自由の条件 スミス・トクヴィル・福澤諭吉の思想的系譜 (叢書・知を究める 8)
- ミネルヴァ書房 (2016年9月20日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (370ページ) / ISBN・EAN: 9784623077922
作品紹介・あらすじ
スコットランド啓蒙思想を背景とするアダム・スミスは、リベラル・デモクラシーの思想家トクヴィルの著作にどのような痕跡を残したのか。また、その思想は、古典的自由主義思想家の福澤諭吉の社会観にいかなる影響を与えたのか。本書は、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を精査していくなかで英仏日の国際的思想伝播の過程を巡り「人間にとっての自由の意味」を今一度問い直す。
感想・レビュー・書評
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著者が語る福沢諭吉の解説を別著で読み、福沢諭吉の為人にはまだ共感せざるものがありながらも新たな境地を得た思い。今回、それも立脚点としつつ、本書の主役はトクヴィルであり、デモクラシーがテーマだ。ワクワクしながら読む。
先ず、この整理がポイントかと思う。トクヴィルは、自由は道徳なしには成り立たないとし、その公共精神を涵養するための装置が、アメリカ社会に埋め込まれていると考えた。四点。地方自治、陪審制、結社、それと宗教。道徳や宗教のような共同善を根拠とすべきというのがトクヴィルの根本的な考えで、その通りなのだろう。普通に考えて、悪の自由は、他者の自由を奪う。従い、共同善、善っぽいものへの共通認識がなければ、成立しない。故に、道徳や宗教、あるいはそれをはみ出さないように自治や結社、陪審制が機能を果たす。
例えば、結社は、マイノリティーの権利を守り、人々が共同の利益あるいは共同善へ順応するための訓練を受ける場にもなるのだという。つまり、連携する事は、文明が野蛮に回避しないためにも不可欠な仕組みである。
ー 個人をアトム化しバラバラにしてしまう。そのアトム化した「平等社会」の個人がかろうじて保持しようとする「自由」こそ、個人間の相互依存の感情を再び目覚めさせ、結果として政治的な相互依存の感情を喚起させうると見る。トクヴィルは「平等」と「自由」のトレード・オフだけでなく、「自由」と「相互依存の感情」のアイロニーに目を向けるのである。このアイロニーを認識し、そのディレンマから脱け出すために、アメリカ社会は先に論じた地方自治だけでなく、陪審制度、結社などの社会装置を必要としたとトクヴィルは看破する。
善に対し、平等も自由の前提になりそうだ。しかし、これは放っておくと、強きものの自由に、弱きものが収奪され格差が広がる。この強弱は、そのまま善悪という意味にはならないが、しかし、強弱と善悪のいずれも極端ならば、誰かは自由でも誰かは不自由である。なんとなくこの辺から、中庸こそ最強、とした福沢諭吉に継承される感じも受ける。
ー このように労働の分業の原理が広く産業の場に浸透すると、労働者は力を失って視野を狭め、より隷属的にならざるを得ない。技術は進歩するが、職人は退歩するとトクヴィルは見た。他方、資本規模は大きくなり生産物は安価になる。そして賢い人間が、要領の悪い労働者が作り出す生産物を搾取するために力を発揮し始める。産業の知識は絶えず確実に労働者階級の地位を低下させる一方、雇い主の階級を上昇させる。かくて労働者は窮乏化し、産業の支配者は富裕化すると見る。
この論理はマルクスの搾取理論と類似している。トクヴィルも労働者階級と支配階級の差は日に日に拡大してゆくと予想していた。そしてこの現象を産業の場における「工場貴族制」の誕生と捉えたのである。しかしトクヴィルは、この新しい貴族制がこれまでの伝統的な貴族制と全く異なることを見逃さない。
結局、自由を労働力や商品として売り買いしているため、資本主義は自由の奪い合いであり、資本によるメリトクラシーで序列化された世界だ。人間は、その序列を見抜こうと、肩書きや金銭的スコア、ブランドやルックスなどを瞬時に識別する。皮肉だが、最大の自由は、その序列化主義に逆らって、社会との関わりを必要最小限、いや、中庸に留めた時に巡り合うものなのだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/67781 -
要旨は、「デモクラシーのもとで、自由と平等とは究極的には両立しない」であると理解した。
アダム・スミス、トクヴィル、福沢諭吉を猪木氏が改めて読み解いていく。
個人は自分の自由を追求する。そこで生まれうる格差をコントロールして平等を実現しようとすれば、「専制」を生む可能性がある。
共同体に前向きな関心を持つにはどうしたらいいか。そこには正義に基づく共感・同感の感情が必要になる。トクヴィルは、米国は地方自治を充実させて訓練する方法を採った、と見抜いた。福沢諭吉は慧眼で、わが国には「徒党はあっても衆議がなく、意思決定はしばしば嫉妬に流される」という趣旨のことを書いている。今もまったく変わっていない。
かといって、アンチデモクラシーに陥っても対案はない。自由を制限し平等を提供する、そのバランスのために「自由を譲り渡す相手は・・・『国家』であり、『多数』なのである」(P338)。
お堅いテーマにも関わらず相応の読者を集めているようだ。
「デモクラシーのもとで、自由と平等とは究極的には両立しない」。こういう基本認識のもと、衆議を重ねることに関心を深めている人が徐々に増えているということだろうか・・? -
経済思想史の大家による自由に関する本。トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」の内容をもとに、アダムスミス、福沢諭吉の思想との関連性を研究し成果をまとめている。JSミルやハイエクなど自由主義者との関連、功利主義との相違など多角的にかつ学術的に述べられており、参考になった。
「(トクヴィル(以後記載なきはトクヴィル))自由な労働は賃金を受け取る。奴隷は教育を受け、食料をあてがわれ、保護を受け、衣服を支給される。主人が奴隷の保持のためにする金の消費は少しずつ、細々と続き、なかなか気づかない。労働者に支払う賃金は一時的に出ていき、受領者を豊かにするだけのように見える。だが実際には、奴隷の方が自由な人間を雇うより高くつき、奴隷の労働の方が生産性が低い(奴隷の仕事が結局は高くつくことは、アダムスミスが「国富論」の中で指摘している)」p8
「平等の時代には、ちょっとした特権も強く嫌悪されるため、あらゆる政治的な権利は徐々に国家の代表者の手に集中していくのである」p12
「デモクラシーの下では、あらゆる信仰と愛着の対象が個人の私的判断にゆだねられる結果、物質的な安逸を追求し、公的事柄への関心を弱め、私的な福祉が生の最終的な目標となり、卓越性、公徳、偉大さへの情熱が衰える」p13
「豊かさは、競争力を弱め、人々の間の厳しい利害対立を緩和させる力がある」p15
「一般に人間の愛着は、力あるところにしか向かわない。愛国心は征服された国では長く続かない。ニューイングランドの住民がタウンに愛着を感じるのは、そこに生まれたからではなく、これを自らの属する自由で力ある団体とみなし、運営に労を払うに値すると考えるからである」p44
「(アダムスミス)正義のルールを犯さない限り、個人の自己利益の追求は知らず知らずのうちに社会福祉の増進につながる」p45
「フランスの大革命では「平等」がその旗印となっていたのに対し、英国の革命は「自由」を大義としてきた」p65
「(マルクス)歴史は階級闘争によって発展するのであって「国家間の闘争」によって決定されるのではない」p98
「言論は、少数であればあるほど、力を発揮するという特性を持つ。弾圧されればされるほど、その思想や言論が広く支持を集めることは、帝政ローマ時代のキリスト教をはじめ、宗教改革時代のプロテスタントへの弾圧、その後のさまざまな歴史上の思想運動を思い浮かべれば明らかだ」p170
「(言論出版の自由のパラドックス)出版の洪水は、結局、言論内容の質の低下と百家争鳴の状態を生み出し、個々の言論の重みを奪い去る」p172
「(カーネギー)(市場競争)結果の不平等は避けられないから、その不平等を公的部門ではなく私的部門が再配分機能を果たすべき(寄付など)」p192
「デモクラシーが人々を個人主義に走らせ、あげくは利己心のみのバラバラの個人を生み出し、「公」の道徳を衰えさせる危険をはらんでいる」p199 -
デモクラシーにおける「多数の専制」という表現には鳥肌がたった。多数は個の意思を奪う。多数は個人の政治への無関心を生む。多数は暴走すると歯止めがきかなくなる。多数は個人が画一化を拒否することを許さない。多数は人々を凡庸さへと順応させる。また「全体の全体に対する支配」というのも言い得て妙。デモクラシーと全体主義は紙一重ということか。それにしても著者のトクヴィル礼賛は異常。その気持ち分からんでもないが。
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311.235||In
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スコットランド啓蒙思想を背景とするアダム・スミスは、リベラル・デモクラシーの思想家トクヴィルの著作にどのような痕跡を残したのか。また、その思想は、古典的自由主義思想家の福澤諭吉の社会観にいかなる影響を与えたのか。本書は、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を精査していくなかで英仏日の国際的思想伝播の過程を巡り「人間にとっての自由の意味」を今一度問い直す。
[ここがポイント]
◎ アダム・スミス、トクヴィル、福澤の自由擁護の思想を追う。
◎ 古典的名著トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』から自由を巡る道徳、そして宗教の関係という根源的問いに応え、人間にとって自由とは何かを探る壮大な試み。
<http://www.minervashobo.co.jp/book/b241676.html>
【目次】
序章 本書の目論み
実証的な比較体制論
現代社会のアポリア──自由と平等の両立
相互依存の感覚の喪失
社会的な紐帯を回復する
第1章 個人の自律性と地方自治
中央集権の二つの意味
福澤諭吉がトクヴィルから吸収したこと
人材活用策としての地方分権
地方分権論と人間の尊厳
個人の利害と社会的関心
補完性の原理の現代性
第2章 地方分権と「市民」の誕生
人間の愛情は力あるところに向かう
自治の精神が公共の秩序と安寧を生む
トクヴィルとスミスにとっての「個」と「秩序」
「自己の利益」から「啓発された自己利益」へ
無理な理想ではなく、到達可能な目標
第3章 英国古典派経済学の影響
アダム・スミスとトクヴィルの分業論
同感(sympathy)との関係
トクヴィルの英国訪問
第一回英国旅行
英仏の貴族制の違い
ボーリングとの会談
貴族制と革命
第二回英国旅行
福澤諭吉の怨望論
第三回(最後の)英国旅行
第4章 中産階級の政治的無関心
民主制社会の労働者階級
福澤諭吉の「ミッヅルカラッス」論
中産階級という概念の変化
アリストテレスの「中間層」の楽観論
中産階級の堕落
なぜティエールとの協力を拒むか
トクヴィルが捉えた中産階級
公的な事柄への関心の低下
デモクラシーとリーダーシップ
ポパーの理解
階級意識と社会的存在
トクヴィルの慧眼と危惧
第5章 個人・結社・国家
結社は社会を分断しない
福澤の「結社」論への影響
結社を通して共同善へと収斂
オルテガにおける「野蛮」と「文明」
平等と結社の必然の関係
米国の実情
米国の大学評価の例
国家財政への貢献
結社数の歴史的動向
ケインズの指摘
第6章 司法に埋め込まれた国民主権
英米法の複雑さ
「貴族」としての法律家
政治制度としての陪審制
英国の司法の「分権化」
衡平法裁判所の起源と競争
陪審制・同感・秩序
第7章 メディアの役割
行政の集権化と新聞の数
アメリカの新聞とフランスの新聞
福澤諭吉の「新聞紙」紹介
『時事新報』の場合
「独立不羈」を目指す結社
言論の自由の両面性
出版業の経済利益と質の低下
信念はいかに形成されるのか
学問と弁証法
第一思念と第二思念
ミルトンの戦い
財の市場の製造物責任
R・コースの問題
第8章 公道徳と宗教
貴族の公的義務
カーネギーの「善行基金」
公徳としての名誉心
デモクラシーにおける弱い「名誉心」
不平等社会と名誉
デモクラシーの重りとしての宗教
宗教の必要性
「国教」と政教分離の問題
アダム・スミスの政教分離論
第9章 平等がもたらす順応主義
政治の「人民主権」と経済の「消費者主権」
「流行」と「画一化」
順応主義と「大衆」
オルテガの「大衆」概念
森の中の旅人
プラトンの影響
寡頭制から民主制への移行
「父親と息子」「先生と生徒」
トクヴィルの描く「主人と従僕」
デモクラシーにおける契約関係
マスターとサーバントのパラドックス
第10章 学問・文学・芸術への影響
「民主的なもの」と「アメリカ的なもの」
ヨーロッパの人材、アメリカという舞台
経済理論の応用学の普及
経済学から政治学への適用
法学への適用
パスカルのような研究者は出るか
芸術も、学問の場合と似ている
映画監督はどこから来たか
なぜ映画産業はアメリカで栄えたか
文学の名作を映画化したものには駄作が多い
デモクラシーと想像力
芸術の質の低下
芸術における「理想」
第11章 商業社会と尚武の精神
スミスの指摘する市場社会の不都合
商業のもうひとつの悪影響
民兵の誕生
規律と常備軍
トクヴィルの視点
デモクラシー国家の兵士と市民
民主制下の軍人の特質
どの階級が好戦的か
下士官の特質
民主国の軍隊はなぜ老齢化するか
長い平和の軍隊への影響
デモクラシーは軍規を弛めるか
戦争忌避の傾向について
民主的国家と貴族制国家の国民の抵抗力
ナポレオンの戦略
日本の事情は異なる
第12章 習俗(mœurs)を生み出す女性の地位
トクヴィルの見た米国の女性
アメリカにおける恋愛と婚姻
男女平等の将来
J・S・ミル『女性の隷従』
福澤の女性への崇敬の念
第13章 日本の「民権論」
地方議会の重視
「犬の糞を避けてはならない」
品行を修める必要性
「マルチルドム」の思想
宗教の位置付け
わからないことがあるという姿勢
コンフォルミズムの弊害
ひとつのパラドックス
民権への危惧
平等は蜃気楼か
あとがき
人名・事項索引
著者プロフィール
猪木武徳の作品
