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Amazon.co.jp ・本 (384ページ) / ISBN・EAN: 9784624011703
作品紹介・あらすじ
「歴史の終わり」を超えて、真新しい未来が到来する――。時間性をめぐるヘーゲルとハイデガーの生産的対話をつむぎだしながら、あえていま主体性を再考する。現代フランスにおける反ヘーゲル主義とは一線を画した肯定的ヘーゲル解釈、フランス・ヘーゲル研究史におけるコジェーヴ以来の卓越した論者、カトリーヌ・マラブーの瑞々しい思考のプラスティック爆弾! ――デリダの脱構築と、ヘーゲルの弁証法、ハイデガーの存在論の関係の生産的な問い直しを続け、現在フランスで最も注目される哲学者、カトリーヌ・マラブー。本書においてマラブーは、ヘーゲルの時間論を批判的に読解するハイデガー、ハイデガー哲学を批判的に継承するデリダといった複数の対話を潜在的に共鳴させることで、彼女自身の哲学の核心をなす「可塑性」の運動、すなわち、自ら形を与える-受け取るという時間的な塑造過程を見定めようとしている。
感想・レビュー・書評
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私見では、マラブーの「列伝的功績」は、反/脱/ポストヘーゲル主義というポストモダンムードの最中において、ヘーゲル上に思想を重合しようとしたことに留まる。1. 意図的か非意図的か殆どコジェーヴに言及しておらず、2. その結果としてヘーゲル-コジェーヴ以後の重要な問いに答えていない。3. 「可塑性」概念のロマン主義的源泉についても言及していない。[^b]
1. コジェーヴの「歴史の終わり」によって否定性が喪失したとされて、コジェーヴも結局「ヘーゲルの未来」については不問であったというのは誤謬である。コジェーヴの1959年の日本への羇旅後の注釈の付記がそれが不問ではないことを示しているが、マラブーはこのことについて何も分析してはいない。[^a]
2. その結果、「形式性」の謎について答えられていない。「歴史の終わり以後」において、日常生活のリアリズムと「形式性」のそのフォルマリスティックな側面がいかに接合しうるのか、それが「否定性が喪失した」ということを -少なくとも「1959/1968年」以降- 意味しなかったにもかかわらず。
3. 「可塑性」という語はドイツロマン主義の文学者が既に使用していたが、これを全面的にヘーゲルに回収させることによって、マラブーはそのロマン主義的源泉を何も分析していない。一方でたとえば、「可塑性」と連関するノヴァーリスの思想について緻密に分析したノイバウアーの「アルス・コンビナトリア」では、
「しかしながらノヴァーリスは再度この区別を撤廃し、カントの言う「直感において概念を構成するということ」は普遍的な哲学と科学の方法となるべきであると主張する。なぜならノヴァーリス命名するところの「塑像化(plastisirung)」の方法は「純粋な実験方法」なのだから。「塑像化」は明らかに芸術家の仕方であるのに、ノヴァーリスがこの方法の記述において芸術にまったくふれていないのは異様である。」
「「塑像化」には「観察方法」が対置される。こちらの課題は「純粋思考の形成」、思考による直感の定着である。「塑像化」の目的が直感の中に概念記号を持ちこむことであるとすれば、観察の任務は、想像力によって直観的概念―ノヴァーリスの表記に言うところの「図形語(figurenworte)」―を内部に生ぜしめることである。最後に実験的方法と観察という方法を規則的に使用することは、概念をその記号とまったく一致させる結果をもたらす。それゆえに思考は記号概念によって、直感は概念記号によって可能となるのである。」
と述べられている。「可塑性」とは蒙昧さの残る有機的な総体あるいは残滓物というよりも、「純粋な実験」、「結合術」であった。未来は「予見-不測」/可塑性であると言い切るマラブーは、実際のところヘーゲルを全く継承していないどころか、蒙昧な反/脱/ポスト・ヘーゲル主義のフランスポストモダン思想と何ら変わりがないように私には見えた。マラブーが問うべきは、その「可塑性」がどのように担保されるのかという絶対知-性であって、「予見-不測」の強調はこれには至らない。典型的に凡庸な論であったと結論付けざるを得ない。
[^a]: 2002年に、ジョルジョ・アガンベンはその「やや稚拙に反動的な」議論を「開かれ」において、一応は展開している。
[^b]: マギーの研究が示すように、ヘーゲル思想には隠蔽的な即ち秘教的伝統が当然ながら横たわっていて、また、コジェーヴが言うには、その「隠された」あるいは「一時的な」ものはヘーゲルによってはじめて前面化されたのである、と。しかし、「前面化」されたことによって「背面化」されたものもあるのはあるのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示
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