- Amazon.co.jp ・本 (187ページ)
- / ISBN・EAN: 9784642057165
作品紹介・あらすじ
源頼朝の鎌倉入りから一五三年、不敗の歴史を誇った鎌倉幕府はなぜ呆気なく敗れたのか?政変や戦乱の経過のみならず、幕府政治の根幹を成す御家人制の質的変化に注目。定説にメスを入れ、幕府滅亡の真実に迫る。
感想・レビュー・書評
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鎌倉幕府の執権北条氏は清廉潔白で公平な政治をしたというイメージがある。北条時頼の母の松下禅尼は自ら障子を張り替えて質素倹約を教えた。北条氏のブランド力は鎌倉幕府滅亡後も残り、戦国時代に後北条氏によって利用されたほどである。
これに対して、北条氏ら鎌倉幕府中枢を幕府の体制に寄生する特権階層とする見解がある(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』吉川弘文館、2011年)。北条氏らは一所懸命の武士とは異なり、都市鎌倉に居住し、地方に領国になるような拠点を持たず、全国各地に所領を持っていた。朝廷の貴族と同じような特権支配層になっていた。鎌倉幕府の利権体制なくしては生きられない特権支配層だからこそ、鎌倉幕府滅亡時に裏切ることなく、一緒に滅びた。
この見解では鎌倉幕府後期の得宗専制も見方が変わる。得宗専制は得宗の独裁というイメージがある。これに対して鎌倉幕府末期の政治体制は特権支配層の寄合が支配する体制であり、得宗もお飾りになっていた。それ故に得宗が北条高時のような暗愚とされる人物でも裏切ることなく、一緒に滅亡した。
元寇と前後して鎌倉幕府の中に二つの政治勢力が対立するようになる。御家人を中心とする勢力と得宗家被官である御内人を中心とする勢力である。有力御家人の安達泰盛と、御内人の長である内管領・平頼綱の対立となり、弘安八年(一二八五年)の霜月騒動で泰盛が滅ぼされた。
この対立は政治路線の対立を内包していた。御家人の既得権を守ろうとする守旧派と、非御家人も取り込み、その上に君臨しようとする改革派である。
前者の典型が永仁五年(一二九七年)の永仁の徳政令である。御家人が非御家人に売却した領地を元の御家人に返還するという御家人の利益を優先した法令である。これに対して後者は貨幣経済の発展という現実を踏まえ、その中で力をつけてきた非御家人も幕府体制に取り込もうとした。
この守旧派と改革派の対立と泰盛と頼綱の対立をどう結び付けるかは議論がある。
第一に泰盛は有力御家人であり、御家人代表として守旧派と位置付ける。逆に身内人は商工業を基盤とする非御家人を取り込もうとしていた。楠木正成は経済活動で力を得て、悪党として名を馳せることになるが、身内人だったとする説がある。
第二に泰盛を改革派と位置付ける。「将軍権力を再建し、全国の武士を幕府機構に御家人と迎え入れる。泰盛の目的はそこにあった」(本郷和人『新・中世王権論』文藝春秋、2017年、222頁)
ここでは逆に頼綱が従来の御家人の地位と既得権を守ろうとしていた。身内人が御家人を擁護することは一見すると変に聞こえるが、得宗専制を維持するために旧来の御家人からの支持を強固にしようとした。
泰盛が非御家人を取り組む先進性を持っていた理由として守護国の上野国や隣接する武蔵国の武士団を統合し、室町幕府の守護大名に近い性格を持っていたためとする。「霜月騒動以前の安達氏は室町幕府の支配者となった大守護に通じる性格を有しており、これが弘安徳政で見せた安達泰盛の先進性の背景の一つであったのではないかと推測される」(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』吉川弘文館、2011年、116頁)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
久しぶりに再読。細川重男先生の著作でも一番まとまって面白いと思う。
そもそも鎌倉幕府がなぜ滅んだのかという問いへの納得できる答えを求めてという目的がいい。
応仁の乱や明応の政変から徐々に衰亡した室町幕府、強大な力の侵入への対応に誤り、そこから滅亡した江戸幕府と違い、鎌倉幕府は突然倒れた、では何故というのは誰しも一度は考えたのではないか。
言うなれば、癌が発見され闘病の果てに死んだ人、老いたところに事故にあってそれが原因で死んだ人はわかるが、多少の老いはあれど矍鑠として、元気いっぱいに、見えた人が突然死ねばみな驚くというもの。
著者の見立ては、一見壮健だった鎌倉幕府は中を寄生虫が食い荒らし、空洞のようになっていたというもの。だから、一見弱々しい敵でも一撃で倒されてしまったということか。
ここで言われる特権的支配層による厳格な前例踏襲主義は、我々から見ると極めて馬鹿げたことをしているように見えるが、江戸幕府の後期の厳格な大名への身分統制や現代の政党政治のやり取りも儀式めいて見えるのは同じではないか。
鎌倉幕府が室町幕府が実現した地方分権などの改革を行えば、そのアイデンティティを失うからできず、現実その拘束に耐えきれなくなった時に彼らは滅亡した。
制度にはそのアイデンティティがあるため、それを超える改革はできずに、現実との摩擦が大きくなればそれが破壊される。
マルクスの止揚に類似した概念のように思う。
北条氏や幕府首脳部は無能でなかっただけに、鎌倉幕府という制度が軋みを上げて、ある日突然爆発したように感じられる。
そう思うと、無敵の鎌倉幕府を倒幕したとして、後醍醐天皇は過大評価されていたのかもとも感じる。 -
あまり知らない鎌倉時代後半の歴史について、学べる一冊。
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鎌倉殿の13人の影響で、ちょっと鎌倉時代ずいている。
内容としては、鎌倉時代末期の政治体制が主題。幕府があまりにあっけなく滅亡してしまった要因となったということろで、タイトルと繋がっている。
頼朝・義時・泰時・時宗のような有名な武将は出てこないし、合戦の話もないので、地味な話なんだけど、文体も読みやすく、あきずに楽しめた。 -
最初は滅亡の原因とされた「武士の貴族」って何ぞや、と思ったけども読み進めていくうちに納得がいくものだった。御家人制度の変遷がわかりやすく著述されてて最後まで興味深く読めた。
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この先生・・・面白い
もっと本を書いていたらいいのに
残念すぎる -
書名は「鎌倉幕府の滅亡」ですが、
その流れを通史的に追った本ではありません。
正中の変や元弘の乱は本書の最後に少しだけ出てくる程度です。
では、何について書かれた本なのか。
鎌倉幕府が滅亡した理由を、
鎌倉幕府の構造や職制、政治方針などの政治史を、
頼朝期から検証して考察した本なのです。
ですから、『太平記』的な内容を期待するとがっかりするかもしれませんが、
視点が新鮮で、かつわかりやすく書かれていて、
なかなかおもしろかったです。
巻末に諸氏の系図もまとめて掲載してあり、
参考になりました。
贅沢を言えば注文はいくつかありますが(笑)