メディア文化論 --メディアを学ぶ人のための15話 改訂版 (有斐閣アルマ)

著者 :
  • 有斐閣
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  • Amazon.co.jp ・本 (300ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784641124875

作品紹介・あらすじ

メディアって何だろう?-メディアやコミュニケーションについて勉強を始めようとしている大学生や大学院生、社会人の方々に最適。理論、歴史、実践という3つの視角から、メディアと私たちの生きる社会とのかかわりを、多面的に読み解いていく。ネット社会やグローバル化の新しい状況に対応し、第3部を中心に改訂。

感想・レビュー・書評

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  • 【メディアは横断する】p3
    メディアとは、私たちの社会的経験世界の技術的な次元と意味的な次元を同時に媒介し、またそうした次元によって媒介されながら、個別のメディアの布置や編制を可能にしていく、テクノロジーと意味、それに語りや解釈、接触といった社会的実践の構造連関的な場のことをさしています。

    【メディアは媒介する】p5
    メディア(media)はもともと、ラテン語のmedium(「中間の」を意味)から派生した言葉で、16世紀後半から使われ始め、17世紀までに介在的もしくは中間的な働きを意味するようになったといわれます。
    バートンが17世紀初頭に「視覚には対象、器官、メディウムという3つのものが必要である」と語った。
    20世紀を通じ、メディアとは送り手から受け手へのメッセージ伝達を媒介する手段なのだという考え方が広まっていきます。
    Cf. マクルーハン「メディアはメッセージ」→マスコミュニケーション研究の急所を衝き、そこで等閑視されてきたメディアは概念に、再び媒介的・仲裁的な作用を奪還させようとしたものだった。
    ベンヤミン「言語のマテリアルな次元」→言語の非手段性、つまり意味は言語を通して伝わるのではなく、むしろ言語によって実現する。この場合、言語は最も原型的なメディアであり、そのメディアとは何らかの外の意味を伝達するという媒体というよりも、それ自身が意味を成立させているトポスなのです。→どちらかというと言語の言語の形式的な次元をマテリアルな次元から切り離してきたのとは異なって、ベンヤミンの言語概念は、むしろ言語のメディア性、あるいはメディアの言語的な可能性を明らかにしていきました。マクルーハンの「メディアはメッセージである」というセンセーショナルな一言は、まさしくこうしたベンヤミン以来のメディア概念の水脈を要約するものだったのです。p7

    【メディアは伝達しない】p8-9
    私たちの身のまわりのメディアで語られていることは、メッセージというよりもテクストである。
    Cf. 文学、広告の多義性→受け手の解釈に委ねる
    テクストとは他者に開かれた記号の複合体。
    Cf. ホールはこのメディアによる媒介の重層的な過程をエンコーディング/デコーディングというモデルによって構図化しました。

    メディアとは伝達の手段であるよりも前に、何よりも多様な実践が交錯し、抗争し、繋ぎ合わされていく社会的な場です。

    【メディアを研究する】p12
    メディアは相互に作用しあう2つの次元を含む
    ①テクノロジーないしは装置としてのメディアの次元
    ②さまざまなタイプのテクストが相互作用していく言説的な実践の場としての次元

    ■Ⅰ. 方法としてのメディア

    【テクノロジーの19世紀】p21
    1820年代後半から30年代にかけて写真と電信の発明の動きが集中的に生じる。
    →19世紀終わりまでには、現代につながるほとんどのメディア・テクノロジーの原型がすでに登場し始めていた。p23

    【新しい時間・空間のモード】p23

    【タルドと「公衆」論】p24
    タルドは新聞に代表される活字メディアの広範な普及が、場所的にな集合性に基づく群集とはまったく異なる社会的集合、すなわち「公衆」を出現させると主張しました。⇒(公衆とは)「純粋に精神的な集合体で、肉体的には分離し心理的にだけ結合している個人たちの散乱分布」。

    【クーリーの「コミュニケーション」論】p26
    クーリーは、19世紀以降のコミュニケーション状況の変化を、拡大と活発化という2つの傾向によって特徴づける。
    さまざまなメディアの急速な発達により、「社会的接触は空間において拡大され、時間において迅速化されました」同時に、「個人はより大きく多様な生活と関係することによって幅が広くなり、ときにはゆきすぎとみられるほど、この生活がかれにもたらすめまぐるしい示唆の重複によって刺激されるようになった」。
    この変化は新聞や雑誌などの印刷メディアと鉄道、それに電信や電話が複合的に作用することによって生じる。
    クーリーは、これらのメディアがもたらす新しい世界のなかで、人々が選択的な個性を豊かにし、広範な社会性と共同性の感覚を身に付けていくであろうとのオプティミスティックな展望を示しています。

    <複製技術による想像力の変容>

    【バラージュの映画論】p27
    たんに映画が文化の1ジャンルというのに止まらず、民衆精神そのものが映画を通して醸成されていく時代が到来したことを告げています。

    【ベンヤミンの「複製技術論」】p28
    ベンヤミンは論文「複製技術時代における芸術作品」で写真から映画に至る機械的な複製技術の発達が、それまで芸術作品が帯びていた「いま」「ここに」しかないという一回性、すなわち作品のアウラを消失させていくという論点を呈示した。
    彼はここでいう「アウラ」とは芸術の儀式性を指す。
    「事物を覆っているヴェールを剥ぎ取り、アウラを崩壊させることこそ、現代の知覚の特徴であり、現代の世界では『平等に対する感覚』が非常に発達していて、ひとびとは一回かぎりのものからでさえ、複製によって同質のものを引き出そうとする」のです。
    その結果、芸術作品の受容は、礼拝的価値から展示的価値に重心をおくものに変化していきます。
    Cf. 「文化産業」by アドルノ、ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』

    【リップマンの「ステレオタイプ」】p32
    「一つの報告は、知ろうとするものと知られるものとの合作である」→私たちが日常経験している「事実」なるものには、常にそれを語る者や聞く者の意識の作用を通じて構成される契機が介在している。
    ステレオタイプはけっして認識の後からきて、それを歪めるのではない。むしろ私たちの認識は、しばしばステレオタイプを通してこそ可能になっている。

    【構築される事実】p33
    バラージュやベンヤミンからリップマンまでを含む1920年代から30年代にかけてのメディア論は、当時、すでに大衆社会のなかでのメディアと社会的現実の関係をめぐり、新しい状況が出現していたことを示唆している。
    ⇒1920年代以降、私たちはもう自分達の身のまわりにメディアに媒介されていない「生の現実」があることなどとは考えることができなくなっていた。

    <実用の知からアカデミックな知へ>

    【新聞の社会的機能への問い】p37

    【新聞史研究と文化的特殊性】p39
    Cf. 小野秀雄(東京大学新聞研究所初代所長、日本新聞学会初代会長)

    <3. 世論の社会学とプロパガンダの理論>
    【世論とは】p44
    20世紀初頭、ル・ボンやタルドからリップマンに至る社会心理学的な世論概念が浮上してくる。そこに照準されていたのは、王政と戦う近代市民社会ではなく、産業化や都市化が進み、人々の意識がメディアに複雑に媒介されるようになった現代の大衆社会の実態であった。
    Cf. 小山英三の社会学的アプローチ、機能的相対主義

    <4. 文化唯物論と抗争の場としての新聞>

    【マルクス主義的アプローチ】p46
    Cf. 長谷川如是閑のブルジョワ・ジャーナリズム論で新聞とは対立するものの意識であると論じた「事実をもつものと、その事実の知識を与えられるものとの間」、戸坂潤の新聞論

    「新聞意識」by 長谷川如是閑
    新聞に文学作品が掲載されるというだけでなく、「全体としての新聞を一つの文学の形態とみること」⇒史的認識の一つの形態
    →「新聞文学」とは歴史記述にほかならない。

    【対立する意識のメディア】p47
    戸坂潤「ジャーナリズムはイデオロギーのひとつのエージェントである」→新聞の問題はたんに新聞紙の歴史や経営の問題なのでも、新聞の機能の問題なのでもなく、新聞紙をひとつの装置とするイデオロギー全体の運動の問題なのである。

    【メディア時代としての1920年代】p49
    商業的な大新聞の全国紙への発展やマス・ジャーナリズムとしての雑誌の確率、映画館の隆盛、ラジオとレコード文化の発展などは、いずれもこの20年代から30年代にかけての時期に集中的に起きている。
    1920年代以降の「新聞学」の意味転換、すなわち新聞記者のための実用の知から新聞現象を対象とする方法の知への転換が、こうした時代状況のなかでのメディアの力への社会的関心の飛躍的増大を背景にしていたことは明らか。
    そして、30年代の新聞学と国家の動員体制との結びつきも、そのままマス媒体としての新聞と国家の動員体制との結びつきに呼応するものだった。

    《4. マス・コミュニケーション理論の展開とその限界》

    <1. プロパガンダ研究からマスコミ研究へ>p53

    【第二次世界大戦中のプロパガンダ研究】
    Cf. ラザースフェルドを中心とする一連のラジオ聴取研究→やがて総動員体制のもとで、宣伝研究と結びついたマス・コミュニケーション研究となっていく。
    つまり、戦後に大いに発展していく社会心理学的なマス・コミュニケーション研究は、この戦時期のラジオ研究と宣伝研究の結合にその原点を求めることができる。

    【「火星からの侵入」を信じた人々】p54
    Cf. キャントリルの『火星からの侵入』→「被暗示性」、ウェルズ『宇宙戦争』

    【弾丸モデルから限定効果モデルへ】p55
    弾丸モデル(あるいは皮下注射効果モデル):メディアが受け手に直接、強力な効果を及ぼすと考える。1940年代まで。

    <2. マスコミ研究における限定効果モデルの展開>

    【『ピープルズ・チョイス』とコミュニケーションの2段階の流れ】p56
    1940年代以降、アメリカを中心に大いに発展するマスコミ研究は、大きくいうならば60年代までと70年代以降の2期に分けられます。
    前記は限定効果モデルといわれているパラダイムが精緻化されていくプロセスでした。社会心理学者ラザースフェルド『ピープルズ・チョイス』
    「コミュニケーションの2段階の流れ」:マスメディアは私たちに決して直接的に影響を与えているわけではない。メディアと私達の間にはオピニオン・リーダーを中心とするパーソナルなコミュニケーション圏があり、これがメディアの影響の成否を左右する決定的な役割を果たしている。この2段階目のパーソナルな会話のレベルは、垂直的というよりも水平的なコミュニケーションによって営まれてる。この会話の水平性が新聞社や放送局と読者や視聴者の間に成立している垂直的で一方的な流れを限定づけるのです。
    「選択的接触」論:人々はメディアに白紙の状態で接触するわけではなく、最初から社会経済的、宗教的、地域的にある一定の傾向性を持っている。マス・コミュニケーションの効果は、受け手がすでに有している意見や傾向を補強ないし促進する方向に強く働くこととなる。人々は自分が支持する立場の主張には耳を傾け、それと反する主張からは、意図的ではないにせよ耳をそらしている。

    マス・コミュニケーション研究の流れは、メディア影響をオーディエンスにおいて生ずる効果の唯一で決定的な要因とみなすのではなく、むしろ「全体的状況において他の諸影響力のなかで作用している一つの影響力」として考えられるようになっていく。Cf. クラッパー・J・T『マス・コミュニケーションの効果』1976→このモデルはクーリーのコミュニケーション論に代表される多元的社会論と人々の自発的なコミュニケーション圏の可能性を重視する点で前提を共有している。
    ラザースフェルドによる「オピニオン・リーダーの各階層での偏在とその水平的影響力行使」という発想は、多元的社会構造に適合的なモデルであり、クーリーやミードなどによって重視されてきた多元的で水平的なアメリカ社会の理念を背景にしていた。
    ⇒しかし実際には、20世紀半ばのアメリカでは、すでにそうした水平的なコミュニケーションよりもパワー・エリートの影響力が大きくなり、垂直的な権力関係が大きな力を有していた。

    今日に至るマスコミ研究の系譜のなかで、こうした1940、50年代の限定効果モデルの多元社会論的な前提を、最も強く受け継いでいるのは、おそらく利用と満足研究の流れ。
    この研究は、送り手が一定の意図のもとに受け手に影響を与えようとしても、それが受け手の欲求と合致し、受け手に心理的満足をもたらすものでないならば、けっして送り手の意図どおりにはメッセージがそのまま受け入れられることはないことを主張した。

    <3. マスコミ研究における限定効果モデルへの批判>

    【テレビ時代と議題設定機能モデル登場】p60
    やがて1960年代を通じ、テレビが世界中に広がり人々は消費という行為により深く依存した日常を送るようになっていく。
    限定効果モデルはたしかに戦時中のラジオによるプロパガンダのような、一方的で明白に意図的なキャンペーンが必ずしも人々には直接的には効果を与えないことを明らかにした点で正しかった。
    しかし、テレビがすでに広く浸透し、人々の意識が消費社会的な仕方で再生産されるようになると、批判理論の立場からだけではなく、狭義の社会心理学的なマス・コミュニケーション理論の内側からも、限定効果モデルに対する批判が登場してきた。
    限定効果モデルに対する1970年代になって登場してきた批判として最も説得力をもった議論に、マスコミの議題設定機能に関するモデルがある。
    70年代初頭、マコームズとショーは、メディアの政治的機能をめぐり、マス・コミュニケーションは「どの立場を支持するのか」という人々の態度の方向性や強度には間接的な効果しか及ぼさないかもしれないが、「いったいなにが問題なのか」という政治的な争点自体を設定する面では非常に大きな影響力を行使しているとする視座を提起した。→テレビや新聞は特定の政治的な争点について人々がどのように語りどの立場をとるかを必ずしも決定できるわけではない。しかし、人々が何について論争をすべきなのかを規定できる強力な力を有している。
    ⇒このプロセスを通じ、ある問題は私たちの視界の中心からはずされて周縁化され、またある問題をめぐっては、凄まじい論争の渦が巻き起こります。メディアはそうした論争の結末までは支配しないが、少なくともそうした論争が巻き起こる舞台を用意し、また別の論叢を舞台から外しているのだ。

    【同調的な受け手像の再登場】p62
    1970年代以降、マス・コミュニケーション研究のなかでは限定効果モデルに代わる多くの効果モデルが出てきた。
    代表的なもの:ノエルーノイマン「沈黙の螺旋モデル」cf. 美人投票、ガーブナーらの培養分析→制度分析やメッセージ分析と結びついて文化指標研究を構成していった、ティチナー、ドナヒュー、オリエンの知識ギャップモデル cf. セサミストリート→所得間格差と知識格差の連関、ドフルールとボールーロキーチらによるメディア依存モデルなど。

    【マス・コミュニケーション理論の臨界面】p65
    1970年代以降、マス・コミュニケーション理論は多様化していき、すでにマスメディアは一様に受け手に対して皮下注射的な効果を及ぼすとか、パーソナルな会話のなかで限定的な効果しか及ぼしていないとも考えられていない。公的な議題設定や意見の表出可能性、長時間の培養過程、階層間での影響の偏差、メディアへの依存度の差異などによってメディアの効果はより複雑で多面的であるということが明らかになった。
    しかしこうして変化してきたマスコミ理論全体を通じ、いくつかの前提が保持されつづけてきたことも事実である。最も見過ごせないのは、これらの研究が一貫してマスメディアの「効果」を問題にしてきたという点だ。そこではそもそもラジオなりテレビなりといったメディアの存在形式そのものはほとんど問われてこなかった。またそうしたメディアが社会のどのようなイデオロギーと結びつき、資本主義のいかなるシステムのなかで作動しているのかという点も、ほとんど問われてこなかった。さらに、そこでは「効果」という機能的な観点に関心が収斂していくために人々がメディアとの交渉のなかでいかなる意味の世界を紡ぎだし、自らの主体をどのような言説の布置のなかで生産しているのかといった問いも、視野の外におかれた。こうしたマス・コミュニケーション理論全体の前提に関わる限界は、この理論がもともとアメリカの自由主義的なイデオロギーの内部から生み出されてきたという出自とも無関係ではないようだ。

    《5. メディア革命と知覚の近代》
    1970年代までのマス・コミュニケーション理論への批判
    ①アドルノらの文化産業論をグローバルな地平で展開し、アメリカのメディア産業の第三世界に対する文化支配を告発した文化帝国主義批判
    ②メディアのマテリアルな形式が社会的世界の成り立ちをいかに変えるかを問うマクルーハンらのメディア論
    ③テクスト理論を踏まえつつ、オーディエンスがメディアと交渉しながら意味世界を紡ぎ出していく過程に照準したカルチュラル・スタディーズ

    1960年代初頭マクルーハン「メディアはメッセージ」
    テレビでどんな番組が放送され、電話で何が話されようと、それぞれのメディアはその特性に応じてわれわれの環境世界に関わる仕方を変え、思考の形式にも決定的な変化をもたらす。
    メディアは伝達の中立的な媒体などではけっしてなく、私たちのリアリティは、それを織り上げる言説のメディアによって条件づけられている。
    だからこそ、社会的な現実の構成にとって主導的なメディアが活字から電子に移行することは、意識や思考の地平を根底から変えてしまう。

    <1. 電子メディアによる空間の置換>

    【サイコロジカル・ネバーフッド】p71
    新しい情報技術がもたらす変容についてのマクルーハンの見解は、相互に連関する2つの論点を含んでいた。
    ①電子メディアにより地理的距離が無化され、電子的に媒介された同時的な場が至るところに出現する。人は地球の表側と裏側で離れていても、電子メディアによって同一の場を全身的な感覚で共有してしまう。
    Cf. アロンソン「サイコロジカル・ネバーフッド」:電子的な近隣関係(電話などによって繋がること)

    [ホットなメディア/クールなメディア]p73
    ホットなメディアとは、単一の感覚を高精細度で拡張するメディアであり、クールなメディアとは全身的な感覚を低精細度で拡張するメディアである。しかも、ホットなメディアは受容者による参与性が低く、クールなメディアは参与性が高い。
    たとえば、ラジオはホットで電話はクール、映画はホットでテレビはクールというように、基準を曖昧にしたまま「ホット」と「クール」を分類してもいる。

    【場所の意識の喪失】p72
    メロウィッツは電子メディアが社会的状況に対する場所の拘束力を低下させることで、社会の構成秩序自体を変容させていくことを主張する。彼はマクルーハンが示した電子メディアの革命的な可能性をゴッフマンの対面的状況に関する演劇論的分析を援用することで理論化した。
    そのために彼は社会的状況を対面的な場所に結びつける代わりに情報への接近パターンという観点から解釈し、メディアの変化は建築環境の変化と同じように、状況を定義づけられていると論じる。新しいメディアの登場は、壁や門の建設や破壊と同様、社会的状況を分割し、統合する。伝統的には社会は、公的な場面と私的な場面、上位の場と下位の場、男の領域と女の領域、大人の世界と子どもの世界を分離することによって秩序づけられてきた。
    しかし、「ひとたび電話やラジオ、テレビが家庭に入ると空間的に孤立させたり、相手の侵入を防ぐことは、情報の流れに対して何ら効果をもたなくなる。電子的なメッセージは、壁を抜けて漏れ流れ、どんな距離でも飛び越えてしまう」。その結果、電子メディアが浸透した社会では、「場所感覚の喪失」が至るところで起こる。人々は場所を失い、社会が混ぜ合わされていく。

    <2. 電子的なメディア空間のなかの身体>

    【視覚から触覚への逆転】p74
    ②電子メディアの滲透が、人々のコミュニケーションを線形的で視覚的な形態から包括的で触覚的な形態に移行させる。マクルーハン「電気は脳ミソと同じように、対象のあらゆる側面に同時に接触する手段を提供する。電気が視覚的であったり聴覚的であったりするのは、まったく付随的にすぎず、第一義的には触覚的だ」。
    マクルーハンによれば、活版印刷の普及により「経験を連続体として線形に把握していく習慣」の常習化が進み、視覚による経験の均質化が五感が織りなす感覚複合を背後へ押しやってしまいます。近代の視覚を特権化した世界は「話ことばがもつ複数の要素が共鳴しあう世界とは無縁」。ところが現代になると、映像と電子メディアがこうした知覚の線形性と視覚優位を再び逆転させる。

    【「書く」という技術】p75
    Cf. 「グーテンベルク42行聖書」:1450年頃、グーテンベルクはマインツの実業家フストの資金援助を受け、42行聖書を印刷する。

    オングは言語表現の技術と集団的思考がどれほど深く結びついているかを論証した。
    彼はメディアの発展史を口承的(oral)、書記的(chirographic)、活字的(typographical)、電子的(electronic)という4つのモードが積み重なってきた過程として把握する。オングの議論の要点は、メディアの変容を表現手段の変化に留まらず、思考や記憶の様式、世界観を根底から変えてしまう構造的な契機として捉えた点。

    [プラトンと口承文化] p76
    Cf. プラトンのプシュケー

    【世界を思考する制度】p77
    メディアの変容は、世界を思考する技術の変容にほかならない。
    口頭から文字へ、そして電子へという発展はループを描いて回帰するような過程ではなく、螺旋的に位相をずらしていく積層的なプロセスなのです。電子メディアはわれわれを「二次的な声の文化」に導きつつも、文字文化のなかで拡大されてきた言語の逐次処理と空間化を加速度的に強化する。by オング

    <3. 印刷革命がもたらした近代>

    【印刷術と宗教革命・科学革命】p79
    Cf. アイゼイステイン「印刷革命論」:ルネッサンスと宗教革命、科学革命といった近代の文化変容は印刷術を不可欠の条件としていた。Cf. ルターの宗教革命、コペルニクス時代の書誌学的資料の充実。

    【国民国家と国語の形成】p81
    Cf. アンダーソン『想像の共同体』出版資本主義、俗語革命

    【写本の生産システムの変容】p82

    《6. カルチュラル・スタディーズの介入》
    Cf. 日本の番組「ニュースステーション」
    1970年代以降のメディア研究の新しい展開にとって、政治経済学的なアプローチやマクルーハンのメディア環境論と並び、もうひとつ決定的に重要なのが、カルチュラル・スタディーズのメディア研究。1960年代からレイモンド・ウィリアムズやホールを中心に発展していったこの潮流は、一方ではマルクス主義の文化論に、他方では記号論や構造主義、精神分析の理論を用いたテクスト分析に大きな影響を受けながら、テレビや大衆雑誌、映画などのメディアを日常生活の実践のなかで捉えていく新しいアプローチを発展させた。とりわけこのアプローチは日常生活のなかでメディアと接し、番組や記事を消費していくオーディエンス=読者に焦点を当て、文化としてのメディアの重層的な構成を明らかにしていく。送り手と受け手が同じ解釈コードを共有するのが正常と考えるコミュニケーション理論の前提を批判して、むしろ受け手の多様なテクスト解釈やメディア消費のパターンのなかに文化をめぐる抗争と折衝の契機を見出していった。今日のメディア研究はこのカルチュラル・スタディーズのアプローチを機軸としながら、文化のテクノロジカルな次元を掘り下げたマクルーハン以降の研究や、グローバルなメディア資本についての政治経済学的な分析とも結びついていてその最前線が展開されている。
    思想的にいうならば、カルチュラル・スタディーズは一方の軸をウィリアムズが他方の軸をホールが担ってきた。両者はともに文化のなかで作動している政治や権力に敏感だが、ホールがよりイデオロギーや言語、人種をめぐる葛藤を焦点化しているのに対し、ウィリアムズはむしろ集合的な経験や歴史、テクノロジーに目を向ける。ウィリアムズの視座はその文化唯物論に最もよく表れており、文化をあくまでマテリアルな過程として、日常的実践と結びつけて捉えた。

    [「移動的私生活化」by ウィリアムズ]p88

    <ホールとエンコーディング/デコーディング>p91
    言語の多声性についての理解を基礎に据えた視座から現代のコミュニケーションを捉え直す。
    コミュニケーションのプロセスを相互に結びついてはいるが相対的な自律性をもって分節化される諸々の日常的実践を通じて生産・維持される言説の構造的な秩序として把握した。
    メディアのテクストはその生産と消費の両面で、さまざまな解釈と記述、実践がせめぎ合う記号的な場である。テクスト消費のプロセスは潜在的につねに記号/言語の多声性と結びついている。
    ホールが強調するのは社会のイデオロギー的な秩序とデコーディングにおける読みの実践の相互的な関係である。
    ホールはデコーディングにおける読み手の立場を、支配的(hegemonic)、折衝的(negotiative)、対抗的と3つに区別する。
    ①送り手が付与したテクストの意味をそっくりそのまま読み手も受け取るようなあり方。
    ②支配的な読みとそれぞれの読み手の個別的な位置からの読みとが混ざり合う矛盾をはらんだポジション。
    ③支配的な読みとの矛盾や対立が明示される。
    以上のようなホールの研究は、それまで支配的だったマス・コミュニケーション研究の根底を批判する。すなわち、マスコミ研究の伝達モデルは異なる立場や集団の差異を相対的なものとみなし、社会の大勢で基本的な価値についての合意が成立していることを暗に前提にしていた。p94

    <3. メディアが現実を生成する>

    【カルチュラル・スタディーズと記号論】p95
    ホールによれば、メディアはたんい外部の「現実」に言及し、それを伝達しているのではなく、むしろそうした「現実」を自ら生産しているのである。メディアは「現実」の伝達装置である以上に、その言説的実践を通して「現実」を生産してく仕掛けなのである。
    このようにメディアの実践のなかに社会的現実の生産力を認める点で、ホールは多くの構造主義者や記号学者と同じ立場に立っていた。ただ↑との差異としては、以下のような受容プロセスの捉え方である。実際のメディアの受容過程で発生するのは、テクストの構造によって決定される完結的な世界ではなく、内部にズレや矛盾、ねじれや葛藤を含んだ重層的な過程なのである。

    【相互テクスト的なプロセス】p97
    相互テクスト的なプロセスには、水平的な次元と垂直的な次元が交差している。
    水平的な次元とは:ジャンルや登場人物、内容などにおいて関係付けられる番組なり記事なりの間の相互性。
    垂直的な次元とは:ある番組や記事を第一次的なテクストとしたときに、これに独特の仕方で言及していく批評、雑誌記事などから投書、うわさ話まで、レベルの異なるテクスト間の相互性。

    カルチュラル・スタディーズのメディア研究では異なる2つの視座が交差する
    ①構造主義や記号論に基づきながら、メディアのテクストが視聴者の主体性や眼差しを構築していく力を内包している。
    ②記号論や構造主義のテクスト分析が「権威主義」を内包していることを批判する。

    <4. オーディエンス研究と日常的実践のなかのメディア>

    【オーディエンス研究の隆盛】p98
    カルチュラル・スタディーズのメディア研究では、ホールのモデルに導かれつつ、1970年代以降、人気のあるテレビ番組や雑誌の受容についての事例分析をいくつも蓄積した。
    eg. モーレーとブランスドンの『ネーションワイド』

    【日常的実践のなかのメディア】p99
    大きな流れで見るならカルチュラル・スタディーズのメディア研究は、テクスト解釈の多様性やせめぎ合いを強調する視座から、やがてそうしたメディア消費がいかなる社会=技術的な場に位置づけられているのかを問題にする視座へと向かっていった。
    Cf. モーレー『ファミリー・テレビジョン』:テレビやコンピュータ、電話などのメディアを使用していく中で、我々はわれわれ自身のアイデンティティを生産している。

    吉見「メディアのテクスチュアルな構造とテクノロジカルな作用、そしてオーディエンスの身体性をめぐる複雑な関係に、私たちは日常生活のダイナミズムのなかからアプローチしていかなければならない」p101

    Ⅱ. 歴史としてのメディア

    《7. 新聞と近代ジャーナリズム》

    <パンフレットから新聞へ>p107

    【印刷術の発明とフルークブラット】
    16世紀ドイツ「フルークブラット」と呼ばれるビラ、パンフレットを断続的に発行していた。
    フルークブラットとは「飛ぶ紙片」という意味。

    【拡大する情報流通とニュース本】p108
    17世紀になると輸送と情報伝達のシステム、印刷産業、行政や社会の組織に大きな変化が起こり、定期的なニュース出版も可能になっていった。

    【革命とジャーナリズムの発展】
    イギリスの清教徒革命は近代ジャーナリズムが成立してくる画期となった。but 1640-60の王政復古による検閲で一時ストップ→88年の名誉革命を経て、再び隆盛。

    <2. コーヒーハウスと談論する公衆>

    【コーヒーハウスと新聞】p110
    18世紀初めロンドンには2000軒を超えるコーヒーハウスが店を構え、店主たちは出版業者たちに対抗する相互扶助組織をもっていた。
    コーヒーハウスは単なる新聞閲覧所という以上に、近代ジャーナリズムがかたちづくられる公共的基盤だった。

    【情報センターとしてのコーヒーハウス】p111
    コーヒーハウスはやがて世界最大の保険業者へ発展していった。

    【都市のなかの公共空間】p113
    Cf. ハバーマス『公共性の構造転換』
    Cf. フランスのサロンに照応→どちらもはじめは文芸的なやがて政治的批判の場の拠点へ。
    3つの共通点 by ハバーマス
    ①そこでは社会的地位の平等を前提とし、その差を度外視するような行動様式が要求された。
    ②これらの場での討論は、それまで自明とされてきた通念や制度を問題にしていった。
    ③これらの場は、討論を通じて情報や文化を商品に転化させ、そのことで公衆を形成していくという契機を内包していた。
    ⇒公権力の領域とみなされていた公共性が、こうしたなかで市民階級の側に奪取されていった。

    <3. 新聞産業と大衆ジャーナリズム>

    【拡大する新聞発行】p114
    論壇的なジャーナリズムから今日あるような産業化された新聞への転換が起こってくるのは、ヨーロッパでは大体1820年ごろから70年頃までの約半世紀を通じてのこと。
    ↓要因
    【①:印刷機の発達と廉価化】p115
    1821年にケーニッヒにより円筒式印刷が考案されて以来、印刷機の生産能力は急速に上昇した。

    【②:検閲からの自由】p115
    第二の背景として、検閲からの自由と印紙税撤廃がある。
    ↓これを受けて
    新聞の廉価化と大衆化が進み、イギリスの新聞の中心は高級論壇紙から廉価な大衆紙に移行していった。

    【配達システムと通信社の登場】p116
    第三、第四の背景として郵便・配達システムの発展と広告収入の増大がある。
    Cf. フランス・ジャーナリズムの革命児ジラルダン
    →彼は1836年、日刊紙『プレス』紙を創刊する際、新聞発行の財政的基盤を予約購読料から広告料へ決定的に切り替えることにより、大幅な廉価化を実現した。
    (さらに)彼は鉄道の駅から農村部に新聞を配る販売所を新設・統廃合して営業力を強化し、さらに拡張員などを使って地方での購読者の勧誘を進めた。

    第五に電信網と通信社の登場がある。

    <4. 近代ジャーナリズムの2つの系譜>

    【大衆ジャーナリズム】p117
    Cf. イギリスの日曜新聞(読者はブルジョアよりも労働者階級)
    内容は紙面の中心が政治的な論議よりも、呼び売りされたバラッド(ballads:民間伝承の物語)や民衆本、暦、殺人と死刑執行の物語などの通俗文学の古い形式の延長線上にあるような記事であった。
    19世紀の日曜新聞は、口承の文化のなかに根づいていた民衆的関心を、廉価な印刷文化のなかに吸収していった。

    【ブロードサイド・バラッド】p118
    ブロードサイドとは通常1枚の紙の片面に刷られた俗謡と散文、および絵が混じりあった読み物のこと。

    【ジャーナリズムの2つの水脈】
    ①政治的論議や政府批判、経済情報を柱に発達するジャーナリズムで、この新聞の発展を支えた読者層は勃興するブルジョア市民階級。この新聞は、声の文化というよりも文字の文化に立脚しており、知識人や経済人が政治や市場についての新しい情報を手紙でやり取りしてきたコミュニケーションの延長線上に位置づけられる。
    ②中世以来の民衆の口承的なコミュニケーションの延長線上に位置づけられるもので、印刷術の発達とともに、そうした口承の文化が活字の文化に置き換えられていくことにより成立した新聞。
    こちらの読者層はブルジョア階級にかぎらず、労働者階級やさまざまなタイプの庶民を含む広範な層に受け入れられていきました。

    【瓦版から小新聞まで】p119
    明治時代の2つのタイプの新聞
    ①大新聞:漢文物語の素養を前提として記事が書かれ、国家や政治を中心的なテーマとして論じたもので、明治時代の国家や政治の担い手となっていたような知識人や裕福な層を読者層としていた。
    eg. 『横浜毎日新聞』、『東京日日新聞』、『朝野新聞』、『郵便報知新聞』
    ②小新聞:総ふりがなを付けた『読売新聞』が1874年に発刊され、これが多数の読者を獲得したのを契機に拡がっていったもので、漢字の知識が乏しい一般の庶民を主な読者層としていた。
    Cf. 「錦絵新聞」:小新聞に類似。これはニュースの題材を木版の錦絵に描いて図解したもので、余白に解説が書いてあった。

    さらに日本では、小新聞や錦絵新聞の源流を示す江戸時代のメディアとして「瓦版」が存在していた。
    瓦版とは、木版1枚刷りの印刷物だが、地震や火事、祭礼、仇討ちなどの事件の報道から護符や広告、ゴシップの要素までを含んだニュース媒体として、とりわけ19世紀には広範な普及をみせていた。
    この瓦版には、前述のイギリスのブロードサイド・バラッドにも似て、事件を物語化し、娯楽化して消費していく傾向が伺える。

    《8. 電話が誕生したのはいつだったのか》
    音響メディアや映像メディアの発展のなかで、文化はそれを生成してきた場所性や出来事性から乖離して、いくらでも複製し、編集していくことができるようになっていった。
    このようなメディアによる経験の変容を、原型的に示したメディアに電話がある。
    電話の登場によって人々は、初めて声を空間を超えて一瞬のうちに複製する能力を身につけた。これは私たちが蓄音機によって時間を超えて声を複製する能力を手に入れていったのと対を成す出来事だった。

    <1. 電話が誕生したとき>

    【ベルとグレイの発明】p125
    電話が発明されたのは1876年、ベルによって。
    ベルの研究と並行してグレイも音声の電気的な送信の取り組み、ベルと同時に特許を申請している。
    電話の発明は、突然の出来事というよりも、19世紀後半に起きた一連のメディア変容の一部だった。

    <2. 電信としての電話>


    <3. 放送としての電話>

    【電話による劇場中継】p128

    [ホテルやレストランでの劇場電話]p129
    音楽やオペラ、講演を中継する劇場電話。電話の初期の代表的な利用法として、このような中継メディアとしての利用法があっら。いうまでもなく、ラジオは登場していない。

    <4. 女性交換手の登場>

    [農村有線放送電話]p132

    【女性交換手とブルジョア的通念】p133
    重要なのは、電話産業が交換手に要求していた役割が、19世紀のブルジョア社会が女性に期待していた役割と合致すること。
    今日の女性アナウンサーやスチュワーデスにも似て、ブルジョア的な通念によってジェンダーとテクノロジーが結ばれる職業イメージが形成され始めていた。

    【ネットワーカーとしての女性交換手】p134

    <5. 閉された会話のメディア>

    【地域システムから全国システムへ】p136
    電話メディアの現代的変貌は、およそ1890年代から1920年代にかけてゆっくりと起き、20年代末には、北米で今日知られているような電話とほとんど変わらない形態が確立していた。
    こうした電話の現代化を促していった契機として3つある。
    ①特に北米大陸の場合、ベル系の電話網が、農村のコミュニティに基盤をおくより独立性の強い電話網を統合し、全国を一元的に統括する電話システムを整備していく。
    20世紀の電話産業が指向していったのは、大都市を基盤としながらも、地域的なまとまりを超えて全国をつないでいくナショナルなシステムだった。
    電話は個室と個室を密室的につなぐプライベートなメディアへと機能的に純化していった。
    ②電話交換手たちの労働が機械の部品のように標準化され、彼女たちの声が規格化されていった。
    彼女たちはネットワーカーというよりも、一定の声のトーンで回線を接続する交換機械と化していった。
    ③電話産業が回線加入者たちの間のおしゃべりを積極的に誘発し、これらを自らの資本蓄積のプロセスに組み込んでいく過程。
    友人の電話番号を知っていることを強調するような広告が考案され、私的な親密圏と電話による会話を重ねあわせていくイメージが社会的に形成されていった。

    《9. 誰が映画を誕生させたのか》
    電話やラジオなど、多くのメディアが中産階級を中心に発達したのに対し、草創期の映画の発達を担ったのは中産階級という以上に労働者階級だった。

    <1. 視覚の実験から「動く写真」へ>

    【新しい視覚の装置】p143
    一般に映画の発明はエジソンやリュミエール兄弟によるものとされる。

    <2. 魔術的見世物から映画へ>
    Cf. 幻灯機(マジック・ランタン)とパノラマは18世紀末から19世紀にかけての都市の大衆にとって最も興味をそそるスペクタクルだった。

    ファンタスマゴリーとパノラマは、いずれも映画の先駆となる大衆的な見世物だった。一方で、ファンタスマゴリーは光学的イリュージョンに運動という要素を付け加えた。この要素こそは、やがて映画の核心を成していく。他方、パノラマは、文字通りパノラマ的世界と呼ぶことのできる新たな視界の可能性を人々に実感させた。パノラマ館はどこであろうと閉じられた空間のなかに無限に広がる視界を可能にしていくものだった。
    そして、このような視界こそ、やがて映画が動きを加えつつ発展させていくものだった。

    <3. 走る馬の撮影から映画へ>
    映画として結実するためには更なる写真技術が必要だった。
    ひとつは1秒間に10数枚という速い速度での連続撮影の実現。この発展はフランスの科学者マレイとアメリカの写真家マイブリッジの二人によって成し遂げられた。

    【ロール式フィルムの登場】p151
    もうひとつ映画誕生を決定的にした技術革新はロール式フィルムの登場だった。

    <4. エジソンとリュミエール兄弟の「発明」>

    【同時多発的な映画の発明】p152
    以上のような映画誕生のためには不可欠な条件が整ったのが1880年代半ば。

    エジソンやリュミエール兄弟の有利さは、彼らが新しい装置を考案する才能に長けていたこと以上に、彼らが新しい装置の特許を有効に活用し、技術を事業化していけるだけの資金力と組織を持っていた点にある。

    【ホームビデオとしての映画】p153
    1877年にエジソンが発明した蓄音機が聴覚的な記録と再生の装置と考えられていたのと同様、彼は映画を視覚的な記録と再生の装置として開発しようとしていた。だからこそ、彼が87年頃にこうした取り組みを始めたとき、最初に試作したのは蓄音機と同じ円筒シリンダーに感光面が被せられただけの装置だった。

    <5. 興行物としての映画と労働階級>

    【大衆興行物としての映画】p154
    発明家の意図がどこにあったにせよ、実際にキネトスコープや映画が普及していく過程で最も刺激されていたのは、ブルジョア家庭の室内的な欲望ではなく、公共の場における大衆的な見世物への欲望だった。
    Cf. 「ペニーアーケード」(今のゲームセンターの源流?)

    【労働者階級の娯楽のなかから】p156
    アメリカでも、労働者階級と初期映画興行との結びつきは明瞭だった。20世紀初頭のアメリカで、ニッケル・オデオンと呼ばれる何軒もの映画館が並んでいたのは決まって労働者階級の居住区だった。

    《10. ラジオ・マニアたちの社交圏》
    ちょうど1920年代における電話の「パーソナル・メディア」としての確立と対をなすように、「マスメディア」として組織されていったのがラジオ。
    1920年代以前のアメリカでのラジオには、匿名リスナー相手の「放送」というよりも、アマチュア無線家たちの「ネットワーク」という側面の方が中心的だった。20年代には、このネットワーク・メディアとしてのラジオから、マスメディアとしてのラジオへの転換が起きた。

    <1. 電波による交信>

    【マルコーニの実験】p161
    無線通信の可能性は1864年にマクスウェルが発表した電磁場の理論によって予測され、88年ヘルツの実験によって確認され、95年マルコーニの開発した無線装置で実用化された。
    マルコーニは99年に英仏海峡横断通信に、1901年には大西洋横断通信に成功する。

    <2. 無線通信とラジオ放送の間>
    マルコーニを引き継いで、無線電信から無線電話への発展を導いたのはフェッセンデンだった。

    <3. 音楽をあらゆる家庭に>

    【ド・フォレストのラジオ放送構想】p165
    Cf. エッフェル塔から音楽を流す

    <4. アマチュア無線家たちのネットワーク>

    【無線マニアの増殖】p167
    初期のラジオ無線家たちは、たんに放送を聴取する受動的な受け手ではなく、相互に交信し、ネットワークを形成していく存在だった。彼らのネットワークはすでに1900年代初頭から形成されはじめていた。例えば、アメリカでは鉱石検波器の開発により比較的安価な無線装置の製作が可能になった06年頃から若者の間で無線がブームとなり、アマチュアたちによる草の根的な交信網が形成されていった。

    【法的規制とその限界】p168
    1912年のラジオ法で、アマチュア無線に200m以下の波長の周波帯が割り当てられていった。

    <5. マスメディアとしてのラジオ放送へ>

    【ラジオ・ブームの到来】p169
    Cf. KDKA局

    【放送メディアとしてのラジオ】p171
    KDKA局は、それまでのアマチュア局とは異なり、ラジオ放送に関する技術的な知識には興味のない、もっぱら放送内容を興味本位に消費していく膨大な大衆=リスナーを相手にしていた。
    もともと技術的には受信と送信の両方が可能であったはずのラジオ無線は、送信=放送局、受信=大衆という一方向的なメディアに転換していった。
    1920年代に起きたのは、このようなラジオ概念の転換である。すなわち今や、たんに無線の声を受信していくだけでなく、自ら発信していく能力をもったさまざまな主体の間での相互媒介的なメディアから、大多数の大衆の嗜好に合うように音や声の中身を巧みに調整し、商品化していく放送局と、そうして商品化された言語活動を消費していく受け手としての大衆を両極とする関係を再生産していくようなメディアへと転換していった。

    《11. テレビは家にやって来た》

    <1. テレビが誕生したとき>

    【1880年代からの発想】p177
    ベルによる電話の発明が1876年、リュミエール兄弟による映画の発明が95年、同じ年にマルコーニが無線電信の実験に成功していることを考えると、テレビの発明もまた19世紀末にまで遡ることができる。

    【1920年代の実用化】p178
    高柳健次郎が1926年、送信側は機械式だが受信側はブラウン管を用いて「イ」の字を送ることに成功している。
    そしてこの高柳やロシアから渡米したツヴォリキンの実験を嚆矢として、テレビの走査方式はニプコー円盤の原理を使った機械式からブラウン管を使った電子式へと転換していく。

    <2. 街頭テレビと成婚パレード>

    【街頭テレビの人気】p179
    こうして第二次世界大戦後、とりわけ1950年代から60年代にかけて、アメリカやヨーロッパ、そして日本においてテレビはほぼ一斉に爆発的な勢いで普及していく。
    日本の場合、このテレビの日常生活への浸透をシンボリックに特徴づけていったのは街頭テレビの人気と皇太子成婚パレードだった。

    【皇太子成婚とテレビ時代】p181
    1958, 59年の皇太子成婚ブームは、こうして街頭で人気を集めていたテレビがそれぞれの家庭で爆発的に普及していくようになる決定的な契機だった。

    <3. 家庭のなかのテレビ受像機>

    【「三種の神器」としてのテレビ】p183
    三種の神器:直接的には電気洗濯機と電気冷蔵庫、それに白黒テレビの3つを指す。三種の神器は、高度成長期の日本人のアイデンティティ感覚と深く結びついていった。

    【分散するナショナル・シンボル】p185
    三種の神器という言葉がいったいいつから誰によって使われはじめたのかについては諸説あるが、基本的には1956年から57年にかけての好景気が「神武景気」、58年から61年にかけてを「岩戸景気」、60年代半ばのそれが「いざなぎ景気」と呼ばれたように、当時ナショナルな神話に託して経済を語る意識が存在したことと結びついて考えることができる。

    【能動的な主婦とテクノロジカルな主体】p186
    「三種の神器」のイメージに関して次の2つのことが重要である。
    ①それらはアメリカ的なライフスタイルのイメージを背景としつつ、戦後の「民主化」と直結するものとして描かれていた。そしてその中核に位置づけられていたのが、「主婦」として女性たちである。1950年代半ば以降の家電広告に登場する女性たちは、もはやモダンガールではなくあくまで家庭の主婦。ここで重要なのは、主婦たちがたんなる電化された生活の享受者というよりも、家庭電化を推進し、経営する主体として描かれていたということ。
    ②「三種の神器」は家庭電化=民主化の主体としての主婦のイメージと直結していたでけではなく、日本という風土を近代化していく「技術力」のイメージとも結びついていた。
    ⇒1950年代以降、一方ではアメリカ的な生活への欲望を組織する主婦のイメージと、他方では日本の文化的伝統に基づくナショナルな技術力のイメージと結びついていった。
    ステレオタイプ的に述べるならば、男たちはプロ野球や大相撲などの実況中継や時代劇に、女達は昼のメロドラマや夜のホームドラマに、子どもたちはアニメや変身ものに夢中になっていった。そのような仕方で、ジェンダーや親子の役割に連動する視聴者の主体が組織されていくことになった。

    <4. ナショナル・メディアとしてのテレビ>

    【リビング・ルームの時間割装置】p188
    テレビの最大の作用は、家庭空間のなかにナショナルな広がりをもった時間割を挿入してしまったことにある。

    【ゴールデンアワーの誕生】p189
    eg. 『水戸黄門』

    Ⅲ. 実践としてのメディア

    《12. ケータイが変える都市の風景》
    携帯電話やインターネットなどの新しいネットワーク型のメディア・システムはもはや単純にマスメディアでも、パーソナル・メディアでもない。むしろ、パーソナルでありながらもそこには何らかの公共性が担われ、同時に公的なものが絶えずパーソナルな身体と結びつき、従来のような「公」と「私」の区分を曖昧にしている。
    そしてやがて、これらの一部が「ソーシャルメディア」と呼ばれるようになっていく。
    メディアが社会の関数であり、メディアが社会の関数である以上、このような新しい次元のメディアの台頭は、社会の成り立ちそのものの根底からの変化と結びついている。

    <1. コードレスからケータイへ>

    【携帯電話の急速な普及】p195
    1990年代後半から爆発的な普及をみせた。

    【先行的変化―電話の内部化】p196
    電子的な単位としての家庭は、「お茶の間のテレビ」から「私の部屋の電話」への移行の過程で、多数の個室の集合体へと変容しつつあった。

    【「電子的な個室」の偏在】p198
    80年代における親子電話はコードレスホン、あるいはテレホンカード式の公衆電話の普及から90年代における携帯電話の爆発的普及までの間には、明らかに連続的なプロセスが存在する。

    <2. 個室と都市が結合するネットワーク>

    【ウォークマンの流行】p200
    ウォークマンを耳にしているときに私たちの聴覚は仮想的な環境を生きている。私たちの周りの風景は、音楽のなかにある自分が感じる背景として、周囲の諸々の社会的な関係性から遊離する。私たちは都市のなかのどこにいようが、その場所をまるで自分の個室のような空間として経験していくことができるようになった。
    都市の公共空間には無数の個人的な環境世界が侵入し、騒々しさを撒き散らしていくことになった。このような侵入によって、都市は堅固たる公共の空間装置から無数の個人化されたサウンドスケープの流動的なネットワークへと根底から変容しつつあった。

    【携帯メディアとしてのポケベル】
    若者たちはポケベルを手にした時から、両親にも、教師にも、家や公衆電話ボックスにも拘束されずに、都市のあらゆる場所をプライベート化して互いの親密圏を築き始めた。
    Cf. ダイヤルQ2

    <3. 公的空間と私的空間の境界消失>

    【電車内の「公共」とは誰のものか?】p204
    上記の新興メディアの動きが示してきたのは、私たちの身体がこれまで物理的にそこに存在していると信じてきた風景や社会的な関係から遊離し、メディアを介して構築され直した関係や風景のなかに住まってしまう可能性である。
    このとき生じる重大な帰結のひとつは、公的空間と私的空間との境界が混乱し、無数の飛び地が発生し、やがて消失していく状況である。eg. 電車内での携帯電話使用について

    <4. 脱場所化、非同期化、双方向的な自己編集性>

    【世紀転換期のメディア変容】p207
    以上のメディア変容にみられる共通項
    ①メディアの身体化ないしは脱場所化。
    1980年代以降のメディア変容は一貫して、メディアを特定の場所との結びつきから解き放ち、どこにでも移動でき、あらゆる空間に偏在するものに変えていった。
    ②ラジオやテレビが強化してきた社会的な時間の同時性を弱める方向に進んでいった。
    現代のメディア変容は家族や地域社会が育むコミュナルな時間も、近代国家のナショナルな時間も分解させていく方向に作用する。
    ③双方向的なネットワークのなかでの自己編集性の拡大である。
    今日の資本主義は、アドルノがかつて辛辣に批判したような文化生産物を画一的に消費していく大衆ではまったくなく、新たな情報技術を駆使して文化を編集し、自己イメージを自在に操作していく「能動的」な主体をこそ、資本蓄積の最も有力なエージェントとみなしている。

    【緩衝地帯の消失】p209
    ここにおいて、それぞれのメディアは緩衝地帯となる何らかの社会集団の媒介なしに、文字通り個別の身体に直結されていく。
    (電話やテレビなどは)家族の共同性が我々の身体が電子化された映像や声の世界と繋がれていく際のフィルターの役割を果たしていた。

    【浮遊しはじめた身体】p210
    こうしたなかで浮上してくるのは、テクノロジーを携えて境界を越えて移動していく単身の身体。例えば都市の街路から砂漠、ジャングル、宇宙の果てまでを、ウォークマンを身に付けパソコンを持ち、テレビを引きずった身体が旅していく。この身体はそうした地理的な境界を越えるだけでなく、文化や言語の境界や性の境界、さらには人間と動物、生物と機械の境界も越えていく。メディアはそうした越境を可能にしてくれる装置として身体に密着しており、どこへでも連れて行けるものになっている。
    新しいメディアは脱場所的、脱文脈的に浮遊しはじめた消費者たちのフローとしての身体であることを示し、資本主義は、そのようなフローとしての身体を、地球をすっぽりと覆うように張り巡らされた電子の網の目によって捕捉していこうとする。

    《13. パソコンとネットワーク化する市民社会》
    活字の誕生からテレビまで、新しいメディアがしてきたことは、基本的には大量複製だったが、コンピュータの登場で、人間の思考そのものが機械的に解析され、模造されていく可能性が生まれた。

    <1. 電子計算機としてのコンピュータ>
    Cf. 清水幾太郎

    【初めてのコンピュータ】p217
    通説では、史上初のコンピュータは1945年アメリカ陸軍とペンシルバニア大学のチームでジョン・エッカートとジョン・モークリーたちが中心にまって完成させたENIAC(Electronic Numerical Integrator and Calculator)である。もともとこの計算機が開発された目的はミサイルの弾道計算で、完成後は原爆の引き金となる弾薬のシミュレーションなどに利用された。
    そしてこのENIAC開発にも参加したノイマンによって、コンピュータを作動させるプログラム自体を情報としてシステムに組み込んだプログラム内蔵方式のコンピュータが提案され、このいわゆるノイマン型コンピュータの登場で、今日のコンピュータ技術の基礎が築かれたことになっている。

    【コンピュータの原型】p218
    今日的な意味でのコンピュータの基盤をなす人工知能の考案となると、コンピュータがいつ、誰によって発明されたものであるかは曖昧である。たとえば、イギリスの数学者チューリングがアルゴリズムによって記述することのできるすべての問題を計算できる万能チューリング・マシンを考案したのは1930年代のことであった。
    このチューリング・マシンは0か1の記号が書き込まれた長いテープと、その記号を読み書きするヘッド、そして状態遷移回路という論理的な回路だけから成るシンプルなもだったが、この基本的なシステムは、今日もあらゆるコンピュータに当てはまる最も抽象化されたモデルである。

    【大型コンピュータの時代】p219
    コンピュータ開発は、1970年代まで東西冷戦構造のなかでの軍事技術の高度化と切っても切れない関係を保ち続けた。
    この時代は「メインフレーム」と呼ばれる大型汎用コンピュータ全盛の時代だった。最初はミサイルの弾道計算や宇宙開発など高度に軍事的な目的に利用されていたコンピュータは、1960年代までには国勢調査や官庁の諸業務、大企業の製品管理や人事管理、顧客戦

  • コンパクトにメディアについてまとまっている。入門書なので、各論や、その他の詳細が書かれた概論に飛ぶと良い。

  • 『ケータイ社会論』P16 読書ガイドで紹介されていた本。①メディアの理論、②メディアの歴史、③メディアの実践という3つの部分から構成されている。大学でメディアを学ぶ人の教科書のような本だが、内容は多岐に渡り、実に興味深い。
    P257 メディアリテラシーの解釈が特に印象に残った。
    (抜粋)メディアリテラシーとはけっして新しいメディアを使いこなす能力ではない。メディアリテラシーとは、私たちの身のまわりでメディアで語られたり、表現されたりしていることが、いったいどのような文脈のもとで、いかなる意図や方法により編集されたものであるのかを批判的に読み、そこから対話的なコミュニケーションを創り出していく能力である。つまり、あらゆる情報は編集されていること、構成されたものであるという認識が、メディアリテラシーの出発点なのである。

  • メディアを取り巻く様々なテーマを概観するに入門編としては良いと思います。詳細は自分自身で深く掘り下げる必要があります。

  • メディアの歴史に詳しい。

  • メディア論を総覧できる良い本。
    メディア論の見取り図が描ける。

    ただ、スマホやソーシャルメディアのような「ケータイ」より先の話題にはほとんど触れられておらず、著者の視界の限界も見て取れる。

  • 近年の日本のマスコミのねつ造報道が日中韓の問題に大きく関わっていたことからメディアに興味を持ち、手に取る。


    大学でメディアを学ぶ人にとっての教科書のようであり、時代背景にそって様々なメディアの研究がどのように行われてきたか、またそれぞれのメディアが歴史とともに与えてきた効果について書かれている。

    特にテレビと携帯電話に関する項目について興味を引かれた。
    テレビは当時、三種の神器として扱われ、天皇が国民の象徴であったようにテレビ自体も国民のシンボルとなっていた。

    そういった経緯からか、テレビは擬人化されていった。
    テレビは同じ時間に同じ内容を共有することからもナショナリズム、家庭を社会的に閉じた空間にすることを高めるメディアでもあった。

    携帯電話は家庭内の社会的に閉じた家庭に浸食していった。
    それがあまり受け入れられない理由に近いものとして
    公共のマナーとして携帯電話の利用がある。

    特に日本では、公共の場での携帯電話の使用が煙たがられる傾向にある。
    これは公共の空間は社会的な関わりを共有して閉じた空間であるようにしている一方で、携帯電話のような私的な浸食を感じるからであるようである。

    他にも、印刷術が普及し、言語の統一が行われたことが国民性を上げていったこと。
    マスメディアはもともと個人の嗜好を強める効果が強く、新しく興味を植え付けるものではない。

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著者プロフィール

吉見 俊哉(よしみ・しゅんや):1957年生まれ。東京大学大学院情報学環教授。同大学副学長、大学総合教育研究センター長などを歴任。社会学、都市論、メディア論などを主な専門としつつ、日本におけるカルチュラル・スタディーズの発展で中心的な役割を果たす。著書に『都市のドラマトゥルギー』(河出文庫)、『大学とは何か』(岩波新書)、『知的創造の条件』(筑摩選書)、『五輪と戦後』(河出書房新社)、『東京裏返し』(集英社新書)、『東京復興ならず』(中公新書)ほか多数。

「2023年 『敗者としての東京』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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