はじめての西洋ジェンダー史: 家族史からグローバル・ヒストリーまで
- 山川出版社 (2021年12月2日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784634640955
作品紹介・あらすじ
著者が早稲田大学の教養科目としておこなう授業をもとに、家族史からグローバル・ヒストリーまでをあつかう入門書。
歴史における家族、女性性や男性性の変容、男女二元化のプロセス、身体的性差の認識の変化といったジェンダー・イシューに、
歴史学がどのような問題意識をもってアプローチし解き明かしてきたかを、紐解いていく。
感想・レビュー・書評
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なかなか面白かった。家族史から始まり、ジェンダー史、身体史、男性史、軍事史、そしてグローバル・ヒストリーと、ジェンダー学に関するトピックを網羅している感じがする。特に、前半の家族史とジェンダー史は面白かったように思う!入門書というには少し難しい気がするが、ジェンダー学を学ぶなら手に取りたい一冊。
p.75 「人権宣言」は、正式には「人間と市民の諸権利の宣言」と言う名称ですが、ここで言う「人間の権利」「市民の権利」、また「男性の権利」「男性市民の権利」を意味しました。フランス語で、「人」を意味する単語homme=「男性」を意味し、それがそのまま人権宣言の主語になったのです。この問題は、言語と思考の根幹に関わるものです。フランス語やイタリア語、ドイツ語など、ヨーロッパの諸言語では、名詞に男性名詞や女性名詞等性があり、一般的な事象を表現するには、男性名詞で代表される体系になっています。「市民」と言う概念は一般市民を意味するとされ、その一方で、女性の市民を表す場合は、「市民」と言う概念を女性形にしなければなりません。18世紀末の「人権宣言」において、女性の権利や女性市民の権利は、その範疇の外にありました。女性には政治結社に参加することも、就業の自由をも認められず、表現の自由も保障されませんでした。「人権宣言」が謳う普遍性の限界は、すでにフランス革命期の同時代を生きる女性によって異議申し立てがさらされました。1970一年、オランプ・ド・グージュは「女性と女性市民の諸権利の宣言」を発表しました。グージュは、「人権宣言」のタイトルをhomme(人間/男性)からfemme(女性)へ、citoyen(市民/男性市民)citoyenne(女性市民)に置き換えることで、「人権宣言」の限界を開けました。「人は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と言う文章で始まるフランス人権宣言の第1条の真意は、「男性は自由かつ権利において平等なものと生まれして生まれ、生存する)ではないか、と問います。
グージュは前文と17条からなる「人権宣言」を、神聖の意味での人権宣言に書き換えます。第一条の第1分は、「女性は自由かつ、男性と権利において平等なものとして生まれ、生存する」となります。万人の発言の自由を謳う第10条では、女性は処刑台に上る権利を持っているのだから、演壇に上る権利を持つべきであると言う皮肉をきかせ、表現の自由に関する第11条では、女性の発言の権利と絡め、お腹の子の父親認知の問題に触れるなど、人権宣言に上がっていない家族の問題を盛り上げ盛り込んでいます。女性の立場から、当時の社会の矛盾をえぐり出すダイナミズムすら感じられます。グージュの「女権宣言」を日本語に訳し、論評した西川裕子は、これを「パロディーが持つ力」と言うユニークな観点から考察しました。「女権宣言」には、「パロディーが持つオリジナルの破壊力と創造性」があると言うのです。確かに、グージュによる「人権宣言」への批判は、フランス人民の代表者である代表者であるた男たちが国民議会で堂々と8宣言したであろうテキストを嘲笑っているかのようであり、「人権宣言の脆弱性が露呈したともいえます。宮司は「女権宣言」の発表の2年後に王党派とみなされ、反革命の権威にかけられ、処刑台の露に消えました。それとともに「女権宣言」も忘却の闇に葬られてしまいました。20世紀後半の女性史家たちはグージュの先駆的な思想を見出し、「女権宣言」を掘り起こしました。「人権」の概念は、その歴史をたどれば、実のところ万人の権利ではなく、1部の男性たちの恐れに過ぎない。これは性別だけでなく、民族や階級、宗教、地域などの採用を乱す社会的不平等に向き合う歴史家に共通されるものでした。「人権」とは何か。誰がその「人権」を持つのか。人権思想の歴史的現実を直視する重要な問いかけです。 -
ジェンダー史という歴史学のいちジャンルがどのような視角から歴史(西洋史)にアプローチしているのかを論点ごとに整理していく著作。まず、歴史学における親密圏へのアプローチの重要性が自覚されるようになった家族史研究の紹介から始まり、女性史・ジェンダー史・身体史・男性史・「新しい軍事史」・グローバル・ヒストリーといったアプローチが逐次紹介されていく。もちろん有名な研究の紹介だけではなく、様々な興味深い事例を著者独自の解釈も折り込みながら紹介している。「ジェンダー」という概念自体、性差の歴史的な構築性を問題にしてきた以上、ジェンダー論において歴史的なアプローチが重要になることは論をまたない。だからこそ、ジェンダー史を概観する本書は、ジェンダー理論にとっても実に有益であると思う。
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やっぱり例のトマスラカーとかのあやしげなやつが出てきてあきらめ。あそこらへんどうなるんすかね。
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本書は、ジェンダーの視点から、歴史学における新しい領域の誕生と展開を、時系列的に追いながら紹介、論じている。
・第一章〜「新しい歴史学」から登場した家族史
歴史人口学の"家族復元法"による民衆家族の実態解明、近代家族モデルの歴史性 など
・第二章〜歴史学内部を刷新する動きと第二波フェミニズムが呼応した女性史
女性史研究が歴史学の刷新に寄与したこと
1 新たな史料の発掘・開拓
2 「普通」「一般」「人間」という概念の捉え直し
3 従来の歴史解釈の再考・修正・深化
・第三章〜女性史の批判を契機に発展したジェンダー史
「ジェンダー」という概念、「常識」とされてきた男女の身体的、精神的、社会的二元論を根底から問い直す
・第四章〜ジェンダー理解の鍵となる身体を歴史的に捉える身体史
男女の差異についての身体観がワンセックス・モデル(相対的性差)からツーセックス・モデル(絶対的性差)に変化
・第五章〜男性ジェンダーの「発見」とともに立ちあらわれた男性史
"近代の男らしさ"を支えた徴兵制、"男らしさ"の名誉 をかけた決闘文化、ジェンダー秩序社会における男性同性愛 など
・第六章〜男性領域の最後の砦といわれる軍隊や戦争にアプローチする「新しい軍事史」
軍隊と男性性の結び付きとは、どれほど普遍的なのか
・第七章〜西洋におけるジェンダー秩序を非西洋を通じて問い直すグローバル・ヒストリーへ
本書は大学の教養科目の授業が元になっているので、理解を順次深めていくのに非常に適している。また参考文献も多数紹介されているので、どこか関心の持てた領域から入って行くのも面白いと思う。 -
あらすじ(山川出版社より)著者が早稲田大学の教養科目としておこなう授業をもとに、家族史からグローバル・ヒストリーまでをあつかう入門書。
歴史における家族、女性性や男性性の変容、男女二元化のプロセス、身体的性差の認識の変化といったジェンダー・イシューに、歴史学がどのような問題意識をもってアプローチし解き明かしてきたかを、紐解いていく。(https://www.yamakawa.co.jp/product/64095)
いかに歴史が男性の視点で語られてきたか、ジェンダーの視座を歴史学に取り入れることで見えてくるものがわかりやすくまとめられてた。
現在の常識だけを見るのではなく、歴史を振り返ることで、それがいかに変容し、恣意的に構築されてきたのかがわかる。身体という科学的に白黒はっきりついている(と思われる)ことでさえ、認識を改める必要があるように思わされる。
以下、引用。
教科書に掲載されている絵画も気になります。ナポレオンが皇帝の冠を戴くシーンを捉えたものではなく、皇后ジョゼフィーヌがナポレオンにより戴冠される様子を描いたものです。皇帝/夫/男性にひざまずく皇后/妻/女性の姿は、男女のあるべき関係性を伝えているようにも読み取れます。(p.60)
→高校の世界史教科書?資料集に載っていたイラスト。こんなふうに批判的に見れていなかった。今の教科書も同じなのだろうか。
スピヴァクは、サバルタンは自分の言葉で語れない、語ったとしても彼らの言葉は「翻訳」を必要とし、その結果、他者による解釈と言葉で覆い消されてしまうと論じました。「他者」とは、植民地宗主国の知識人、すなわち西洋知識人(男性)であり、また西洋に対抗して民族主義運動を説く被植民者側の知識人(男性)でもありました。(p.257)
→スピヴァクの本、読まなきゃと思いながら読めてないな…
多くの北米先住民は、女性を大地の母として、豊穣のイメージと結びつけていました。文化人類学者の阿部珠理の言葉を借りると、「この発想は、人類の始祖を男とするキリスト教世界の創世神話とも好対照をなすし、女性が人類の原罪と結びつけられるような部族神話は、北米先住民世界にはまず存在しない」(阿部「北米先住民・セックス/ジェンダー/第三の性」一八九項)のです。(p.282)
ローイにとってサティの廃絶は、インド社会の「近代化」を意味しましたが、それは、サティを「野蛮な風習」とするイギリスの価値規範に迎合するのではなく、むしろヒンドゥー教の聖典に立ち返る行為でした。(p.290)
→大事な視点。支配者側の視点だけで解釈するとその文化や人々が他者化されてしまうよね。。
ジェンダー史について学び、考えることの醍醐味は、「自分事」として歴史を身近に感じ、ジェンダーの歴史的構築性に敏感な思考力を養うことだと思います。
「家族」のあり方やパートナーとの関係、身体とセクシュアリティといった現代社会のさまざまな「常識」は、人びとが思っている以上に歴史は浅く、そこには「支配する側」の思惑が絡んでいます。異性愛主義に基づく男女の二元化されたジェンダー規範を、「創られた伝統」と捉え、批判的思想を重ねることで、誰もが「自分らしい生き方」へと近づくことができたらと思います。(p.301)
→ルイス・ミショーやマルコムXが言っていたように、テキストの裏側にある支配する側の思惑に敏感にならないといけない。 -
大学の集中講義を受けた気分。
密度が高くどの章を読んでいても新しい発見ばかりだった。
ジェンダー史が何かという話の前に、家族や子どもの歴史を丁寧に遡ることで、家族即ち社会の中で、女性・男性がどのような役割を与えられてきたのか、そしてその役割がどのようなジェンダー秩序を形成したのかを理解することができる。
歴史を知ることは大切だと再認識した。 -
■一橋大学所在情報(HERMES-catalogへのリンク)
【書籍】
https://opac.lib.hit-u.ac.jp/opac/opac_link/bibid/1001199365
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今から当たり前だと自分が思ってることも、100年後の人からしたら信じられないことだったりするのかなあと思った
https://wan.or.jp/article/show/10800