聖徳太子の研究: その仏教と政治思想

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  • 吉川弘文館
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  • Amazon.co.jp ・本 (346ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784642020428

感想・レビュー・書評

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  •  大野達之助は仏教史学の人である。本著はおそらく71年「聖徳太子の仏教と政治に関する研究」で博士(文学、駒澤大学)取得として提出されたものを本にしたもの思われる。要するに博士論文である。後にも先にも、聖徳太子の考え方、仏教の思想について真正面から取り組んで学術論文として出版し、入手しやすい範囲で確立しているのは、もしかしたらこの書物だけではないのかと思ってしまうくらい少ない。太子の思想コーナーぐらいはできても良いと思うが、扱いはとても小さい。(まったく同時期に、「勝鬘経義疏の思想的研究」を金治勇が発刊しているのが興味深い。この頃から、聖徳太子への存在疑義に対しいるカウンターが生まれつつあったのかもしれない)
     日本において、哲学の原点に値するほどの人物に対して、あまりに冷遇する気がする。しかし、逆に言えば、本著がほとんど言い尽くしている感はある。講談社学術文庫あたりでの復刊を強く希望する。

     なんとなくではあるが、歴史学を研究する人は聖徳太子を過小またはいないと見て、仏教学の人はそれに対してカウンターを行う。そういった構図が見られる。本著においても、冒頭からこのようなことが書かれている。

    【P2 現今の学会の趨勢を見ると、一般に英雄偉人とされた人物についてその権威を否定したり、過小評価しようとする傾向が強いので、太子についても過去の偶像視されてきた太子像を破壊しようとする余り、太子の製作として伝承されてきた憲法十七条、三経義疏を確実な根拠がないままに後世の偽作であるときめつけ、またそのような論説が時流に叶うところから無批判的に受け容れられ、定説化している嫌いがあり、また太子に関係ある仏像・銘文なども、殆ど後代の作と見ようとする傾向がある。】

     まず、当時の「仏教」がどのような「環境」であったのかの証明から始める。そこには深遠な哲学や論争などなく、ただただ下記のようであったという。まずこれが聖徳太子以前の日本人の哲学世界の現状であったと言える。

    【P5 日本書紀、元興寺伽藍縁起に記されている蘇我、物部両氏の崇仏、排仏の伝承から、仏教に対する理解、受容の態度を推察してみるに、経論についての知識は全くなく、前者は仏像を病気平癒祈願の対象と考え、後者は疫病流行の原因と考える程度であったようである。いわゆる呪術的信仰の域は出ていないと言えよう。こういう信仰態度は現在に至るまで仏教信仰の底流として続いているのであるが、飛鳥・白鳳時代においては、特にその傾向が著しい。寺塔の建立の際も、また仏像の礼拝に当っても、いずれも同じような祈願が述べられていて、殊に仏像の場合は、それぞれの仏・菩薩の宗教的個性を顧慮せずに、病気の平癒、来世の至福を願っているのである。】

     ほかにも、こういう状況だったと説明している。

    【P40 推古朝に於ける仏像の信仰は、対象が弥勒菩薩、薬師如来、釈迦如来、或は観音菩薩であっても、それらの仏菩薩の個性について明瞭な意識がなく、ただ病気平癒、浄土往生、成正覚といった類型的な祈願を述べているに過ぎないと言うことができよう。】

     仏の区別もなければ、経典を読み込んで議論することもない。講義もない。ほとんど、利益があるかどうか、病気平癒するかしないかのレベルで、つまりは地域で信仰する日本の神とあまり変わらない扱いである。

     さて、こうした信仰の形はあきらかに太子の登場によって変化する。(太子を認めたくない人は、太子のような何者か、でも良い。聖徳太子の正体は実は何々だった! みたいな本はオカルトから何からたくさんあるので、ご自由に当てはめると良いと思う)
     太子の有名な言葉に、天寿国曼荼羅に記された「世間虚仮、唯仏是真」がある。これについて、実は太子の言葉ではなく、行信の撰ではないかという意見に対しては、著者はこう述べている。

    【P57 次に、太子の遺誥とされている「世間虚仮、唯仏是真」の語は、行信の仁王護国般若波羅蜜疏の中に、表現・意味内容の類似する語があるから、繍帳の銘文は行信自身の作であろうと推定しているのであるが、それらは類似しているけれども、同一の語ではなく、このような類似の表現なら、(略)どのような経典にも求めることができるのである。それにも拘わらず、強いて行信の著作に結びつけ、さらに論を飛躍させて銘文そのものを行信の作と推定するに至っては、牽強付会も甚だしいと言わなければならないだろう。】
     
     この大野氏からの口調からも分かるように、論文でありながらもそうとう強い筆致で太子の作を偽作とする立場の人間に厳しく当たっている。そして、「繍帳銘を推古朝の遺文とする従来の説が妥当である」と述べている。最近の研究では、釈迦三尊像の銘と同じ経が使用されており、それが大方便仏報恩経である。さらに、この法隆寺金堂の釈迦三尊像銘には、菩岐々美郎女と太子の死はセットのように、まるで心中のように、ともに亡くなっていった流れが書かれているが、天寿国曼荼羅繍帳では、この豪族の娘である菩岐々美郎女は完全に無視。太子は母后を追うようになくなったと記録されている。これは太子の神格化が進んだ後の時代では考えられない書き方であり、当時の太子を巡る、そして豪族の娘への冷たさがバチバチに出たエピソードでもある。

    (参考)https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/8fbf2390b185c3c57b1e884b7d7bebf7

     また著書では「天寿国曼荼羅繍帳」における「天寿」とは何かについてかなりの枚数をかけて議論している。

     天竺(インド)についての、梵語の音訳による検討を行っている。
     天竺の古音は「Sindhu」。
     Sindhuの音訳が天竺である。
     後漢の時代に天竺と漢訳したのは、身毒と同じようにSindhuを音写したものであって、六朝時代にも、なお原音通りに読むことが可能であったと思われる。
     一方、天寿の古音はSin-douの如き。天竺と同じく、Sindhu、或いはその変形したものを音写したものであったと言える。天寿国はインドの呼称である「Sindhu」の音訳であるという結論であり、天寿国という訳語は、最初はインドの意味であったが、六世紀には理想国土、一種の浄土として信仰されたことに変わっていったと、「音」から論じている。

     それは一種の浄土であり、いわゆる西方浄土(阿弥陀浄土)ではない。日本で確実な史料で特定の「浄土」の名がはじめて見えるのは、天平二年八月辛卯書写の仏説弥勒成仏経の跋に「注(二)生覩史多天(一)奉(二)事慈氏(一)」とある「覩史多天」であり、阿弥陀浄土は天平十五年書写「超日明三昧経巻上」の跋にでてくる「極楽」が最初である。

     として、聖徳太子が、いわゆる阿弥陀浄土や仏教史の中でしっかりと定義されている「浄土」を想定していたりはしていないと、論じている。つまり、「天寿国曼荼羅繍帳」は、経典が入ってくる……仏教体系が入って研究が進んだ後代ではなく、一種の理想国土として、遠くにある理想国というような想定で「天寿」とあるのであり、これも飛鳥時代の素朴な仏教の頃とマッチするので、捏造物でもなんでもないということだ。

     さて、大野氏は、いよいよ太子の哲学について入りこんでいく。
    【P86 太子の体験的思想を明瞭に顕露しているのが、十七条憲法の第十条の文章であると思う。
    (略)
     この条文の眼目は、心の執を解消する方法として、是と非の両端を否定することを教えている点である。しかもただ否定するのではなく、我も彼も凡夫に外ならないのであるから、是非の道理を決定する権能はないではないかと、条理を竭して一方に執する根拠のないことを教えているのである。】
    【P87 大乗仏教では、生と滅、取と捨という対立概念を否定することによって、理法とか中道といった或種の形而上学的理念を実証しようという予想をもつものであるが、太子は双遮の論法だけを借りて、一方に執する心に根拠のないことを説くだけで、決して対立概念を止揚して何等かの理念を想定しようとしているのではないのである。これは太子が大乗仏教の空観思想をよく理解し、その論法を換骨奪胎するまでに消化した唯一の例といえよう。これこそ太子の自内証の顕れと見るべきであり、そこには浄土信仰の片鱗さえ見られない。】
     と、述べている。では、実際に第十条の現代語訳を読んでみよう。

    【心の中で恨みに思うな。目に角を立てて怒るな。他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。人はみなそれぞれ思うところがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。他人が正しいと考えることを自分はまちがっていると考え、自分が正しいと考えることを他人はまちがっていると考える。しかし自分がかならずしも聖人なのではなく、また他人がかならずしも愚者なのでもない。両方ともに凡夫にすぎないのである。正しいとか、まちがっているとかいう道理を、どうして定められようか。おたがいに賢者であったり愚者であったりすることは、ちょうどみみがね<鐶>のどこが初めでどこが終りだか、端のないようなものである。それゆえに、他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ自分に過失がなかったかどうかを反省せよ。また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人びとの意見を尊重して同じように行動せよ】

     勝鬘経義疏の第六無辺聖諦章に、「究極の善はそれ自体で生ずるものではなく、必ずそれを観察する対象によって得られる」と述べられている。これが東洋の認識論の基本中の基本で基盤であり、これを踏まえてない哲学議論はきわめて疑わしいものである。何か普遍的な善、もしくは共通する固有の善があるのではなく、観察することで、「ああ、こういう善か」と、常に流転のように現れる善があり、または悪がある。そのためには観察が大事で、たとえば氷と水は同じか別かと述べても、捉え方によって異なり、いつまでも議論は続く。(参考:愛宕薬師フォーラム報告 第16回 愛宕薬師フォーラム平成26年5月26日 別院真福寺 空とは何でしょう? ―中観派の教えを学ぶ― 講師:東京大学教授 斎藤 明)
     「水」とは、これが絶対水だとあるものでもなく、誰かから、これが「水」だよともらうものでもない。観察し、発展させ、その「水」を捉える考えは変容する。仏教とは、真実があるわけではなく、観察の深さに達していくプロセスである。アンサーではないし、マニュアル化できる答えでもない。君らの平等と僕らの平等は違う。世界共通の平等はないのだ。さて、どうするか、が、今の国際問題である。

     日本語は概念で生じていない。事態が起こり、それを物語っているものが言語をつくる。事態の説明が言語を作る。例えばコロナによってどれほどの言葉が作られただろうか。言語があって、事態が説明されるのではない。神様も与えられるものではない。神様は、人間の現実にあわない神様だったら、土地から追い出されてきた。単なる悟った坊主がいっぱい出て来ても、国は成り立たない。個々が観察し、雨降ったらいいのわるいの? 適当にふり、適当にやんでくれるのがいいが答えであり、降ってほしい、降ってほしくない、ではない。今のSNSは、そしてニュースや情報は、雨が降って欲しいか降って欲しくないかを議論しており、それは排他的な保守とリベラル全体の議論にも通じることである。
     悟った坊主が、「雨は恵みと見せかけて悪いのだ。雨の恵みは、人びとを幸せにする。幸せになれば、人びとは殺し合ったり、政権を転覆する反乱を起こしたり、その反乱によって死んだ人間を政権のせいにすることをしなくなる。よって、ラディカルさを突き詰めれば、人びとは雨乞いをすべきではない。雨が降らないで、弱い者が多少死んでもかまわない。いや、その死は、尊いものになろう」と述べて、坊主は謝礼金や原稿料を貰う。そんなのは仏教でもなければ、東洋でもないし、言語でもないのだ。

     さて、勝鬘経の話題が出た。大野氏は「勝鬘経」についてこう述べている。
    【P95 勝鬘経の講説は各書とも一致しているので異論はないとして、法華経・維摩経はどうであろうか。これも肯定すべきであろうか。維摩経の名が見えるのは法隆寺伽藍縁起并流記資財帳だけで、しかも文章に作為の跡が認められるから、維摩経の講説はなかったと推断しなければならないであろう。】

     勝鬘経についてのみ講話の事実を認めるとある。三経義疏を、聖徳太子が講義したのかどうかという議論であり、三経義疏そのものを疑っているわけではないのが大野氏の立場である。

     さて、津田左右吉氏や小倉豊文氏は、書記や法王帝説に記されている太子の講経が史実ではなく、法隆寺で発生した説話に過ぎないとする。
     ならば、何故に一方では法華経の講説を載せ、他方では載せなかったのであろうか。書記と法王帝説に載っている講義の記載について、「説話である」とする「根拠」が少しも明らかではないと著者は反論する。

     さて、三経義疏そのものの検討である。

     三経義疏真撰説の第一の根拠は法隆寺資材帳と法隆寺東院縁起資材帳の記載であり、資材帳の中に「法華経疏参部各四巻 維摩経疏壱部三巻 勝鬘経疏壱巻 右上宮聖徳法王御製者」とあるところだ。
     さらに根拠とされているのは、元興寺智光の浄名玄論略述、東大寺寿霊の華厳五教章指事記、唐僧明空の勝鬘経疏義私鈔だ。これらは三経義疏の引用が多くなされている。
     しかし、反対派は、それら参考にしたものそのものが作為されたものであろうと憶測している。
     だが、日本書紀に義疏の記事がないのは、太子個人の研究であるから、掲載がなされていないということも考えられるので、決定的条件になっていない。
     また、三経義疏は隋唐以前の古い註疏がなされていて、推古朝のものではないとするには、奈良時代に、義疏に引用されている数少ない経論註疏が奈良時代に現存しており、それ以外の三経に関する註疏は伝来していなかったことを史料的に証明しなければならない。つまり、義疏は、もし偽物としてこしらえなければならなかった場合、隋唐以前の古い註疏をつけて古さを再現する凄まじい努力が必要であるし、簡単にいえば、三経義疏は奈良時代に再現不可能なものであるには違いない。
     反対派は、聖徳太子を偶像視してきた古来の伝統観念を打破しようとする傾向が強くて、思想内容の考究に欠けていると、大野氏は、評価している。

     p124から125にかけては義疏の偽撰論への最後のとどめを刺している。
    【P124 法華義疏も、また勝鬘経義疏においても、経文に対して、主旨を訂正している箇所がある。法雲も疑義を抱いていない箇所、しかも経文そのものに、堂々と訂正や批判を加えられるのはなぜだろうか。大野氏は「作者の体験が裏付になっているのであろうが、また一方からいえば、太子当時には嘉祥や天台の体系づけられた教学が伝わっていなかったから、換言すれば組織的な煩瑣な仏教哲学の制約を受けることがなかったから、このような後世から見れば大胆な解釈ができたともいえるのである。それはとにかくとして、義疏の中に隋・唐以降の註疏が引用されていないことを併せて、このような独自な解釈は太子の撰述をほぼ決定づける証拠とすることができよう。】

     太子は、私はそうは思わないと言ったり、経文を批判したりしており、体験に基づいた反論を行っているところもある独自のものがある。これは体系づけられた教学が伝わっていなかったから、仏教哲学の膨大な組織的な書物がなかったから、こういう解釈ができたのではないか。義疏のなかに、隋・唐以降の註疏が引用されていないことと併せて、独自な解釈は太子の撰述をほぼ決定づける証拠である。近年の研究でも、敦煌から出て来た写本と似ているから、これは太子の本ではないし、読み上げただけだという批判があるが、義疏には中国では考えられない日本風の間違いがあり、しかもそれは三経ともに共通しているという研究があり、三経義疏は、梁代の成実師たちが書いた種本をもとに書かれた日本オリジナルの文献であり、そもそも、敦煌本と聖徳太子の義疏は、欠落箇所が違う。
     敦煌本をうつしたのでは、太子の義疏はできない。じゃあどうやってできたのという話であり、同じような文章が多いと言っても、70パーセント似ていて、30パーセントも新しく書いてある。
     義疏するのは、うつすのは当たり前だ。むしろ30パーセント、オリジナルで論を書くことは今でも昔でも至難の業だろう。例えば、デカルト論を今までより30パーセントオリジナルで書いてみろという話だ。これも、文献というか資料がなくて、自分の頭で考えなければならなかったからこそできたことだろう。今なら、ハイデガーがこういってたから、デリダが、なんとかがといって、結論すらも、ほとんど既知の言い直しにすぎない、自分の反抗心の慰め先として過去の偉人や知られざる人がいるという学問・批評とは異なるのが聖徳太子の学問であり、聖徳太子は原文そのものも批判する堂々としたものである。
    (参考URL)
    https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/6d4c13d0c821f10953cfbeab27eea03a
     または石井公成は、「三経義疏の語法」において、三経義疏は共通して外国には見られない独特の言い回しをしていること、中国撰述ではありえないことを証明している。

     さて、では義疏が自筆かどうかの検討にうつる。
     著者によれば、太子自筆の法華義疏については、あまりに誤字・脱字が多いのに驚かれるという。作者自身の説のところは修正が多く、法雲の義記の解釈をそのまま踏襲している場所は少ないという。しかも、比丘を「比兵」と書き間違えているところもあり、筆者の常識を疑ってしまう。しかし、書風・字体・紙質からして聖徳太子の頃よりも降りないので、太子が書生に口述筆記させ、一読の跡、添削したものではないかと思われるという。そして、おそらくは勝鬘経・維摩経の義疏も口述筆記ではないかと思われる、として、誤字の多さや誤字の質の不味さ、そしてパターンから、口述筆記+その後に太子が添削、であると述べる。

     次に、冠位十二階と十七条憲法にうつる。
     欽明天皇の遺詔を継承した事業である新羅征伐への挫折・失敗と断念から、内政の改革に方針を転換した。ここからが日本哲学の始まりとなった。
     まず、冠位十二階は、蘇我氏は聖徳太子の制定した冠位は受けず、推古朝では、身分的な大臣には紫冠、それ以下に十二階の冠位を授ける制度であった。推古朝では、大臣に紫冠、大臣以外には十二階の冠であったことが論証されている。また、朝鮮三国には、どの国にも冠位に類したものがあり、百済と高句麗の制を参考にしている。
     そして冠位の順番についてだが、五行説はまったく該当せず、五行思想で解釈することは最早不可能(P182)と述べている。ウィキにも道教の順番について述べられているが、石井公成氏の論考(http://www.ceres.dti.ne.jp/kosei/file/ishii_tohoshukyo_100510.pdf)にもあるように、その順番はきわめて恣意的で、聖徳太子の元ネタとするために道教経典を切り貼りしてねじ曲げているといえるという。また太子はまずは儒教と仏教を国をおさめていくためのものと考えていたため、儒教の徳目を採用し、その順番とした理由としては、この論文の言うとおりだと思う。
     徳・仁・礼・信・義・智となった理由は、本書によれば、まず、徳が一番上なのは、論語述而第七「子曰、志於道、據於徳、依於仁、游於藝」より徳から仁、そして「人而不仁、如礼何、人而不仁、如楽何」により、仁が礼の根拠であるから、この順番となる。礼と信の関係は、「子貢問政。子曰。足食。足兵。民信之矣。子貢曰。必不得已而去。於斯三者何先。曰。去兵。子貢曰。必不得已而去。於斯二者何先。曰。去食。自古皆有死。民無信不立。」つまり、礼と信が原因結果の関係となり、政治家が礼をもち、そして民が信となるので、礼から信である。そして信のしたに義は、十七条憲法の9条にあるように「信是義本」といっていて太子独自のものである。智は、多くの場合は経験知識をあらわしているから、常識的にいって最下位におかれる。
     太子は論語を精読し、思想に独自の見識を加えて作り上げた。道教の影響は日本に多く痕跡を残しているが、儒教も仏教も神道もみな影響し合って混ざり合っている。だから、なんとでも説明することができる。これをまず踏まえないと行けない。思いつきや陰謀で国家や宗教は運営できないので、自分が当時の政治家だったら、どうしていたか、と考えて思い至ったところが出発点であろう。私自身の場合は、事務職としての聖徳太子である。そして、仏教の倫理と、儒教のルールの両立を選ばないと、事務仕事で報告・連絡・相談するのは難しい。自分が政治を運営するにあたって、道教を採用するか。聖書を読んで、「運営できるじゃん!」ってなるのか。神道は地域ネットワークの神で、だが、そこに常識的なところにたてば、当たり前の話が見えてくる。

     さて、十七条憲法もそうだが、冠位十二階になぜ儒教の徳目を選んだのかといえば、貴族官僚の教化であり、身分秩序の再編成とまではいかない。倫理的反省と行政上の責任を持って貰うためのものだ。政治の本質的な改革を図るには、群郷百寮と呼ばれる新制官吏の道義的自覚を促すことが最も重要で、官僚が自己反省すること、諸政策が公正に運営されることを期待するためにあるという、聖徳太子は、実に実用重視的な人である。そして、ここまで実用的で、実際的な人間が、実にインテリで、三経義疏を講義するほどの人であるというのが、ひとかたならぬ、日本最初の哲学者として良いところがあると思う。

     十七条憲法については、偽作論の根拠である「国司制度」については、すでに、宮司制が徐々に整い、中央集権も制度として整ってきたという説が有力になっており、大化前代国司は国造の統御と屯倉監督するものとして地方に派遣されたのであろうとして、憲法偽作論は基礎を失っている。
     十七の数については姉崎正治の説に、維摩経義疏において、「万善是れ浄土の因たることを明かす、中に凡そ十七事あり」と総説されていて、太子も浄国建設のために、十七事ありといって、維摩経の浄国建設の原因をとったのだろうということだ。その内容は、中央地方の官僚が行政執務の上に於て遵守すべき心得が示されたものである。
     太子にとっての「和」とは、上下和睦のみならず、阻害する原因として党という心情をしてきたところに鋭いポイントがある。また、党がダメならどこに帰依するかといえば、三宝に帰依せよと述べる。理想と、理想への方法論を述べたのが、憲法の1条と2条である。

     十条は、瞋恚を起こさぬよう戒めている。この条は、太子が会得した仏教思想がいかなるものであるか知れるテキストであると筆者は伝えている。我執の働く余地を奪うことによって、瞋恚の度合いを弱めようと図ったのである。国司も国造も、朝廷に納めるべき租税を徴収してはならないとし、儒教の政治思想がまず太子にはある。十四条は、嫉妬を戒めているが、なんとなく内実が薄いと筆者は述べる。
     十七条には、「詩経」「尚書」「礼記」「左伝」「論語」「孝経」「孟子」「孫子」「韓詩外伝」「史記」「漢書」法家思想に属するものに「管子」「韓非子」「墨子」があり、「文選」も使用されている。しかし、古人の成句をそのまま引用したのは五、六例に過ぎず、多くは自身の思想・体験に基づいて原文を換骨奪胎して改めている。太子は仏教、厳密に言えば、大乗仏教の中観思想を体験実証し、その精神的基盤に立って、儒教思想、ひいては法家思想を充分に消化して取り入れた。
     政治の運営をする貴族官僚の道徳的強化を政治の本質としている。氏族制社会に於ける中央諸豪族の派閥抗争、蘇我馬子の専権のなか、人間社会の理想像と実現方法、国家体制、政治要諦、具体的非法、守るべき心構えを説いたのが、聖徳太子だ。
     で、ここからは私なりに言葉を変えて書いてみる。
     というのも、官僚というのはいったい何をしているのかということだ。乱暴に、そして誤解を招くような言い方をすれば、それは「事務」である。事務仕事、それは、水のようなもので、アーティストであろうが、仕事がなかろうがあろうが、ゲーム中であろうが、「事務仕事」というものは必ず存在している。東浩紀という哲学者でありつつも会社社長をやっている人間がゲンロン戦記で最も強調していたことは事務であった。思想家やら知識人は事務の大変さを馬鹿にしている。事務仕事のこつこつした積み重ねがあって、政治がなりたっている。事務の大変さをすっ飛ばして好き勝手いうのは間違っているというのを会社社長をやってみて初めて身にしみて分かったと言っていた(気がする)。
     そして、十七条憲法は、その「事務」をしっかりさせるためにあるのではないかと思っている。事務体制と整えずに、国家の運営はまともにできない。儀式もできない。外国の相手も内政もできない。大野氏が言うように、この憲法は「中央地方の官僚が行政執務の上に於て遵守すべき心得」であることは「諸説の一致」するところであると述べている。太子31歳の時に作られたこの憲法を、「事務員」の視点で見ていくと、実に面白いのではないかと思う。
     十七条の中でまずは一に曰わく。
     「和をもって貴しとし」は「論語」の「礼之用、和為貴」の断章取義であるが、意味から何から丸パクリしているのではなく、むしろ「礼」という言葉を避けている。礼の効用を述べたものをばっさり切って、「和が貴い」と述べきる。論語が入ってきて、こんだけばっさり使う人間はどんな奴だろうと思う。めちゃくちゃ貴族なんだと思う。(聖徳太子だからだろうし)論語だろうがなんだろうが、ふん、てなもんである。それは勝鬘経義疏第五一乗章の中にも、「第一の解釈は、悪くはない。」と偉そうなのだ。義疏はオリジナル部分が多々ある本だが、太子がいかに上の人間であったかがよくわかる。僧侶でも、知識人でも、これは無理だ。もし僧侶や知識人がなしとげるならば、その人物はあまりに近代的過ぎる。
     人みな党あり。自民党・立憲民主党・共産党、じゃないけれども、確かにみんな、この文章を読んでいる人を含め、皆党ありである。(太子ってなんか皮肉屋というかニヒリストのような感じがしないか)
     あるいは君父に順わず。また隣里に違う。つまりは、伝統に従わない、慣習を守らない、そして他県と仲が悪い。京都人は性格が悪い。大阪人は下品。奈良県民は寝てばかりいる。東京は意識高い馬鹿の集まり。今も十分その通りだと思う。
     ここで言われる「和」とは、激烈な闘争の果ての和であり、この時代も今もそうだが、きちんと働いている人はあまり言わないのだが、基本的に上から下まで社会は殺し合いだらけである。みんな意見が違うので、それを超える論理を出さないといけない。「人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない」と結論している。「成しとげる」とか「道理にかない」とか、あきらかに国家が民衆を制御したり、弾圧する、もしくは和と名乗って同化させるとかいうものではなく、むしろチームとしての基本的な序文である。チームワーク論にこの文言が入っていても特に違和感はない。事務員流に書けば、聖徳太子曰わく「うまくホウレンソウが出来ていれば、物事は自然とうまく回り出し、目標を達成できないことはない」という微妙な言い回しであるところも渋い。本当に面白い第一条である。

    第二条は篤く三宝を敬え、とある。人は党派を組んでやたら対立しまくって疲弊するばかり。ではどうまとめるかといえば、仏教でもって、党を超える論理で団結しようという流れだ。最後に、「三宝にたよるのでなければ、何をもってか枉れるを直さん(何をもってねじれたものをまっすぐにする)」は『論語』為政第二、「挙直錯諸枉、則民服」にあるように、心の曲(枉)がった人物の上に、正しき人物をおけば、民は従うとしている。これを大野氏は、この論語のチョイスとアレンジの仕方は太子の体験に基づいたものと述べている。

    第三条は、詔を承りてはかならず謹め、と述べている。当時は氏族社会であり、大雑把に言えば「天皇は知らない、大臣は知っている」と天皇を殺した暗殺者が叫ぶほど、天皇なんぞいつでもぶっ殺せる世界であった。総理大臣の意向で、今上天皇が殺されるといったところでしょうか。太子は、法家思想に属する管子、明法解の「君臣相与、高下之処也。如天之与地也」をアレンジして、「君をば天とす。臣をば地とす。天は覆い、地は載す」。次に続く、太子による「四時順行、万気得通(そのように分の守りがあるから、春・夏・秋・冬の四季が順調に移り行き、万物がそれぞれに発展するのである)」は、論語陽貨第十七「四時行焉、百物生焉(四季は整然と巡り、そして万物はたゆみなく育っていく)」を借りてアレンジしたもの。少し戻るが、この「謹め」は儒教でも仏教でもない使い方で、おそらくは神道(日本に根付いていた神への向き合い方)だろう。謹みの倫理だ。自然原理において、上の者が全部やろうとすると必ず破綻する。上のすることを必ず下の者はする。上のものがいじめをすると、下のものが必ずいじめをする。
    4に、群卿百寮、礼をもって本とせよ、とある。「礼」の国家論だ。秩序をつくりだすにあたり、相互の関係を調整するための仕組みとして礼が必要である。礼を失うと争いとなる。条文中「それ民を治むる本は、かならず礼にあり」は、孝経広要道章の「安上治民、莫善乎礼(上を安んじ民を治むるは、礼より善きはなし)」の文に基づいているという。つまり、最初に日本人に分かる言葉で良い、次に孝経に基づく文で念押ししているわけだ。
    5は、格差論である。官人の間に、収賄が当然のことのように行われていて、金持ちが得をし、貧乏人はいつまでも苦しむと条文に書かれている。例えの部分である「財あるものの訟は、石をもって水に投ぐるがごとし。乏しきものの訴は、水をもって石に投ぐるに似たり」は文選の運命論を例として使用している。
    6は、事務的には大変面白い章である。どうして強盗や殺人に人は至るのか。その根本原理を取り上げている。「悪を懲らし善を勧めるということは、昔からの良いしきたりである」からどんな善悪議論がなされるかと思いきや、国が滅びるほど悪として取り上げられていたのは、諂(へつら)う、お世辞を言うこと。そして、詐ること。つまり嘘をつく。国家も人民もこれで死ぬという。それに、おもねり、媚びる奴。上の人間には下の者の悪口を良い、部下の人間には上の人間の失敗を馬鹿にする、上にも下にも悪口をばらまいてかき回す奴。これで世の中は乱れるという。
     実に、実に具体的である。そして原理的である。かつ、大野氏によれば太子の「体験」としか言いようのないものも感じる。
     7は、人にはおのおのその任務がある。職務に関して乱脈にならないように。世の中は、生まれながらにして聡明な者は少ない。よく道理を心がけるならば、聖者のようになる。ことがらの大小にかかわらず、適任者を得たならば、世の中はかならず治まる。時代が激動でもゆっくりでも、懸命な人を用いることで世の中は良くなる。いにしえの聖王は、官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設けることはしなかったのである。
     これは人事・採用と採用後マネジメントの話だ。特に、採用とは何かの根本的原理が述べられている。特に「世の中は、生まれながらにして聡明な者は少ない」は、「世少生知」と書き、この「生知」は論語季氏第十六「生而知之者上也。學而知之者次也」等から取ったものである。「世に、生まれながら知るひと少なし(生まれた時から全部できるわけじゃない)」つまり新人教育のことだろう。どこに配置するか。それは、人のために役割を作り出すのではなく、必要な役割があってその人を求めるのが大事なのだ。
     8は、出退勤の話だ。だいたい5時半くらいに出勤して、3時に帰る。その帰り際に、干し柿やら昆布やら、ちょっと腹ごなしに食べる。それが「3時のおやつ」だ。公務員は責任ある仕事であるので、政務はやることやまほどある。遅刻早退はするなと戒めている。当時、よほどひどかったのだろう。
     9は、また哲学的話題に戻る。
     信はこれ義の本なり。つまり、「目標、ビジョンの共有、こういう国にする(義)、ということの根本は、契約・約束(信)である」と述べている。論語で似た所はあるが、そこでは義が信の本になっている。論語に「信、義に近ければ」とあり、「約束が、正しい道に近ければ」であり、正しい道という絶対が想定されている。正しい道に、契約を近寄せていくイメージだ。しかし、太子の憲法では、信が義の本である、と述べられている。つまり、正しい道とは、まず約束・契約である。言い換えれば、「約束は、目標の土台となる」と言っている。実に太子は事務屋である。大野氏は、この逆転の改変について、太子独自の見解と見るべきだと述べている。ここでは、まごころをもって仕事をしろと太子は言う。成功する秘訣はまごころである、と。どこの社長の言葉かと思う。意識の高いラーメン屋のトイレの中に貼ってありそうだ。まごころこめて仕事することは、今では社会人として当たり前だが、この頃はそうではなかったのだろう。みな、そこまでして「仕事」をしないといけないのか、仕事ってそういうことなのか、と思いながら聞いただろう。
    10では、心の中で恨みに思うな。目に角を立てて怒るな。他人が自分にさからったからとて激怒せぬようにせよ。人にはみなそれぞれ思うところがあり、その心は自分のことを正しいと考える執着がある。と、述べているが、この条において最も重要かつ、こんなん条文にいれていいの? と思える一文がある。それが「われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。」である。この条では仏教でいう三毒の一つ、瞋恚を起こさぬよう、教え戒めている。なぜ、いきなりこれが取り上げられているのかわからないが、大野氏いわく、太子の性格と思想によるという。この「ともに凡夫のみ」という、天皇や蘇我氏の前でよく読み上げるなと思えるほどの彼の仏教思想の極みがここにある。自分の意見だけではなく、多数によってたつ意見でもなく、それを超える論理の模索が現れている。
    11は官僚同士で罰を隠し合うなということ。韓非子を参照して作られたと言われている。
    12は税をとって私腹を肥やすな、の文である。しかしこの税と絡めて、「国に二君はなく、民に二人の君主はいない。全国土の無数に多い人民たちは、天皇を主君とするのである」この部分は、礼記と詩経を援引して君・臣・民の関係を述べている。そして国司も国造も朝廷に納めるべき租税を徴収してはならないと言っている。理想像としては、儒教の政治思想である。
    13は事務の中の事務。めちゃくちゃ事務仕事あるあるが述べられている。いきなりの事務組織論が展開する。国家論からいきなりの落差というかごちゃ混ぜ感が17条憲法の面白さだ。【もろもろの官に任ぜる者、同じく職掌を知れ。】から始まる。あいつがいなくなったら、何がダメになるのか。ダメにならないためにどうするのか。お互い情報共有や引き継ぎをしっかりしろと書かれている。「あたかもずっとおたがいに協力していたかのごとくにせよ。自分には関係のなかったことだといって公務を拒んではならない」。病気や出張のときは、他の職員に仕事を伝えておいて、復帰したら欠勤中代理を勤めてくれた人に感謝せよということだ。どこの課長クラスの提言なのか、本当に良い意味でおかしい。しかし、それを条文にしないといけないほど、縦割りで、言うなれば個人個人がバラバラでチームをなしていなかったということがわかる。
    14。ここからも事務条文が続く。
    群臣百寮、嫉妬あることなかれ。嫉妬の憂いは際限のないものである。ここまでは納得できる。しかし太子はその例えとして、他人の智識や才能が自分より優れていると、それを悦ばないものである。でもそれで凄い賢人・聖人を斥けていたら、どうやって国を治めていくのか。才能を認め合っていこう。逆に言えば、日本人は自分より能力のある奴は滅ぼそうということをずっとやってきたのであり、無能ばかりの集団に成り果てていた可能性が読み取れる。さらに特徴的なのは、嫉妬について取り上げておいて、その嫉妬が業績とか金銭とかではなく、智識をあげているところが本当にリアル聖徳太子文章といったところだ。本当に根っからの知識人が書いたとしか思えない。大野氏も「本条は嫉妬を戒めるのに聖賢の政治を挙げているのみなので、何となく内実の薄い教えのような観がある」と困惑している。
    15、ここでもテーマは「怨恨」である。「私を背きて公に向くは、これ臣の道なり。およそ人、私あるときはかならず恨みあり。」この「私」は、第一条における「党」にあてられている。第一条の補論になっている。怨恨の気持ちがあると、公的な奉仕やチームプレーがでいない。制度に違反し、法を害(そこな)うことになる。だんだんと、カウンセリングめいてきたというか、事務局内研修めいてきた。
    16、これは全文引用する。いわゆる理念というよりは政治のコツを述べている。【民を使うに時をもってするは、古の良き典なり。ゆえに、冬の月に間(いとま)あらば、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑の節なり。民を使うべからず。それ農(なりわい)せずば、何をか食らわん。桑(くわと)らずば何をか服(き)ん。】つまり人びとの事情にあわせて国家的事態を解決することが大事なのだ。典拠は論語「節用而愛人。使民以時(できるだけ国費を節約して民を愛すること、そして、民に労役を課する場合には、農事の妨げにならない季節を選ぶこと)」などを典拠としている。
    最後に17条目である。【それ事はひとり断(さだ)むべからず。かならず衆とともに論(あげつら)うべし。】とある。これがもっとも事務職の新人などに言う言葉である。そして、事務の基本である。多数決ではなく、意見のなかでもっとも効果的なものを取り上げよう。大野氏は、蘇我馬子の専権を抑えようとする意図があったかも知れないと述べている。事務の正統性を巧みに織り交ぜながら、「馬子さん、事務的にはそれはだめですわ」というのをうまく述べている戦略のように思える。

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