- Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
- / ISBN・EAN: 9784642037044
作品紹介・あらすじ
医療や諸科学の"近代的な知"に不満や限界を感じた人々は、それに代わる"癒す知"=自然食や心理療法を求めた。玄米食を尊ぶ正食運動や、身心の自然機能により神経症を治療する森田療法は、宗教や霊性と科学の知をどのように融合させようとしたのだろうか。痛みや苦しみから解放された「生きがいある生」を探ろうとした、もう一つの精神史。
感想・レビュー・書評
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うっかり科学とか持ち出すとそれすなわち真理でしょ、みたいな話にもって行きやすくなるため、とりあえず霊性って言葉で落ち着けようよというのが筆者の見解だと思うし僕もまたそれが一番無難というか、科学を尊重する態度になるのかなと最近思う。そしてそのことについて肯定的になり、そこにある価値をそれでも認めること、これこそが今まで島薗先生の著作をいくつか拝見して見出した結論である。
たぶんこの考えにものすごく同調できるのは、僕自身「宗教団体とかにどっぷり入っている人とは深い部分で違ってて仲良くなれなそうだけど、それに対してとりあえず叩いとくかみたいな風潮にも賛成できない」という価値観を持っているからだろう。なんというか、僕は天邪鬼なので、まず最初に叩く側に回るんだけど、その後叩く側が大して考えてもないのに叩いていることにげんなりして、だんだん嫌気が差してどちらも叩く側に回るという性質を持っていて、きっとそういう性格がこういう態度を取らせることにしている。別にこれは宗教とかに限らず、生活態度すべてにつながっている。われながらめんどくさい性格だ。
「そこにまともな思考がはさまれていないのに、なんとなく叩く」みたいな浅はかさに対する嫌悪感は、この場合宗教側だろうが非宗教側(と本人が思っている側)に対してだろうが共通する。それが熟慮の上だとか経験ベースで何かあった場合はこの限りじゃないけど、とりあえず「批判することで耳を閉じ続けること」にはいざという時にそれ相応のリスクがあるということを承知してしかるべきだと思う。
ちなみに僕の宗教的な、あるいは霊性的な態度を明言しておくと、大事なのは「そこに自由度がいかにあるか」ということである。言ってみれば遊びだとかゆとりという部分の余地が自分にとっては大事だ。
つまりそれは「神を信じること」もできるし、「神を侮辱すること」もできるという両義性の態度である。「正しいことをしなければならない」と信じる正義側にも、「悪いことをしなければいけない」という悪側でもない、そのどちらもそのときに応じて行うことが出来るというコウモリの姿勢だ。もちろん風見鶏のようにならないように、あるいは寓話の中のコウモリのようにならないように、そのどちらをそのときに選ぶかについては熟考の元に行われる必要があるわけであるが。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
同著者の『精神世界のゆくえ』が興味深かったので、これも以前から読んで見たかった。食養、心理療法、世界観という視点から明治期以来の日本の〈癒す知〉の系譜を振り返っている。私自身が、とくに最近小食を実践しており、食養に関心が深まっていたので、今が読むタイミングかなと思った。
まず近代科学の知からはみ出してしまいながら、その欠点を克服していく可能性を秘めた膨大な知の領域を「癒す知」という観点から捉える概念化は、見事に現象の本質を捉えていると思う。あるいは、この領域の創造的な面を浮き彫りにするネーミングだと思う。
「〈癒す知〉はからだ(身体)や心に関わる知、また、からだや心に関わるものとしての自然と社会についての知である。からだや心が痛みや苦しみから解き放たれ、より健やかで本来の豊かな可能性を発揮できる状態へと回復するための知である」
たとえば、私たちが「精神世界」と呼んでいる領域のかなりの部分は〈癒す知〉に関わっている。からだや心が癒えていく過程は、近代科学的、還元主義的な知ではその本質をとらえきれない。そういう過程の本質を捉えきるには、近代知とはまったく別の世界観と方法〉が必要なのだ。そういう代替知としての可能性が〈癒す知〉という概念にはこめられている。
〈癒す知〉は、近代知と対比してその欠陥を明らかにするような視点を明確にする概念である。オルタナティブ科学や「精神世界」にかかわる様々な取り組みを〈癒す知〉という観点から捉えるならば、そこにかぎりなく豊かな可能性が見えてくるのではないだろうか。