殖炉開発は技術的にもコスト的にも無理なことで、原発先進国は皆高速増殖炉開発を不可能として断念し撤退している。
独は‘91年、英米は’94年、仏は‘97年に撤退した。
現在、使用済核燃料は各地の原発に2万tと六ヶ所村に2900tあり、原発を稼働させることで日々増えている。そのほかに極めて危険で核兵器に転用可能なプルトニウムは既抽出分と英仏再処理工場委託分で48tある。8kgで原爆一個できるので約6000個分があることになる。
電力供給は小規模の発電所を全国各地に適正な距離をおいてバラまくほど経済性は上がるものである。
エネルギー選択こそは重要な市民的権利でなければならない。エネルギーを使う地域社会が協同組合または共有資産=コモンズとして民主的に運営する、新しい形の公益事業として実現されべきである。
‥‥と筆者は言う。
日本の原子力政策はエネルギー政策である以上に産業政策であった。原子力産業を安定的に育てるために、一年にほぼ二機の原子炉を発注して運転させることで三菱重工・東芝・日立などを原発メーカーとして育て上げることが眼目であった。
原子力ムラとは所轄省庁・電力業界・政治家・地方自治体有力者の四者を主な構成員としメーカー・原子力関係研究者を加えた六者を村民とする。
このムラが中心になり戦時の統制手法を復活させ官僚統制の「国策民営」として原発政策を推進してきた。
米国のメーカーは自国での原子力産業の停滞によって苦境におちいり日本のメーカーと手を組むことで生き残りを図った。それによって日本の脱原発に立ち塞がるのは日本の原子力ムラだけではなく米国の原子力産業およびそれに支えられた米国政府になる。
原発推進に固執する一部の政治家から「潜在的抑止力」というそれまでの潜在的核武装論を一歩超える理論が語られるようになった。核物質や核運搬手段(ミサイル)を開発できる技術力を確保した上で政治判断さえすれば短期間で核武装できる状態にしておくことで敵対的な国の攻撃や挑発を抑止するというものである。原発の維持を明示的に安全保障に結びつけたのは政治学者の北岡伸一であると断ずる。
再処理路線でなければ使用済み核燃料の受け入れ先がなくなり原発が止まってしまう。現在、電力会社は再処理を口実に六ヶ所村のプールを体よく「使用済み核燃料の不定期の長期にわたる置き場」にしている。
国民の税金や電力料金を投入し続け、将来に実現できるかのように振る舞うことによって命脈を保っている。そのことは同時に核のゴミの最終処分というもっとも重要でもっとも深刻な問題の永遠の先送りにつながっている。
今回の原発推進への政策転換はこの従来路線に回帰したということである。
ムラ内の情報独占と独断で、社会には夢のような話をプロパガンダして、国土が物理的に毀損されかねないリスクを隠して一部の人たちで決めていくことが許されるのか。民主主義の根幹に触れる国家の意思決定構造、ガバナンスの問題である。
何十年から何万年先まで続く危険物質の話である。かつて人類が経験し今も苦しむ戦争や公害のリスクとは次元が異なる。今後、地震大国として原発について厳しい決断をしなければならないことは明らかである。そのためにも国民レベルでの知識や情報の共有と議論が必須で、為政者は抑止力という地政学上の守秘に逃げ込むべきではない。
進むも地獄、退くも地獄、だから留まっていたがこれも地獄、そのなかで政府は「進む地獄」を選んだ。
筆者は早急に「退く地獄(止める)」を決断すべきと結論する。その理由と方策を鮮やかに展開している。
国民レベルを超えた人類共通の課題である。
筆者の技術観を踏まえた主張は流石に説得力がある。『山本義隆』の人生をかけた社会への関わり方、その生き様を見せつけられた思いである。
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【本学OPACへのリンク☟】
https://opac123.tsuda.ac.jp/opac/volume/716919
著者プロフィール
山本義隆の作品





