政治神学

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レビュー : 9
  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784624300135

作品紹介・あらすじ

「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」。国家と法と主権の問題を踏査するコアな思考の展開。カール・レヴィットによる決定的なシュミット批判なども併録。
目次
政治神学
 第二版のまえがき
  1 主権の定義
  2 法の形式および決定の問題としての主権の問題
  3 政治神学
  4 反革命の国家哲学について
付録
 C・シュミットの機会原因論的決定主義・・・K・レヴィット
 M・ヴェーバーとC・シュミット・・・K・レヴィット
 「神話」と「独裁」の政治理論・・・田中 浩

感想・レビュー・書評

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  • まとめ
     シュミットは秩序と法秩序を区別する一方、その双方を規範から切り離し、決定に結びつけた。この特殊な操作によって、法秩序を乗り越える決定が可能となり、例外的状況(=法が停止された秩序)さえも法律学の枠内の問題にとどまることとなった。ここにおいて冒頭の有名な定義、「主権者とは例外状況に関して決定を下す者をいう」も有効となる。この定義のもとでは、決定者の非人格性を議論すること自体が無意味化し、ケルゼンの純粋法学は主権概念を無視していると非難されることになる。
     こうした主権概念と対応して、シュミットは法律学的諸概念の社会学を「歴史的−政治的現実の法律学的形態化が、形而上学的概念と合致する構造をもつ、一つの概念を発見しえたことを示す」ことであると定義する。ここから逆説的に、法律的概念には神学の領域にまで押しすすめられる論理一貫性が前提にあると結論づけられる。つまり、国家理論は神学でなければならないとされるのである。この前提に立った時、人格的要素が排除された科学性の表現としての民主主義は政治的形而上学には理解し得ないものと化す。
     自由主義については、決定を回避するという性質からして主権概念とは無関係であるばかりでなく、それ自体の矛盾を抱えたまま永遠の対話の中に解消してしまおうという宗教にすぎない。一見すると経済的要請(商業と産業の自由)によっているかのようでも、それは単に派生物に過ぎない。
     最後に無政府主義については、人間の本性について生まれつき善である考える点で政治的である。しかし、人間の内在的な真及び美を否定する「神学」を排除することは、結局それに伴って政治理念を消し去ってしまうことであり、奇妙な逆説を生むことになる。
     以上の検討から、決定主義的国家理論(シュミットは反革命的国家哲学者をその代表として論じる)だけがとりうる道として残される。ところが、現実にはもはや王はおらず、新たな王を生じさせる理論もない。そこで、ついには正統性の廃棄に到り、絶対的決定へ国家を還元することになる。これはすなわち独裁である。

    感想
     シュミットは自分に都合の良い結論を導くために、遡って前提を立てている。しかもその結論は、自身の主張以外を議論の埒外へ追いやってしまうものであり、到底納得できるものではない。それにもかかわらず、その前提が簡潔で容易に反駁しづらく、議論も緻密であることから、前提か結論の誤りを指摘するだけでは本質的な批判とならないところが厄介である。頭では誤りであると分かっていても、その議論の痛快さに惹かれてしまうのも否定できない。
     試みに、2、3批判を提示すると、まず本書では「法」を意図的に実証主義的な意味でのみ用いることで、「権利基底的な秩序」、「社会の自生的な法による秩序」、「経済的利益に基づく秩序」といった一般的な秩序の概念を、最初から議論の外へ追い出してしまっていることが指摘できる。しかしこの批判にもかかわらず、法秩序を「法による秩序」ではなく「決定による秩序が偶然法規範に一致している状態」とする議論の斬新さは、むしろ既存の議論の陳腐化、退屈さにたいして魅力的な要素となってしまっているのである。
     次に、自由主義についてはフランス革命以後をひとまとめにブルジョワ法秩序としているが、これは今日的には非常に粗雑な議論であって到底通用するものではない。自由主義と言うだけでも、少なくとも古典的自由、リベラル、新自由主義はそれぞれ全く異なる性質を持つものであるし、近代法とブルジョワ法と現代法はそれぞれ異なった分析が必要である。とはいえ、こういった分類に定説があるわけではなく、専門的で些末な議論と見えてしまう。
     このように、単純な批判では枝葉末節の指摘とならざるを得ないところがシュミットの恐ろしさであり、残念ながら今日においても克服すべき障害としてなお屹立している。

  • シュミットのこの論文は国家への問いにささげられており、それに応答する形で国家的なものを前提とする政治的なものの概念を明らかにしていこうとしており、ひいてはそれはシュミットが攻撃するところの自由主義的国家観、普遍主義、アングロ=サクソン流の政治的多元主義批判となっている。そしてシュミットは政治的なものに対して友と敵との対立であるとする友・敵理論を提唱している。しかしシュミットは政治的なものを道徳や経済、文化的なものと区別した形での自律性を有するものであり、あらゆる人間の総体は敵を持つがゆえにはじめて味方を探すのであり、具体的対立と関わり合うことによって、政治的関係の本質は保持されるのであり、仮に敵を探すのをやめるということは政治の終わりを意味する。敵の概念には「闘争の現実的偶発可能性」が保持されているゆえにシュミットは「敵」が友に優越すると考えていると思われる。その闘争の緊急事態(極端な可能性)において人間の生活は特殊政治的な緊張を獲得する。自由主義にはその闘争をあいまいに、その緊張がないゆえにシュミットは批判するのである。そしてその緊張が最高潮に達した状態を戦争であると考える。ホッブズは市民的状態を自然状態の対立物としてとらえており、戦争の本質は実際の闘争のうちに存するのではなく、闘争の明らかな志向のうちにあり(リヴァイアサン)、シュミットも政治的なものは闘争それ自体の中にではなく闘争の現実的可能性に規定された行動の中に存在するのである。ゆえにシュミットの政治的なものとは一種の自然的な人間の状態ともいえる。しかしホッブズが自然状態を個々人の闘争状態ととらえるのに対して、シュミットは諸集団(公敵)の闘争状態ととらえている点である。さらにはホッブズが自然状態という政治的なものを批判的に定義しているのに対して、シュミットは政治的なものを肯定する。そしてホッブズが国家はその成員に対して逃亡権を認めているが、シュミットは成員に対して死の覚悟を要求する権利(生殺与奪の権)を持つがゆえに他の団体よりも優越するとさえ言っている。このことからシュミットの古代ゲルマン的な政治思想の伝統を受け継ぐ国家主義者としての側面がうかがえる。

  • 電子ブックへのリンク:https://elib.maruzen.co.jp/elib/html/BookDetail/Id/3000008437(学外からのアクセス方法:1.画面に表示される[学認アカウントをお持ちの方はこちら]をクリック→2.[所属機関の選択]で 神戸大学 を選んで、[選択]をクリック→3.情報基盤センターのID/PWでログイン)

  • シュミットは1888年〜1985年のドイツの法哲学者である。(wiki調べ)
    そして前書きによると1922年に第1版が上梓され、12年後に改訂版を出版したとのこと。

    世界史に詳しくないのであまり突っ込みたくはないけれど
    この時期のドイツというのは相当な動揺期であったのは間違いがない。

    まずは簡単な本書の評価を済ませておく。
    後半に引用と合わせていつもよりは多めに講評をしたい。

    「決断主義」というのは非常に勇ましくロマンチックではある。
    ロマンチックなうえに、この人はだいぶ感傷的な味つけをしている。
    一言で言えばヒロイック。

    しかしながら、ヒロイックであれば否定されるということでは
    それも論理の体をなしていないわけで、
    シュミットはそこへとつながる道筋はきっちりと作ってはいた。
    ただ、その道は君主制とアナーキストというガードレールで挟み込んだ道であって
    非常に消極的に見える(だからこそヒロイックなんだが)。

    消極的に最悪の選択を成し得るということはよくよく考えなくてはいけない。
    今も世界的に民主主義は動揺しており、その時にどのような視点を取るべきか
    見返すべき分岐点を示す本だと思う。




    >>
    主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう。(p.11)
    <<

    まずこのような定義をしたうえで、例外状況に集中することで
    法的枠組みの外側に源泉をもってくる。これを言い直したのが

    >>
    現行法を廃棄する権限が、まさに主権の本来の識別徴標(p.15-16)
    <<

    ということだが、ここにおいて緊急性は脱臭されている。
    単純に法を凌駕する主権のイメージが強調される。

    >>
    「法が権威を付与する」とロックはいう。かれはここで、法律という語を、意識的に、commissioすなわち君主の個人的命令との対置において用いているのである。(p.45)
    <<

    この定式を紹介しておいて、

    >>
    「真理がではなく、権威が法を作る」(『リヴァイアサン』第二六章)という対置の古典的定式をみいだしたのが、かれ(引用者注:ホッブス)であって、(中略)権威対真理という対置は、多数ではなくして権威、というシュタールの対置よりも、根源的でありかつ明確である。(p.46)
    <<

    それを逆転させてみせる。
    ただこれはそもそもどの時点の話かという点が違うのだが、
    そのことについてもそもそも「例外状況」の話を中心にしてるんだから
    意味ないよねって突っぱねる形にはなるんだろう。

    >>
    例外状況は、法律学にとって、神学にとっての奇跡と類似の意味をもつ。(p.49)
    <<

    最後に政治神学というコンセプトの説明に入るわけだが、
    これとセットになっているのが「主権者」であり、
    これが神学ならば「神」であるということ。
    これによって決断主義の無謬性を結果以前に担保しようとしている。

    >>
    すべて主権は、無過失であるかのようにふるまい、すべて統治は絶対である。ーーこの命題は、無政府主義者だって、まったく別の意図からではあっても、一語一句同じ発言をしかねないものである。(p.72)
    <<

    そしてこれは別の角度でもそのように確かに見えるのだという風に告げる。
    しかし、なんというか「敵の似姿」というフレーズが浮かぶ。

    >>
    かれらは、決定という契機を強調するあまり、この契機が、結局は、かれらの出発点でもあった正統性の思想を廃棄するまでになる。君主制の時代は終わった。なぜなら王はもはや存在しないし、まただれひとり、民衆の意思による以外に王となる勇気をもつ者がいないであろうから、とドノソ・コルテスが見抜いたとたんに、かれは、みずからの決定論に終止符を打った。すなわち、かれは政治的独裁を願ったのである。(p.86)
    <<

    ここの結論はもはや願望の推定である。
    理解は可能ではある。しかし、どのように法が成立したかということと
    成立過程がそのまま発展をせずに選択肢を限定するだけになるということは
    まったく関係のない話だ。

    どのように在りうるかを語る中で、存立過程以上に人の願いを救いだすことは可能なはずだ。
    人が善であって欲しかったと願ったであろうコルテスの
    絶望の裏側に触れずに結論づけることもなかったはずなんだ。

  • 読書会で

  • 「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者」という衝撃的な決定(決断)主義を主張した論文。その決断主義、「全体国家」観はナチズムの理論的先駆けになったとも評価されるが、他の追随を許さない精緻な論理によって展開されるシュミット理論には今もなお見るべきものが多いといえよう。

  •  ちょ、分からなすぎる。。

    「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう。」からはじまる。
    政治は法律に左右される、という点は今まで考慮したことなかったし、非常に難しい内容であるから読みにくい。

     例外状況を法律がどう区別するのか?そもそも例外状況を規定できるのであれば、あまり考慮しなくても良いのではないか…。とか考えたり。。

  • 未読

  • 政治学の古典。
    シュミットの観点はなんだかんだ言って色々と有益。
    とてもポストモダン的な発想の本。

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